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第25話 今宮の産養、そこでの仲忠と涼の言葉遊びと懐古
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やがて涼の妻、今宮の産屋では七日の産養があった。
涼の里方である紀伊守種松が、その際の御馳走を引き受け、御座所の準備もしていた。
簾の縁には浅黄で緑色の綺をつける。
南の廂に懸けて巡らせた壁代には白綾を使って光沢を出した。
畳には紺の真綿で作った薦畳に紫の裏を張って、唐錦の縁を付けている。席には白い綾を使っている。
茵には上席を敷き、またその上にもう一つ重ねている。それらは簀子にも置かれている。
浅香の机、銀の容器、黄金の土器、外側を檜皮色、内側に金箔を塗った沈製の火桶、そして銀で作られ、内側は黒く塗られた火鉢。その起こし炭までが全て上等なものである。
そのうちに正頼の息子達が皆やって来た。上達部は上に、息子達は簀子に控える。その他の客はまだ来なかった。
そんな中、涼は仲忠にこう招待の文を送ってきた。
「―――松風をはらむあなたもおいで頂きたいものだな。生まれた子があなたにあやかる様に―――
ぜひ来て欲しいな」
「ああもう、こんなに催促されないうちに行こうと思ってたのに!」
受け取った仲忠は苦笑しつつ返事を書く。
「―――あえることをご存知のお子さんは、千年を経た待つを吹く野分の様に末が長いだしょう―――
すぐにでも行くのに、『和え物』と言われるとちょっと行くのが恥ずかしいですよ」
「あそこは流石に人が大勢見えるし、晴れがましい場所なので…」
そう言って仲忠は紅の装束も綺麗にして出掛ける。涼はやってきた友をたいそう喜んで出迎えた。
近衛府の者や奏者などもずらりと既に揃っていた。
やがて平中納言や藤大納言忠俊や藤宰相実正といった人々もやって来る。
料理が出てきて、酒を酌み交わし、談笑などする中で、詩の議論も始まった。
だが涼と仲忠はその仲間には加わらず、二人で話し込んでいた。
涼は仲忠に向かい、しんみりと語る。
「人の心程判らないものは無いな。少し前まで、私は自分がここの婿として住むことになるなど、考えたことも無かった。藤壺の御方が入内なさった時は、それこそ絶望のあまり法師になろうか、死んでしまおうか、それとも滋野の帥《そち》がした様に、怒りにまかせた文を帝に奉ろうか、などとも考えたものだよ」
仲忠は涼のそれが、言葉遊びを兼ねたものだということを良く知っているので、黙って聞いている。
「でも考えてみれば、皆馬鹿馬鹿しいね。そんなことしたって何にもなりはしない。それでまあ、当時は気を紛らわすために多少そこらの女にも手を伸ばしていたんだけど」
くす、と仲忠は笑う。
「おやおや、嘘だと思っている。まあどっちでもいいさ。そのうちここの大殿に、今宮の婿にどうだ、ということを言われてね」
何ですか何ですか、と周囲は涼の言葉に耳をそばだてている。それ故に彼は本心ではない自分を作る。
「さすがにそれはひどい仕打ちだと思った訳だ。姉は駄目だからせめて妹を、という。だからちょっと大殿を懲らしめてやれればな、と思って了承した訳さ」
内情を知る仲忠からしてみれば、涼の冷静なその話っぷりが可笑しくてたまらない。笑いを抑えるのが精一杯だった。
口を開くと何やらぼろが出てきそうなので、彼はただもう、黙って聞いてやるふりをとっていた。
「で、一晩通って、今宮が綺麗な女だったらもう一晩は行ってやろう、可愛かったら二晩は行ってやろう、と思ったのさ。だって、大殿は私のことを融通の利かない田舎人と思ってそういう仕打ちをするのだもの。そのくらいの仕返しもしなくちゃ、と思って二晩は通った訳さ」
「実際美しかった訳でしょ?」
仲忠はようやくそう口を挟む。
「まあね。だから二晩泊まった訳さ。でもほら、君同様に三日目、帝から召された晩があったろう? あの時はさすがに、もう止めだ、と思ったんだけどね。で、帝の御前で夜が更けるまでお仕えしていたんだけど、そのうちさすがにこのままじゃあ彼女が可哀想だよな、と思ってね。そんな訳で、今この三条殿で君や皆と一緒に居るのさ。都で生い育った皆だったらこうやって納まってはいないと思うよ」
「まあ。ね。でもここの大殿もあなたのことは元々色んな約束を破ってしまったこととか、気にしていたから」
ふふ、と仲忠の言葉に涼は微笑む。
「そうかな?」
「少なくとも帝や院のお言葉に背いてしまった訳だからね。東宮さまに藤壺の御方を入内させてしまったことは、かなり無理矢理だった訳だし」
そうそう、無理矢理でしたよね、と耳聡い周囲からも同意の声が挙がる。
「でもそもそも僕等が当時の貴《あて》宮に恋して文を送ったのは、彼女が美しい、という評判からだったでしょ。その点だったら涼さん、あなたの今の奥方もそう変わりはしないでしょう? 小さな頃から大殿も大宮も大事に育ててきた姫なのだから」
そう言いつつも、二人は苦笑をお互いに隠せはしない。
姿形はそう変わらないかもしれない。しかし性格は。
そのことを知っている二人はただもう笑いを噛み殺すしかなかった。
涼は流れにそって話を進める。
「だからこそ今こうやって居るんじゃないか。今更何処へ行けるって言うんだい? とは言え、天下広しと言えども、貴宮以上の方が居たかどうか。…と世間の評判だけどね。そうそう、入内されてからなら君は結構見てるんじゃないかい?」
「何言ってるんですか。そんなことできる訳が無いでしょ」
「ふふーん? さてどうかな? まあ私が知ってるのは、髪がとっても美しくって色が白くて目鼻立ちが整っているということぐらいだけどね。君ならもっと良く知ってると思ったけど」
「ふうん。それで、次にご執心のひとのことは?」
「さあそんなひと居たかな」
「涼さん、今夜は可笑しいよ」
「そうかな」
「そうだよ」
とうとう堪えきれずに仲忠は笑い出した。周囲はいきなり様子の変わった仲忠に唖然とするが、涼は名の通りの表情で友を眺めているだけだった。
やがて笑いが治まった頃、涼はおもむろに杯を渡す。礼を言って口にすると、人心地ついたのか、仲忠は周囲をぐるりと見渡す。
「どうしたの」
「うん…… 実は、さっきここに来る時に、どっかで見た様な童が居たと思ったんだけど。いい子は居る?」
「童ねえ。まあうちには沢山居るからね。さてどの子かな。承香殿女御に仕えていた子も居るけど」
「うーん…… もしかして、僕がまだ中将だった時、灌仏会の童に召し出された子かなあ」
「ああそうそう、その子。『これこそ』って言うんだ」
「そうなのか。僕が前ここに一日居た時、扇を鳴らして『夕方いらっしゃい』と言った子が居たんだ。なかなか物慣れた子だと思ったら、そういう縁があったのか」
「まあそういうこともあるかな。私は童だったら藤壺の御方の所に居る『あこぎ』が一番だと思ってるけどるそれ以上の子は今のところ居ないと思うね。ええと、兵衛の君の弟だったかな」
「『あこぎ』は木工の君の弟だよ。そうそうこの間、宮中に呼び出されていた時、結構暇つぶしにあこぎを捕まえてはお喋りの相手にしたな。話しやすいんだ」
そんな風に仲忠も涼も、話ばかりをただただ続け、側にある楽器にも手を触れずじまいだった。
いや無論、自分の子の産養であるし、気分ではないのは仲忠も判る。だがやはり楽器があって名手が弾かないというのは。彼は自分のことを棚に上げて考える。
そこでついこう口にしてしまう。
「ところで涼さん」
「何だい?」
「どうしてあなたは今日この場で、僕を呼んでおきながら、琴を弾くでもなく、話し相手にばかりさせておくの」
「いいじゃないか、ここ暫く君もそう来ることもなかったし、せっかく人の親となったことだし、今までを思い出してしみじみと語り合うばかりというのもいいんじゃないかな? だいたい私の琴など聴く人も居ないだろうに」
「僕が聴くんじゃ物足りない? 一生懸命に聴くけど」
「君の様に、人をとんでもない格好で走らせてしまう程の腕じゃないもの。まあ男は漢才などを身につけるのが一番いい訳で、様々な遊芸はそうそう極めることなどできないのだから、しない方がいいのさ」
「成る程。じゃああなたはその琴の腕は今度生まれた子に伝える気は無いんだ」
涼は意味ありげな顔で黙って微笑む。
「うちのは女の子だしなあ…… うん。子供はいいよ、涼さん。もう抱っこした?」
「や、まだ……」
それには涼はやや言い籠もる。
「まだ汚い頃だから、ちょっと見ることもできなくて」
「何言ってるの。僕はもう、生まれたらすぐに懐に入れてたよ。汚いなんてそんなことないって」
「そりゃ君の子の様に姫だったらね。でも男の子だし。きっと私より出来の悪い子だよ。けど男の子で、大したことが無いんならどうしようもないね。女の子だったら将来が楽しみなんだけど。琴も習わせるし、色々綺麗なものを与えて、様々な所と交際もさせて…… 楽しいだろうな。うちには女の子に必要なものを集めた倉だってあるんだよ。なのに使うこともできない。つまらないじゃないか」
「だったら僕に下さいな。あなたに役に立たないなら、うちの子犬ちゃんにあげるから」
「そうだね、君のとこの姫がうちの子の妻になってくれるのならね。そう約束してくれるのなら、全部あげたっていい」
くすくす、と涼は笑う。
「やだなあ、縁起でもない」
「いつかはお后に?」
「さあどうでしょう。ただ、生い育つに従って夢というものが出て来るでしょう。その夢が最初から無いというのも、ちょっとね」
成る程、と涼は仲忠にもそれなりの野心があることに心の奥をくすぐられる。
「けど涼さん、僕等はまだまだ自分達が子供だと思っていたけど、とうとう親というものになっちゃったんだよね。気持ちの準備はできている?」
「いやあ、その辺りがね」
実を言うと、と涼は目を伏せる。
「晦日の夜までは、私は産屋に入れてもらえないんだ。何かしきたりがあってね」
「妙な家風だなあ。僕はもう、親になったかどうかという気持ちも無いまま、ともかく女一宮のところに飛び込んでしまったよ」
「そりゃ帝の女一宮を得た君だもの。誰も止めやしないさ。鬼も神も遠慮してそうそう邪魔もしないだろう。鬼やらいも急がなくていいくらいじゃないかな」
「そう言えば」
仲忠はふっと目を細める。
「僕等が吹上《ふきあげ》に出かけていって、あなたと最初に出会って色々遊んだ時には、こんな今が来るなんて思いもしなかったな。あの時は本当、今では思いつきもしないようなことを色々やったなあ」
確かに、と涼は黙ってうなづく。
「あの頃僕等はまだ上達部の端くれに引っかかった程度だったけど、今は公卿で。あの時一緒だった仲頼さんも出家しなかったら、蔵人頭くらいにはなっていた筈ですよね。元々身分の高いひとだったし、帝からも目をかけられていたひとだったのに…… そんなひとが山に籠もってしまって…… どうしてるかな、最近忙しくて訪ねたりできなかったんだけど… 涼さんはどう? 仲頼さんの所へは」
「私は時々出かけているよ。そう、ちょっと前には、寒くなるから、綿入れの着物とかも縫わせて、草餅とかと一緒に送ったり」
「年が明けて花盛りの頃になったら、皆で仲頼さんの所には行きましょうよ。行正さんも連れて、皆で詩を作りたいな。懐かしい楽しいことは忘れちゃいけないと思うんだ。今が世知辛いのだったら余計に、あの頃のことはきらきらした思い出として大切に大切にして、ずっと持っていたいよね」
「今はそんなに世知辛い?」
涼は問いかける。
「ううん、そういう訳ではないけれど。今は幸せさ。本当に。宮は愛しい。子犬ちゃんは目に入れたくない程。だけどそれでもあの頃、僕等男だけでわいわいと何処かで浮かれ騒ぐ、なんていうのはもう思い出の中にしか無いでしょ」
決して今が嫌な訳ではない。けど。
「それに今は殿上の間に彼が居なくて、管弦の時なんかもう一層寂しいじゃないの。いつ何が起こるか判らない世の中だもの。聴きたいと思う音楽をいつでも聴けるからって惜しんで聴かずにいて、そしたら何の前触れも無く明日死んでしまうようなことがあるかもしれないじゃない。そしたら何の生きてる甲斐があるんだろ」
「……」
「それにいつかは僕等も年とって行くんだよ。その時にはいくら身につけた技芸だって、手が動かなくなり声も出なくなるし、頭だってそう。気付かないうちにいろいろ忘れていってしまうんだ」
だからね、と仲忠は涼の手を取る。
「ほら今から琴を弾いて下さいよ。平然と雲の上に居る様な顔してないで、この世の中に降りてきて、僕にも帝にも、あなたの養父母にも皆に聴かせてくださいな」
「そうだね」
涼はうっすらと微笑む。
「したいことをできる時にするってのはいいね。生き甲斐のある世の中だ。じゃあ君も弾くんだね」
「いやそこはまず涼さんから」
そんな戯れ言の様な、そして何処かに本気が混ざっている様な会話をしながら、結局は琴に手を触れない二人だった。
元々弾かせる気はあっても弾く気は無いのだ。できるだけ人前では。
涼の里方である紀伊守種松が、その際の御馳走を引き受け、御座所の準備もしていた。
簾の縁には浅黄で緑色の綺をつける。
南の廂に懸けて巡らせた壁代には白綾を使って光沢を出した。
畳には紺の真綿で作った薦畳に紫の裏を張って、唐錦の縁を付けている。席には白い綾を使っている。
茵には上席を敷き、またその上にもう一つ重ねている。それらは簀子にも置かれている。
浅香の机、銀の容器、黄金の土器、外側を檜皮色、内側に金箔を塗った沈製の火桶、そして銀で作られ、内側は黒く塗られた火鉢。その起こし炭までが全て上等なものである。
そのうちに正頼の息子達が皆やって来た。上達部は上に、息子達は簀子に控える。その他の客はまだ来なかった。
そんな中、涼は仲忠にこう招待の文を送ってきた。
「―――松風をはらむあなたもおいで頂きたいものだな。生まれた子があなたにあやかる様に―――
ぜひ来て欲しいな」
「ああもう、こんなに催促されないうちに行こうと思ってたのに!」
受け取った仲忠は苦笑しつつ返事を書く。
「―――あえることをご存知のお子さんは、千年を経た待つを吹く野分の様に末が長いだしょう―――
すぐにでも行くのに、『和え物』と言われるとちょっと行くのが恥ずかしいですよ」
「あそこは流石に人が大勢見えるし、晴れがましい場所なので…」
そう言って仲忠は紅の装束も綺麗にして出掛ける。涼はやってきた友をたいそう喜んで出迎えた。
近衛府の者や奏者などもずらりと既に揃っていた。
やがて平中納言や藤大納言忠俊や藤宰相実正といった人々もやって来る。
料理が出てきて、酒を酌み交わし、談笑などする中で、詩の議論も始まった。
だが涼と仲忠はその仲間には加わらず、二人で話し込んでいた。
涼は仲忠に向かい、しんみりと語る。
「人の心程判らないものは無いな。少し前まで、私は自分がここの婿として住むことになるなど、考えたことも無かった。藤壺の御方が入内なさった時は、それこそ絶望のあまり法師になろうか、死んでしまおうか、それとも滋野の帥《そち》がした様に、怒りにまかせた文を帝に奉ろうか、などとも考えたものだよ」
仲忠は涼のそれが、言葉遊びを兼ねたものだということを良く知っているので、黙って聞いている。
「でも考えてみれば、皆馬鹿馬鹿しいね。そんなことしたって何にもなりはしない。それでまあ、当時は気を紛らわすために多少そこらの女にも手を伸ばしていたんだけど」
くす、と仲忠は笑う。
「おやおや、嘘だと思っている。まあどっちでもいいさ。そのうちここの大殿に、今宮の婿にどうだ、ということを言われてね」
何ですか何ですか、と周囲は涼の言葉に耳をそばだてている。それ故に彼は本心ではない自分を作る。
「さすがにそれはひどい仕打ちだと思った訳だ。姉は駄目だからせめて妹を、という。だからちょっと大殿を懲らしめてやれればな、と思って了承した訳さ」
内情を知る仲忠からしてみれば、涼の冷静なその話っぷりが可笑しくてたまらない。笑いを抑えるのが精一杯だった。
口を開くと何やらぼろが出てきそうなので、彼はただもう、黙って聞いてやるふりをとっていた。
「で、一晩通って、今宮が綺麗な女だったらもう一晩は行ってやろう、可愛かったら二晩は行ってやろう、と思ったのさ。だって、大殿は私のことを融通の利かない田舎人と思ってそういう仕打ちをするのだもの。そのくらいの仕返しもしなくちゃ、と思って二晩は通った訳さ」
「実際美しかった訳でしょ?」
仲忠はようやくそう口を挟む。
「まあね。だから二晩泊まった訳さ。でもほら、君同様に三日目、帝から召された晩があったろう? あの時はさすがに、もう止めだ、と思ったんだけどね。で、帝の御前で夜が更けるまでお仕えしていたんだけど、そのうちさすがにこのままじゃあ彼女が可哀想だよな、と思ってね。そんな訳で、今この三条殿で君や皆と一緒に居るのさ。都で生い育った皆だったらこうやって納まってはいないと思うよ」
「まあ。ね。でもここの大殿もあなたのことは元々色んな約束を破ってしまったこととか、気にしていたから」
ふふ、と仲忠の言葉に涼は微笑む。
「そうかな?」
「少なくとも帝や院のお言葉に背いてしまった訳だからね。東宮さまに藤壺の御方を入内させてしまったことは、かなり無理矢理だった訳だし」
そうそう、無理矢理でしたよね、と耳聡い周囲からも同意の声が挙がる。
「でもそもそも僕等が当時の貴《あて》宮に恋して文を送ったのは、彼女が美しい、という評判からだったでしょ。その点だったら涼さん、あなたの今の奥方もそう変わりはしないでしょう? 小さな頃から大殿も大宮も大事に育ててきた姫なのだから」
そう言いつつも、二人は苦笑をお互いに隠せはしない。
姿形はそう変わらないかもしれない。しかし性格は。
そのことを知っている二人はただもう笑いを噛み殺すしかなかった。
涼は流れにそって話を進める。
「だからこそ今こうやって居るんじゃないか。今更何処へ行けるって言うんだい? とは言え、天下広しと言えども、貴宮以上の方が居たかどうか。…と世間の評判だけどね。そうそう、入内されてからなら君は結構見てるんじゃないかい?」
「何言ってるんですか。そんなことできる訳が無いでしょ」
「ふふーん? さてどうかな? まあ私が知ってるのは、髪がとっても美しくって色が白くて目鼻立ちが整っているということぐらいだけどね。君ならもっと良く知ってると思ったけど」
「ふうん。それで、次にご執心のひとのことは?」
「さあそんなひと居たかな」
「涼さん、今夜は可笑しいよ」
「そうかな」
「そうだよ」
とうとう堪えきれずに仲忠は笑い出した。周囲はいきなり様子の変わった仲忠に唖然とするが、涼は名の通りの表情で友を眺めているだけだった。
やがて笑いが治まった頃、涼はおもむろに杯を渡す。礼を言って口にすると、人心地ついたのか、仲忠は周囲をぐるりと見渡す。
「どうしたの」
「うん…… 実は、さっきここに来る時に、どっかで見た様な童が居たと思ったんだけど。いい子は居る?」
「童ねえ。まあうちには沢山居るからね。さてどの子かな。承香殿女御に仕えていた子も居るけど」
「うーん…… もしかして、僕がまだ中将だった時、灌仏会の童に召し出された子かなあ」
「ああそうそう、その子。『これこそ』って言うんだ」
「そうなのか。僕が前ここに一日居た時、扇を鳴らして『夕方いらっしゃい』と言った子が居たんだ。なかなか物慣れた子だと思ったら、そういう縁があったのか」
「まあそういうこともあるかな。私は童だったら藤壺の御方の所に居る『あこぎ』が一番だと思ってるけどるそれ以上の子は今のところ居ないと思うね。ええと、兵衛の君の弟だったかな」
「『あこぎ』は木工の君の弟だよ。そうそうこの間、宮中に呼び出されていた時、結構暇つぶしにあこぎを捕まえてはお喋りの相手にしたな。話しやすいんだ」
そんな風に仲忠も涼も、話ばかりをただただ続け、側にある楽器にも手を触れずじまいだった。
いや無論、自分の子の産養であるし、気分ではないのは仲忠も判る。だがやはり楽器があって名手が弾かないというのは。彼は自分のことを棚に上げて考える。
そこでついこう口にしてしまう。
「ところで涼さん」
「何だい?」
「どうしてあなたは今日この場で、僕を呼んでおきながら、琴を弾くでもなく、話し相手にばかりさせておくの」
「いいじゃないか、ここ暫く君もそう来ることもなかったし、せっかく人の親となったことだし、今までを思い出してしみじみと語り合うばかりというのもいいんじゃないかな? だいたい私の琴など聴く人も居ないだろうに」
「僕が聴くんじゃ物足りない? 一生懸命に聴くけど」
「君の様に、人をとんでもない格好で走らせてしまう程の腕じゃないもの。まあ男は漢才などを身につけるのが一番いい訳で、様々な遊芸はそうそう極めることなどできないのだから、しない方がいいのさ」
「成る程。じゃああなたはその琴の腕は今度生まれた子に伝える気は無いんだ」
涼は意味ありげな顔で黙って微笑む。
「うちのは女の子だしなあ…… うん。子供はいいよ、涼さん。もう抱っこした?」
「や、まだ……」
それには涼はやや言い籠もる。
「まだ汚い頃だから、ちょっと見ることもできなくて」
「何言ってるの。僕はもう、生まれたらすぐに懐に入れてたよ。汚いなんてそんなことないって」
「そりゃ君の子の様に姫だったらね。でも男の子だし。きっと私より出来の悪い子だよ。けど男の子で、大したことが無いんならどうしようもないね。女の子だったら将来が楽しみなんだけど。琴も習わせるし、色々綺麗なものを与えて、様々な所と交際もさせて…… 楽しいだろうな。うちには女の子に必要なものを集めた倉だってあるんだよ。なのに使うこともできない。つまらないじゃないか」
「だったら僕に下さいな。あなたに役に立たないなら、うちの子犬ちゃんにあげるから」
「そうだね、君のとこの姫がうちの子の妻になってくれるのならね。そう約束してくれるのなら、全部あげたっていい」
くすくす、と涼は笑う。
「やだなあ、縁起でもない」
「いつかはお后に?」
「さあどうでしょう。ただ、生い育つに従って夢というものが出て来るでしょう。その夢が最初から無いというのも、ちょっとね」
成る程、と涼は仲忠にもそれなりの野心があることに心の奥をくすぐられる。
「けど涼さん、僕等はまだまだ自分達が子供だと思っていたけど、とうとう親というものになっちゃったんだよね。気持ちの準備はできている?」
「いやあ、その辺りがね」
実を言うと、と涼は目を伏せる。
「晦日の夜までは、私は産屋に入れてもらえないんだ。何かしきたりがあってね」
「妙な家風だなあ。僕はもう、親になったかどうかという気持ちも無いまま、ともかく女一宮のところに飛び込んでしまったよ」
「そりゃ帝の女一宮を得た君だもの。誰も止めやしないさ。鬼も神も遠慮してそうそう邪魔もしないだろう。鬼やらいも急がなくていいくらいじゃないかな」
「そう言えば」
仲忠はふっと目を細める。
「僕等が吹上《ふきあげ》に出かけていって、あなたと最初に出会って色々遊んだ時には、こんな今が来るなんて思いもしなかったな。あの時は本当、今では思いつきもしないようなことを色々やったなあ」
確かに、と涼は黙ってうなづく。
「あの頃僕等はまだ上達部の端くれに引っかかった程度だったけど、今は公卿で。あの時一緒だった仲頼さんも出家しなかったら、蔵人頭くらいにはなっていた筈ですよね。元々身分の高いひとだったし、帝からも目をかけられていたひとだったのに…… そんなひとが山に籠もってしまって…… どうしてるかな、最近忙しくて訪ねたりできなかったんだけど… 涼さんはどう? 仲頼さんの所へは」
「私は時々出かけているよ。そう、ちょっと前には、寒くなるから、綿入れの着物とかも縫わせて、草餅とかと一緒に送ったり」
「年が明けて花盛りの頃になったら、皆で仲頼さんの所には行きましょうよ。行正さんも連れて、皆で詩を作りたいな。懐かしい楽しいことは忘れちゃいけないと思うんだ。今が世知辛いのだったら余計に、あの頃のことはきらきらした思い出として大切に大切にして、ずっと持っていたいよね」
「今はそんなに世知辛い?」
涼は問いかける。
「ううん、そういう訳ではないけれど。今は幸せさ。本当に。宮は愛しい。子犬ちゃんは目に入れたくない程。だけどそれでもあの頃、僕等男だけでわいわいと何処かで浮かれ騒ぐ、なんていうのはもう思い出の中にしか無いでしょ」
決して今が嫌な訳ではない。けど。
「それに今は殿上の間に彼が居なくて、管弦の時なんかもう一層寂しいじゃないの。いつ何が起こるか判らない世の中だもの。聴きたいと思う音楽をいつでも聴けるからって惜しんで聴かずにいて、そしたら何の前触れも無く明日死んでしまうようなことがあるかもしれないじゃない。そしたら何の生きてる甲斐があるんだろ」
「……」
「それにいつかは僕等も年とって行くんだよ。その時にはいくら身につけた技芸だって、手が動かなくなり声も出なくなるし、頭だってそう。気付かないうちにいろいろ忘れていってしまうんだ」
だからね、と仲忠は涼の手を取る。
「ほら今から琴を弾いて下さいよ。平然と雲の上に居る様な顔してないで、この世の中に降りてきて、僕にも帝にも、あなたの養父母にも皆に聴かせてくださいな」
「そうだね」
涼はうっすらと微笑む。
「したいことをできる時にするってのはいいね。生き甲斐のある世の中だ。じゃあ君も弾くんだね」
「いやそこはまず涼さんから」
そんな戯れ言の様な、そして何処かに本気が混ざっている様な会話をしながら、結局は琴に手を触れない二人だった。
元々弾かせる気はあっても弾く気は無いのだ。できるだけ人前では。
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しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
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