雪を溶く熱

江戸川ばた散歩

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「貴方、雪が降り出したわ」

 外を見ながら妻が言う。はらはらと音も無く降り出した大きな結晶は一定の速さで着実に降り積もっていく。

「やれやれ、もうそんな季節が来たか…… 窓を充分に閉めよう。手伝ってくれ」
「はい」

 私は官舎のあちこちを慌てて回り、窓の設定を三重にする。
 窓の外の雪はひらひらと舞いながら落ち、地面に散らばった落ち葉や、しまい忘れ去られている金属製のシャベルやバケツを腐食させていく。
 コンテナハウス本体はこの地の雪に対抗できるコーティングがされているから大丈夫だが、窓は材質の関係でそうもいかない。
 通常の季節は一重で良いのだが、雨期には二重、雪期には防寒も兼ねて三重にする必要がある。一つの窓にそれぞれ設定がされていることから、私達はその都度駆け回って全ての窓をぶ厚くしてきた。
 空から降る水はどんな場所であれ、酸が混じっていた。その濃度や色はどうあれ、それだけは同じだった。
 生まれた頃には既にそうだった。そういうものだと思っていた。
 だから学生時代に出会った妻が見せてくれた数百年前の写真の中にあった雪景色の美しさに私は魅了された。
 そのせいだろうか。皆が羨む官吏の試験に受かってからも、皆が嫌がる雨期と雪期のある様な場所を選んでしまうのは。
 皆が嫌がる場所であることから、望みは通り、私は何度か雪の降る地に赴任した。
 私、そして私達はその都度様々な雨と雪を見てきた。
 それは例えば青く大きく落ちてくる雨、音を立てて落ちてくる赤い雪、同じ名を持つものであったとしても、決して同じものではないと思い知らされる作業の繰り返しではあったのだけど。
 そして何度かの転任の結果、やっと過去の写真とよく似た雪の降る場所を見つけた。

「また今度も暇を持て余すかもね」

 そう言いつつも妻はそれはそれで楽しそうだった。彼女もまた、雪に取り憑かれた女だった。
 学生時代はもちろん。
 同期の官吏となったが、もともと優秀だった彼女、再会した時には直属の上司だった。その上司部下となった仕事の上で再会したことがきっかけで、我々には結婚という選択肢ができた。素人研究にはパートナーが居た方がいいよね、と。
 それからは二人して転任の都度、雪を採取してはその結晶を確認し、データをまとめている。 



 そんな夜のことだった。

『敷地内侵入者発見』

 信じられないコールが私達の耳に飛び込んできた。
 慌てて私は仕事場側へ飛び込み、敷地内マップを起動させる。確かに何かが居る。

『攻撃致しますか』
「スクリーンに出してくれ」

 了解、と官舎のコントロールが返答する。人の姿―――いや、装甲兵の姿がそこにはあった。

「何の用だ」

 回線を開いて私は相手に呼びかける。

『自分はタガイ秋人という。そちらにソフラ美冬さんはいるだろうか』
「ソフラは妻の旧姓だ。君は妻の何だね」
『元気にしているだろうか』
「元気だが…… 君は」
『それなら良い。自分はもうこの地から去ると言ってくれるとありがたい』

 それだけ言うと、彼はくるりと背を向け、再び雪の降る中へと消えていった。ふと気付くと、背後に妻が立っていた。

「タガイ秋人という男を知っているかい?」
「幼馴染みですわ。でも確か、私達が大学で出会った頃、能力査定で軍に入ったと聞いてますけど……」

 装甲兵のスーツならこの雪の中でも大丈夫だろう。だがわざわざ誰かの元にやってくるということは。
 私は慌てて中央コントロールへと回線を開いた。

『コントロール、現在装甲兵部隊の出発が近いのか?』

 曖昧な問いに、即座にこの地と近い駐屯地の場所が示される。そのうちの一つが、明日、月面の限定戦場へと行く船に乗るとのこと。

「装甲兵の名簿は出るか?」
『否』

 瞬時に返された。

「無理よ。装甲兵っていうのは―――」

 元々結婚するまでは官吏として上司でもあった妻は口をつぐんだ。緊急時の情報指揮系統に関する知識や権限が自分より多かったはずだ。
 この環境より更に酷い場所にて陣取り争いのために歩兵となる彼等は、名を無くして行くのだろう。

「さほど遊んだという記憶は無いわ。ただきょうだいが多くて。いつも学校で備品が少なくて困ってたのを覚えてる」
「君が何かしてやったのかい?」
「妹さんに、使わなくなった機材を譲ったことはあるわ。ただ本人は無口だったから、礼以上のことは」
「なるほど」

 点々と移動する赴任地と、彼が出発する駐屯地が近かった。ただそれだけの偶然かもしれない。
 妻でなくとも、知り合いであったなら。
 自分も妻も運のいい生まれなのだ。彼の様にならずに済んでいる。三重の窓に護られ。



 翌朝は一転して空が澄んでいた。我々はコンテナ同様コーティングされたホバーカーに乗り、駐屯地近くまでゆっくりと走らせていった。

「あれね」

 輸送機が待機している。
 やがてそれがゆっくりと炎を吹きだして発射した。じわりと周囲の雪が溶け出していく。
 空に線を描いて輸送機は高く高く上がって行く。あの中に彼は居る筈だ。
 ―――と。

「どうしたんだ?」
「え?」

 私は妻の頬に触れる。

「私泣いてたの」
「その様だね。感傷的にでもなった?」
「そうじゃないわ。……そう、私ずっと忘れてた。昔彼が見せてくれたの。昔の雪の写真」
「彼が」
「でもだからと言って自分にはどうにもできない、って」

 様々な事情が誰にもある。妻はハンカチを目に当てながら、つぶやいた。

「私きっと、雪を元に戻したかったんだわ。素人研究でも何でもいい。少しでも、今そうなった原因を知りたくて。でもそんな技術の仕事には適性が無いって出て」
「僕に会った、と」

 彼女は無言でうなづいた。

「たぶん彼の方が、この先雪を元に戻してくれる力の一端になるのかもしれない」

 相手は長い長い…… 我々が生まれる前から戦闘中の、異世界からの侵略者なのだ。我々とは必要とされる大気組成が異なる―――
 そう、彼が旅立ったこの地とは地球。彼の故郷。

 戻らないだろう、故郷。
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