傾国の女 於市

西村重紀

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第三章

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 長政の言葉通り、信長はこの年岐阜城を発ち北畠方の南伊勢に侵攻した。
 八月二十四日、北畠具教・具房親子が籠る大河内城の攻略を開始する。
 これに先立つこと前々年の永禄十年(一五六七)の、美濃稲葉山城攻略戦と同時期に、信長は配下の滝川一益を北伊勢に派遣していた。その翌年の永禄十一年(一五六八)から本格的な伊勢侵攻を開始。北伊勢の国人豪族である神戸友盛の養子として三男三七郎(のちの織田信孝)を、長野藤定の養子として実弟信包を入れている。
 北伊勢を平定し、また上洛を果たした信長は、満を持して南伊勢に侵攻したのである。
 七万余りの軍勢を率い伊勢に入った織田勢の噂は、直ぐに北近江の小谷にも伝わった。
 小谷城下の清水谷の浅井屋敷の奥書院の庭に面した広縁で、その報せを受けた長政は徐に振り振り返った。
「木下藤吉郎と申す者が、二十六日に伊勢の阿坂城を攻め落としたそうじゃ」
 他家に預けていた茶々を抱く愛妻於市のその美貌を眺めながら長政は言った。
「まあ、あの猿のこと故、意図も容易く攻め落としたに違いありません」
「確か、先年、美濃稲葉山城を落としたのも、猿に似た貌をしておるあの男であったな」
 長政は感慨深げに言うと、鼻で息を吐いた。
「如何なされました殿」
 於市は訝しげに眉を顰めた。
「否、何でもない」
 長政は低い声で言い、かぶり振ってみせた。
「もしかして殿は、我が従兄信長が、伊勢平定ののちは、越前の朝倉殿を攻めるのではないかと思い、それでお心を痛め憂いでおられるのでございますか」
 於市の指摘は図星だった。
 長政は、信長が浅井家との約定を反故にして越前に攻め込むのではないかと危惧の念を抱いていた。

 長政が抱いていた危惧は的中した。
 永禄十三年(一五七〇)、織田信長は越前朝倉征伐に向け、盟友徳川家康と共に三万の軍勢を率いて京を発った。
 足利義昭を奉じ上洛を果たした信長は、将軍となった義昭の名にて、諸大名へ上洛するように命じていた。それに従い摂津の池田勝正や大和の松永久秀といった武将は、速やかに上洛し、将軍となった義昭に臣従する意を示した。しかし、義昭の名を借りた信長の二度にわたる上洛要請を朝倉義景が無視したのだ。
 伊勢平定後、信長はその矛先を越前に向けたのだ。
 長政は、義兄信長が浅井家との約定を違い、越前へ向けて出陣したことを清水谷の浅井屋敷の中で知った。織田家からの使者が訪れ、長政にも越前に向けて出陣要請が出た。
「市、義兄上が我が浅井と交わした約定を反故にして、越前に攻め入った」
 長政は渋面で言った。
「従兄(あに)上が約定を破ったとっ……まさか!?」
 間もなく臨月を迎えようとする於市は、大きな腹を摩りながら裏返った声を上げた。
 心の臓があり得ない速さで高鳴った。
 そこに、長政の父である久政が血相を変え現れた。怒りのため舅の顔は紅潮していた。
「信長っ、我らとの約定を破り越前に兵を進めおった。斯くなる上は我らも速やかに挙兵し、大恩ある朝倉殿にお見方致すのじゃっ」
「されど父上、織田殿からもこうして参陣せよとのお達しが」
「えいっその方はいつから信長如きの家来になったっ!」
 怒りのため、久政はわなわなと肩を震わせ。唾を吐きながら喚き散らした。
「義父上……」
 於市は、激昂する舅久政を上目遣いで見やった。
「市っ何じゃその目はっ!?」
 久政は息子の嫁を睨み付けた。
「…………」
 於市は暗澹たる思いのまま、虚しくかぶりを振った。
「市、そなたはこの浅井に嫁いで来たからには最早浅井の者と心得よっ」
「はい」
 於市は唇を噛みしめ、悔しさを堪える。
 疎ましい舅に詰られ、また微妙な立場に立たされる妻を気遣うこともしない夫の不甲斐なさを目の当たりにして、悔しくて堪らなかった。
 そして、自分を裏切った従兄信長に対する愛憎で胸が張り裂けそうだった。
 眩暈を覚えた。
「お方様、お身体に触りまする」
 とお付の侍女が於市の身体を気遣った。
「そうじゃ市、少し横になって休むがよい」
 長政はここではじめて身重の妻を気遣う言葉を口にした。
 その様子を傍らに立ち見ていた久政は、
「誰か、誰かおらぬかっ! この者らを見張れっ。織田方に知らせるやもしれぬ。不審な動きがあったら構わぬから斬れっ」
 と駆け付けた家臣たちに命じた。
「ご隠居様、招致仕った」
 何人かは既に、具足に身を固め、その手には槍などがあった。
 浅井離反を、従兄信長に知らせたいが、久政に先手を打たれ身動きが取れなくなってしまった。
 於市は為す術なく途方に暮れた。
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