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第28話 DBの逃げ出したかったもの③
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だがそれ以来、彼は自分の周囲を警戒するようになった。「父親」の知らない所で自分のことは決められている。
誰に。
「父親の姉」か「兄」のどちらかしかない。
だが「父親の姉」が自分に向けるのは、あくまで「無関心」だ。彼女は彼に対し、その存在を時々認めたくないかのように無視する。彼もまた、彼女はそういうものだ、ということでいつの間にか治まりがついてしまった。
では。
「兄」は、彼がこの家に来た時、既に大学生だった。車に乗って彼を迎えに来た。
お前は捨てられたんだ。
そういうことを、平気で言うひとだった。
彼が中学生になった時には、当の昔に「兄」は社会人だった。それも、おそらくはエリートコースの。
「兄」も時々彼の離れにやってきた。ただ、それは「父親」の訪れのように、ぶっきらぼうだが何処か暖かさがあるものとは違っていた。
趣味の良さを少しばかり自分で抑えたようなスーツをまとい、薄い眼鏡の下の目が自分の部屋を、台所を一瞥する時の視線は、まるで何かの検査官のようだった。
彼はその視線が嫌いだった。だがそれを口に出したことは無い。
嫌い、というより、怖かったのかもしれない。
別段「兄」は彼の部屋にあるものが何であれ、口出ししたことはない。ただそれが気に入らないものであった場合、微かに目が細められ、口の端が下がる。
はじめはただのクセかと思っていたが、「兄」が見てその様な表情をするものには傾向があった。
たとえば机の上に広げられた風景の写真集、たとえば窓の桟に無造作に置かれたガラス細工。彼が好きな「綺麗なもの」に「兄」が目を留める時、必ずと言っていいほど、その視線があった。
「兄」の評判は、彼の通う中学校の教師達からもよく耳にした。誰のことだろう、と他人事のように彼は聞き流した。
そこに現れるのは、何処の誰だろう、と思われるほど良く出来た生徒の姿だった。文武両道、という言葉が良く似合う。なるほど自分はそれには当てはまらない。彼はそのたび、くす、と後で笑うのだ。
「兄」が彼に口出しするのはほんの時折だった。たとえば、彼の高校受験の時。行こうとしていた県立の共学校ではなく、私立の男子校を「兄」は強く勧めた。
結果として、彼の成績がその「兄」の希望する――― 実は「兄」の通った学校だった――― に届かない、ということで、彼は自分の意志の通りに進学した訳だが。
だが。
嫌な感じ、は受けていた。
普段、会話らしい会話はない。だがそんな要所要所で口を出してくる。そしてその方向が、何となく、彼にも読めはじめていたのだ。
意図は読めない。それでも、「兄」が、自分と同じコースを彼に歩ませようとしていたのは確実だった。
何か、嫌だった。
何が、と口に出してはっきりと抵抗できるほど、形のあるものではない。ただ何となく、「嫌」だったのだ。
そしてその「何となく」「嫌」は、理屈づけてひっくり返すことができるものではないだけに、彼の中では強烈だった。
理由は何処かにあるのかもしれない。ただ彼の中ではまだ、それは言葉にできないだけで。
端から見れば、それは良いコースなのかもしれない。エリートコース。「兄」はおそらく「父親」の会社で、次代を担う優秀な人材、として働いているのだろう。
「父親」が何をしているのか、当初は曖昧だった。ただ「お金持ち」というイメージだけがあったのだが、その意味は歳を追うごとに理解できるようになっていった。
彼の住むそのあたりで、幾つもの企業を抱える社主。その割りにはこぢんまりとしている、とある客のつぶやきをたまたま庭を歩いていた彼は聞いたことがある。これで小さいのか、と彼は驚いた。
彼の離れと本宅の間には結構な距離がある。だから彼は本宅の雰囲気とは無縁に一人、せいせいした気持ちでのびのびと暮らすことができたのだ。
高校生になった彼はそこが、その家の昔の当主が妾に住まわせていた場所ということに気付いた。彼は「なるほど」と思った。
その頃には既に自分がどういう立場なのか、彼も良く知っていた。母親は、時代が時代なら、そこに住まわされる者だったのだ。
おそらく、「兄」は「兄」なりに、血のつながった弟を自分の配下として生かそう、と思ったのかもしれない。それは好悪の情とは別の次元なのかもしれない。
しれないしれないしれない――― 憶測だ。
ただ。
その「兄」の行動を感じるにつけ、彼は自分の手足に枷がはまって行くように ―――感じられたのだ。
見えない鎖が、絡み付くような気がしたのだ。
確かにここに連れて来られたことで、生きてこられた。
だがそれは、誰の意志だ?
彼は時々自分に問いかける。「父親」だろうか。「兄」だろうか。
そしてその問いの答えを聞かぬままに、「父親」が亡くなってしまった。
世界はいきなり慌ただしく、めまぐるしくなった。
ただ彼自身は、その渦の中心で、どうすることもできず、ただじっとうずくまっていた、という印象があった。
実際、どうしていいのか、判らなかった。まだその時彼は高校も卒業前だったし、その学校でも、決して優等生ではなかったのだ。
何か一つ秀でたものがあればともかく、多数の生徒の中に、それこそ埋没してしまう、そんな一人の目立たない生徒に過ぎなかった。成績も、クラブ活動も、容姿も、人気も。
ただ、学園祭では、時々奇妙に人気があった。「男」として目立つことのない彼だったが、そんなお祭りの時には担ぎ出されて、「女生徒」として人気が出るのだ。
そして無論、そのことを知った「兄」は目を細め、その時には露骨に口を歪めた。そしてこう付け加えた。
「……下らん!」
何も好きでやっていた訳ではないので、彼はそれに反論する言葉も持たなかった。
無い無い無い無い…… 無いことづくめだった。
やがて「父親」の跡を継ぐことを正式に発表した「兄」は、その片腕として、「弟」の自分をやがて引っぱり出すことを一族の前で約束した。
ちょっと待って、と彼は思わず身体を乗り出した。決定だ、と「兄」は目で彼を制した。
反論はできなかった。反論するだけの理由も彼には見つからなかった。
ただ、「嫌」だった。
その理由がやはり見つからない。周囲も渋りながらも、妾腹の子がその位置につくことは良くあることだ、と認めようとしていた。
それでもその感情は、何よりも強烈だった。
強烈で、抑えようが無かった。
誰に。
「父親の姉」か「兄」のどちらかしかない。
だが「父親の姉」が自分に向けるのは、あくまで「無関心」だ。彼女は彼に対し、その存在を時々認めたくないかのように無視する。彼もまた、彼女はそういうものだ、ということでいつの間にか治まりがついてしまった。
では。
「兄」は、彼がこの家に来た時、既に大学生だった。車に乗って彼を迎えに来た。
お前は捨てられたんだ。
そういうことを、平気で言うひとだった。
彼が中学生になった時には、当の昔に「兄」は社会人だった。それも、おそらくはエリートコースの。
「兄」も時々彼の離れにやってきた。ただ、それは「父親」の訪れのように、ぶっきらぼうだが何処か暖かさがあるものとは違っていた。
趣味の良さを少しばかり自分で抑えたようなスーツをまとい、薄い眼鏡の下の目が自分の部屋を、台所を一瞥する時の視線は、まるで何かの検査官のようだった。
彼はその視線が嫌いだった。だがそれを口に出したことは無い。
嫌い、というより、怖かったのかもしれない。
別段「兄」は彼の部屋にあるものが何であれ、口出ししたことはない。ただそれが気に入らないものであった場合、微かに目が細められ、口の端が下がる。
はじめはただのクセかと思っていたが、「兄」が見てその様な表情をするものには傾向があった。
たとえば机の上に広げられた風景の写真集、たとえば窓の桟に無造作に置かれたガラス細工。彼が好きな「綺麗なもの」に「兄」が目を留める時、必ずと言っていいほど、その視線があった。
「兄」の評判は、彼の通う中学校の教師達からもよく耳にした。誰のことだろう、と他人事のように彼は聞き流した。
そこに現れるのは、何処の誰だろう、と思われるほど良く出来た生徒の姿だった。文武両道、という言葉が良く似合う。なるほど自分はそれには当てはまらない。彼はそのたび、くす、と後で笑うのだ。
「兄」が彼に口出しするのはほんの時折だった。たとえば、彼の高校受験の時。行こうとしていた県立の共学校ではなく、私立の男子校を「兄」は強く勧めた。
結果として、彼の成績がその「兄」の希望する――― 実は「兄」の通った学校だった――― に届かない、ということで、彼は自分の意志の通りに進学した訳だが。
だが。
嫌な感じ、は受けていた。
普段、会話らしい会話はない。だがそんな要所要所で口を出してくる。そしてその方向が、何となく、彼にも読めはじめていたのだ。
意図は読めない。それでも、「兄」が、自分と同じコースを彼に歩ませようとしていたのは確実だった。
何か、嫌だった。
何が、と口に出してはっきりと抵抗できるほど、形のあるものではない。ただ何となく、「嫌」だったのだ。
そしてその「何となく」「嫌」は、理屈づけてひっくり返すことができるものではないだけに、彼の中では強烈だった。
理由は何処かにあるのかもしれない。ただ彼の中ではまだ、それは言葉にできないだけで。
端から見れば、それは良いコースなのかもしれない。エリートコース。「兄」はおそらく「父親」の会社で、次代を担う優秀な人材、として働いているのだろう。
「父親」が何をしているのか、当初は曖昧だった。ただ「お金持ち」というイメージだけがあったのだが、その意味は歳を追うごとに理解できるようになっていった。
彼の住むそのあたりで、幾つもの企業を抱える社主。その割りにはこぢんまりとしている、とある客のつぶやきをたまたま庭を歩いていた彼は聞いたことがある。これで小さいのか、と彼は驚いた。
彼の離れと本宅の間には結構な距離がある。だから彼は本宅の雰囲気とは無縁に一人、せいせいした気持ちでのびのびと暮らすことができたのだ。
高校生になった彼はそこが、その家の昔の当主が妾に住まわせていた場所ということに気付いた。彼は「なるほど」と思った。
その頃には既に自分がどういう立場なのか、彼も良く知っていた。母親は、時代が時代なら、そこに住まわされる者だったのだ。
おそらく、「兄」は「兄」なりに、血のつながった弟を自分の配下として生かそう、と思ったのかもしれない。それは好悪の情とは別の次元なのかもしれない。
しれないしれないしれない――― 憶測だ。
ただ。
その「兄」の行動を感じるにつけ、彼は自分の手足に枷がはまって行くように ―――感じられたのだ。
見えない鎖が、絡み付くような気がしたのだ。
確かにここに連れて来られたことで、生きてこられた。
だがそれは、誰の意志だ?
彼は時々自分に問いかける。「父親」だろうか。「兄」だろうか。
そしてその問いの答えを聞かぬままに、「父親」が亡くなってしまった。
世界はいきなり慌ただしく、めまぐるしくなった。
ただ彼自身は、その渦の中心で、どうすることもできず、ただじっとうずくまっていた、という印象があった。
実際、どうしていいのか、判らなかった。まだその時彼は高校も卒業前だったし、その学校でも、決して優等生ではなかったのだ。
何か一つ秀でたものがあればともかく、多数の生徒の中に、それこそ埋没してしまう、そんな一人の目立たない生徒に過ぎなかった。成績も、クラブ活動も、容姿も、人気も。
ただ、学園祭では、時々奇妙に人気があった。「男」として目立つことのない彼だったが、そんなお祭りの時には担ぎ出されて、「女生徒」として人気が出るのだ。
そして無論、そのことを知った「兄」は目を細め、その時には露骨に口を歪めた。そしてこう付け加えた。
「……下らん!」
何も好きでやっていた訳ではないので、彼はそれに反論する言葉も持たなかった。
無い無い無い無い…… 無いことづくめだった。
やがて「父親」の跡を継ぐことを正式に発表した「兄」は、その片腕として、「弟」の自分をやがて引っぱり出すことを一族の前で約束した。
ちょっと待って、と彼は思わず身体を乗り出した。決定だ、と「兄」は目で彼を制した。
反論はできなかった。反論するだけの理由も彼には見つからなかった。
ただ、「嫌」だった。
その理由がやはり見つからない。周囲も渋りながらも、妾腹の子がその位置につくことは良くあることだ、と認めようとしていた。
それでもその感情は、何よりも強烈だった。
強烈で、抑えようが無かった。
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