特定しない歌タイトルふんいき短編集。

江戸川ばた散歩

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Vivid colors

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 人ひとり忘れるってのは、そう簡単なものじゃない。
 忘れようとすればするほど、その人の仕草の一つ一つさえ鮮やかに目の前に浮かんでくる。
 忘れようとする時に旅行なんて出るものではない。



 きっかけは、たやすい。
 話している最中にいきなり彼女は飛び出した。
 最後に何をわめいていたのかは思い出せない。
 いつものことだろうとたかをくくったら、いつのまにかそれが最後ということになってしまった。
 別れてしまったというのだろうか。今になっても僕には判らない。
 どちらが悪いというのではない。
 どちらが正しいというのでもない。
 例えば林檎の皮を剥いている。
 彼女はそれを四つに割って剥く。僕はそのまま剥く。
 別にどうでもいいことだが、ふと気がつくとその仕草に苛立つようになる。
 僕は僕の分をまるごと剥き、彼女は一人で四つに切った林檎を食べる。
 そういうことを繰り返していたら、いつの間にかそれが普通だと思うようになってしまった。少なくとも僕には。
 僕は僕の林檎を剥き、彼女は彼女の林檎を剥く。
 それともこう言えばよかったとでもいうのだろうか。
 君の習慣を全て好きな訳ではないけれど、僕には君が必要なんだ。
 でもそれは嘘だ。
 失ってしまった今では判る。僕は彼女を必要としていなかった。



 がたん、と時々振動が大きくなる。
 午後の陽射しは窓のシェードを下ろしても明るく暖かく、空調の効いた車内でも時々汗ばんでしまうくらいだ。
 規則正しい振動が、さほどやわらかくもない椅子に響いてくる。背中を付けている僕は同じリズムで揺さぶられる。
 ゆっくりと、まぶたが閉じる。



 どのくらい経っただろう?
 気がつくと、周囲には誰一人としていなかった。北側の窓からは真っ青な空が見える。
 何処へ向かっているんだった?
 白い雲が浮かんでいる。まぶしいくらいの白だ。空が青ければ青いだけ、くっきりとしたラインを描いて。
 僕は北側のドアの側に立つと、ぼんやりと流れていく景色を眺めた。
 西の街へ続く線路は太陽の沈む方向へ走る。時間がたつにつれてかたむいて行く陽射しは遠くの山を 薄青のヴェールに包んでいく。
 ふっ、とその時世界は闇に変わる。トンネルに入った瞬間。
 すきま風がごうっと音を立て、耳が一瞬遠くなる。
 ふと、誰かの気配を感じた。



「何処行くの?」

 彼は言った。
 さらさらとした茶色の髪を後ろで無造作に束ねた彼は、華奢な外見とは不似合いな程の低音で訊ねた。

「何処だったっけ」

 後ろに立っていた彼に僕は答える。

「忘れてしまったの?」
「そうかもしれない」
「ふーん」

 別に僕の答えは彼の興味はひかなかったようだ。

「君は何処へ行くの?」
「さあ」

 彼は気がなさそうに答えた。
 ぱぁっと、光が一気に飛び込んでくる。トンネルを抜けたのだ。景色は、トンネルの前とはずいぶん変わっていた。

「海だ」

 南側の窓には海が映っていた。
 ずいぶん僕達の乗った列車は高い所を走っているらしく、海岸線から水平線まで一望できた。

「今年は海へは行ってないな」

 彼は言った。

「忙しかったの?」
「忙しかったんだ」

 そう、と僕は答えた。
 彼女と色々な所に行ったことがある。
 あれは列車ではなく車でだったけど。
 もうじき雨が降るでしょうと天気予報が告げる日をいつも狙って行った気がする。
 出かけていったら強烈な陽射しに、彼女は陽に焼けてしまう、と言いながらも砂浜を裸足で走り回っていた。
 でも天気予報はやっぱり当たって、いきなりの突風や大粒のスコールに、車が置いてある所まで走るのに間に合わなかったりして、車のシートで服のすそをしぼったこともあった。
 あれは今年ではなかった。
 今年は。
 気がつくと、隣の車輌にも人がいなかった。
 彼はぼんやりと南側の座席に座って外を眺めている。
 僕は隣の車輌へ走った。重いドアを開ける。次のドアを開ける。次の次のドアを…



 いつから走っていた?



 気がつくと、列車は止まる気配がない。もう何十分も経っているのに。快速でも特急でもない。ただの各駅停車の列車がどうして。
 僕はふと気がついて運転席へ向かった。
 夜中に掛けられるようなグレイのシェイドが掛かっている。
 僕は扉を叩いた。応える気配はない。
 奇妙な予感がした。
 思い切って開けて見る。
 そこには誰も、いなかった。
 彼はその車輌の南側の席に何事もないように座っていた。

「誰もいないんだ」
「そうだね」

 外の景色は加速度を増していく。濃い緑が広がる大地。遠くには夕暮れ近い空の、金色に光る雲。海はもうなかった。延々と緑があった。丘を埋め尽くす蔓の所々に濃い赤紫の花房がのぞく。ほんの一瞬だ。なのに妙に目に焼き付く。

「どうして」
「君の望んだことだろう?」

 彼ははっきりと言った。
 その口調には聞き覚えがあった。



「だって」

 彼女はあの時言った。

「あなたは誰も必要としていないじゃないの」

 思い出した。彼女はそう言ったのだ。
 そして自分の前にいる彼が誰であるかも。

 彼は、僕の姿をしていた。



 誰かの手が肩に触れたんで、目を覚ました。

「終点ですよ」

 人の良さそうな初老の車掌だった。

「ありがとう」

 僕は一言礼を言うと、車内から飛び出した。
 コンクリートとアスファルトのホームへ足を下ろすと、まだ強い夏の終わりの陽射しが僕の目を打った。
 世界が一瞬白くつつまれた。
 僕はそっと目を閉じる。
 回送の列車はゆっくりと僕の後ろで動き出した。
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