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脅威、狂気、恐怖
その15
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絶望感に打ちひしがれる。視界に入った、左腕。その中ほどの尺骨部分が、歯形に抉り取られており――そして黒く、汚染されていたのだ。
――いつだ?
不思議だった。痛みが無い。それがどういう意味なのか、どうしても想像がついてしまう。嘘だと思いたかった。金田の時か? だけどあの攻撃は、あくまで耳元を狙ってきたものだった。じゃあさっきの庚の奇襲か? いや、あれも顔を狙ってきたからこそ、体を反らして避けることが出来た。だとすると、遊月の――
手が、汚染されていく。その染みは黒い闇のように、徐々に内側まで広がっていた。その感覚に、恐怖した。これで逃げることも、出来なくなってしまった。
「――――ハ」
笑みともため息ともつかないものが、口から漏れた。康はケタケタケタと笑っている。それは壊れた玩具を連想させる。それはゆっくりと、こちらに近づいてくる。それと腐り始めた左腕を、見比べる。
覚悟を、決めた。わけがわからないのは、もういい。ただ、逃げるのはもう、やめるべきだった。
「康……」
呼びかける。知り合いがこんな風になり、悲しくないわけがない。特に康は、数少ない友達と呼んでいいレベルの知人だ。寂しさが、こみ上げる。
「ケンチャンケンチャンケンチャンケンチャン……」
こちらに泡を吹きながら涎を垂らしながら体を震わせながらにじり寄りながら、康は謙一の名を呼ぶ。呟きながら、震えながら、壊れながら、康は謙一に、救いを求めているようだった。白いその瞳は、泣いているようだった。
「……ンだよ、これは」
謙一は、唸った。泣くわけにはいかない。感傷など、自分には似つかわしくない。ひとという生き物は周りの人間の不幸に泣く時のそのほとんどが、自分が可哀想で泣くのだという。そんな人間に、自分はなりたくなかった。だから、呻いた。
この理不尽すぎる、現実に。
「ケンチャンケンチャンケンチャン……」
「康……」
だから、その名を呼んだ。幾度も繰り返される呼びかけに、応えるように。
「……わりぃ」
その名を、忘れぬために。
名前を呼ばれ、康は弾け飛んだ。今までも見てきた、汚染された化け物の驚異的身体能力による、飛びつき。それを謙一は――左手で、今しがた拝借した尻ポケットに差していた牛刀を抜き、それを前方に突き立てることで、止めた。
串刺し。
三十六センチもある刃渡りの中ほどにまで、康の小さな体は貫かれていた。
そしてそのぱっかりと開いている眉間に、右手でカッターナイフを、突き立てた。
悲鳴も何も、なかった。ただ康はその口から泡を吹くことをやめ、涎を垂らすのを止め震えが、収まった。そして謙一はその白目を剥いた瞼を、掌で閉じてやった。それを合図とするように康はくたり、と身体の力を抜き、自らの胸を貫いている牛刀にぶら下がるような形になった。謙一は牛刀を抜き、その身体を支えてやった。その身体は驚くほど冷たく、軽かった。
涙が、零れた。決意、した。
大本を叩く。
化け物に変わるしかない自分にとってそれは、生存欲求ではなく――カッコよく、世界を救うためだった。自分の存在意義を、生きた証を、この世界に残すためだった。
「仇は……討って、やるからな……ッ」
用務員室には、草刈り鎌があった。それを右の尻ポケットに差した。埃っぽく奥に宿直用の寝床があるそこには、他にクワや箒なんかもあった。だが、機動性や実用性などを鑑みるに、これがベストな組み合わせだと思われた。
三つの武器を纏うと、それだけでかなり気持ちが楽になった。吹雪の中ようやく防寒具を着込めた心地だ。出来れば防具もなにか欲しいところだったが、さすがにそんなものは置いていない。
せいぜいというか、教室に置きっ放しにされていた鞄を、手に取った。中身は全部抜いて、ロープで腕にグルグルと巻きつける。これで両腕を使うことも出来る。ちょっとした、RPG気分。
――なんて自分を誤魔化したくても、そんな簡単なものじゃなかった。
耳たぶに触れる。千切れている部分が、火が出るように熱い。どっくんどっくんと、心臓の鼓動を感じる。あの職員室での光景が、思い出したくなくても何度もフラッシュバックされる。これがトラウマなのかと思った。呼吸が苦しくなり、頭が万力で締め付けられているような心地になる。そして最後に、歯型に欠けた左腕を、見る。
そこからは黒い染みが、ジワジワと滲んできているところだった。
「…………」
なにか耳障りな音が、聞こえた。
――いつだ?
不思議だった。痛みが無い。それがどういう意味なのか、どうしても想像がついてしまう。嘘だと思いたかった。金田の時か? だけどあの攻撃は、あくまで耳元を狙ってきたものだった。じゃあさっきの庚の奇襲か? いや、あれも顔を狙ってきたからこそ、体を反らして避けることが出来た。だとすると、遊月の――
手が、汚染されていく。その染みは黒い闇のように、徐々に内側まで広がっていた。その感覚に、恐怖した。これで逃げることも、出来なくなってしまった。
「――――ハ」
笑みともため息ともつかないものが、口から漏れた。康はケタケタケタと笑っている。それは壊れた玩具を連想させる。それはゆっくりと、こちらに近づいてくる。それと腐り始めた左腕を、見比べる。
覚悟を、決めた。わけがわからないのは、もういい。ただ、逃げるのはもう、やめるべきだった。
「康……」
呼びかける。知り合いがこんな風になり、悲しくないわけがない。特に康は、数少ない友達と呼んでいいレベルの知人だ。寂しさが、こみ上げる。
「ケンチャンケンチャンケンチャンケンチャン……」
こちらに泡を吹きながら涎を垂らしながら体を震わせながらにじり寄りながら、康は謙一の名を呼ぶ。呟きながら、震えながら、壊れながら、康は謙一に、救いを求めているようだった。白いその瞳は、泣いているようだった。
「……ンだよ、これは」
謙一は、唸った。泣くわけにはいかない。感傷など、自分には似つかわしくない。ひとという生き物は周りの人間の不幸に泣く時のそのほとんどが、自分が可哀想で泣くのだという。そんな人間に、自分はなりたくなかった。だから、呻いた。
この理不尽すぎる、現実に。
「ケンチャンケンチャンケンチャン……」
「康……」
だから、その名を呼んだ。幾度も繰り返される呼びかけに、応えるように。
「……わりぃ」
その名を、忘れぬために。
名前を呼ばれ、康は弾け飛んだ。今までも見てきた、汚染された化け物の驚異的身体能力による、飛びつき。それを謙一は――左手で、今しがた拝借した尻ポケットに差していた牛刀を抜き、それを前方に突き立てることで、止めた。
串刺し。
三十六センチもある刃渡りの中ほどにまで、康の小さな体は貫かれていた。
そしてそのぱっかりと開いている眉間に、右手でカッターナイフを、突き立てた。
悲鳴も何も、なかった。ただ康はその口から泡を吹くことをやめ、涎を垂らすのを止め震えが、収まった。そして謙一はその白目を剥いた瞼を、掌で閉じてやった。それを合図とするように康はくたり、と身体の力を抜き、自らの胸を貫いている牛刀にぶら下がるような形になった。謙一は牛刀を抜き、その身体を支えてやった。その身体は驚くほど冷たく、軽かった。
涙が、零れた。決意、した。
大本を叩く。
化け物に変わるしかない自分にとってそれは、生存欲求ではなく――カッコよく、世界を救うためだった。自分の存在意義を、生きた証を、この世界に残すためだった。
「仇は……討って、やるからな……ッ」
用務員室には、草刈り鎌があった。それを右の尻ポケットに差した。埃っぽく奥に宿直用の寝床があるそこには、他にクワや箒なんかもあった。だが、機動性や実用性などを鑑みるに、これがベストな組み合わせだと思われた。
三つの武器を纏うと、それだけでかなり気持ちが楽になった。吹雪の中ようやく防寒具を着込めた心地だ。出来れば防具もなにか欲しいところだったが、さすがにそんなものは置いていない。
せいぜいというか、教室に置きっ放しにされていた鞄を、手に取った。中身は全部抜いて、ロープで腕にグルグルと巻きつける。これで両腕を使うことも出来る。ちょっとした、RPG気分。
――なんて自分を誤魔化したくても、そんな簡単なものじゃなかった。
耳たぶに触れる。千切れている部分が、火が出るように熱い。どっくんどっくんと、心臓の鼓動を感じる。あの職員室での光景が、思い出したくなくても何度もフラッシュバックされる。これがトラウマなのかと思った。呼吸が苦しくなり、頭が万力で締め付けられているような心地になる。そして最後に、歯型に欠けた左腕を、見る。
そこからは黒い染みが、ジワジワと滲んできているところだった。
「…………」
なにか耳障りな音が、聞こえた。
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