前世の私と今の私

翠華

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第二話

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「お母さん、これここでいい?」

「大丈夫だよ。ありがとう」

家に帰って来て約半年が経った。

家事を手伝いながら少しずつ今の環境にも馴染んでいる。

ただ、家事をしているだけでは落ち着かない。

お母さんにバイトがしたいと言ってみたが、体が心配だと許可しては貰えなかった。

修一さんは朝から夕方まで働いて18時に帰ってくると私にハグして台所に行くというのが日課らしい。

私には全くぴんとこなかったが。

「お母さん、今帰りました」

「あらおかえり。今日もお疲れ様」

お母さんは修一さんの上着を受け取り、ハンガーにかけるとすぐに夕飯を机に並べ始める。

慌てて手伝おうとするが、お母さんは大丈夫と言って私を椅子に座らせた。

「今日はどんな事をされたんですか?」

隣に座る修一さんに聞く。

「今日もいつもと変わらないよ。ただの事務処理さ」

その答えもいつもと変わらない。

気まずい沈黙の中、

「じゃあちょっと出かけてくるわね」

そう言ってお母さんはバタバタと家を出て行く。

「お母さんはどこに行ったの?」

「いつも通り買い物じゃないかな」

これもいつもと変わらない。

「さ、せっかくのご飯が冷めたらもったいないよ。食べよう」

「うん」

「「いただきます」」

2人で手を合わせてから会話もなく黙々と箸を動かす。

お母さんがいないと全く会話がない。

私はいつもこんな静かな人と生活していたんだと思うと、不思議で仕方ない。

私は沈黙が苦手だったような気がする。

「「ごちそうさまでした」」

また手を合わせてから食器を片付ける。

「私が片付けておくからお風呂に入ってきて大丈夫ですよ」

「いつも悪いね。ありがとう」

優しくて礼儀正しい人だと思う。

ちゃんとご飯を食べる前と後に挨拶出来て、ありがとうと言える人。

そういう人はとても好きだ。

まだ実感はないが、私はこの人が好きだったんだと頭では理解出来る。

静かな空間は好きだ。独りでいる時間は好きだ。明るい所も暗い所もどちらも好きだ。独りで考え事をする時間も好きだ。ただぼーっとする時間も好きだ。忙しく働くのも好きだ。

だからこそ、水の音、水を弾く音、自分以外の人が存在しない空間が心地いい。

手を止めて水の流れる音だけに耳を澄ませる。

山の中を流れる滝の横に座って弾かれた水を全身で受け止める。

心が洗われるような、産まれたばかりの子供のような、そんな綺麗な自分になれる気がする。

ギシギシギシ…

僅かに軋む床の音。

私は目を開けて手を動かす。

「早かったですね」

「ああ。気持ちのいいお湯だった。ありがとう」

「それは良かったです」

名残惜しい気持ちと共に修一さんに笑顔を向ける。
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