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87日前【1】

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 四季宮さんが階段から落ちて来た。

 踊り場から、僕の元まで。
 段数にして約二十段。おそらく高さは四メートルほど。

 体に痛みは感じない。
 互いに怪我はなさそうだ。
 そんなことより問題なのは、四季宮さんの形の良い唇が、今まさに僕の口に当たっていることだ。

 やけに柔らかくて、張りがある。
 彼女が付けている化粧水の匂いなのか、はたまた時間差ではらりと落ちて来た、髪から漂うシャンプーの匂いなのか。
 どちらかなのか、どちらもなのか。
 とにかく殺人的にいい匂いに包まれて、僕の意識は飛びそうになる。

 一秒。
 いや、もっとかもしれない。
 二人とも動かないままの時間が過ぎた後、彼女はゆっくりと体を起こした。

 薄桃色の、桜みたいな唇に、僕の視線は釘付けになる。
 今起きたことを意識すると、頭がかっと熱くなって、その熱が頬や首まで降りてきて、夏でもないのに汗がじわりとにじみ始める。

 まずい……これは非常にまずい……。
 高ぶる鼓動を落ち着けようと、僕の頭は急速回転。
 素数を数えたり、円周率をそらんじたりするように、心を落ち着かせるために、何か違うことを考えようと思った。

 唇……くちびる……赤い、くちびる……。
 そ、そうだ、そういえばこんな話を聞いたことがある。

 実は唇が赤いのは人間だけで、サルやチンパンジーといった他の種族には見られない珍しい特徴なのだ。一説によると、これは発情期を分かるようにするためなのだとか。唇が赤く、ふくよかに膨らんできた時が、最も生殖行為に適した状態らしい。
 真偽のほどは分からないけれど、仮にその説が本当なのだとしたら、それってなんとなく、とってもエッチだなぁという感想を――

 ってダメだダメだ!
 これじゃ、むしろ逆効果だ……!

「びっくりしたぁ……」

 そんな僕の心境を知ってか知らずか。
 四季宮さんは場違いなほどに、のんびりとしたセリフを口にする。

「こういうことって、ほんとにあるんだねえ……」

 漫画の中だけだと思ってたよ、と他人事みたいに目をぱちくりさせた。
 一瞬気が緩みそうになったけど、現状を思い出して、僕は慌てて彼女の体を引きはがす。
 焦りと戸惑いで、体中から嫌な汗が吹き出していた。

「ご、ごめんなさいっ……」
「どうしてあやまるの?」
「だってその、口が……当たって……」

 四季宮さんは、思い出したように口に手を当てる。
 長めの袖のカーディガンが、するっと肘の辺りまで落ちた。

「すみませんわざとじゃなくて落ちて来たから助けようと思っただけでそれで……」
「ちょっとちょっと、早い早い」

 膝をポンポンと叩かれる。

「そんなに早口じゃ、何言われてるか分かんないよー。なんとなく、謝ってるのは伝わってくるけど」
「ごめんなさい……」
「もー、だから謝らないでってば。むしろ、お礼を言いたいくらいだよ。君のお陰で怪我せずに済んだわけだし、ね?」

 四季宮さんはちらりと背後の階段に目をやった。
 ワックス塗りたての階段は酷く足場が悪くなっていて、急いで駆け下りて来た四季宮さんは案の定足を滑らし、落ちて来たのだった。

 ――僕の上に。

「けが、してない?」
「た、たぶん……大丈夫です」
「そっか、ならよかった」

 ほっと安堵したように笑う四季宮さん。
 そして僕の表情を見て、次は眉を八の字にして笑った。
 笑顔のレパートリーが多い人だ。

「もー、まだ気にしてるの? キスなんて減るもんじゃないし、そんなに深刻そうな顔しなくて大丈夫だよ」

 そ、そういうものなのか?
 僕は初めてだったから未だに動悸が収まらないのだけど……慣れてる人にとっては、そうでもないのだろうか? 

「ん? いや、でもファーストキスはなくなっちゃったから、実質減ってる?」

 とんでもない事実をさらっと言いなすった。

「……どうしよう?」
「どうしよう、と言われましても……」

 気を抜くと、さっき触れ合った唇に目が吸い寄せられてしまって落ち着かない。
 僕は視線のやり場を探して、うろうろとさまよわせた結果……、

「……え?」

 四季宮さんの手首で、目が止まった。
 先に説明しておくと、四季宮さんは他人に素肌を見せることがほとんどない。

 なんでも彼女は冷え性らしく、春夏秋冬いつでも変わらず、ちょっと大きめのカーディガンを羽織り、下にはストッキングを履いている。
 加えて体が弱いらしく、体育の授業は見学している。

 そんなことも相まって、四季宮さんの素肌というのは、僕たちの目にさらされたことがない。せいぜい見えて首筋まで、手首や二の腕、太腿なんてもっての他だ。

 なのに今、四季宮さんの手首が見えている。
 走ったり、落ちたり、もつれたりしたからだろう。
 シュシュがずれ、カーディガンの袖がはだけていた。

 そして、僕の目に入った彼女の手首には――生々しい真っ赤な痕がいくつもついていた。
 何度も、何度も、強く縛り付けられたような赤。
 滑らかで白い素肌とコントラストを成して、より鮮烈に僕の目に飛び込んでくる。

「……? どこ見て――」

 僕の視線に気づくと、四季宮さんは慌ててカーディガンの袖を引っ張って、手首を隠した。
 数瞬の沈黙。

「……見た?」
「……見てないです」
「本当に見てない人は、何が? って聞くんだよ?」
「すみません見ました」

 正確には、見えました、と言うべきなのだろうけど。

「だよねえ。うーん、どうしよっかなあ」
「あ、あの……誰にも言いませんので……」
「えー、ほんとにー?」

 色々と分からないことだらけだけど、さっきの赤い痕を隠したいであろうことは、いくら僕でも察することが出来た。
 体育に出ない理由も、年がら年中カーディガンを羽織っている理由も、ここにきてパズルのピースが合わさるように、ぴたりぴたりと繋がった。

「その、大丈夫です本当に。誰にだって隠したいこととかありますし秘密の一つや二つあって当然っていうか……そもそも僕には言いふらすような友達もいないですしそこは信用してもらってもいいかなとか……」
「もー、だから早いってば」
「す、すみません……」
「友達がいないってところしか、聞き取れなかったよー」

 よりによってそこが聞き取れたのか……。
 いやまあ、いいんだけど。事実だし。
 四季宮さんが重ねて何かを言おうとした、その時、

「あーかーねーちゃーん! まだー?」

 階段の上から突き抜けるように声が降って来た。
 この声……たしか、四季宮さんの友達のはち織江おりえさん、だったっけ。

「ごめーん! 今行くー!」

 八さんにそう返事をすると、四季宮さんは僕の方にずいっと寄って、

「ね。今日の放課後、時間ある?」
「ありますけど……」
「じゃあ、ちょっと話したいことがあるから、待っててくれる? もちろん、これのことで」

 すっとカーディガンを降ろして、赤い痕を見せた。
 なんだかいけないものを見ている気分になって、僕は思わず視線をそらした。
 四季宮さんはそんな僕をみて、含むように笑った。

「約束だからね? 勝手に帰ったらダメだよ?」

 僕が答えるよりも前に、八さんの活発な声がまた聞こえ、四季宮さんは立ち上がった。
 スカートの裾を丁寧にはらい、指だけがちらりとのぞいた右手を、腰の辺りでひらひらと振る。

「じゃあね、真崎君。また教室で」
「……どうも」

 僕は床に座ったまま、そんな気の利かない返答をした。
 ここ数分で詰め込まれた情報の数々が渋滞を起こして、頭の中でパニック状態になっていた。

 順を追って考えようとするけれど、四季宮さんの唇の柔らかさや、彼女の右腕についた赤い痕が思考を妨げて、まったくまとまらない。
 だから僕は、

「四季宮さん、僕の名前知ってたんだな……」

 なんて。
 キスとも彼女の腕の傷とも、そして今日の放課後の約束とも。
 なんの関係もないことをつぶやいた。
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