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第38話 無茶苦茶な数の『大好き』をあびるの。
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『あ、ハルさん?』
「ユーキくん…… 久しぶり」
『本当。元気だった?』
屈託の無い声だった。今に比べると、記憶の中の彼の声はまだ何かを隠していたようにも感じられる。
「まあね。最近来ないね……」
『うん。ジャズ・サークルがなかなか忙しくてさ』
今度定期演奏会があるし、と彼は付け加える。
「その忙しい所で申し訳ないんだけど」
『何?』
「2バスを教えてほしいんだけど」
『また珍しいものを』
「別にロック系では珍しくはないでしょ?」
『と、言うとハルさん、とうとうロック側へ行くことにしたんだ?』
「うん」
『良かった』
「良かった…… どうして?」
『ハルさんにはその方が向いてるから。あなた、だって物を壊す方が好きな人じゃない。破壊して、それから作り直すタイプだから』
「そ…… う?」
『そう見えたけど』
「そう見えるの?」
『うん。ほら、絵を描くひとが一度描いたものをざっと消して同じように見えるけれど、新しい線を入れてくみたいにさ、本当に自分が欲しいものじゃなかったら、何度でもぶちこわしては何度でも作り直すでしょ。そんな感じ』
不器用だとは思うのよ。絵を描いてた友人のコトバが頭の中で回る。
『ドラムの方だけど、いつでもいいよ。ハルさんの好きなときに』
「じゃ明日」
『OK』
*
気がつくと、梅雨が終わっていた。
陽射しは日々熱さを増していて、緑も濃い。だが梅雨の頃よりも確実に昼の長さは短くなっていくのだ。夏至を過ぎた夏は、ただ堕ちていくだけのような気がしていた。堕ちていくという言葉が適当でないなら、刹那だ、とハルは思う。
まほは夏は好きだ、と言っている。何で? とハルはその時訊ねた。すると彼女はこう言った。
「だって、夏生まれの子どもは育てやすいっていうじゃない、別に転がしといたって凍え死んだりはしないでしょ?」
極端な例えだが、言いたいことは判る。
彼女は自分と、その部分が似ているのだ。生きてくのに必要な何かを失った寒さを極端に恐れる。
そしてもう一つ、奇妙に共通するところがあった。
「じゃあ冬は嫌い?」
その時ハルはもう一つ聞いていたのだ。するとまほは答えた。
「寒いのはむちゃくちゃ嫌い。でも眠る時に寒くないなら別に、それ以外なら好きかもしれない。ハルさんは?」
ハルは自分も嫌いじゃない、と答えた。
夏も冬もその点では同じなのだ。たまらない暑さやたまらない寒さは、それを辛いと思わせる暇を与えない。とにかくそれをしのがなくてはいけない。それを露骨に思い知らせてくれる。
そしてその暑い夏の合間にふっと行き過ぎる風や、雨の涼しさや、冷たい水に救われる思いをし、寒い冬のほんの少しの、人のいる部屋に帰って来たときの暖かさとか、毛布や人の体温だのが、何にも換えがたいものに感じられる、そういう瞬間は暑すぎる夏や寒すぎる冬にしか感じとれないのだ。
「だからごめん、あなたの名前と似てるけれど、春とか秋はあんまり好きじゃない」
そうまほは付け加えた。
「別にいい」
「春って季節は訳が判んないの」
「判らない?」
「昔からそう。いつも冬はこう思ってる、春がくればもっといいことがある…… 特に三月とか、学年の終わりとかって、周りの空気自体が全部『期待と不安』に染まっているもん。それに巻き込まれて、冬の間『待っていた』何かをそこに期待しちゃうの。でも、春が来たところで何が変わるって訳じゃない。なまじっか過ごしやすいから、ものごとを考える時間だけは出来てしまって、桜の匂いや色に頭ん中がぐちゃぐちゃにかき回される。緑の季節がきて、匂いの強い南の花が咲く頃までそんな感じが続いて、堂々めぐりばっかり。考えたって答の出ないことばかり」
「そりゃそうよ。自分で始めなければ何も起こらない」
「でもあたしはその意味が判らなかったもの」
「過去形?」
「……だと、思う。思いたい。だから、以前はその『あってほしい』春とすぐそこにある春の違いに混乱してた。けれど違う。どうあたしが期待しようと春は春だもの。そこに来ている春が本当なんだもの。どうあがいたって、あたしが期待した通りの春なんて、黙って待ってるだけじゃ来ない。そうでないと、あのひとには、勝てない」
「勝ちたい?」
「勝てるかどうかは判らないけど」
「可能性なんか聞いてないわ」
ハルはきっぱりと言う。
「まほちゃんあんたは、勝ちたいの? どうなの?」
「ハルさん?」
まほは顔を上げた。
「『できるかどうか』なんて言ってるうちは、負けるのよ。何やったってそうよ。誰だってそうよ。だけど『勝ちたい』なら、可能性は生まれるのよ」
「勝ちたい」
声のトーンが、やや上がる。その微妙な上がり具合がハルの神経をかすめる。ぞくぞくと身体の中心に得体の知れない衝動がうごめきだす。
「じゃあ、勝とう」
「ハルさん」
「音楽やろう。バンドよ。まほちゃん、あんたの声が欲しいの。あんたの声が好きなのよ。人の前に出るのよ。あんたの前言ったような無茶苦茶な数の『大好き』をあびるの」
「そんな……」
「やってみなくちゃ判らない」
「バンドよ?」
「あたしはあんたの声に最初から犯されてたのよ。責任とってちょうだい」
ハルはそのまま、にっと笑って、まほの手を引っ張った。
それが何を意味しているかまほは判った。だからまほは抵抗しなかった。別に嫌いな行為じゃない。この間、びっくりした。けれど嫌じゃなかった。
むしろ、気持ちよかったのだ。それはややハルの感じるところのそれとはニュアンスが違う。暖かくて、柔らかくて、適度の重み。人の触れているという感触。抱きしめられている「自分がいる」という実感。
そしてその相手は同じ敵に戦争をふっかけようというのだ。面白い。それがどうしてバンドにつながるのか、いまいちまだ彼女は把握できていない。だが「たくさんの大好きを浴びよう」というのは判る。あのステージの上で味わった感覚。あれなら判る。あれなら「もっと欲しい」。
だから自分はハルと共闘するだろう。ぼんやりと、だが確信めいたものを彼女は感じていた。
でも。
まほの中で一つだけ疑問が残る。
あたしはあなたの共犯者ってことでしょ。妹ではなく。
なのにそれでもあたしのことをそう呼ぶの?
「ユーキくん…… 久しぶり」
『本当。元気だった?』
屈託の無い声だった。今に比べると、記憶の中の彼の声はまだ何かを隠していたようにも感じられる。
「まあね。最近来ないね……」
『うん。ジャズ・サークルがなかなか忙しくてさ』
今度定期演奏会があるし、と彼は付け加える。
「その忙しい所で申し訳ないんだけど」
『何?』
「2バスを教えてほしいんだけど」
『また珍しいものを』
「別にロック系では珍しくはないでしょ?」
『と、言うとハルさん、とうとうロック側へ行くことにしたんだ?』
「うん」
『良かった』
「良かった…… どうして?」
『ハルさんにはその方が向いてるから。あなた、だって物を壊す方が好きな人じゃない。破壊して、それから作り直すタイプだから』
「そ…… う?」
『そう見えたけど』
「そう見えるの?」
『うん。ほら、絵を描くひとが一度描いたものをざっと消して同じように見えるけれど、新しい線を入れてくみたいにさ、本当に自分が欲しいものじゃなかったら、何度でもぶちこわしては何度でも作り直すでしょ。そんな感じ』
不器用だとは思うのよ。絵を描いてた友人のコトバが頭の中で回る。
『ドラムの方だけど、いつでもいいよ。ハルさんの好きなときに』
「じゃ明日」
『OK』
*
気がつくと、梅雨が終わっていた。
陽射しは日々熱さを増していて、緑も濃い。だが梅雨の頃よりも確実に昼の長さは短くなっていくのだ。夏至を過ぎた夏は、ただ堕ちていくだけのような気がしていた。堕ちていくという言葉が適当でないなら、刹那だ、とハルは思う。
まほは夏は好きだ、と言っている。何で? とハルはその時訊ねた。すると彼女はこう言った。
「だって、夏生まれの子どもは育てやすいっていうじゃない、別に転がしといたって凍え死んだりはしないでしょ?」
極端な例えだが、言いたいことは判る。
彼女は自分と、その部分が似ているのだ。生きてくのに必要な何かを失った寒さを極端に恐れる。
そしてもう一つ、奇妙に共通するところがあった。
「じゃあ冬は嫌い?」
その時ハルはもう一つ聞いていたのだ。するとまほは答えた。
「寒いのはむちゃくちゃ嫌い。でも眠る時に寒くないなら別に、それ以外なら好きかもしれない。ハルさんは?」
ハルは自分も嫌いじゃない、と答えた。
夏も冬もその点では同じなのだ。たまらない暑さやたまらない寒さは、それを辛いと思わせる暇を与えない。とにかくそれをしのがなくてはいけない。それを露骨に思い知らせてくれる。
そしてその暑い夏の合間にふっと行き過ぎる風や、雨の涼しさや、冷たい水に救われる思いをし、寒い冬のほんの少しの、人のいる部屋に帰って来たときの暖かさとか、毛布や人の体温だのが、何にも換えがたいものに感じられる、そういう瞬間は暑すぎる夏や寒すぎる冬にしか感じとれないのだ。
「だからごめん、あなたの名前と似てるけれど、春とか秋はあんまり好きじゃない」
そうまほは付け加えた。
「別にいい」
「春って季節は訳が判んないの」
「判らない?」
「昔からそう。いつも冬はこう思ってる、春がくればもっといいことがある…… 特に三月とか、学年の終わりとかって、周りの空気自体が全部『期待と不安』に染まっているもん。それに巻き込まれて、冬の間『待っていた』何かをそこに期待しちゃうの。でも、春が来たところで何が変わるって訳じゃない。なまじっか過ごしやすいから、ものごとを考える時間だけは出来てしまって、桜の匂いや色に頭ん中がぐちゃぐちゃにかき回される。緑の季節がきて、匂いの強い南の花が咲く頃までそんな感じが続いて、堂々めぐりばっかり。考えたって答の出ないことばかり」
「そりゃそうよ。自分で始めなければ何も起こらない」
「でもあたしはその意味が判らなかったもの」
「過去形?」
「……だと、思う。思いたい。だから、以前はその『あってほしい』春とすぐそこにある春の違いに混乱してた。けれど違う。どうあたしが期待しようと春は春だもの。そこに来ている春が本当なんだもの。どうあがいたって、あたしが期待した通りの春なんて、黙って待ってるだけじゃ来ない。そうでないと、あのひとには、勝てない」
「勝ちたい?」
「勝てるかどうかは判らないけど」
「可能性なんか聞いてないわ」
ハルはきっぱりと言う。
「まほちゃんあんたは、勝ちたいの? どうなの?」
「ハルさん?」
まほは顔を上げた。
「『できるかどうか』なんて言ってるうちは、負けるのよ。何やったってそうよ。誰だってそうよ。だけど『勝ちたい』なら、可能性は生まれるのよ」
「勝ちたい」
声のトーンが、やや上がる。その微妙な上がり具合がハルの神経をかすめる。ぞくぞくと身体の中心に得体の知れない衝動がうごめきだす。
「じゃあ、勝とう」
「ハルさん」
「音楽やろう。バンドよ。まほちゃん、あんたの声が欲しいの。あんたの声が好きなのよ。人の前に出るのよ。あんたの前言ったような無茶苦茶な数の『大好き』をあびるの」
「そんな……」
「やってみなくちゃ判らない」
「バンドよ?」
「あたしはあんたの声に最初から犯されてたのよ。責任とってちょうだい」
ハルはそのまま、にっと笑って、まほの手を引っ張った。
それが何を意味しているかまほは判った。だからまほは抵抗しなかった。別に嫌いな行為じゃない。この間、びっくりした。けれど嫌じゃなかった。
むしろ、気持ちよかったのだ。それはややハルの感じるところのそれとはニュアンスが違う。暖かくて、柔らかくて、適度の重み。人の触れているという感触。抱きしめられている「自分がいる」という実感。
そしてその相手は同じ敵に戦争をふっかけようというのだ。面白い。それがどうしてバンドにつながるのか、いまいちまだ彼女は把握できていない。だが「たくさんの大好きを浴びよう」というのは判る。あのステージの上で味わった感覚。あれなら判る。あれなら「もっと欲しい」。
だから自分はハルと共闘するだろう。ぼんやりと、だが確信めいたものを彼女は感じていた。
でも。
まほの中で一つだけ疑問が残る。
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