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十五
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一月下旬。洛中の至る所に雪が降った日の朝だった。三条通り境町の上杉藩邸を出た小次郎一行は、昨年秋女と駆け落ちし、出奔した杉原五郎太を討つべく大原郷大長瀬へ向かった。
大長瀬を領有する三千院には、留守居役の水城が目付亥之助を通じ、既に許可を得ていた。
「藤岡様、お若いですな……年寄りの私には、この雪深き山道は酷というものです」
今年、齢五十を迎えた新三は、如何に馬庭念流の使い手とはいっても、体力の限界を感じたらしく弱音を吐いた。
「急がれい、宇佐美殿。日が暮れるまでに里に入らねば、この場で野宿致す破目となるぞ」
一歩先を行く小次郎は振り返り、遅れを取る新三を詰った。
「さぁ、確りして下され、宇佐美殿。この正之丞が背中を押して上げますから」
見兼ねた正之丞が、新三に言葉を掛けた。
「おお、済まぬな角田殿」
新三は頭を下げると、正之丞に背中を押され、再び雪道を歩き始めた。
この分だと、大長瀬に着くのは暮六ツ酉の刻(午後六時)になる、と小次郎は思った。更に、向こうに着いても、寒さに悴むんだ手で刀を握ることなどできない。
松の枝に降り積もった雪が落ちた。その音に驚き、野兎が雪の積もった大地を飛び跳ね、小次郎一行の前方を逃げて行った。
「休ませてくれませぬか、藤岡様……」
ゼイゼイと息を切らしながら、新三が懇願する。
「先ほど休んだばかりでござらぬか、宇佐美殿」
小次郎は初老の男を嘲笑うように言う。
「されど……」
新三は物欲しげな目で小次郎を見詰める。
「分かり申した、ならばここで一服致しましょう」
諦め小次郎は、大きな杉の木の下で暫し休憩することにした。
竹で作った水筒を取り出し、水を飲んだ。深々と雪が降り続き水筒を握る手が凍えている。だが、雪深い山道を歩いた所為で、身体は火照って熱いくらいだ。
喉の渇きを潤すと、三人には大原郷大長瀬目指し再び歩き始めた。
暫く歩くとまた新三が遅れ始めた。
「待って下され」
背後から新三の呼ぶ声が聞こえた。
いっそのこと、このまま雪深い山中に置き去りにしてやろうか、などという考えが小次郎の脳裏を過ぎった。
「やれやれ」
振り返り、小次郎はそう呟くと、正之丞と見合って憮然と頷いた。
「分かり申した」
項垂れながら言うと、正之丞は山道を下り新三の許へ向かった。
五間(九・〇九メートル)ほど下で、座り込む新三がいる。そこまで下り、その場に座り込み新三の腕を正之丞は引っ張った。
「さ、立ち上がられよ、宇佐美殿」
「待って下され、もうこれ以上歩けませぬ」
新三はかぶりを振った。
この情けない姿を五間(九・〇九メートル)上から見ていた小次郎は、溜め息を吐き捨て、
「これ以上遅れると、その場に置いていくことになり申す。それでも宜しいか、宇佐美殿っ」
と思わず声を荒げてしまった。
「そんなご無体な……」
正之丞に手を引かれ漸く身体を起こした新三は、情けない表情を浮かべ弱音を吐いた。
なんやかんやで、大原郷大長瀬に一行が辿り着いた時には、既に六ツ半(午後七時)を過ぎていた。今宵は、三千院の厨房で宿を取ることにした。
翌朝、暁七ツ寅の下刻(午前四時)、辺りがまだ漆黒の闇に包まれているうちに目覚めた。寺の朝は早いのだ。修行僧が忙しく動き回るその足音で、目覚めたといった方が正しい。
小次郎たち三名は、寺側が用意した湯漬けと香の物、汁物で簡単な朝食を摂った。
「和尚殿、忝い。大変お世話になり申した」
小次郎が上杉家臣を代表して、三千院の坊主に深々と頭を下げた。
「武門の習わしは、我ら僧籍に身を置くものには分かりませぬが、どうしても斬らねばならぬのでしょうか?」
「……はい」
小次郎は毅然と頷いた。
「そうですか……あの者たちには昨夜のうちに使いを遣って、逃げるように伝え置きました。今頃は恐らく山を越え鞍馬か貴船、もしくは叡山を越え近江に……」
「何とっ!?」
正之丞は、驚きのあまりこれ以上を言葉が続かなかった。
「何ということをっ!?」
小次郎の脇で控える新三が、怒りに任せ唸り声を発した。
「控えよ、宇佐美殿」
小次郎が新三を制する。
正之丞ただ一人、涼しい表情を崩さない。
「されど……また山を歩かねばならぬかと思うと」
新三は苦悶に満ちた表情になった。恐らく、憮然と口を真一文字に閉じる正之丞も、新三と同じ気持ちであろう。
「我ら三人が、雪が積もる山道を登り、ここまで来たことは、無駄足であったということか」
小次郎はにべなく言った。
「仕方がない。藤岡様、山を下りましょう」
正之丞が意見を口にした。
「おお、そうでござる。下りましょう」
新三が相槌を打った。
「已む得ぬ。下りると致すか……」
言うと小次郎は、溜め息を吐いた。寒気で息が白い。
「和尚、お邪魔致した。おっそうじゃ、五郎太にお会いしたら、くれぐれも良しなに」
そう伝え、小次郎は踵を返した。
三千院を後にして、三人は山道下り始めた。
「あの和尚、嘘を吐いておる。恐らく五郎太と女は、まだこの里にいる。何処かの所で匿われているに違いない」
「それは、まことですか藤岡様」
穿った目を正之丞は小次郎に注いだ。
「横目としての俺の勘だ」
小次郎は正之丞の顔も見ず、平然と言った。
「ならば我らはこの場に残り、出奔した杉原めを討たねば」
新三が怒りで声を震わせた。
「いや、恐らく三千院の小僧が、我らが下山するのを何処かで見ている筈。ここは一度下りた振りをし、あ奴が油断した隙を衝く方が得策かも知れぬ」
小次郎は自分の意見を口にした。
「然様でござるか……」
新三は納得していない様子で、その顏に不満を露わにした。
雪が降る最中、相手が動き出すまで、この場にて待つのが嫌なのだ。
「ご不満か、宇佐美殿は」
「いいえ、不満など。足軽身分の拙者が、士分の藤岡様のなさることに、異を唱えることなどできませぬ」
新三の慇懃な申し分に、小次郎は少し苛ついた。
「角田殿、貴殿はどう思う」
小次郎はまさに訊ねた。
「そうでござるな、某の意見は藤岡様と同じく、ここは一度山を下りた振りをし、どこかに身を隠し、頃合いを見て寝込みを襲うというのは、如何でござろうか」
「寝込みを襲うか、武士の風上にも置けぬ卑怯なやり方だ。されどそれが一番いいかも知れぬな」
「卑怯でござるか」
「ああ、されど寝込みを襲うのが一番よい。兵法の極意だ」
「……あの?」
新三が不安気な眼差しを向け、小次郎に声を掛ける。
「ん? 何用でござるか、宇佐美殿」
小次郎が問い返すと新三は、
「雪が酷くなって参りました」
新三は舞い散る雪を見やって言った。
確かに辺り一面銀世界だ。雪は暫く止みそうにない。
「仕方がない。その先に確か祠が合った筈」
「祠?」
新三が首を傾げる。
「ああ、確か地蔵が祀ってあった」
正之丞が頷きつつ言った。
山道を登って来る途中見つけた祠だ。少し窮屈だが、蹲れば人が二、三人入れそうな大きさだった。
祠まで山を下り、扉を開け、暴風雪を凌ぐことにした。
「腹が減ったであろう」
と、小次郎が糒を二人に分け与えた。
「忝い」
手のひらを差し出し、正之丞が糒を受け取った。
「……」
新三は無言のまま上目遣いで小次郎を見やり、手のひらにばら撒かれた糒を口に運んだ。
四半刻(三十分)が過ぎた。つい最前まで振っていた雪も止んだ。
「いつまで待てば宜しいのでござるか、藤岡様」
新三は不満気な顔を小次郎に向け、憮然と言った。
祠の扉を開け、小次郎は青く晴れ渡った冬の空を見上げる。
「うん、頃合いでござるな。方々、では参ろうか」
言うと、小次郎は腰を起こした。
祠の外に出ると、踵を返し、世話になった地蔵菩薩に手を合わせ拝んだ。正之丞が小次郎に倣い、地蔵に合掌する。仕方なく新三も二人の後に続き、合掌した。
三千院の所領である大原郷大長瀬には、数十軒の民家がある。それを一軒一軒手当たり次第に当たるというのは、どう考えてみても流石に効率が悪い。
小次郎は、大長瀬の手前で山を登るのを止め、使いを遣ることにした。
「済まぬが角田殿。貴殿は我らに先駆けて大長瀬に入り、お歌の縁者を探って頂けぬか」
「承知仕った」
正之丞は頷くと、雪山を登り始めた。
「のう、宇佐美殿我らはあの杉の木の下で、待つと致しましょう」
「……はい」
新三は不満そうに答えた。恐らく正之丞に代わり、自分が探索の役をやりたかったのだ。
「藤岡様は、如何に上意とはいえ、ご同輩を斬ることに抵抗はござらぬのか?」
不意に新三が問い掛けてきた。
「……できれば某とて、斬りとうはない」
「斬らずに済ませる手段はござぬのか」
「是非もないことを申すな、宇佐美殿」
小次郎はかぶりを振りつつ答えた。
「お役目を捨て、出奔致したあ奴が悪いのだ」
「然様でござるか」
「ああ。これ以上は考えるな。情が残れば肝心な時に手許が狂い、返り討ちとなる」
「返り討ちか……儂はまだ死にとうはない」
新三が真顔で答えた。
再び空が曇り始め、ちらちらと雪が舞い降りてきた。
暫くすると、雪の中に立つ人影が見えた。錆びた鉄の臭いもする。目を凝らしてみる。
「角田殿か」
小次郎がその影に向かって訊ねる。右手は刀の柄を握ったままだ。
小次郎の隣に立つ新三も、既に鯉口を切っていた。
「奴は上だ……正之丞は俺が斬った」
五郎太の声だった。
「然様か」
言いながら小次郎は白刃を抜いた。
新三も抜刀した。
「何ゆえ、脱藩した?」
「お主に答える必要はない」
声がだんだんと近づいてくる。
風雪の中に立つ五郎太の姿が、小次郎の両目にはっきりと映った。
「傷をおったのか?」
小次郎は目を瞠った。
雪原にぽたぽたと鮮血が滴り落ち、見る見るうちに赤く染まっていった。
五郎太は、正之丞と切り結び、左腕を負傷したようだ。
「見逃してはくれぬか」
「無理だ。既にお主は正之丞を斬ってしまった。我ら両名の者は、何としてもお主を仕留めねば帰れぬ」
「そうか、ならば如何仕方ない。できれば小次郎、お主とはやりとうはなかった」
「俺に勝つ自信がないのか」
「いや違うぞ。木刀を用いての試合はついに勝てなかったが、真剣での勝負は勝手が違うぞ」
「藤岡様、如何なさる。拙者が助太刀致しましょうか」
「いや、結構でござる。宇佐美殿は、俺が破れた場合、五郎太を仕留めて下され」
「分かり申した」
「いいだろう、参れ、小次郎っ!」
唸り声を発すると、五郎太は刀を正眼に構えた。
「応っ!」
小次郎も正眼に構える。
お互い一歩踏み込めば、剣先が相手の身体に当たる間合いだ。
五郎太の放った白刃が、小次郎に向かって一直線に飛んでくる。それを避けずに、小次郎は五郎太の初手を刀で受け止めた。金属同士が激しくぶつかる音がした。瞬間、辺りに火花が散った。
「なかなかやるの」
鍔迫り合いの最中、五郎太が不敵な笑みを浮かべ告げた。
「お主こそ……」
押し返しながら小次郎が言った。
しかし体勢は、坂下に立つ小次郎が不利だった。
「素直に縛につけ。俺はお前を斬りたくはない」
「断るっ」
両者は一旦、お互いの必殺圏の外へ逃れ、間合いを取った。
小次郎は雪原を摺り足で進み、一歩ずつ間合いを詰める。
すると五郎太は、白刃を寝かせ下段に構えた。このまま踏み込めば、逆袈裟斬りの餌食となってしまう。
小石川白壁町の小高道場で、一度この逆袈裟斬りの技を使う者と試合をしたことがあった。赤穂浪士の毛利小平太だ。その時は、小次郎の完敗だった。
「拙いっ」
小次郎が発した。
閃光が放たれた。
白刃が、小次郎の右下腹部目掛け飛んできた。
一瞬の差で、後方に飛び跳ねた小次郎は、逆袈裟斬りの間合いの外へ逃げた。小平太との試合を思い出し、咄嗟の判断で、後ろに飛び跳ね、躱すことができたのだ。
五郎太の放った一撃は、逆袈裟斬りの軌道を画いた。そのまま上段に構えた。双眸は依然小次郎を睨んだままだ。
「どうした後がないぞ、小次郎」
確かに五郎太の言う通り、もう一歩後ろに下がれば、そこには大きな杉の木がある。
小次郎は正眼に構えると、白刃を横に寝かせた。これで五郎太を突こうというのだ。
次の一撃で勝負が決まる。
誰もがそう思った。
両者はゆっくりと間合いを詰めた。
バサッという音と共に、木の枝に降り積もった雪が落ちた。辺りに粉雪が舞い上がった。
上段に構えた五郎太の身体からは熱気が立ち込めていた。
「えいやぁーっ!」
渾身の一撃が小次郎に向かって飛んできた。
白刃を突く隙もなく。已む得ず刀の腹で、上段から放たれた五郎太の一撃を受けた。
火花が散った。
金属がへし折られた音がした。
小次郎の握っていた刀が、ちょうど中ほどで折れた。折れた剣先が雪の上に落ちた。
「やられた……」
小次郎は死を覚悟した。
五郎太が刀を再び上段に構える。
彼が刀を振り下ろそうとした瞬間、
「止めてぇーっ! お願いどす、二人とも殺し合うのは止めて下さいっ」
と叫ぶお歌の声がした。
五郎太はその声に反応して振り向いた。
一瞬の隙を衝き、小次郎は脇差を抜き、それを五郎太の鳩尾目掛け突き刺した。
「あぐぅっ……小次郎っ。貴様ぁぁぁぁぁ……」
五郎太は口から鮮血を吐き、前のめりに崩れるように倒れた。瞬く間もなく雪原に血が広がっている。
「嫌、嫌どす……五郎太はん……う、嘘やぁぁぁぁ……」
お歌が五郎太に掛け寄った。
「お歌……」
と、五郎太は好いた女の名を口にし、絶命した。
呆気ない幕切れだった。
勝ったとは故、勝負は完全に小次郎の負けだった。
「な、何でやぁぁぁっ!? 何でうちの人を斬ったんやぁぁぁっ! この人でなしっ!!」
お歌は夜叉のような恐ろしい形相となり、小次郎を睨んだ。
「許せ、お歌殿。これが武門の習わしだ」
「殺したる。うちはあんたを殺したるっ」
お歌は、五郎太が握っている刀を取り、小次郎目掛け突っ込んできた。
「死ねぇっ!」
叫びながら突っ込んでくるお歌の腹に、拳で一撃を入れる。
「うっぷっ」
お歌は悶絶し、その場に崩れた。
彼女が気を失ったことを確認すると、小次郎は、
「宇佐美殿、見分下され」
と新三に告げた。
「はっ、心得ました」
新三は、小次郎に命じられた通り、杉原五郎太の死を確認した。
その後二人は、気を失ったお歌を大長瀬の里に運び入れ、三千院の修行僧に預けた。大長瀬の外れで、冷たくなった角田正之丞の屍を発見すると、小次郎は背負って下山した。
因みに正之丞は、その傷跡から察し、五郎太の放った逆袈裟切りの餌食になったようだ。
数日後、小次郎は新三を配下の一人に加え、山科の里で隠棲する大石の監視任務に戻った。
大長瀬を領有する三千院には、留守居役の水城が目付亥之助を通じ、既に許可を得ていた。
「藤岡様、お若いですな……年寄りの私には、この雪深き山道は酷というものです」
今年、齢五十を迎えた新三は、如何に馬庭念流の使い手とはいっても、体力の限界を感じたらしく弱音を吐いた。
「急がれい、宇佐美殿。日が暮れるまでに里に入らねば、この場で野宿致す破目となるぞ」
一歩先を行く小次郎は振り返り、遅れを取る新三を詰った。
「さぁ、確りして下され、宇佐美殿。この正之丞が背中を押して上げますから」
見兼ねた正之丞が、新三に言葉を掛けた。
「おお、済まぬな角田殿」
新三は頭を下げると、正之丞に背中を押され、再び雪道を歩き始めた。
この分だと、大長瀬に着くのは暮六ツ酉の刻(午後六時)になる、と小次郎は思った。更に、向こうに着いても、寒さに悴むんだ手で刀を握ることなどできない。
松の枝に降り積もった雪が落ちた。その音に驚き、野兎が雪の積もった大地を飛び跳ね、小次郎一行の前方を逃げて行った。
「休ませてくれませぬか、藤岡様……」
ゼイゼイと息を切らしながら、新三が懇願する。
「先ほど休んだばかりでござらぬか、宇佐美殿」
小次郎は初老の男を嘲笑うように言う。
「されど……」
新三は物欲しげな目で小次郎を見詰める。
「分かり申した、ならばここで一服致しましょう」
諦め小次郎は、大きな杉の木の下で暫し休憩することにした。
竹で作った水筒を取り出し、水を飲んだ。深々と雪が降り続き水筒を握る手が凍えている。だが、雪深い山道を歩いた所為で、身体は火照って熱いくらいだ。
喉の渇きを潤すと、三人には大原郷大長瀬目指し再び歩き始めた。
暫く歩くとまた新三が遅れ始めた。
「待って下され」
背後から新三の呼ぶ声が聞こえた。
いっそのこと、このまま雪深い山中に置き去りにしてやろうか、などという考えが小次郎の脳裏を過ぎった。
「やれやれ」
振り返り、小次郎はそう呟くと、正之丞と見合って憮然と頷いた。
「分かり申した」
項垂れながら言うと、正之丞は山道を下り新三の許へ向かった。
五間(九・〇九メートル)ほど下で、座り込む新三がいる。そこまで下り、その場に座り込み新三の腕を正之丞は引っ張った。
「さ、立ち上がられよ、宇佐美殿」
「待って下され、もうこれ以上歩けませぬ」
新三はかぶりを振った。
この情けない姿を五間(九・〇九メートル)上から見ていた小次郎は、溜め息を吐き捨て、
「これ以上遅れると、その場に置いていくことになり申す。それでも宜しいか、宇佐美殿っ」
と思わず声を荒げてしまった。
「そんなご無体な……」
正之丞に手を引かれ漸く身体を起こした新三は、情けない表情を浮かべ弱音を吐いた。
なんやかんやで、大原郷大長瀬に一行が辿り着いた時には、既に六ツ半(午後七時)を過ぎていた。今宵は、三千院の厨房で宿を取ることにした。
翌朝、暁七ツ寅の下刻(午前四時)、辺りがまだ漆黒の闇に包まれているうちに目覚めた。寺の朝は早いのだ。修行僧が忙しく動き回るその足音で、目覚めたといった方が正しい。
小次郎たち三名は、寺側が用意した湯漬けと香の物、汁物で簡単な朝食を摂った。
「和尚殿、忝い。大変お世話になり申した」
小次郎が上杉家臣を代表して、三千院の坊主に深々と頭を下げた。
「武門の習わしは、我ら僧籍に身を置くものには分かりませぬが、どうしても斬らねばならぬのでしょうか?」
「……はい」
小次郎は毅然と頷いた。
「そうですか……あの者たちには昨夜のうちに使いを遣って、逃げるように伝え置きました。今頃は恐らく山を越え鞍馬か貴船、もしくは叡山を越え近江に……」
「何とっ!?」
正之丞は、驚きのあまりこれ以上を言葉が続かなかった。
「何ということをっ!?」
小次郎の脇で控える新三が、怒りに任せ唸り声を発した。
「控えよ、宇佐美殿」
小次郎が新三を制する。
正之丞ただ一人、涼しい表情を崩さない。
「されど……また山を歩かねばならぬかと思うと」
新三は苦悶に満ちた表情になった。恐らく、憮然と口を真一文字に閉じる正之丞も、新三と同じ気持ちであろう。
「我ら三人が、雪が積もる山道を登り、ここまで来たことは、無駄足であったということか」
小次郎はにべなく言った。
「仕方がない。藤岡様、山を下りましょう」
正之丞が意見を口にした。
「おお、そうでござる。下りましょう」
新三が相槌を打った。
「已む得ぬ。下りると致すか……」
言うと小次郎は、溜め息を吐いた。寒気で息が白い。
「和尚、お邪魔致した。おっそうじゃ、五郎太にお会いしたら、くれぐれも良しなに」
そう伝え、小次郎は踵を返した。
三千院を後にして、三人は山道下り始めた。
「あの和尚、嘘を吐いておる。恐らく五郎太と女は、まだこの里にいる。何処かの所で匿われているに違いない」
「それは、まことですか藤岡様」
穿った目を正之丞は小次郎に注いだ。
「横目としての俺の勘だ」
小次郎は正之丞の顔も見ず、平然と言った。
「ならば我らはこの場に残り、出奔した杉原めを討たねば」
新三が怒りで声を震わせた。
「いや、恐らく三千院の小僧が、我らが下山するのを何処かで見ている筈。ここは一度下りた振りをし、あ奴が油断した隙を衝く方が得策かも知れぬ」
小次郎は自分の意見を口にした。
「然様でござるか……」
新三は納得していない様子で、その顏に不満を露わにした。
雪が降る最中、相手が動き出すまで、この場にて待つのが嫌なのだ。
「ご不満か、宇佐美殿は」
「いいえ、不満など。足軽身分の拙者が、士分の藤岡様のなさることに、異を唱えることなどできませぬ」
新三の慇懃な申し分に、小次郎は少し苛ついた。
「角田殿、貴殿はどう思う」
小次郎はまさに訊ねた。
「そうでござるな、某の意見は藤岡様と同じく、ここは一度山を下りた振りをし、どこかに身を隠し、頃合いを見て寝込みを襲うというのは、如何でござろうか」
「寝込みを襲うか、武士の風上にも置けぬ卑怯なやり方だ。されどそれが一番いいかも知れぬな」
「卑怯でござるか」
「ああ、されど寝込みを襲うのが一番よい。兵法の極意だ」
「……あの?」
新三が不安気な眼差しを向け、小次郎に声を掛ける。
「ん? 何用でござるか、宇佐美殿」
小次郎が問い返すと新三は、
「雪が酷くなって参りました」
新三は舞い散る雪を見やって言った。
確かに辺り一面銀世界だ。雪は暫く止みそうにない。
「仕方がない。その先に確か祠が合った筈」
「祠?」
新三が首を傾げる。
「ああ、確か地蔵が祀ってあった」
正之丞が頷きつつ言った。
山道を登って来る途中見つけた祠だ。少し窮屈だが、蹲れば人が二、三人入れそうな大きさだった。
祠まで山を下り、扉を開け、暴風雪を凌ぐことにした。
「腹が減ったであろう」
と、小次郎が糒を二人に分け与えた。
「忝い」
手のひらを差し出し、正之丞が糒を受け取った。
「……」
新三は無言のまま上目遣いで小次郎を見やり、手のひらにばら撒かれた糒を口に運んだ。
四半刻(三十分)が過ぎた。つい最前まで振っていた雪も止んだ。
「いつまで待てば宜しいのでござるか、藤岡様」
新三は不満気な顔を小次郎に向け、憮然と言った。
祠の扉を開け、小次郎は青く晴れ渡った冬の空を見上げる。
「うん、頃合いでござるな。方々、では参ろうか」
言うと、小次郎は腰を起こした。
祠の外に出ると、踵を返し、世話になった地蔵菩薩に手を合わせ拝んだ。正之丞が小次郎に倣い、地蔵に合掌する。仕方なく新三も二人の後に続き、合掌した。
三千院の所領である大原郷大長瀬には、数十軒の民家がある。それを一軒一軒手当たり次第に当たるというのは、どう考えてみても流石に効率が悪い。
小次郎は、大長瀬の手前で山を登るのを止め、使いを遣ることにした。
「済まぬが角田殿。貴殿は我らに先駆けて大長瀬に入り、お歌の縁者を探って頂けぬか」
「承知仕った」
正之丞は頷くと、雪山を登り始めた。
「のう、宇佐美殿我らはあの杉の木の下で、待つと致しましょう」
「……はい」
新三は不満そうに答えた。恐らく正之丞に代わり、自分が探索の役をやりたかったのだ。
「藤岡様は、如何に上意とはいえ、ご同輩を斬ることに抵抗はござらぬのか?」
不意に新三が問い掛けてきた。
「……できれば某とて、斬りとうはない」
「斬らずに済ませる手段はござぬのか」
「是非もないことを申すな、宇佐美殿」
小次郎はかぶりを振りつつ答えた。
「お役目を捨て、出奔致したあ奴が悪いのだ」
「然様でござるか」
「ああ。これ以上は考えるな。情が残れば肝心な時に手許が狂い、返り討ちとなる」
「返り討ちか……儂はまだ死にとうはない」
新三が真顔で答えた。
再び空が曇り始め、ちらちらと雪が舞い降りてきた。
暫くすると、雪の中に立つ人影が見えた。錆びた鉄の臭いもする。目を凝らしてみる。
「角田殿か」
小次郎がその影に向かって訊ねる。右手は刀の柄を握ったままだ。
小次郎の隣に立つ新三も、既に鯉口を切っていた。
「奴は上だ……正之丞は俺が斬った」
五郎太の声だった。
「然様か」
言いながら小次郎は白刃を抜いた。
新三も抜刀した。
「何ゆえ、脱藩した?」
「お主に答える必要はない」
声がだんだんと近づいてくる。
風雪の中に立つ五郎太の姿が、小次郎の両目にはっきりと映った。
「傷をおったのか?」
小次郎は目を瞠った。
雪原にぽたぽたと鮮血が滴り落ち、見る見るうちに赤く染まっていった。
五郎太は、正之丞と切り結び、左腕を負傷したようだ。
「見逃してはくれぬか」
「無理だ。既にお主は正之丞を斬ってしまった。我ら両名の者は、何としてもお主を仕留めねば帰れぬ」
「そうか、ならば如何仕方ない。できれば小次郎、お主とはやりとうはなかった」
「俺に勝つ自信がないのか」
「いや違うぞ。木刀を用いての試合はついに勝てなかったが、真剣での勝負は勝手が違うぞ」
「藤岡様、如何なさる。拙者が助太刀致しましょうか」
「いや、結構でござる。宇佐美殿は、俺が破れた場合、五郎太を仕留めて下され」
「分かり申した」
「いいだろう、参れ、小次郎っ!」
唸り声を発すると、五郎太は刀を正眼に構えた。
「応っ!」
小次郎も正眼に構える。
お互い一歩踏み込めば、剣先が相手の身体に当たる間合いだ。
五郎太の放った白刃が、小次郎に向かって一直線に飛んでくる。それを避けずに、小次郎は五郎太の初手を刀で受け止めた。金属同士が激しくぶつかる音がした。瞬間、辺りに火花が散った。
「なかなかやるの」
鍔迫り合いの最中、五郎太が不敵な笑みを浮かべ告げた。
「お主こそ……」
押し返しながら小次郎が言った。
しかし体勢は、坂下に立つ小次郎が不利だった。
「素直に縛につけ。俺はお前を斬りたくはない」
「断るっ」
両者は一旦、お互いの必殺圏の外へ逃れ、間合いを取った。
小次郎は雪原を摺り足で進み、一歩ずつ間合いを詰める。
すると五郎太は、白刃を寝かせ下段に構えた。このまま踏み込めば、逆袈裟斬りの餌食となってしまう。
小石川白壁町の小高道場で、一度この逆袈裟斬りの技を使う者と試合をしたことがあった。赤穂浪士の毛利小平太だ。その時は、小次郎の完敗だった。
「拙いっ」
小次郎が発した。
閃光が放たれた。
白刃が、小次郎の右下腹部目掛け飛んできた。
一瞬の差で、後方に飛び跳ねた小次郎は、逆袈裟斬りの間合いの外へ逃げた。小平太との試合を思い出し、咄嗟の判断で、後ろに飛び跳ね、躱すことができたのだ。
五郎太の放った一撃は、逆袈裟斬りの軌道を画いた。そのまま上段に構えた。双眸は依然小次郎を睨んだままだ。
「どうした後がないぞ、小次郎」
確かに五郎太の言う通り、もう一歩後ろに下がれば、そこには大きな杉の木がある。
小次郎は正眼に構えると、白刃を横に寝かせた。これで五郎太を突こうというのだ。
次の一撃で勝負が決まる。
誰もがそう思った。
両者はゆっくりと間合いを詰めた。
バサッという音と共に、木の枝に降り積もった雪が落ちた。辺りに粉雪が舞い上がった。
上段に構えた五郎太の身体からは熱気が立ち込めていた。
「えいやぁーっ!」
渾身の一撃が小次郎に向かって飛んできた。
白刃を突く隙もなく。已む得ず刀の腹で、上段から放たれた五郎太の一撃を受けた。
火花が散った。
金属がへし折られた音がした。
小次郎の握っていた刀が、ちょうど中ほどで折れた。折れた剣先が雪の上に落ちた。
「やられた……」
小次郎は死を覚悟した。
五郎太が刀を再び上段に構える。
彼が刀を振り下ろそうとした瞬間、
「止めてぇーっ! お願いどす、二人とも殺し合うのは止めて下さいっ」
と叫ぶお歌の声がした。
五郎太はその声に反応して振り向いた。
一瞬の隙を衝き、小次郎は脇差を抜き、それを五郎太の鳩尾目掛け突き刺した。
「あぐぅっ……小次郎っ。貴様ぁぁぁぁぁ……」
五郎太は口から鮮血を吐き、前のめりに崩れるように倒れた。瞬く間もなく雪原に血が広がっている。
「嫌、嫌どす……五郎太はん……う、嘘やぁぁぁぁ……」
お歌が五郎太に掛け寄った。
「お歌……」
と、五郎太は好いた女の名を口にし、絶命した。
呆気ない幕切れだった。
勝ったとは故、勝負は完全に小次郎の負けだった。
「な、何でやぁぁぁっ!? 何でうちの人を斬ったんやぁぁぁっ! この人でなしっ!!」
お歌は夜叉のような恐ろしい形相となり、小次郎を睨んだ。
「許せ、お歌殿。これが武門の習わしだ」
「殺したる。うちはあんたを殺したるっ」
お歌は、五郎太が握っている刀を取り、小次郎目掛け突っ込んできた。
「死ねぇっ!」
叫びながら突っ込んでくるお歌の腹に、拳で一撃を入れる。
「うっぷっ」
お歌は悶絶し、その場に崩れた。
彼女が気を失ったことを確認すると、小次郎は、
「宇佐美殿、見分下され」
と新三に告げた。
「はっ、心得ました」
新三は、小次郎に命じられた通り、杉原五郎太の死を確認した。
その後二人は、気を失ったお歌を大長瀬の里に運び入れ、三千院の修行僧に預けた。大長瀬の外れで、冷たくなった角田正之丞の屍を発見すると、小次郎は背負って下山した。
因みに正之丞は、その傷跡から察し、五郎太の放った逆袈裟切りの餌食になったようだ。
数日後、小次郎は新三を配下の一人に加え、山科の里で隠棲する大石の監視任務に戻った。
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