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第12話 地面が抜けていくような感覚
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「おい!」
さくさくさくさく。バランスを崩して倒れそうになる俺の前方で、そんな音が聞こえる。
「おい歌姫!待てよ!」
「やだね!」
何を考えているんだ、と俺はさすがにやや頭に血が上った。
柔らかすぎる大地にバランスを崩しながら、時には滑りながら、つまづきながら、俺は、歌姫を追いかけた。
冷たい大気が、布を巻いている口から大きな呼吸と共に入り込んできて、肺を刺す。急に冷やされ、喉が痛い。
それでも奴はすばしっこかった。空戦隊の撃墜王も、そんな肩書き、こんなところでは何の役にも立たない。
仕方ねえな、と内心つぶやく。そしてうぉ、とうなり、俺はその場に大きくつまづいて倒れた。
顔面が、もろに雪の中にめりこむ。ひどく冷たい。まぶたの奥の、目を保護するはずの涙までも凍りそうに冷たい。
だが俺は少々そのままで居てみる。
案の定、さくさくさくという音が、耳に近づいてくる。
やがて雪の膜ごしに、赤が、見えた。俺は手を伸ばした。
あ、と声が耳に届く。
バランスを崩して倒れ込む、歌姫の身体を、上体を起こした俺は雪まみれの腕で支えていた。
軽い。本当に、軽い。
同じくらいの小柄な奴は何人も見ている。だが、鍛えられ、筋肉のびっしりついた、アルビシンの女性兵士なんかとは比べものにならないほど、歌姫は軽かった。
俺は頭を軽く振ると、髪についた雪を払う。気温自体が低いから、身体についた雪も、溶けることなく、そのままさらさらとその場に落ちる。
「…離せよ!」
この間と同じ言葉を、奴は俺に投げつける。だがこの間とは、ややその調子が異なっていることは、俺にだって判る。そんなことしたら殺すとばかりのあの勢いでは、ない。
やはりあの困った顔をして。
もがいた拍子に、口に巻いていた布が解けてしまったから。
動きが止まった。
その直後、地面が抜けていくような感覚を、俺は味わっていた。
いや「ような」ではない。
実際に、足の底の雪が、その時一気に下に抜けたのだ。
*
…気がついた時、俺は、左の頬に当たる空気が柔らかいことに気付いた。
ああ、暖かいな、と何やら久しぶりの感覚に、なかなか目を開くことができない。身体から力が抜けている。そのまま、また、眠りについてしまいそうだった。
だが、右の頬には、固い、冷たい、床。
床?
俺は目を開いた。視界は、薄暗かった。
そしてそれは刺すような冷たさではない。特有の、薬臭さが混じったようなにおいが鼻につく。
俺はそれに気付いた時、跳ね起きた。ばっと顔を上げ、辺りを見回した。素のままについた手に、ほこりが貼り付いていくのが判る。
…何処だここは。
だらだらと落ちてくる長い前髪を後ろへかきやると、俺は立ち上がった。頬をかすめる大気は、床のあたりよりやや暖かい。ということは、この部屋は、さほど天井が高くはないということだ。
部屋。
そう考えてから俺はあらためてぐるりと視線を辺りに巡らせた。屋外ではない。薄暗い部屋。まるで倉庫のようにも感じられる。目を何度か瞬かせる。何かが見えないか、と目をこらす。
うすぼんやりとした視界の中に、ほんの少し、奇妙になてかりのようなものを見付けた。
俺はそろそろと足を動かす。大丈夫だ。ここはただの床だ。それも、コンクリートやアスファルトといった舗装されたむき出しのようなものではなく、屋内の、リノリウムやビニルタイルといった、ああいった、コンクリートの床の上に一面に敷き詰めるような。
数歩、足を進めたところで、俺はふと自分が一人であったことに気がついた。
「…歌姫?」
呼んでみる。だが応答はない。そうだ。気配もない。俺はそう思った瞬間、それまで注意深く進めていた足を、大きく踏み出していた。
壁のてかりにばん、と大きく手をついた。いやそれは壁ではなかった。
だってそうだろう。壁は、壊さない限り動かないから、壁なのだ。
それは、扉だった。
そしてその途端に、俺はバランスを崩した。
**
「…何をやっている!」
鋭い声が、飛んだ。はっとして俺は顔を上げる。熱い、湿った空気が首筋にまといつく。
いや、鋭いのは口調だけだ。その声そのものは、ひどく、可愛らしく、甘かった。
「眩暈でもしたのか?」
黒い、大きな丸い瞳が、不安半分、叱咤半分に俺を見上げた。いや、と俺は首を横に振る。
「だったらいい」
彼女はそう言うと、ぷい、と横を向いた。いや、横と言うよりは、未だ続いている戦闘の方に注意を向けたのだ。だが、その手はポケットをまさぐっていた。
おい、と彼女は再び俺に声をかけた。
「口を開けろ」
言われるままに、俺は餌付けされる雛鳥よろしく口を開いた。片栗粉を軽くまぶした氷砂糖が一欠片、その中に放り込まれた。口の中で、甘味が溶け出した。
「しっかりしろ、ミン」
彼女は俺の名を呼んだ。
「我々は、とにかくこの場を突破しなくてはならないのだ」
無論この時の会話は、聞こえるか聞こえないか程度の声だった。俺達は、大きな葉と葉の間に紛れ、時間を待っていた。
目の前には、つい先日脱走したばかりの正規軍のキャンプがあった。
もうずいぶんと時間が経っていた。太陽の光が、俺達の潜んでいる熱帯雨林の木々の背に当たる時を、俺達はただ待っていた。
会話は、ひどく低い声で、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで行われた。全く動けない訳ではないが、ずっと気を張りつめているというのはなかなかに辛いものがあった。元々が空戦隊の一員である俺は、こういった陸上で、ごちゃごちゃした中で奇襲をかけるということには慣れていなかった。
だが彼女は、そういうことに向いていた。小柄な身体をきびきびと動かし、力の足りない分は、智恵とすばしっこさでカバーしていた。
実際、彼女は俺達の中のリーダーだった。
いつの間にそうなったのかははっきりと思い出せない。だが今そうであるのは確実なことだ。
士官候補生の男女比は、通常の軍と同じように、ほぼ半々である。同じ教練を、体格や力の差を、当然のものとして皆訓練を受けていた。無論、底に鉄板を挟み込んだ靴で楽々動き回れる様な体力は必須条件である。そういうことができない者、そもそも士官候補生にはなれなかった。
ただそれ以上に、例えば重いものが持てなかったら、それに代わるものを自分で探すのだ。軽いものを選ぶなら、それに伴うデメリットは承知の上。そして無理をしない。彼女はそういった鉄則を初めから身体で知っていたかのようだった。
黒い、細かく強く縮れた髪を、強く三つ編みにし、時にはそれをぐるぐると頭全体に巻き付け、その上に軽いブッシュ・ハットをかぶっていた。
時間が来た。ちょうどキャンプの兵士にとっては、ジャングルが逆光になる時間、そして数刻後には視界が悪くなる時間に、俺達はそこを襲撃した。
襲撃の理由は、単純だった。そこにある武器が、その時の俺達には必要だった。少ない武器で、大きな収穫を得ることが、その場での最大の目的だった。
…そしてそれは成功した。
突然の、しかも同じ軍服を着た集団が、目も開けられない程の西日を背にして、攻撃してくるのだ。バイザーなど探して掛ける間も無く、また、下手にそれをすることで、逆に目を狙われる心配もあった。
俺達は彼女の指揮のもと、二手に分かれて行動した。片方は、逆光に紛れて直接、真っ直ぐに攻撃するグループ。そしてもう片方は、裏から目的である武器庫を占拠するグループだった。俺は前者だった。
彼女は俺達のグループに指示を与えると、裏手へと回り込んだ。その時の彼女がどうやったか、実際に見た訳じゃなかった。だが予想はつく。白兵戦も彼女は悪くはなかった。
彼女はその小柄な身体を利用して、フェイントをかけ、相手のナイフにまず空を切らせる。その隙をつき、相手の膝の後ろを蹴り、バランスを崩させる。平和な場所なら笑い事ですむことだが、そこでは命に関わる。バランスを崩した相手の、ナイフを持った手の手首を切り裂く。そしてその一撃が決まる、間髪入れずに、その細い腕を伸ばし、首に切り付けるのだ。
その間30秒。長く掛かってはいけないのだ、と彼女はよく俺に言っていた。そしてそれは正しかった。
陽動している俺達の目の前で、キャンプのベースが爆破された。彼女達は裏から武器庫を占拠し、そこにあったランチャーで、ベース自体を破壊したのだ。
「お見事」
と俺はややむすっとした表情の彼女につぶやいた。馬鹿、と彼女もまた聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。
それが、俺達がアルビシン同盟に参加した時の最初の戦闘だった。
さくさくさくさく。バランスを崩して倒れそうになる俺の前方で、そんな音が聞こえる。
「おい歌姫!待てよ!」
「やだね!」
何を考えているんだ、と俺はさすがにやや頭に血が上った。
柔らかすぎる大地にバランスを崩しながら、時には滑りながら、つまづきながら、俺は、歌姫を追いかけた。
冷たい大気が、布を巻いている口から大きな呼吸と共に入り込んできて、肺を刺す。急に冷やされ、喉が痛い。
それでも奴はすばしっこかった。空戦隊の撃墜王も、そんな肩書き、こんなところでは何の役にも立たない。
仕方ねえな、と内心つぶやく。そしてうぉ、とうなり、俺はその場に大きくつまづいて倒れた。
顔面が、もろに雪の中にめりこむ。ひどく冷たい。まぶたの奥の、目を保護するはずの涙までも凍りそうに冷たい。
だが俺は少々そのままで居てみる。
案の定、さくさくさくという音が、耳に近づいてくる。
やがて雪の膜ごしに、赤が、見えた。俺は手を伸ばした。
あ、と声が耳に届く。
バランスを崩して倒れ込む、歌姫の身体を、上体を起こした俺は雪まみれの腕で支えていた。
軽い。本当に、軽い。
同じくらいの小柄な奴は何人も見ている。だが、鍛えられ、筋肉のびっしりついた、アルビシンの女性兵士なんかとは比べものにならないほど、歌姫は軽かった。
俺は頭を軽く振ると、髪についた雪を払う。気温自体が低いから、身体についた雪も、溶けることなく、そのままさらさらとその場に落ちる。
「…離せよ!」
この間と同じ言葉を、奴は俺に投げつける。だがこの間とは、ややその調子が異なっていることは、俺にだって判る。そんなことしたら殺すとばかりのあの勢いでは、ない。
やはりあの困った顔をして。
もがいた拍子に、口に巻いていた布が解けてしまったから。
動きが止まった。
その直後、地面が抜けていくような感覚を、俺は味わっていた。
いや「ような」ではない。
実際に、足の底の雪が、その時一気に下に抜けたのだ。
*
…気がついた時、俺は、左の頬に当たる空気が柔らかいことに気付いた。
ああ、暖かいな、と何やら久しぶりの感覚に、なかなか目を開くことができない。身体から力が抜けている。そのまま、また、眠りについてしまいそうだった。
だが、右の頬には、固い、冷たい、床。
床?
俺は目を開いた。視界は、薄暗かった。
そしてそれは刺すような冷たさではない。特有の、薬臭さが混じったようなにおいが鼻につく。
俺はそれに気付いた時、跳ね起きた。ばっと顔を上げ、辺りを見回した。素のままについた手に、ほこりが貼り付いていくのが判る。
…何処だここは。
だらだらと落ちてくる長い前髪を後ろへかきやると、俺は立ち上がった。頬をかすめる大気は、床のあたりよりやや暖かい。ということは、この部屋は、さほど天井が高くはないということだ。
部屋。
そう考えてから俺はあらためてぐるりと視線を辺りに巡らせた。屋外ではない。薄暗い部屋。まるで倉庫のようにも感じられる。目を何度か瞬かせる。何かが見えないか、と目をこらす。
うすぼんやりとした視界の中に、ほんの少し、奇妙になてかりのようなものを見付けた。
俺はそろそろと足を動かす。大丈夫だ。ここはただの床だ。それも、コンクリートやアスファルトといった舗装されたむき出しのようなものではなく、屋内の、リノリウムやビニルタイルといった、ああいった、コンクリートの床の上に一面に敷き詰めるような。
数歩、足を進めたところで、俺はふと自分が一人であったことに気がついた。
「…歌姫?」
呼んでみる。だが応答はない。そうだ。気配もない。俺はそう思った瞬間、それまで注意深く進めていた足を、大きく踏み出していた。
壁のてかりにばん、と大きく手をついた。いやそれは壁ではなかった。
だってそうだろう。壁は、壊さない限り動かないから、壁なのだ。
それは、扉だった。
そしてその途端に、俺はバランスを崩した。
**
「…何をやっている!」
鋭い声が、飛んだ。はっとして俺は顔を上げる。熱い、湿った空気が首筋にまといつく。
いや、鋭いのは口調だけだ。その声そのものは、ひどく、可愛らしく、甘かった。
「眩暈でもしたのか?」
黒い、大きな丸い瞳が、不安半分、叱咤半分に俺を見上げた。いや、と俺は首を横に振る。
「だったらいい」
彼女はそう言うと、ぷい、と横を向いた。いや、横と言うよりは、未だ続いている戦闘の方に注意を向けたのだ。だが、その手はポケットをまさぐっていた。
おい、と彼女は再び俺に声をかけた。
「口を開けろ」
言われるままに、俺は餌付けされる雛鳥よろしく口を開いた。片栗粉を軽くまぶした氷砂糖が一欠片、その中に放り込まれた。口の中で、甘味が溶け出した。
「しっかりしろ、ミン」
彼女は俺の名を呼んだ。
「我々は、とにかくこの場を突破しなくてはならないのだ」
無論この時の会話は、聞こえるか聞こえないか程度の声だった。俺達は、大きな葉と葉の間に紛れ、時間を待っていた。
目の前には、つい先日脱走したばかりの正規軍のキャンプがあった。
もうずいぶんと時間が経っていた。太陽の光が、俺達の潜んでいる熱帯雨林の木々の背に当たる時を、俺達はただ待っていた。
会話は、ひどく低い声で、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで行われた。全く動けない訳ではないが、ずっと気を張りつめているというのはなかなかに辛いものがあった。元々が空戦隊の一員である俺は、こういった陸上で、ごちゃごちゃした中で奇襲をかけるということには慣れていなかった。
だが彼女は、そういうことに向いていた。小柄な身体をきびきびと動かし、力の足りない分は、智恵とすばしっこさでカバーしていた。
実際、彼女は俺達の中のリーダーだった。
いつの間にそうなったのかははっきりと思い出せない。だが今そうであるのは確実なことだ。
士官候補生の男女比は、通常の軍と同じように、ほぼ半々である。同じ教練を、体格や力の差を、当然のものとして皆訓練を受けていた。無論、底に鉄板を挟み込んだ靴で楽々動き回れる様な体力は必須条件である。そういうことができない者、そもそも士官候補生にはなれなかった。
ただそれ以上に、例えば重いものが持てなかったら、それに代わるものを自分で探すのだ。軽いものを選ぶなら、それに伴うデメリットは承知の上。そして無理をしない。彼女はそういった鉄則を初めから身体で知っていたかのようだった。
黒い、細かく強く縮れた髪を、強く三つ編みにし、時にはそれをぐるぐると頭全体に巻き付け、その上に軽いブッシュ・ハットをかぶっていた。
時間が来た。ちょうどキャンプの兵士にとっては、ジャングルが逆光になる時間、そして数刻後には視界が悪くなる時間に、俺達はそこを襲撃した。
襲撃の理由は、単純だった。そこにある武器が、その時の俺達には必要だった。少ない武器で、大きな収穫を得ることが、その場での最大の目的だった。
…そしてそれは成功した。
突然の、しかも同じ軍服を着た集団が、目も開けられない程の西日を背にして、攻撃してくるのだ。バイザーなど探して掛ける間も無く、また、下手にそれをすることで、逆に目を狙われる心配もあった。
俺達は彼女の指揮のもと、二手に分かれて行動した。片方は、逆光に紛れて直接、真っ直ぐに攻撃するグループ。そしてもう片方は、裏から目的である武器庫を占拠するグループだった。俺は前者だった。
彼女は俺達のグループに指示を与えると、裏手へと回り込んだ。その時の彼女がどうやったか、実際に見た訳じゃなかった。だが予想はつく。白兵戦も彼女は悪くはなかった。
彼女はその小柄な身体を利用して、フェイントをかけ、相手のナイフにまず空を切らせる。その隙をつき、相手の膝の後ろを蹴り、バランスを崩させる。平和な場所なら笑い事ですむことだが、そこでは命に関わる。バランスを崩した相手の、ナイフを持った手の手首を切り裂く。そしてその一撃が決まる、間髪入れずに、その細い腕を伸ばし、首に切り付けるのだ。
その間30秒。長く掛かってはいけないのだ、と彼女はよく俺に言っていた。そしてそれは正しかった。
陽動している俺達の目の前で、キャンプのベースが爆破された。彼女達は裏から武器庫を占拠し、そこにあったランチャーで、ベース自体を破壊したのだ。
「お見事」
と俺はややむすっとした表情の彼女につぶやいた。馬鹿、と彼女もまた聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。
それが、俺達がアルビシン同盟に参加した時の最初の戦闘だった。
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