前世の私と今の私

翠華

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第二話

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それからの日々は、驚くほど静かに過ぎていった。

朝起きて朝食を食べ、掃除をして、洗濯をして。昼はお母さんと買い物のメモを見ながら献立を考え、夕方になると、修一さんの帰りを待つ。

何も変わらない。けれど、どこか少しずつ、同じ場所が違って見えていく。

たとえば、リビングの壁にかかった家族写真。見覚えがないのに、時々、知らない自分の表情がそこに映っている気がする。

あるいは、夜になると決まって聞こえる“水の音”。屋根から落ちる雨ではなく、家のどこかで、静かに流れているような――そんな音。

「また聞こえたの?」
ある晩、私が何気なく言うと、お母さんはにこりと笑った。

「それは気のせいよ。この家、古いから音が響くだけ」

そう言って台所に立つ背中は、いつもより少しだけ硬かった。

修一さんは相変わらず優しい。けれど、外に出たいと言うたび、穏やかに微笑んで、「まだ早いよ」と言う。

理由はいつも同じ。「もう少し体を慣らしてから」「お母さんも心配してるから」。

確かに、それは正しい言葉に聞こえた。
でも時々、その言葉の奥にある“何か”を感じる。まるで、見えない糸でどこかに繋がれているような。

それでも私は、笑って頷いた。穏やかな日々を壊したくなかったから。

夜、ベッドの中で目を閉じると、あの“黒い水の音”が、また遠くで揺れている気がした。


夜。寝る前、ふと台所の電気を消し忘れた気がして降りていった。シンクのそばには、ごみ袋が置かれている。

(……あの携帯、ちゃんと捨てたのかな)

理由なんてなかった。ただ、なぜか“まだ、どこかで呼んでいる気がした”。

袋の口をそっと開けて覗き込む。生ごみのにおいと、湿った空気。でも、どこにもあの携帯はなかった。

少しの間、何も聞こえなかった。ただ、家の中の空気がわずかに“動いた”気がした。冷蔵庫の低い唸りの奥で、誰かの呼吸のようなものが重なった気がして、私は立ち止まる。

(……気のせい、だよね)

自分に言い聞かせるように息を吐き、ごみ袋の口を結び直した。

その瞬間、背中の方で――床が、わずかに鳴った。

振り返っても、誰もいない。時計の針が小さく刻む音だけが、静かに続いていた。

私は電気を消して、そっと階段を上がった。背中に、まだ誰かの視線が残っているような気がした。


浅い眠りの中で、誰かが名前を呼ぶ。

――かなみ。

目を開けると、そこは見覚えのない駅のホームだった。霧のような白い空気が漂い、行き先表示は、黒い雨に滲んで読めない。

ホームの向こう側に、ひとりの人影が立っている。傘を差して、動かない。顔は見えない。けれど――その傘の色を、私は知っていた。

薄いグレー。どこかで見たことがある。心の奥に、微かな痛みが走る。

(誰……?)

声を出そうとしても、喉が動かない。
足も動かない。ただ、霧の奥から“水の音”だけが、一定のリズムで響いてくる。

――ぽた、ぽた、ぽた。

傘の縁から落ちる水滴の音。それが少しずつ速くなり、やがて鼓動のように耳の奥を打つ。

そのとき、相手がゆっくりと顔を上げた。

白い光が差し込んで、誰なのか分かりそうで、分からない。

「……あなたは」

そう言おうとした瞬間、足元の線路が、黒く波打った。

水が、広がる。駅全体が静かに沈んでいく。

息が苦しくなって、私は手を伸ばした。霧の向こうで、傘の人が同じように手を伸ばす。

指先が触れる――その直前で、目が覚めた。

天井の木目が、ぼやけて見える。心臓が速く打っている。

(夢……だったの……?)

耳の奥で、まだ雨の音がしていた。ぽたり、ぽたりと。夢と同じリズムで、どこかから落ちてくる。

しばらくその音を聞いていた。けれど、不思議なことにカーテンの隙間から覗いた空は、晴れていた。

(……え?)

窓の下には、濡れた形跡なんてどこにもない。風もない。木々も乾いている。けれど耳の奥では、まだ“ぽたり”という音が残っていた。

1階に降りると、台所ではもうお母さんが朝食の支度をしていた。味噌汁の匂いが漂い、いつもと変わらない朝。

「おはよう、お母さん」

「おはよう。よく眠れた?」

「うん……あの、昨日、夜に雨、降ってた?」

お母さんは少し首を傾げて、優しく笑った。
「雨? 降ってないわよ。天気予報も晴れだったもの」

(……じゃあ、あの音は?)

味噌汁の湯気の向こうで、お母さんの笑顔がほんの一瞬だけ“止まった”気がした。

でも、すぐにいつもの柔らかい声に戻る。
「ご飯、冷めちゃうから座って。ね?」

私は頷いて席につく。湯気の向こうで、世界が少しだけ歪んで見えた。

けれど、それはほんの一瞬のことで次の瞬間にはもう、いつもの静かな部屋に戻っていた。


昼下がり。お母さんと並んでリビングのソファに座っていた。

テーブルには湯気の立つコーヒー2つとお母さんが焼いたマドレーヌ。テレビではどこかの旅番組が穏やかに流れている。


「もう少し焼いたほうが良かったかな」
「ううん。これくらいがちょうどいいよ」

そう言ってひと口食べる。少し焦げた甘さが舌に広がり、胸の奥がじんと温かくなった。

「……ねえ、お母さん」
「なに?」
「こうやって二人でお茶するの、久しぶりな気がする」

お母さんは少しだけ驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「そうね。あんた、昔は落ち着きがなかったもの」
「え、そうだったの?」
「ほら、じっとしていられなくて、焼き菓子の前でずっとソワソワしてた」

佳奈美は思わず笑ってしまう。
「……なんか、想像できる」

一瞬だけ、空気が和らいだ。

その笑いが部屋の中をすっと通り抜けて、
淡い光のように壁を照らした気がした。

けれど、お母さんはふと、窓の外に目をやる。
「でもね、今のあんたの方がずっといい顔をしてるよ」

「……そう、かな」
「そう。静かで、落ち着いてて。まるで“本当の自分”みたい」

(本当の、私……?)

その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。どこかで、何かがきしむような音がした気がした。

「……うん、そうだね」
そう返す声は、自分のものなのに少し遠く聞こえた。
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