剣客藤岡小次郎 花よりもなほ

西村重紀

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十四

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 数日後、小次郎は三条堺町の上杉家京藩邸に戻った。
 早速上役の目付貝原亥之助に報告する。
「先日、当家を出奔致した杉原ですが、あ奴の立ち寄りそうな心当たりを、全て当たってみましたが、何処にも見当たりませなんだ」
 小次郎は面目なさ気な表情を態と作り、申し訳なさそうに報告する。
「ちっ。もうよい。彼奴の始末はこちらでつける。それよりもその方が不在中に、江戸で新たな動きがあった」
「新たな動き?」
 小次郎は徐に首を傾げた。目を細め亥之助を見やった。
「吉良様がご公儀に隠居願いを届け出て受理された。当家より吉良家にご養子に入られた春千代(左兵衛義周)君が、家督を継がれることと相成った」
「左兵衛様が……」
「然様じゃ。吉良様は来春辺りには、我が上杉のお膝元米沢にお移り遊ばす。こうなれば赤穂の者共とて迂闊に手を出せまい」
 亥之助の言葉を聞き、小次郎は愕然となった。
 先に江戸へ赴いた折、江戸家老の色部は、吉良を浅野遺臣に討たせる段取りである旨を小次郎に告げた。彼もそれを念頭に動いていたのだ。これでは全てが狂ってしまう。計画が水の泡と化すではないか。
「どうした藤岡、浮かぬ顔をして」
 亥之助が問うと、小次郎は、
「いえ、その……」
 と口籠ってしまった。
 亥之助は小次郎とは違い、親の代から長年京藩邸に住まいであり、江戸での吉良の評判の悪さを知らない。江戸詰めの上杉家臣は皆、少なからず吉良のことを憎んでいた。
 何かにつけ、金子を強請る吉良上野介義央という男を快く思ってはいない。高家肝煎と気位だけが高い吉良の家風と、軍神と謳われた上杉謙信以来の武門のそれと、全く合わないのだ。その吉良の実子で、上杉家を注いだ現藩主の綱憲は、能道楽に狂い米沢藩財政を益々圧迫させる始末であった。このままでは吉良一人によって、米沢藩上杉家十五万石は食い潰されてしまう。この危機的状況を打破する秘策が、江戸家老の色部の頭脳を以ってして考えついた、浅野遺臣に吉良を討たせるというものだった。
 正直、今回の刃傷事件に関し、小次郎は大石内蔵助を始めとする浅野遺臣に、同情すら芽生え始めていたくらいだ。大石や、道場で共に汗を流し切磋琢磨した毛利小平太たちに、吉良を討たせてやりと思っている。
 だが、目の前に座るこの男は違った。少なくとも、浅野遺臣に吉良を討たせる気などない。
「吉良様が、米沢にお移り遊ばしたら、我らも楽になるぞ」
 何も知らない亥之助は、そんな呑気な言葉を口にした。
 目の前に座るこの男の顔を見ているだけで、小次郎は苛立ちを覚えずにいられなかった。

 一方江戸では、急進派の浅野遺臣の中に、少しずつ変化が見られ始めた。
「高田殿、堀部殿が心配なさっておられるぞ」
 小平太が郡兵衛に言った。
「五月蠅い放っておいてくれ」
 郡兵衛は、神田小柳町の居酒屋で燗酒を仰ぎながら言った。
「朝っぱら酒を仰ぐとは、一体どういうご料簡か」
 小平太と同行していた赤羽源蔵重堅が、酒に溺れる郡兵衛を詰った。
「五月蠅いっ、貴様如きに俺の何が分かると申すのだっ!」
 唸ると、郡兵衛は杯の中に残った酒を、源蔵の頭にぶっ掛けた。
「許さぬぞ、郡兵衛っ」
 源蔵が刀の柄に手を掛けた。鯉口を切ろうとしている。
「やるのか、源蔵……?」
 郡兵衛が不敵な笑みを浮かべ、脇に置いた刀を手に取ると、ゆっくりと立ち上がった。
「よせ、源蔵」
 小平太が制する。
「郡兵衛、お主も退け」
 だが、泥酔している所為か、郡兵衛の足下は覚束なく、忽ちよろけて台の上に手のひらを衝いた。
「ふん」
 源蔵が鼻先で嘲笑った。
「貴様、俺を愚弄するかぁっ!」
 郡兵衛が吼える。
「止めよ源蔵」
 と小平太が止めに入った。
「しかし毛利殿」
 腹立たしさのあまり、源蔵はわなわなと両肩を震わせる。
「放っておけ。このような不甲斐ない男を斬っても、刀の錆になるだけだ」
 小平太は吐き捨てるように言った。
 郡兵衛は、店を後にする二人を追い掛けたが、酔いが酷くその場で前のめりに倒れ込んだ。
 郡兵衛が一人、神田小柳町の居酒屋を出たのは、正午過ぎだった。
 その直後、江戸急進派の中心的立場の一人であった高田郡兵衛は、脱盟した。
 理由は、彼の小父に当たる旗本内田三郎右衛門元知との確執にあった。三郎右衛門は、橋爪新八を通じ、甥の郡兵衛を娘婿として内田家の養子にするつもりだった。ところが郡兵衛は、
「存じ寄りがある」
 と言って、それを断った。
 伯父三郎右衛門は、直ぐに仇討のことだと気づき、
「上役の旗本村越伊予守直成に訴え出る」
 と、郡兵衛を脅した。
 已む無く郡兵衛は、仇討の件を口外しないことを条件に、江戸急進派から脱盟し、伯父三郎右衛門に内田家への婿入りを承諾した。

 年が明けた元禄十五年(一七〇二)一月十四日。内匠頭の月命日に当たるこの日、刃傷事件の第一報を国許の赤穂に届けた使者の一人萱野三平が、大石宛に遺書を書き自害して果てた。
 元々三平は、先祖代々浅野家に仕えた侍ではなかった。彼の父は、萱野七郎左衛門重利といい、当時長崎奉行を務めた大身の旗本大島伊勢守義也の家老であった。
 三平は、幼少期に、主君大島出羽守義近(義也の父)の推挙によって、赤穂藩主浅野内匠頭長矩に中小姓として使えることになった。その裏には、当時浅野家が傾倒していた山鹿素行の門下生の一人が大島出羽守であり、両家は親しい間柄にあった。
 しかし、殿中松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及び、赤穂藩浅野家五万石が改易になると、三平は赤穂開城後大島家の所領の一つで、実家萱野家がある摂津国豊島郡萱野村に戻った。
 三平は、父や兄から、大島家に仕官するように迫られ、亡君への忠義と父に対する孝行との間で板挟みとなり、自らの命を絶ったのだ。

 萱野三平が自害したこの日、上杉家京藩邸にいた藤岡小次郎は、上役の貝原亥之助に召し出されることになった。
「のう藤岡」
 亥之助の眼前にて平伏する小次郎に声を掛けた。
「先年、当家を出奔致した不埒者杉原五郎太の潜伏先が判明した。よって、その方を討手として差し向ける。一人では心許ないゆえ、角田正之丞、宇佐美新三の両名を、助太刀としてそちに預ける」
 僅かに動揺する小次郎の前で、亥之助は淡々と述べる。
 今、彼の口から名が挙がった二名は、何れも足軽身分の者だ。しかしそれなりの手練れであった。正之丞は居合の流派自鏡流の使い手で、新三は馬庭念流の使い手だ。
「生死は問わずとてよい。必ずや杉原を討つのじゃ」
「はっ」
 小次郎は平伏した。
「ついては彼奴めの潜伏先じゃが、大原郷の三千院の所領大長瀬だ。そこで駆け落ち致した女子と暮らしておる。その方も知っての通り彼奴もなかなかの手練れ、無外流の使い手じゃ。一刀流免許の腕を持つ藤岡が、よもや遅れを取るとは思えぬが、くれぐれも用心致せっ」
「はっ、心得ました」
 小次郎は、眼前に座る亥之助に平伏しつつ、その胸中では、五郎太の奴、文左衛門が申した通りやはり大原におったか、と残念な気持ちでいっぱいだった。
 文左衛門の倅、庄吉を通じて、大原に潜伏する五郎太に使いを遣って、直ぐにでもどこか手の届かぬ遠方へ逃げるように伝えてやりたかったが、そういう訳にもいかない。
「一つお訊ねしたき義がございまする」
「何じゃ、何なりと申せ」
「山科の大石の方は、如何致しまする」
 小次郎が訊ねると、亥之助は薄笑いを浮かべた。
「放っておけ。あ奴は、島原やら大坂の曽根崎の花街にて遊び惚けておる。巷では彼奴めを赤穂侍ではなく阿呆侍と呼び、皆あの男を蔑んでおる」
 亥之助は、遊郭通いする大石を馬鹿にした口調で言うと、大きく口を広げ欠伸をした。
「もう下がってよいぞ。」
「はぁっ」
 恭しく額ずき、小次郎は退室した。
 長屋門内の自室に戻る。
 周囲を山々に囲まれた地であるため、京の冬は江戸に比べ寒さが一段と厳しい。寒さのため、白い息を吐きながら、小次郎は両手を擦り合わせ揉んだ。
「……にしても困ったものだ。さて如何致すか、五郎太の奴め」
 彼とは江戸の吉良邸で一度手合わせをしたことがあった。
 無外流の使いという触れ込みだったが、三本勝負は小次郎の圧勝だった。一刀流免許皆伝の腕を持つ小次郎にとって、五郎太を斬ることなど雑作もないことだった。自鏡流の角田正之丞、馬庭念流の宇佐美新三の手を煩わせることもない。
 今、現在山科の大石の監視は、小次郎と同じ下士身分の小人目付柳田仙蔵という男が行っている。仙蔵を騙して庄吉を呼び出し、大原にて隠れている五郎太の許に使いを遣ろうかなど考えてもみた。しかし、仙蔵に疑われては自分自身の身が危うい。
「さて、どうする?」
 小次郎は自問自答した。
 炭を熾し、火箸で火鉢の中の炭を突っ突いていると、門衛が、
「あの藤岡はん。お客はんどっせ」
 と呼びに来た。
「客、誰だ。こんな時間に」
 怪訝に思い、小次郎は眉根を寄せ、首を傾げた。
「女子はんどっせ、藤岡はん、あんたはん色男どすから女子はんが放っとかんのや」
「女子? まさか……」
 小次郎の脳裏に、邪気ないお絹の笑顔が浮かんだ。
 取り急ぎ正門へ向かう。しかしそこで小次郎を待っていたのは姉のお吟だった。
「何だ、姉上か」
 小次郎は素っ気なく言った。
「何だわないでしょ、小次郎。私で悪かったわね」
「で、姉上、一体俺に何の用なんだ」
 すると姉は、
「お見合いの件だけど」
「ああ、あの件か」
「あの件かはないでしょ。安達殿に小次郎お前のことを話したら、先方は豪く気に入って下され」
「……存じ寄りがござる」
「存じ寄り?」
 お吟は首を傾げ、上擦った声を上げた。まじまじと弟の双眸を見据える。
「嘘仰いっ」
「否、嘘ではござらん」
「何処の何方なの」
 姉に問い詰められ、遂小次郎はポロリと口を滑らせてしまった。
「武家の娘ではござらん。町衆、否、百姓の娘ごか……」
「……正直にお答えなさい、小次郎。この姉に隠し事をしてはいけませぬ」
 お吟が弟に強く迫った。
「……何れ折を見て姉上に紹介せねばと思っておった。今は浅野遺臣のこともあり、お家の一大事でござるゆえ、落ち着いたら姉上にちゃんと話す。それまでそうっとしておいてはくれませぬか」
 お吟は弟の話を聞き、忽ち訝し気な表情になった。
「浅野遺臣? ねえ、小次郎、あなた一体上杉のお家で、どのようなお役目に就いているの?」
 お吟が小次郎を見やった。
「如何に姉上とは申せ、他家の者に話す訳には参らん。お察し頂きたい」
 小次郎はお吟に頭を下げ詫びた。
「分かりました。取り敢えずそう言うことでしたら、これ以上は詮索致しませぬ。それとお見合いの件ですが、私の方から先方にお断り申し上げます」
「忝い姉上。ご足労を掛ける」
 小次郎はお吟に謝意の言葉を述べ、三条通りまで見送った。
 姉と別れたあと、先ほど口にした言葉を思い出し、自嘲気味に笑った。
「お絹か……今頃何をしておるのだろう」
 小次郎は独り言を口にした。
 何故かわからないが、無性に彼女に逢いたくなった。
 小平太たちを監視するため昨年夏、『松乃屋』に宿泊し、初めてお絹にあった日のことを思い出した。
「お絹……いやっ、止そう」
 小次郎はかぶりを振って、自らの思いに蓋をした。そのまま心の奥底にしまい閉じ込めた。
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