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73.吉屋信子の戦前長編小説について(28)ダブルスタンダードの生まれる要因(5)服を着せ替えて中身を変えず「空の彼方へ」

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 ​​​​​​​​​​​​​​「空の彼方へ」。
 プロとしての長編としては3本目、雑誌長編の処女作ですな。
 ちなみに、この作品に関しては、脱稿がいつだったのかがはっきりしない。
 書き始めは中編歴史小説の「薔薇の冠」と並行した大正十三年だったらしい。ただ、『主婦之友』社長石川武美に送付するのは大正十五年十一月。



>さきの「地の果まで」「海の極みまで」に続く三部作のつもりで「空の彼方へ」を新聞小説の形で執筆したが、適当な発表の舞台がないまま、年末、未知の石川武美(主婦之友社長)に宛て郵送した。
「空の彼方へ」の原稿を正月休みに読了した石川武美からの来書で、一月十二日主婦之友社を訪れて初めて面接。「誕生日に嬉しいプレゼント」としている。ただちに雑誌連載の形に改め、四月より「主婦之友」に連載。
吉屋千代編「年譜」
(『吉屋信子全集 十二巻』朝日新聞社 昭和五十一年一月 五百五十三頁)



 さてこの話のあらすじを先に。
 ひとことで言うと、関東大震災をクライマックスに持つ三人姉妹の物語です。

**

 市ヶ谷の伊沢家の離れに、母子家庭の大庭一家が住んでいた。屋敷に勤める母と三人姉妹、初子・仲子・末子である。
 初子は信心深い小学校の教師、仲子は現実的な女事務員、盲目の末子は盲唖学校に通い、ヴァイオリンを習っていた。
 伊沢家も三人息子があり、末の茂が初子と相愛の仲である。仲子は百貨店で職場の社長である睦氏に助けられたのが縁で家族に内緒で妾奉公に出る。
 茂は夏休み中に、悪い遊び仲間と共に童貞を失う。戻ってから初子にその事を告げると彼女は彼を拒否する。やけになって再び遊び回った茂は父から叱られる。下関で彼は仲子と再会し関係を結び、ほだされて釜山に誘う。だが東京に戻り初子に再会するとすっかり仲子のことを忘れる。その仲子が戻り、事情を知った初子に仲子を幸せにする様諭される。二人は釜山へと向かうが、伊沢が怒り、大庭母子は追い出される。
 やがて初子に勤め先の校長から縁談が来るが、「婚約者が死んだから」と断る。春には母が亡くなる。夏には末子に初潮が訪れる。初子は美しい装いを用意するが末子は見えないことを悲しむ。一方、釜山の茂と仲子は、当初は貧しいながらも仲良くしていたが、お坊ちゃん育ちの茂は、安月給の大半を見栄と遊びで使ってしまう。二人の仲は荒れて行く。
 その年九月一日、関東大震災が起きる。末子は下宿屋夫婦と逃げ出す。都電に乗っていた初子は飛び出し、半狂乱で下宿へ飛び込んでいく。火が襲い、彼女は行方不明となる。末子は馴染みの植木屋の源吉の元に身を寄せることを考え、市ヶ谷へ向かう。源吉は居なかったが、伊沢は盲目の末子を屋敷に留めておく。初子の行方をも探してくれる。
 釜山では、茂が新聞社から東京に派遣されることとなる。仲が険悪だった二人も、これをきっかけに夫婦の気持ちを取り戻す。仲子の妊娠も判る。
 東京に戻った茂は父を手伝いながら初子を探すが、見つからない。ある日、末子が下宿跡を掘り返すよう頼むと初子のメタルが見つかる。そこで皆、初子の死を実感する。
 やがて仲子が釜山から帰り、正式な結婚披露宴が行われた。初子の学校では彼女の追悼会が行われた。末子と茂が出席し、初子が縁談を断ったエピソードを聞く。それは茂を打ちのめし、気力を失わせた。見かねた仲子が机を調べると姉との間の手紙を見つかる。申し訳無さに仲子は自殺しかける。だが直前に義父に止められ、結果、過去の全てを話す。義父は現在が大事、と全て許し、戻ってきた茂に嫁を泣かすな、と笑う。
 改めて初子の墓参りに出かけた二人は末子を見つける。「アヴェ・マリア」を弾き出した末子は突然弓を取り落とし、「お姉様が見える」と言い出す。その様子を見た仲子は「再び空の彼方へ消えてしまう」初子に精一杯弾いてあげて、と末子に弓を渡す。

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 んで。
 この作品の「処女性崇拝」と「生殖拒否」がもう、長女の初子さんに一点集中されるんだな。
 彼女は茂の影響で「ジョージ・エリオットや、オールコット、エマ・ゴオルドマンや、エレン・ケイ」を「辞典を引きながら」読み、付き合いだした茂との仲を「私達の愛が純潔なものなら、神様はきつと未来の幸福を約束してくださる」と信じる女性なのだわ。

 ……ただ……なあ……

 身体を求めてくる茂に対する彼女の心情は地の文で以下のように表されている。



> 神の前に死が二人を分つまで結び合ふ誓ひを立てゝ善き良人善き妻と呼ぶを許さるゝ日まで、童貞処女の汚れなき恋の日を続け行くこそ、初子の信ずる正しい願ひであるものを!
 初子は二人の若きその恋を純潔にあくまで守りたかつた。茂のその欲望の手に彼女はあくまで逆らつた。二人の愛の日の聖さのために、二人の恋の運命のために!
(『空の彼方に』新潮社(文庫版)昭和九年一月 五十三~四頁)



 そして茂が既に童貞ではないことを告げた時、彼女はもの凄く! 動揺するのだわ。



> その世にも恐ろしい言葉を聞いた刹那、初子の眼の前の世界が、暗闇になつて砕け落ちた。(……)
「いけません、いけません、私に触つてはいや、汚らはしい、どいてください、帰つてください。」(……)
「えゝ、そのまゝのあなただつたら、私永久にお会ひしたくはございません――私、私、あの――あなたの卑しい快楽の玩具になるのは、私の魂が許してくれませんもの……」(……)
 正しく女性の守るべき同義を枉げはしなかつた――けれども、あゝ思ふだに胸のつぶれる恐ろしい言葉を恋人の口から聞かうとは――(……)
 初子にとつてはあゝした場合の茂に滲み出て来る「男そのものゝ」の悪に反抗せずにはをられなかつたのだ。それは自分のためといふよりは、二人の恋愛をより浄く育み行かうためだつた――(……)
 ――あの方の犯した罪は、また自分もその責を負はねばならぬ筈だつた。あの方をのみ責めた己れの不覚さ、あの方の過失には共に泣き共に苦しみ、浄めの母となつて、若い一つの魂の危機に、この我が魂のすべてを尽して、正しい道へと引き戻してあげねばならなかつたのだ。思へばアウグスチンの母の力の貴さ――その万分の一でも自分は持たねばならぬ――恋愛は、決して享楽ではない。むしろ苦しみだ、魂の試練だ。この苦難と試練に善く打ち克ちし者こそ、永劫の愛の勝利者となり得るのだ。(……)
 あの方の本当の精神が道徳的で反省力の強いのは信じられる。たゞ意志弱く実行力がないだけなのゆゑ、それはこれから自分が蔭になり日向になつて、あの方の弱点を励まし助けよう。そして二人共に恋愛の試練の盃を飲み乾して、永劫の愛を築くものとならねばならぬ――
(同 五十四~八頁)



 当時はともかく今読むとげんなりする……
 いやもう、正直、個人的にはこの態度、まじげんなりするのだよ。
 だってこの初子さん、何処までも上から目線なんだよ。
 童貞を勝手に捨てた茂を拒否するんだけど、まあ何とか、冷静になってみる。
 そーすると彼の「罪」を自分も共に背負うて「浄めの母」や「蔭になり日向に」なって「正しい道」へ引き戻さなくては「ならぬ」と思ってしまうんだよ。
 んでもって。
 下関で茂が妹の仲子さんと関係を結んでしまったことが判った時ときたら、

>「処女でない女性には、男は何をしてもいゝとおつしやるのですの?」

 そう責めるんだな。
 いやその問い自体は正しいとワタシも思うんだけどね。ただ初子さんのベースがアレだから非常にもにょるのだよ。
 んで、茂はその言葉にはただ悔いるばかり。
 んで、初子さんに対しては「気高い処女の貴さと深い魂」や「かくも気高いあなた」と誉め称えるわけだよ。そうですかあああああああ?

 初子さんはその後、母を亡くした時にもこう考えるのですな。



>​ できるなら亡き母の後を追うても行きたいものを……けれども、今初子は、きつとして更に強く生きて行かねばならぬ自分の責めを思つた。その傍に声もなく打ち沈んでゐる妹の盲目の身を見るとき、彼女は自分が今涙に囚はれ感傷に堕すのを堪へて、神経を乱す悲しみも堪へ忍び、歯を喰いしばつても、なほこの自分達姉妹に与えられた運命の中に、神の真意を探し求めたかつた。さう思ふ信念と盲目の妹への深い深い同胞の愛情が、母を失つた自分をこれから生かしていくものなのだ――かく思ひ涙を忍びて、初子は悲しく痛ましきその宵を送つた。​
(同 百五十三頁)



 そして有島武郎の死(当時のタイムリーな出来事)に「死ねる方はお仕合せですわ!」と感想を言い、こう思うわけだ。



> あらゆる寂寥苦難孤独と戦ひつゝも尚ほその一人の不具の妹のために、延いては自ら恋を譲つた妹の正しく認定された家庭の妻と基礎をつけるまで、歯を喰ひしばり石に囓りついても死ねないとて、血みどろになりつゝも敢て生きて生きて生き切つて行かねばならぬとしたら……私は生きてをらねばならないのだ。やゝもすれば死の甘い麻酔的な誘惑を、ふと感じることを覚え始めた初子は、A氏の死を聞いて更に自分をいましめた。(……)
 おゝ、どうしても私は生きなければならない。どうしても生きて行かねばならない。(……)そこには血みどろの生の苦闘の中に、尚ほも我が生命の灯を高らかに献げて進み行く雄々しく滅び難き人類の意志がある。我が運命の中、その運命を生かし切り、倒れずに進む悲壮な人間の意力! 倒れても倒れても生命ある限りまた起き上り行く不朽なる永遠を貫く地上の人間の意気――そこにこそ真なる善き美しい詩は生れ感じられるのではないか――かく思ひ信ずるとき、初子には若い人の陥り易い浅いセンチメントなぞは振り落とされてしまつた。彼女はすでに唯一の恋愛も今は失つた身ではあるが、しかし彼女は、それに代る恋愛以上の鋭い意力と烈しい信念と強い愛情を把持する雄々しき若き処女だつた――
(同 百六十五~六頁)



 ちなみに、初子さんの唯一の楽しみは末子ちゃんの成長だけ。
 そして「いとせめてもの妹に、乙女のよそほひを姉の情でさせてやりたかつた」と、自分の身の回りを切りつめても、新しい美しい装いを用意するし、母の形見の聖母マリアのメタルをペンダントにし、お守りとして掛けてやろうともする。
 だけどここで初子さんは末子ちゃんから拒絶されるんだな。思いがけない逆襲だよ!
 目が見えない末子ちゃんはこう返すんだな。「見られたらどんなにもつて嬉しくつてならない」。
 それに話の冒頭で、​「神の存在は信じるけど信仰は持てない」。だって神様が居るならどうして自分は目が見えないの、​と。そこからメタルも拒否したんだな。
 そらそーだ。何処を見てたんだ初子さん、と思うわ。
 末子ちゃんを個人と見なしていれば、彼女の気持ちを考えていれば簡単に思いつくことじゃねえの。
 だけど初子さんは当の本人に指摘されるまで気付かないんだよ!
 ただ驚き、悲しむ。

 つまり初子さんはあくまで自分の信じる「正しい」こと、「ならぬ」ことのために動いているだけ。
 現実に目の前に居る末子の思いにまで考えが至っていない、もしくは末子にも「そうあって欲しい」と願っているんじゃねえか、ということなのだわ。

 この無意識の一方的な「善意」は、遡って仲子さんが奉公に出る場面でも見られてるんだな。
 当初初子さんは「お母様が御承知で、いゝとお思ひになるのなら、それやあかまひませんけれど」と曖昧な肯定の言葉を口にする。
 だけど次第に、

「気がすゝまない」
「不賛成といふわけでもないけれど」
「心配なの」
「いつまでもあなたをお勤めに出してはおかないわ」
「何と言つても人は、どんな貧乏でも自分の家庭が一番いゝところなのよ」
「よく考へて」

とじわじわと否定の色を濃くしていくんだな。
 この真綿で首を絞めて行く様な説得に対して仲子さんは苛立ち、きっぱりと反対している。
 後で色々あるにせよ、ここは振り切った仲子さんの気持ちはわかるわ。

 その後、初子さんは関東大震災で、末子ちゃんを捜しに無我夢中で燃える家の中に飛び込み、生死不明になるんだな。
 教員というインテリに設定されている筈なのだけど、彼女はこの時半狂乱になり、妹の自力脱出の可能性を思いつくことができないんだよ。
 「自分が描いた構図」において末子は「盲目だから自分が居なくては」ならず「燃える家の中にいる筈」なんだと思う。
 結果、初子さんは死へ向かうと。

 で、事態が落ち着いた頃に行われた彼女の追悼式では、校長がその貞淑さを礼賛する。
 ただしこの「貞淑」は、あくまで「縁談を持ちかけられた初子が回避のための嘘の中に込めた「かつて愛した茂」という幻想に対するもの」なんだな。
 で、家族の一員として出席した茂は自らの罪の深さに愕然とし、気鬱の状態に陥ってしまう、と。

 そんで終盤、仲子さんが過去、男に囲われていたことを義父に向かってざんげしようとした時には、こんな言葉で許されてしまうんだよ!



>​「(……)わしはお前の昔の身は一切知らぬ。たゞ知つてゐるのは、世にも稀な立派な婦人大庭初子といふ姉を持ち、その美しい血の繋がつてゐる妹ぢやといふことだけ知つてゐる(……)わしの倅の嫁の里は、金持でも華族でもないが、併し立派な立派な姉を持つ妹ぢやと――(……)」​
(同 二百八十八頁)



 これだけですよ!
 「初子の妹」というだけで妾奉公も、姉から恋人を奪った、という過去も全て許されてしまうのよ。
 「死んだ初子」はそれだけの位置に引き上げられてしまうのよ。
 つまり「処女神」になってしまうわけだ。

 一方拒否される「男性性」を全編通して体現するのは茂だな。
 こいつにはしょーじき茂くんだのさんだのつけたくねえ。全編通してクズである。
 だけど彼の現実的・直接的な犠牲となるのは仲子さんなんだよ。
 でまあ、最終的には茂と夫婦として周囲から認められ幸せになった形だが、あくまでその幸せは「初子の犠牲の上」という前提なんだよな。
 で、終盤、茂は仲子にこう言う。



​「僕がみな悪かつたのだ。許してくれ……決して死ぬなどゝ思ひちがひをしてくれるな。お前に今死なれては、僕の罪はいよいよ救はれない。初子さんの心尽しは、報はれない――二人は死にたくも死ねぬほど、生きて生涯償はねばならぬことがあるのだ……」​
(同 二百八十九頁)



 でもさー。

 初子さんって果たして彼等に対し、一体何をしたっていうのかいな。
 果たして校長が、義父が、誉め称える程の価値があるのかい?
 この二人には「生涯償はねばならぬ」程の罪があるのかああああ?

 んで、仲子さんと茂が駆け落ちする時点へ戻る。

 そもそも初子さんは自分と茂の仲を何故妹に隠す必要があった?
 すると「きつと姉さんはあなたのために、できるだけのことはしますから」という言葉が浮かび上がる。長女である彼女は自分が「一家の責を負ひ母を助けねば」ならず「そのためには私、私――自分の幸福も仕合せも犠牲にしなければならない立場」だと茂に言う。そして仲子に関しても「私の不親切から妹へ不注意だつたから」「あのひとへのお詫びには、何をしなければならないか」と悩み、身を引くのである。

 けど、はっきり言って彼女は傲慢だと思う。
 母と二人の妹をまとめて背負い込もうとし、全てが自分の責任と考える。
 でも仲子さんは既に何もできない子供ではない。初子さんの目に見える範囲では判らなかったのかもしれないが、会社勤めから妾奉公までこなし、男女の機微も知っている彼女は、初子さんより人生経験は豊かだったと思う。
 けど初子にとっての仲子は「自分が護る対象」でなければ「ならなかった」。

 つまり初子さんというヒロインは、信仰と献身で作り上げたドグマに囚われ、無自覚に自分の「正しさ」を周囲に押しつける存在であると読むこともできるわけだ。

 だけど本文中でそれらを指摘されることはない。
 そりゃそーだ。初子さんの言動は地の文=吉屋にとっても「美しく正しいこと」だから。

 一方、初子さんは徹頭徹尾変わらない存在なんだよな。
 身体的に成長する末子ちゃんや、現実の生活を経て精神的に成長していく仲子さんと違い、初子は既に大人の身体を持ち、何一つ翻意する必要がなく「正しい」存在とされているのだわ。
 つまりそれは、彼女が「処女」のまま死ななくてはならない役割を当初から負っていたからじゃなかろーか。
 そもそも彼女は当初から変化する「人間」ではなかった。変化する必要がない「処女神」であり空へ帰る「天女」の役割だったんじゃないかと。

 だからこそ性欲に負けた男女である茂と仲子は自らを恥じる必要があるってわけだ。
 それって、「純潔の意義に於いて(……)」で「純潔無垢なる永遠の童貞に対しての憧憬と崇拝」から「人類の持つ官能の性的欲求から逃れ得ぬ羞恥感」を持つことに対応する。
 つまり吉屋信子は、「純潔の意義に就いて(……)」を「空の彼方へ」という小説に組み直すことに成功したんじゃないかなあ、と。

 そーやって、昭和二年四月から連載開始した「空の彼方へ」は評判が良く、吉屋信子はその後昭和十八年まで『主婦之友』の看板作家となったのだわ。
 自分にとって絶対的な「処女性崇拝」と「生殖・男性性拒否」をメロドラマの枠の内側に隠す術を会得したのはこの時点だと考えてもいいんじゃないかと思う。

 だがしかし。
 この一方でまた興味深いことがあるのだ。
 この作品が他人の手がかかったダイジェスト版になった場合、吉屋の「処女性崇拝」と「生殖・男性性拒否」が丸ごと消えてしまうという事態が発生しているんだな。

 東洋出版協会から昭和四年三月に発行された『現代小説集 空の彼方へ他三篇』という文庫本には「吉屋信子先生原作の」と但し書きがついたダイジェスト版(検印なし)が掲載されている。
 「空の彼方へ」の映画が昭和三年に制作されていることを考えると、そのノベライズ版じゃないかと推測したんだけど。
 けどこの内容違うんですな。

 初子さんの信仰心や極端な潔癖とか、茂の行動に対する地の文における作者の感想とか、釜山での仲子さんの苦労といった「ちょっとこれどうよ」な描写が丸々カットされているのだわ。
 んで、終盤で仲子さんの自殺を止め、諭すのも義父ではなく茂なのだな。
 んで、ラストシーンで末子が盲いた目で「お姉様が見える」と言う場面も無くって、あくまで現実の枠の中で筋は処理されているわけだ。

 吉屋信子という書き手によって何だか異界へ持っていかれた筋が、「普通の感覚」の人の手によって現実世界に戻ってきたってことかなと。

 もっとも、吉屋自身がこの作品の変化に納得したか否かは不明。
 ただ参考としては、後に『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』で連載され大ヒット作となった「良人の貞操」が「空の彼方へ」の約十年後の昭和十二年に映画化された際、『サンデー毎日 春の映画号』においてこんなふうに語っているんだわ。



> 自分の書いた小説が映画になつたり上演されたりする時に作者が一番喜びとするものは――私の場合は、その舞台にスクリーンに、自分の作中の人物が、自分の書いた通りの性格をのみ込んで出て、そして自分が原作に書いた通りの言葉をしやべつて呉れることだ(……)やつと見せて貰った映画台本を見ると、私はのつけから吃驚してしまつた。(……)殆ど全部が、原作には何のゆかりもない、原作者の会話とはまるで違つた、勝手気まゝな会話のやりとりに終始してゐるのである。(……)
 つまりは原作などは、飛び読みか、人からの聞きかじりか、上の空でやつつけたといはれても仕方のないような乱暴な誠意のないそして高慢ちきな脚色なのである。(……)
 作者にとつては作品ほど可愛いゝものはないので、それが里子に行つて散々、いぢめられてゐるような映画を見ることは身を切るように辛いのだからお察し下さい。 



 まあ、わざわざ映画や舞台にしてもらったものに不満を言うことができたのは、この時期、既にある程度の発言力を得ていたからだと思うけど。
 でも忘れてはいけないのは、吉屋作品はこの十年、「良人の貞操」に至るまで、十六本もの映画にされているという事実なのだわ。
 ともかく読者の脳内や銀幕の中で、ある程度の現実的補正を掛けられた吉屋作品の「筋」は、確実に大衆に受れ容れられているのだわ。
 だけどまた、吉屋の筆によって異界化された世界は、十年経とうがそのままの形では受け入れられないものだということを意味していたのかもしれない。
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