上 下
33 / 39

当日【2】

しおりを挟む
 ボタンをタップして、通話を切る。
 少し時間はかかってしまったが、なんとか織江さんから話を聞きだすことが出来た。
 僕の予想は確信に変わった。
 彼女が――四季宮さんがついていたに、ようやく気付くことができた。

 ただ……ここからどうすればいいだろうか。
 彼女を助けるために、彼女を幸せにするために、僕にできることはなんだろうか。

 答えはまだ見つからない。
 だけど、何とかしなくてはいけないという焦燥感だけは、今まで以上に強く胸の内で燃え上がっていた。
 とにかく、四季宮さんと一度話し合って――

「……え」

 思考と歩みが止まる。
 さっきまで僕と四季宮さんが座っていた場所。
 二人で肩を寄せ合っていたソファー。

 

 現状を把握するまでに数秒。
 次の行動に移るまで、さらに数秒。
 それだけの時間硬直していた僕は、やがて弾かれたように、

「……四季宮さんっ!」

 駆けだした。
 四季宮さんの連絡先をタップして耳元に寄せる。

『おかけになった電話は、現在電波の届かない場所に――』
「くそっ!」

 悪態をついてスマホをしまう。
 四季宮さんは電源を落としたままのようだった。スマホは使えない。
 足で稼いで、目で見つけるしかない。
 ショッピングモールの中には、うだるくらいに人がいた。
 人混みをかき分けながら、左右に目をせわしなく走らせて四季宮さんの姿を探す。

 いない……。
 いない。
 いない、
 いない、いない、いないいないいない!

「くそっ!」

 悪態をつきながらエスカレーターを駆け降りる。
 駆け降りるのが正解なのか分からなかった。
 駆け上がった方がいいのかもしれなかった。
 分からない。
 正解が分からない。
 けれど、立ち止まっている暇など一秒もなくて。
 僕は直観に従って、下へ下へと駆け降りた。

 途中で二列になって並んでいるカップルが邪魔で、どいてくださいと言いながら、荒々しく間をすり抜けた。
 たくさんの人が、必死の形相で走っている僕を、怪訝な顔で見送っていた。

 普段運動をしていないツケが回ってきたのか、肺は簡単に悲鳴を上げた。
 喉の奥が焼けるように痛くて、ろくに走ることすらできない自分にいら立った。ショッピングモールの一階でも彼女を見つけることはできなくて、僕は転がるように外へとまろび出た。

 モール内に響いていた音楽が消え、代わりに雑踏の音が大きくなった。
 車が排気ガスを出す音が聞こえる。
 タイヤと地面の摩擦音がする。
 電光パネルの向こう側で、アナウンサーが喋っている声がする。
 そのすべての音が広大な世界を想起させて、今からでは四季宮さんを探し出すことはできないのだと、非常な現実をまざまざと僕に突き付けてくるように感じた。

 ――もう間に合わない。

 脳裏によぎった言葉を振り払うように、僕はかぶりを振る。
 まだだ……まだ、諦めない。
 彼女が向かうとしたら、駅の方だろう。
 電車に乗る前に捕まえられれば、引き止めることが出来れば、まだ間に合うはずだ。
 そう思って、自分を叱咤して、数歩走り出した時――


 


 何かに誘われるように、目線を上げた。
 ビルの屋上、フェンスの外側。
 圧倒的な死の匂いを振りまいて、むせかえるような橙色を背に受けて、彼女はそこに立っていた。

 声をあげる間もなく、四季宮さんの体が一瞬宙に浮いて。
 地面から伸びてきた、黒くて長い怪物の手に引きずり込まれるように、その速度を増していく。
 彼女の身体は、地面にしたたかに叩きつけられて、真っ赤な血を周囲にまき散らした。

 四季宮さんはその瞬間、四季宮さんだったものに変わってしまって。
すぐ近くにいるのに、だけど永遠に出会えない存在になってしまった。
 
「きゃははっ! もー、待ってよー!」
「……っ!」

 隣で子供の笑い声が聞こえて、僕は現実に引き戻された。
 いずれ訪れる未来。六十秒後の光景。
 これまで何度も僕を苛んできた、僕の幻視が告げている。

 間違いない。
 四季宮さんは、あのビルから飛び降りる。
 六十秒後に、彼女は死ぬ。

「……はっ……はっ……」

 呼吸が荒い。おびただしい量の汗が背中を伝う。
 現状を整理しなければという焦りが体中を駆け巡るのに、意に反して体は全く動かずに、眼球だけがやけにせわしなく、右へ左へ揺れ動く。

 今、四季宮さんが飛び降りる光景を幻視したということは、彼女はもう上り始めているだろう。あるいは既に、屋上に着いているかもしれない。

「はっ……はっ……!」

 今からビルに飛び込んだところで、絶対に間に合わない。
 スマホでの連絡も取れない。
 状況は絶望的だった。
 彼女に手を伸ばすには、どうしようもなく時間が足りない。
 彼女を助け出す手段を、僕は何一つ持ち合わせてはいない。

 僕は臆病で、意気地がなくて、とてもちっぽけ存在だ。
 笑ってしまうくらいに非力で無力な腰抜けだ。
 彼女が死ぬことを知っていても、彼女が飛び降りることが分かっていても、その未来を変えるだけの力がない。

 ごめんなさい、四季宮さん。
 僕は、あなたを助けることが――
 

「違うだろっ……!」


 街路樹に頭を打ち付けて、腐りきった思考を追い出した。
 彼女を止める手段は、まだ残っている。

 絶対ではない。
 だけど彼女の耳に、僕の声を届ける方法は

 今それを躊躇ったのは、怖いからだ、恐ろしいからだ。
 たくさんの人間が周囲にいる中で、目立ってしまうのが怖いからだ。
 奇異な目線を浴びせられることに恐怖を抱くからだ。
 もし四季宮さんに僕の気持ちが届かずに、彼女が死んでしまったらと思うと、恐くて怖くて、体の震えが止まらなくなるからだ。
 
 僕はビルの正面にあるひと際高い石塀の上に立って、空を見上げた。二、三度空気を吸い込む。

 心臓が拍動する音が痛い。
 嫌な汗がとめどなく流れ落ちる。
 周囲の目線が肌を刺す。
 喉が縮こまってしまいそうになる。
 歯をがちがちと打ち鳴らしそうになってしまう。
 そんな自分を叱咤する。

 どれだけ彼女に助けられたと思ってる? 
 どれだけ彼女に思い出をもらったと思ってる?
 他人の嬌声がトラウマになっていた僕が、四季宮さんの綺麗な笑い声に救われたことを忘れたのか?
 彼女の声が大好きで、気づけば目で追っていたことを忘れたのか?
 彼女と秘密を共有してからの日常が、どれだけ楽しかったのか忘れたのか?

 四季宮さんと出会えたから、織江さんとも友達になれた。
 織江さんと友達になれたから、御影も含めた四人で修学旅行を楽しめた。
なんの思い出もなかった高校生活に、彩りを与えてくれたのは、一体誰だ? 

 怖い?
 ああ、怖いさ。恐ろしいさ。

 だけど。
 そんな恐怖に向き合ってでも彼女のことを助けたいと。
 今、強く、強く、心の中で願うから。

 一瞬のうちに脳裏を駆け巡った四季宮さんとの思い出が。
 彼女が僕にかけてくれたたくさんの言葉が。
 背中を押してくれている気がするから。
 だから、今――



「四季宮茜ぇええええええええええええええええええええええええええ!」



 



「死ぬなぁああああああああああああああああああああああああああああ!」




 叫べ……叫べ、叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べ叫べっ!

 この透き通った空の隅々まで響き渡るくらいに。
 喉がかすれて、真っ赤な血が噴き出すくらいに。
 どこの誰かも分からない、有象無象うぞうむぞうの耳にも届くくらいに。
 そして何より、君のもとに、君の耳にっ、君の心に届くくらいにっ!

「なに勝手に死のうとしてるんだよ! ふざけんな! 僕がどんだけ心配したと思ってんだ!」

 痛いくらいに声を張り上げて!
 敬語なんてとりやめて!
 僕を外界から守っていた、ありとあらゆる壁をかき捨てて!

「自遊病だからしょうがないとでも言うつもりかよ! ついうたた寝しちゃったから死にそうになってるとでも言うつもりかよ! バカにすんなよ! もう全部知ってんだよ! 分かってんだよ!」

 あらゆる言葉を区切ってしまう句読点を!
 君がしきりに言っていた、その句読点すら置き去りにして!

 短く!
 早く!
 鋭く!
 今、叫び声をはしらせろっ!


!」

しおりを挟む

処理中です...