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春の指定席
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四月にはいったばかりだというのに、早朝から燦々と太陽が照りつけ、じっとしていても汗ばむほどの陽気。
舗装もされていない広く長い一本道の傍らに、標識だけ置かれたバス停がある。
春子は、一人佇んでいる。
両手で提げたボストンバッグを砂地の地べたに置くわけにもいかず、といって額に浮かぶ汗を拭うこともままならず、春子は青空に浮かぶ太陽を眩しそうに睨み付け、ふうとため息をつくのだった。
「遅いなあ、バス」
真っ直ぐに伸びる砂利道の果ては地面の隆起の加減で海に連なっていて、遥か先の海面に反射した光がゆらゆらと立ちのぼって見える。
春子の視線の先、道の向こうから自転車が一台ゆっくりとこちらに近づいて来る。
長いこと油を挿していないのか、ギーコギーコといやな音を撒き散らしている。
自転車を漕ぐ男が幼なじみの心太であることはすぐにわかったが、春子はまるで無関心を装うように直ぐに視線を落とし俯くのだった。
心太は、ようやく春子の前までたどり着くと、キーっと甲高いブレーキ音を轟かせ、Tシャツの襟元をバタバタと扇ぎながら
「ふぃー、暑っちい暑っちい。汗だくだ、ほれ」
と、屈託のない笑顔を春子に向けている。
「まだ4月だってのによ、これじゃ夏じゃねーか。どーなってんだよ、なぁ」
春子はちらりと心太を見るが、ため息まじりに
「何やってんのよ」
と、呆れたように答える。
「何ってお前、いやまあその、畑の様子を見ようと思ってよ」
「…畑って、全然向こう側じゃない」
「そんで、ついでにこの辺をぐるっと」
「ぐるっと何よ」
「いや...ぐるっとは、その、ぐるっとじゃねぇか」
春子、呑気そうな心太にひどく呆れて
「ばっかじゃないの」
と、ソッポを向く。
心太は春子の表情を意に介さずに
「あーそうだそうだ、バス、バスなら来ないぜ」
「え?どういうこと?」
「なんか、故障したみたいだぜ、永ちゃんバス」
「故障ぉ?」
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村にはたった一台の小さなマイクロバスしかなく、農家を引退した永造が役場から委託を受けて一人で運行しているのだった。
「アイラブユーOK~♪︎」
今朝もいつもと同じようにロックスターかぶれのリーゼントにサングラスを決め込んで、鼻歌交じり母屋から出て来た永造は、隣接するガレージのシャッターを重たそうに「よっこらせ」と引き上げる。
シャッターはガラガラと音を立てて勢いよく上がると小型のマイクロバスが現れた。
車体には「神木村永ちゃんバス」の文字が入っており、口笛を吹きながら運転席に回り込んだ永造はドアを開けようとして「ん?」と思わず目を見開いた。
「な、なんじゃぁーこりゃ!」
バスのタイヤは全部外されていて、車体はブロックの上に綺麗に載せられている。
「ど、ど、どうなっとんじゃ」
永造はあまりの出来事に腰を抜かさんばかりにヨタヨタとバスの周りを一周すると、傍らに積まれたタイヤに近づいた。タイヤには何やら紙が貼られており、永造はサングラスを額にあげてまじまじと読んだ。
~タイヤ点検異常無し~
「点検~!?異常無しィ~!?」
永造はおもむろに手紙を引っぺがすと怒りを込めて叫んだ。
「だ、誰じゃー!」
村中に響き渡る程の永造の雄叫びに、物陰で様子を伺っていた心太は、まるで神に許しを乞う様に両手を合わせ、慌てて自転車に跨り逃げていくのだった。
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「ありぁ、パンクかもなぁ」
「パンク!?」
他人の仕業のように腕組みして頷く心太。
「四本とも、イカれちまってたみたいだから、オレの経験上、だいぶ時間かかるかもしんねぇな」
春子、慌てて腕時計に目を落とす。
「そんな…電車乗り遅れちゃうじゃない」
「なんだよ、今日行かねえとダメなのかよ」
春子、呆れたように心太を睨む。
「当たり前じゃない!大事な...」
言葉に詰まる、春子。
「向こうで…大事な用があるんだから。父さん達も駅で待ってるし…どうしよう」
オロオロと焦る春子をじっと見つめる心太。
「…ま、乗れよ。送ってってやるよ」
春子、自転車に跨り荷台を叩く心太を見て戸惑いを見せるがすぐに向き直る。
「…いいわよ。タクシー呼ぶから」
「バーカ、朝っぱらからこんなとこにタクシーなんか来るわけねぇじゃねぇか」
心太、おもむろに春子の手からバッグを取りあげる。
「荷物これだけか?随分少ねぇんだな」
春子、お返しとばかり心太からひったくる。
「あとから送んのよ!引越しするのにいっぱい荷物抱えて行く訳ないじゃん!ばっかじゃないの」
しばし、沈黙する二人。
「遅れるぞ、電車。いいのか?」
「…昨日、何で来なかったのよ」
春子の、思わぬ切り返しに思わず口ごもる心太。
「え、昨日?ええと、なんか、あったっけか」
「送別会。あたしの」
「うん?…あ、いや、んーまぁ…」
「クラスの皆んなも、村の人たちもみんな来てくれたのに、あんただけ」
「いや…行くつもりでよ、途中まで…」
「途中まで何よ」
「サダオの奴がよ、その…つまんねぇこと言いやがるからよ…」
「何よ、つまらない事って」
「いや、その…お前の、ほれ、就職先の…」
「…縁談の、話のこと?」
「…まぁ…そんなような事をな」
「あぁ…そういう事。それでか…」
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昨日の夜は村の公民館で春子の送別会が開かれたのだった。村と言っても、数十世帯程の小さな集落なので、誰かが都会に出るとなると、村民総出の恒例行事で、当然心太も出席することにしていた。
心太はジーパンにTシャツの普段着で、口笛など吹きながら公民館に向かう道中、不意に路地裏から伸びた手に引きずり込まれた。
「な、何すんだよ!サダオ!」
サダオは心太をがっしりと羽交い締めにする。
「何すんだじゃねぇよ。何だよお前そのカッコは」
「カッコ!?何が」
「春ちゃんの送別会行くんだろ?Tシャツって何だよ」
「わ、悪いかよ。お前こそ何だよ。そんなかしこまって。ただのお別れ会じゃねぇか」
サダオは心太の腕を掴みながら呆れたように言う。
「お前、聞いてないのか?春ちゃんのこと」
「何だよ、就職だろ、タダの。そりゃ就職となりゃ皆んな東京行くだろ。去年もタモツやサオリも」
「だから!東京の就職先の事だよ」
「就職先?知らねえよ、そんなもん。どうせ盆や正月には帰ってくるんだろ」
サダオ、おもむろに心太の体を引き寄せる。
「あのな、春ちゃんの就職する会社な、社長が春ちゃんの親父さんの友達なんだってよ」
「親父さんの友達…何っ!あの野郎コネ使いやがったんかよ」
「いや、たまたまらしいぜ。面接の時に住所と名前見て、社長がアレもしかしてってなったんだって」
「たまたま~?ふーん。ラッキーじゃねえか。世間は狭いもんだな」
「呑気な事言ってんじゃないよ。問題はな、その社長の息子なんだよ」
「社長の息子ぉ?む、息子が…どうしたんだよ」
何やら嫌な予感を感じとる心太。
「どうも、春ちゃんの事、一目見て気に入ったらしいんだ」
「春…のことを?」
思いもよらないサダオの話に、心太は顔を曇らせるのだった。
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東京のマツオフーズ本社では、その日、新入社員の面接が行われていた。
春子はリクルートスーツを身にまとい、緊張した面持ちで役員面接に臨んでいる。
「それでは志望動機を聞かせて貰えますか。右の方から」
「はい」
と、右端に座っている女性がにこやかに返事をして話し始めている。
春子は、視線を宙に向け口をぱくぱくとさせて無心で練習をしている。
「えーっと、では次の方…橘さん、橘春子さん」
役員の一人が春子に問いかける。
「はっ…はい!」
春子、おもむろに立ち上がる。
「あー、座って座って。立たなくていいから」
「はっ、す、すみません」
ガタガタと座り直し大きく深呼吸する春子。
隣に並んで座る数名がドタバタする春子を見てクスクスと笑っている。
「ではどうぞ」
「は、はい…。あの、志望動機、志望動機ですね。えっと私の実家がですね、その…先祖代々農業を営んでおりまして、幼い頃からその、食に関する事には人一倍こだわりを持っておりましてというか、いえ、あの、こだわりと言いましても好き嫌いとかそんなじゃ無くて、食べ物を大事にとか、そんなような気持ちをですね、持っておりましたというか、その…」
無表情で春子を見る役員。
さらに緊張を高める春子。
「で…貴社のモットーにある、安全な食事を、ええと、その、なんて言いますか、人類に…」
役員はキョトンとして「人類に?」
春子、さらに慌てて「安全な食事を…世界の、人々に…でしたっけ」と伺うように聞く。
役員のひとりは仕方ないと言ったように「日本の皆さんに」と助け舟を出す。
「そう、日本国民の皆様に提供するといったような、その…社風に惹かれまして…そんなような事を...ハイ」
役員達が顔を見合せている。
春子の顔がさらに赤く染まる。
「ご実家はどういった農業を?」
「はい、え、あの、どういった…とは?」
「どんなモノを作られてるんですか?畑で」
「あ、畑…あの、主に、さつま芋とか栗だとか…」
「さつま芋…ですか」
「ハイ…」
恥ずかしさに思わず顔を伏せる、春子。
と、役員の真ん中でじっと履歴書に目を通している松尾社長が口を開く。
「うん?神木村のぉ、あなた、橘さん?」
「は、はい…」
「神木村ぁー、たちばなぁー…んー」
松尾社長、眼鏡を額に上げ天井を見上げて何やら考え込んでいる。
役員が訝しそうに顔を見合わせる。
「あの…社長、何か?」
松尾社長、ポンと手を打ち
「そうだ、思い出した!雄一郎さん、神木村の橘雄一郎さん」
驚く春子。
「え!とうさん…あ、父をご存知なんですか」
「そうかぁ、あなた雄一郎さんの娘さんかぁ」
今まで神妙だった春子の顔がパァっと笑顔に変わる。
「もちろん、知っとるとも。いやぁ懐かしいなぁ。赤ん坊のあんたを抱いたこともある」
「えぇー!ホントですか!」
松尾社長、眼鏡を戻し座り直す。
「私ねぇ、この会社を先代から継ぐときにね、農業研修に行かされたの。神木村に。1ヶ月も。その時居候させて貰ったのがあんたのお父さん家」
「へぇーそうだったんですか!全然知りませんでしたー」
「農家なんてワタシ初めてでしょ?もう嫌で嫌でねぇ。朝は早いし仕事は辛いし。一日で帰りたくなっちゃった」
「は、はぁ…」
「んだけど、雄一郎さんにこっぴどく怒られてねぇ。ひと月ぐらい辛抱出来んでどうすんだ!ってねぇ」
「あの、すみません、なんか…」
「あーいやいや、あの経験があったから、ほれ、今こうして何とかやれてるんだから。感謝しとるんですよ、雄一郎さんには。奥さんもお元気ですか」
「はい!ぜんぜん元気です」
「そうか~まだ作っとるの~さつま芋。美味かったなぁ。奥さんの手料理」
「肉じゃが!ですか?」
「そうそう!さつま芋の肉じゃが!それに、ほら栗ご飯も!」
「そう!」
面接を待つ数名が社長と春子のやり取りを見て思わず顔を見合せている。
先程の役員が「ゴホン」と咳払い。春子、思わず恐縮して
「あ、すみません…」と俯く。
柔和な笑顔で頷く松尾社長。
と、社長の隣の青年が感心したように口を開く。
「へぇーさつま芋の肉じゃがですか」
青年は、豪快な松尾社長とは対照的に細面で身綺麗な、いわゆる二枚目を絵にかいたような若者である。
「あ…ハイ…」
若者を直視出来ず恥ずかしげに顔を伏せる春子。
「珍しいですね。普通は肉じゃがと言えばじゃがいもでしょ?」
社長と春子、ニンマリと目を合わせる。
「美味いんだよ、それが。なぁ」
「ハイ!得意料理なんです、母さんの!」
「でも、さつま芋じゃ煮崩れしたりしませんか?柔らかすぎて」
「いやぁそれはだな…」
春子、社長を遮り
「皮付きのまま煮るんです!崩れないように」
「そうそう。それがまた甘味があって美味いんだ」
「なるほど。一度食べてみたいなぁ。春子さんは作れるのですか?」
突然下の名前で呼ばれ、どぎまぎする春子。
「え…私ですか?ハイ…あの、母ほど上手くありませんが…」
「おぉ、そりゃいい。いっぺんお前もご馳走してもらうといい。春子さん、コレは私のせがれでね、うちの専務をやらしとる」
「俊彦といいます。よろしくお願いいたします」
「あ、あの、こちらこそよろしくお願いします…」
松尾社長、身を乗り出し内緒話をする様に
「一応、まだ独身だよ」
「しゃ、社長!」
俊彦は慌てて諌めるが、意に介せずワッハッハーと大笑いする松尾社長。
苦笑いを浮かべて恥ずかしそうに俯く春子を、優しげに見つめる俊彦だった。
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月明かりに照らされる路地裏。
心太、おもむろにサダオの手を捻りあげて後にねじる。
「お前はまた見てきた様な事を」
サダオ、思わず「イテテテテ」と喚くと、心太の手を振り払う。
「痛えな!もう!俺は見てねえけどな、このまえ春ちゃん家に挨拶に来たんだとよ。その社長さんと息子が」
「挨拶…?」
「あぁ。運転手付きのでっけえ外車でな」
心太、小さくため息つき、「ふぅん」と、呟く。
「…いいのか?お前」
「何が」
「何って、春ちゃん、明日の朝イチで行っちまうんだぜ、東京」
心太、サダオを遮り
「あいつと俺はタダの幼なじみだ。それだけだよ」
「いや、けどよ!」
「いいじゃねぇか。あいつは幸せになるんだろ?」
「心太…」
心太、立ち上がりジーパンの砂ぼこりをはたくと「じゃな」と言って背を向ける。
「おい!どこ行くんだよ!」
「悪いけど、帰るわ。よろしく言っといてくれや」
と、サダオを背にして去って行く。
「か、帰るってお前!おい!」
心太は振り返ることも無く、ジーパンのポケットに手を突っ込んで路地の向こうに消えて行った。
「…ったく…意気地無しが」
心太の背中を見つめながら、苦々しく呟くサダオであった。
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公民館の座敷では、宴もたけなわとばかりに春子を囲んで村民たちが盛り上がっている。
春子もにこやかに談笑して応えているが、ふと辺りを見回わすと、座敷に並んだ料理の座卓が、ひとつだけポツンと手付かずのまま残されている。
春子は寂しげにその座卓を見つめるのだった。
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夜も更けて、村中が静寂に包まれる頃、心太は自分の部屋のベッドで足を組んでふんぞり返り天井を睨みつけていた。
表の通りから、送別会帰りの酔っ払いの賑やかな笑い声や鼻歌が聞こえてくる。
「ほんじゃーな、民ちゃん」
「おやすみー」
「アンタたち、気をつけて帰んだよ。川に飛び込むんじゃないよ!」
酔いの回った民江の声が響き渡る。心太の母である。
「うぉーい。息子のトコロテンにもよろしくなァ」
「あいよォ」
心太は「チッ」と舌打ちして
「誰がトコロテンだ」
と苦々しく呟くと、天井から伸びた電気の紐に手を伸ばしてあかりを消すと、ゴロンと横になった。
民江はドカドカと階段を上がってきて、心太の部屋の引き戸を勢いよくガラガラと開ける。
「なぁーによ、アンタ。電気もつけんと」
「うるっせえな、夜中じゃねぇか」
おもむろに心太の布団をひっぺり返す。
「そんな事よりさァ、春ちゃんのこと、アンタ、知っとるの」
「…あぁ?」
「縁談よォ縁談!さっきサダ坊から聞いて、あたしゃもう、びっくりしてしまって」
「…知ってるよ」
「なんでも就職先の社長さんの息子らしいじゃないか。まさかねぇ、そんな人に見染められるなんてねぇ。ここらみんな貧乏農家なのに、いくら一人娘だって言ってもそりゃ雄さんも和ちゃんも大喜びで送り出すってもんよォ」
民江は一気にまくし立てると、手に持ったワンカップをぐびりと煽る。
「アンタもさぞや寂しかろうよ、心太」
「な、何がだよ」
「何がって、あたしゃね、てっきりあんたと春ちゃんがそんな風だとばっかり思っとったんだけどねえ」
「そんな風って、何だよ」
「いきなし町の整備工場辞めて帰ってきたと思ったら、気まぐれに畑なんか弄り始めて。そりゃまぁ、にわか百姓のあんたじゃ春ちゃんも苦労するさねぇ」
「う、うるせぇなババア!さっさと寝ろよ!」
「あんな器量も気だてもいい子、他にこの村に居ないしねぇ。あ~あ、残念、残念。残念無念」
民江は「よっこいしょ」と重そうに腰をあげる。
「あぁ、そうそう。明日の朝、永造さんがバスの点検しといてくれってよ」
「ったく、なんで俺が」
「しょうがないじゃないか。アンタしか車いじれるモン居ないんだから。春ちゃんのこと送るの最後になるかもしれんからしっかり見てくれってよ」
「あークソめんどくせえなぁ」
「送別会も出なかったんだから、ちゃんと見送ってやるんだよ。春ちゃんのこと」
民江は「にしても、残念残念」と言い残し、ドアを閉めて行った。
心太はしばらく片手枕に考え込んでいたが、「えぇい、クソっ!」とやにわに起き上がり、部屋を出ていった。
母屋のそばにある物置の中で、ガチャガチャと音を立ててスパナや懐中電灯を取り出している心太。
整備士の頃に揃えた道具を、手際よく選別している。
と、ふいに手を止めると、足元にある大型のジャッキに目をやる。
いかにも重そうなジャッキを抱えあげて、何やら考え込む心太。
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青空を、ツバメが糸を引くように飛んでいく。
「そっか…それで昨日、来なかったわけか」
心太、春子に背を向けたまま、ぎこちなく微笑んでいる。
「よ、良かったじゃねぇか」
「…」無言でしやがみ込んで、うつむく春子。
「東京の、今度就職するトコの息子なんだって?あれだ、玉の輿ってやつじゃねえか」
「…まだ、正式に決まった訳じゃ…」
「なかなか無いぜ、そんな上手い話。なぁ」
心太、しきりに頷きながら、まるで自分に言い聞かせるようにまくし立てる。
「…そう…だよね」
「そ、そうだよ、無いよ。こんなド田舎のちっぽけな村からよォ、東京の社長夫人だなんてよ、有り得ねぇよ!」
「有り得ない…よね」
「畑しかねえんだから…こんなとこ…どうしようもねえよ」
心太は、遠い目で建物も何も無い村を見つめる。
「…イチゴは?今年は出来そう?」
心太、バツ悪そうに
「うん?んーまぁ、これからだよ、これから。けど、クリスマスには間に合わせねえとな。しこたま作ってよ、町のケーキ屋に売りつけてよ。うん」
と、自分に言い聞かせるように二度三度うなづいて見せる。
「去年は全然ダメだったけど、惜しいヤツもあったんだよ」
「そう…」
と、春子は遠くを見つめている。
「今年こそは会心の一粒ってヤツを作って、町中のケーキ屋にオレのイチゴが並ぶんだよ。ずらっとな」
「楽しみじゃん…」
「へっへっ、なぁ」
と、突然強いつむじ風が吹き、砂埃が舞い上がる。
思わず体を背ける心太と春子。
「ゴホゴホッ」と咳き込む心太。
「ったく、こんな砂利道がバス道だもんな。さっさと舗装ぐらいしろってんだよ」
うずくまった春子の頬に涙が流れる。
心なしか、肩が震えているのをみとめる心太。
「え、おい、春、どうした…目に入ったか」
春子は、頬をつたう涙を拭うと、絞り出すように呟く。
「こんな砂利道…」
「え?」
「こんな砂利道、東京には何処にも無いのよ!」
そして強い口調で言うと同時に、地面の砂を引っぱたいた。
心太、舞い上がった砂ぼこりに思わず顔を背ける。
咳き込みながらも顔の前を手で払い、文句を言いかけるが、地面をじっと見つめている春子に言葉が出ない。
「春…」
と、春子、突然かがめていた身を起こし、両手で顔をゴシゴシ擦ると、大声で笑いだした。
「アーハッハッハ!でもホントだよね!ホント、ラッキーだよね!」
春子の変貌ぶりにポカンとする心太。
「…は、春」
「新宿よ!都庁の目の前だよ?都庁。アンタ、見たことないでしょ」
「そりゃあ…まぁ、見たことねえよ」
「会社だって綺麗なんだよ~コンクリートでさぁ、もうピカピカしてんのよ!」
「ほ、ホントかよ…」
顔をあげた春子の表情は、何か吹っ切れたような穏やかな笑顔に戻っていた。
「まぁ、キミもそのうち遊びに来なさい。大都会を案内してあげるから」
心太は「…あぁ」と、答えるのが精一杯だった。
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広く長く続く砂利道は、この季節、川を挟んだ両側の土手が見事な桜並木になっていて、毎年、通学路だったこの道を通るのが春子は好きだった。
心太の漕ぐ自転車の荷台に、春子は上品に横乗りして、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを見上げている。頬を撫でる風が気持ちいい。
「久しぶりだねぇ。心太の自転車の後ろに乗るの」
「ん?あぁ、そうだな。中学校以来か」
春子、思い出すようにクスッと笑う。
「あれ、いつだっけ?あんたがさぁ、初めて自転車買って貰ったとき」
「あぁ、小5だろ」
「大きすぎて足なんか届かないのに」
「大人用だったからな」
「あたしが風疹かなんかでしばらく学校休んでた時にさ」
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春子の家は、畑が広がる集落の高台にあり、段々畑の側道が長い長いくだり坂になっている。
二階の部屋で、母の和代が幼い春子の熱を測ったり、おでこに乗せたタオルを取り替えたりしている。
「うん、熱ちょっと下がってきたねぇ。あと少しの辛抱よ」
「ぶつぶつは?治る?」
春子は風疹のあとが残らないか心配しているのだ。
「大丈夫よ。もうキレイになってきたよ」
そう言いながら、和代は春子の頬を優しく撫で付ける。
と、そこへ玄関のチャイムがなった。
「誰かしら」
和代は春子の部屋を出ると、はーいと言いながらトントンと階段をくだり、玄関を開けた。
「あら心ちゃん。久しぶりねぇ」
玄関には、真っ黒に日焼けしたランニングに短パンのいかにも腕白そうな幼い心太がノートやらプリントやらがはいった袋を提げて立っている。
「これ、先生が持ってけって」
子供の頃も今と同じようにぶっきらぼうな態度で手提げ袋を突き出す。
「まぁまぁ、わざわざ有り難うね。自転車で来たの?」
「うん」
「あらまぁ、坂道えらかったでしょう」
心太、ぶるんぶるんと大きく首を降る。
「あぁそうだ、心ちゃん、ちょっと待ってねぇ」
和代はそう言って台所へと引っ込んでいった。
心太は階段の方が気になり、かがんで覗き込むように二階の様子を伺っている。
と、ほんのかすかに「ごほんごほん」と春子の咳き込む声が聞こえる。
じいっと息をひそめ、聞き耳をたてていると、和代がいそいそと小走りに戻って来たものだから、心太は慌てて起立する。
和代、ちらりと二階の方を見る。
「ごめんねぇ、春ちゃん、寝てるのよ」
見透かされたようで、恥ずかしくなる心太。
「でももう良くなってるから、大丈夫よ」
「が、学校は?いつ来れる?」
「うーん、そうねぇ、あと一週間位ぐらいかな。心ちゃん達に伝染るといけないから。はいこれ」
と、心太に手提げ袋を渡す。
「甘栗よ、持って帰って。もう炒ってあるから、食べてね」
心太、ペコリと頭を下げ、玄関を出ていく。
「お母さんに宜しく言っといてねぇ」
和代は心太の後ろ姿にそう声をかけると、微笑ましそうにまた二階の方を見て、部屋の奥へと戻るのだった。
二階の部屋のベッドでは、大人しく布団に入っている春子が、ぼんやりと窓の外を眺めている。
すると、何処からかキィーキィーと、甲高い機械音が聞こえてくる。
暫く止んだかと思ったら、またキィーキィーッと鳴り響く。
三回ほど繰り返し聞こえたところで、春子はどうにも気になって体を起こして窓の外を見る。
見ると、坂道の下の方から心太が小走りに自転車を押して登ってくる。
心太は坂の頂上まで来ると、春子の部屋の窓の方をキョロキョロと見て、おもむろに自転車に跨がると、猛スピードで坂道を下っていった。
坂の中腹辺りでブレーキを力一杯かけるので、キィキィ音が鳴り響くのだった。
春子は途端に嬉しくなって、窓をガラリと開けて身を乗り出した。
心太はまた同じように坂道を自転車を押して登って来て、春子の部屋の方を見ると、そこに待望の春子の姿を見つけた。
春子はにこやかに微笑むと心太に手を振る。
心太は照れ臭そうに手を挙げると、また自転車に跨がり、気持ち良さそうに下っていく。
そんなことを二度三度繰り返したところで、心太もいよいよ調子に乗って来て、春子に手を振りかえして下っていったりしたものだから、ハンドル操作を誤って脇道を逸れて絶叫と共に民家の植え込みに突っ込んでいった。
ガッシャーン!と大音響と共に植木鉢が割れる音が村中に鳴り響く。
春子は驚いて窓から身を乗り出して坂のふもとのほうを心配そうに見ると、心太が植え込みから転がるように飛び出てきて、申しわけ程度に植木鉢を整えると、自転車に跨がりフラフラと去っていった。
春子はあまりの出来事に、両手を口に当てて呆然としていたが、心太の様子に可笑しくなり思わず吹き出してしまうのだった。
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春子は今、心太の自転車の後ろで揺られながらそんな子供の頃を思い出しているのだった。
「おっかしかったなぁ、あんたの顔」
「あのあと、えらい怒られたんだぜ。あの家のババアによ」
「そんで、あんたの運転が危なっかしいから、あたしが後ろに乗ってあげるって言ったのよ」
「そうだっけか」
「そうよ。覚えてない?あたしが作った定期券」
「…ん」
幼い春子、机に向かいカード大に切った画用紙にクレヨンで何やら熱心に書き込んでいる。
そこには、心太ん家、春子ん家の文字が矢印で結んであり、その上に「ていきけん」と平仮名で書かれている。
春子は、その定期券の周りを色鉛筆でカラフルに縁取りをすると「出来た!」と満足そうに微笑むのだった。
「あんたの後ろに乗るたびに渡したりしてさ。可愛かったよねぇ二人とも」
「ふぅん。忘れちまったよ」
春子、心太の背中をバンッと叩く。
思わず「イテェ!」と叫ぶ心太。
「懐かしいなぁ、あの坂道」
「行ってみるか」
「え?」
「ちょっと遠回りになるけどよ」
春子、心太の提案に暫しポカンとなるが、すぐに満面の笑みがひろがる。
「うん!行こう!」
春子は、おもむろに自転車を降りると、持っていたバッグをリュックのように背中に背負い、長いロングスカートをヒラリとさせると、乗馬のように荷台に跨がった。
「あ、そうだ、ちょっと待って」
春子は上着のポケットからイヤホンを取り出すと、片方を心太の耳に付け、もう片方を自分の耳に差し込んだ。
そして携帯を触り、音楽をかける。
二人の耳にはゆずの夏色が流れる。
ニッコリと微笑む春子。
心太も思わず嬉しくなり
「しっかり掴まってろ!」と叫ぶと、春子を後ろにのせ砂煙をあげて漕ぎ出すのだった。
============
幼い春子の手には心太の自転車に乗る定期券。
心太は照れ臭そうに受け取って頭を掻いている。
自転車に乗った幼い二人は楽しそうに桜並木の川沿いの一本道を走りー
広い神社の境内にある大木の周りをぐるぐると回り
ホウキをもった和尚に怒られたりー
のんびりと田舎道を走る永造のマイクロバスに手を振ったりー
そして春子の家の前の坂道を登ったところで、成長して大人になった二人の姿に戻るのだった。
心太、グッとハンドルを握り直し
「よーし、いくぞ!」と叫ぶ。
「行けー!心太!」
春子が応えるのを合図に心太の足が地面を蹴る。
坂道を下り始めた二人の自転車は、まるでジェットコースターのようにどんどんと加速して行く。
歓声をあげながら疾走する自転車を操縦する心太の背中にしっかりとしがみついている春子もまた満面の笑顔である。
坂道の中腹に差し掛かり、心太はもうそろそろ、とブレーキを握る。
が!手応えがない!
心太の握ったブレーキレバーは手の中で頼りなくパカパカと動くだけで、一向に効く気配がない。
「あれっ!?あれっ!?」と慌てる心太。
春子もスピードに異変を感じて表情が変わる。
「ちょ、ちょっと、心太!ブレーキ!」
「効かねぇ!ブレーキが効かねぇ!」
「えぇー!?嘘でしょォ!」
心太は最後の手段とばかりに地面に足を伸ばすと、猛烈な砂煙が後方へと棚引いてゆく。
春子は「キャー!」と絶叫し心太の腰に回した手に力を込める。
「クッソォーーー!」
と心太は力を振り絞り、目一杯レバーを握り締めると、あの甲高いブレーキ音が「キキーーー!」っと辺りに鳴り響いた。
二人を乗せた自転車は急激に速度を落とし、心太は安堵の表情を浮かべて春子の方を振り返る。
が、春子の
「心太!前!前見て!」の声に咄嗟に向き直る。
が、目前にはまた例の植え込みが迫っていた。
二人の「ワーーッ!」という絶叫のあと、ガッシャーン!と植木鉢が割れる音が鳴り響くのだった。
============
日が暮れかかる川沿いの一本道を、砂まみれになった二人が自転車を押しながら、とぼとぼ歩いている。
「全く、あんたは成長しないんだから」
「しょうがねえだろ、ブレーキ故障してんだもんよォ」
「点検しなさいよ。もと整備士でしょう?子供じゃあるまいし」
「オイラ、子供でーす」
変な顔をしておどける心太のお尻にバッグをお見舞いする春子。
「イテェ!」と仰け反る心太に、呆れたように吹き出す春子。心太もつられて笑いだし、二人並んで歩いていく。
============
駅では、春子の両親、雄一郎と和代が改札口の前でイライラした様子で周囲を見回している。
春子を待つあいだにすでに数本の電車をやり過ごしているため二人共に気が気でない。
そこへ、自転車を押しながらやってくる春子と心太の姿をみとめ、思わず駆け寄る和代。
「ちょっと春子ぉ!あんた、何してたの」
「母さん…ごめんなさい」と謝る春子。
「…あの、すんません」と心太もばつ悪そうに頭を下げる。
和代、後ろの心太に気づく。
「あら、心ちゃん?どうして」
「送って貰ったのよ。永造さんのバス、故障したみたいで」
「あら、そうなの…」
後ろで仁王立ちしている雄一郎が腕組みしながら言う。
「なんだ、お前たち、その格好は」
和代はそこらじゅう砂まみれでボサボサの髪型になった春子の姿に気づき目を丸くする。
「あらあら、まぁ、何よこれ」と、春子の体をはたく。
「転んじゃったのよ、自転車で。ねぇ」
「あ、あぁ…すんません」
雄一郎は呆れたようにため息をつく。
「なにやっとるんだ。トコロテン。いい歳して」
「ちょっとお父さん」
和代、雄一郎の背を叩きたしなめる。
「名前のとおりじゃないか。トコロテンみたいにいつまでもフラフラして」
「…すんません。心太っす…」
と、頭を掻く心太。
「それで、どうなんだ。畑の方は」
「え…あ、いや、まぁ」
「イチゴ、だったか」
「や、ボチボチっす…すんません」
雄一郎は、そんな風に詫びてばかりの心太を何やら言いたげに見つめていたが、口元をゆがめて背を向けて、
「おい、早くせんと、また一本やり過ごすぞ」
と言い残し、さっさと改札の方へ歩いていった。
「そうよぉ、特急の指定席、せっかく取ってたのに無駄にしちゃったんだから。東京まで鈍行よ」
「ゴメン…」
「…すんません」
申し訳なさそうに頭を下げる心太。
「はい切符。早くしなさいよ、春子」
「うん…すぐ行く」
「じゃあね、心ちゃん。どうもありがとね」
と和代も雄一郎を追って改札に向かっていった。
真正面に立ち、心太と春子は向き合っている。
「…そしたら、私行くね…」
「…あ、あぁ」
一瞬、言葉に詰まり見つめ合うふたり。
「…ねえ、今日、何か言いたい事あったんじゃないの?」
「え、いや、その…」
春子、真剣な眼差しで心太を見る。
「言っとくけど、最後だよ。今日で最後なのよ」
心太、春子の迫力に気圧される。
「…その、そのうち帰って来るんだろ…盆とか、正月とか…」
「だから、そういう問題じゃ無くて!」
煮え切らない心太に思わず声を荒らげる春子。
ホームからは雄一郎と和代が心配そうにふたりを見守っている。
そこにチャイムが鳴る。
「~二番線、上り電車、上野行きは間もなく到着致します~」
心太、天を仰ぎ、大きく息を吸い込む。
そして意を決したように春子の両肩をがっしりと掴む。
「は、春!」
心太の大声にどぎまぎして硬直する春子。
「は…い」
ゴクリと、唾を飲む心太。
「いいか、い…いっかいしか言わねえぞ」
春子の肩に置いた心太の腕がわなわなと震えている。
「うん…」
春子は期待に満ちた瞳でじっと心太を見つめる。
「俺は…その…俺はだな…」
心太の唇が僅かに開き、何か言いかけようとする。
と同時に、ホームの方から突然歓声と拍手が起こる。
「それでは~新郎新婦のご出発とォ~お二人の門出を祝ってェ~バンザイ三唱を~」
結婚式の団体なのだろう、華やかに着飾った若者たちに囲まれて、一組のカップルが照れくさそうにはにかんでいる。
「あ…」
言葉に詰まった心太の視線は春子の肩越しに歓声をあげる若者たちに吸い寄せられ、背けることが出来ない。
と、そこに「早く早く」と、両手に幼子の手を引いた母親が小走りにやって来て改札の前に立つ心太の背にぶつかった。
反動でよろめく心太に母親は「ごめんなさい~」と、言葉を残し改札へ駆け込んでいく。
新郎新婦を見送る若者達のバンザイ三唱が響き渡る。
「心太…?」
我に返った心太は、諦めたようにうつむき、そして、絞り出すように春子に言う。
「…幸せに、なれよ」
春子の肩を掴んでいた心太の腕が、力無く離れていく。
春子は気が抜けたように大きく溜息をつくと、
「…うん、わかった…」
と、精一杯の言葉を返した。
ボストンバッグの紐を腕に通し行きかける春子に
「春」と、心太がジーパンの尻ポケットから慌てて何か取り出して春子の手にそっと渡した。
春子は手にした古い小さな紙切れに目を落とす。
「…これ」
セロテープの補修された跡があるその紙切れは、二人が幼い頃に使っていた自転車の定期券だった。
「…持ってたの…」
「もし、村に帰ってきたら…それ見せろ。また、いつでもうしろに乗っけてやるから」
春子は受け取った定期券を持った手で心太の手を握り直すと心太の目をじっと見つめる。
「心太。アンタも幸せになるのよ」
春子は微かに微笑むと、心太に背を向け歩いていった。
心太は立ち尽くし、春子の背中を呆然と見送るのだった。
============
電車に乗り込んだ春子と両親。雄一郎は窓側の席にどっかりと腰を落とすと、おもむろに新聞を広げる。向かいの窓側に和代が座り隣の席に春子が並んで座る。
「心ちゃん、なんだって?」
春子の様子を伺うように心配そうに聞く和代。
「…うん、まあ、別に…」
春子は俯いて、手に持ったあの定期券をじっと見つめている。
和代はちらりと雄一郎の方を見るが、大きく広げられた新聞に隠れてしまっていて表情は伺えない。
「何か話でもあったんじゃないの?」
春子は、財布に定期券をそっと仕舞うと、通路側の肘掛にもたれかかって、
「話なんて無いから、大丈夫よ」
と投げやりに答えて、疲れたように瞼を閉じた。
~お待たせ致しました。上野行き上り電車、間もなく発車致します~
車内アナウンスが流れ、電車はゆっくりと動き始めるのだった。
============
線路脇の側道を、心太が自転車を押しながら歩いてくる。砂埃で汚れた身なりを叩こうともせず、ただ呆然と俯いたまま重い足を引きずっている。
ロータリーの横に差し掛かった時、停車しているマイクロバスの運転席から太い腕が伸びると同時に、心太の脳天に衝撃が走った。
「痛っ!」
まるで隕石が頭に激突したかのような激痛に思わず頭を抱えてしゃがみ込む心太。
と、間髪入れず棍棒のような太い腕が伸びて心太のTシャツの首元をぐいっと掴んだかと思うと、野太い声が放たれた。
「小僧、てめえだな。バスのタイヤ抜いたの」
心太の脳天に強烈なゲンコツを振り下ろしたのは紛れもなく永造だった。
「何のつもりだ?えぇ!」
烈火のごとく激怒する永造に、うなだれ俯いたままの心太。
永造の腕が更に力を増し、心太の胸倉を掴むと、力いっぱいグイッと引き寄せた。
「黙ってねえで何とかー」
思わず言葉に詰まる永造。
心太の両目からはまるで滝のような涙が流れ、頬全体を濡らしている。
「小僧…お前…」
心太の口が僅かに開き、絞り出すように言う。
「永ちゃん…、俺よォ…オレ、どうすりゃいい…どうすりゃいいんだ…」
電車はゴトンゴトンと音を立てながら駅舎を離れていく。
心太は電車の音に我に返る。
「…春、春子ォ」
心太は永造の腕を首元から力無く振りほどくと、まるで夢遊病者のようによろよろと自転車にまたがり、電車の後を追い始めた。
「お、おい、小僧」
永造は滑り出して行く電車と自転車で追う心太の姿を交互に見ながら「…春子?」と呆気に取られそう呟くのだった。
============
海岸線を縫うように伸びる長い長い線路には申し訳程度に舗装された車道が並行して走っている。
春子達を乗せた鈍行は田舎電車らしくゆっくりとした速度で夕日に染まりかけた海を横目にガタゴトと音をたてて進んでいくのだった。
電車が過ぎ、線路を鳴らす音が消えていったあと、遠くから自転車のキイキイ音が聞こえてくる。
心太の顔はもはや涙か鼻水か見分けがつかない程びしょ濡れになり、拭うこともままならず一心不乱に電車を追っている。
「春子…行くなよ、春子ぉ」
うわ言のように泣きべそを掻きながら自転車を漕ぐ心太。その虚ろな視線の先に春子を乗せた電車はみる見るうちに小さくなって行く。
「ちくしょう…」
心太はついに力尽き、ペダルを漕ぐ足をだらりと離した。
惰性で進む自転車。
心太は天を仰いだ。
と、突然「パパーン!」とクラクションが鳴り響く。
驚く心太の横に永造のマイクロバスが現れた。
「小僧!女か!理由は春子か!?」
心太、思わずウンウンと頷く。
「どうすんだ!てめぇ、諦めるのかよ!馬鹿野郎」
心太はカッと目を見開いて、バスのドアにある手摺りを握りしめた。
「永ちゃん!頼む!」
自転車に跨ったまま大声で永造に呼びかける心太。
「頼む!行ってくれ!」
「小僧…」
永造はニヤリと笑うと、サングラスを掛け直す。
「小僧!飛ばすぞ!絶対離すなよ!」
永造は窓から心太にそう叫ぶと、ダッシュボードをガサガサと弄り、取り出したカセットテープをカーステレオに突き刺した。
全開にした運転席の窓から響く矢沢永吉のロックナンバーに合わせるように、グンと加速するマイクロバス。
心太は「あわわわ」とバランスを取りながら必死でバスの手摺りに掴まるのだった。
============
春子は、座席の肘掛けに頬杖をつきながら、眠るでもなくぼんやりと電車に揺られている。
窓辺に座る母の和代は俯いて眠っているが、向かいに座る父の雄一郎は相変わらず新聞紙を広げている。
後ろの座席には改札で心太にぶつかった幼子が二人、車窓からの眺めを楽しんでいる。
「ママー、見てーバスだよー」
幼子のひとりが言うと「バスーバスー」と弟の方も合わせて言う。
「ホントねえ、バスねぇ」
と母親は携帯電話を弄りながら気にもとめず答えている。
「あれー?ママー自転車もー」
「じてんしゃじてんしゃ」
車窓からは線路と並走する車道に、永造のバスが並んで疾走するのが見える。
心太は後部ドアの手摺に自転車ごと掴まっている。
幼子たちはキャッキャキャッキャと窓を叩き始める。
「これこれ、窓叩かないの」
幼子の母親がたしなめると幼子たちは
「おーい、おーい」と手を振りはじめる。
「ママー、窓開けてー」
幼子が言うと母親は面倒臭そうに「ちょっとよ」と言いながら幼子が座る窓を開ける。
幼子が呼ぶ「おーい」という声に応えるように、永造がバスのクラクションを「パパーン」と二度三度うち鳴らす。
何となく、幼子たちのやり取りを背中で聞いている春子。
「おーい、おーい」
「おーい!」
「自転車のおじさん、何か言ってるー」
心太は電車に向かって叫んでいる。
「春ー!春子ォー!」
春子は、心太の声に気付きハッと我に返る。
車窓から心太の姿をみとめると、おもむろに立ち上がり、和代と雄一郎を押し退け窓を力いっぱい引き上げる。
「心太ー!」
春子の声に気が付く心太。
「春子ー!行くなー!」
「えー!なに!?」
「だから!行くなって言ってんだ!」
「なっ、なんでよ!」
「東京なんて行くな!ここにいろ!」
「だからなんでよ!」
大声で応える春子の姿に顔を見合わせる和代と雄一郎。
後ろの座席ではポカンとして春子を見つめる幼子たちを母親が怯えた様子で抱きかかえている。
「なんで止めるのよ!」
「だっ、だから…!俺が…」
心太、ちらりと運転席の永造を見る。
前方には線路と離れていくように車道がカーブに差し掛かっている。
「小僧…!早くしろォ!」
ハンドルを握る永造の腕に力が篭もる。
心太、ゴクリと息を飲みこむ。
「だから俺が!」
「何!」
「お前に、惚れてるからだ!」
思わず言葉を失う春子。
和代はハッと両手で口を覆い、雄一郎は広げた新聞紙を盾に硬直している。
「そ、そんなの…」
春子の顔が見る間に紅潮して行く。
「そんなの、とっくの昔に知ってるわよォ!」
春子の声が海風に乗って響き渡る。
心太の顔にはホッとしたようで、またバツの悪そうなぎこちない笑みが浮かんでいる。
春子の長い髪が全開の窓から舞い込む風に吹かれている。涙を堪えながらギュッと唇を噛む。
海岸線いっぱいのカーブにタイヤを軋ませながら回り込むマイクロバス。
「しっかり掴まれェ…!」
めいっぱいハンドルを切る永造。
遠心力で振り切られそうになった時、心太の掴むドアの手摺がボルトごと外れた。
「アッ!」
と春子が短く叫んだ瞬間、心太の体が自転車と共に宙を舞った。
「ウワーッ!!」
心太の叫び声はそのままガードレールを飛び越え、その体が海に飛び込むまで続いていった。
思わず窓から身を乗り出す春子。
と、和代と雄一郎も同じように身体を起こし固唾を飲んで窓の外を見守っている。
春子は、心太の姿が海に着水したのを見届け、呆れたようなため息をつくと、力が抜けたように座席に腰を下ろした。
雄一郎は額の汗を拭いつつ、座席にどっかと座り
「ったく!あの…バカモンが!」
と吐き捨てるように言うと、また新聞紙を広げ直した。
和代は「春ちゃん…」と心配そうに春子に寄り添う。
「…わかってんのよ…そんな事…」
そうつぶやく春子の頬に涙が溢れてくる。
和代は春子の肩をさすりながら、雄一郎の様子を伺うように見る。
雄一郎は、広げた新聞を読むことなく目を閉じて、大きな溜め息をつくのだった。
電車は海をまたぐ鉄橋をあとにしてやがて見えなくなって行った。
カーブを過ぎた辺りで止まったバスの窓から永造は半身を乗り出してふうと大きく息を吐いた。
「おーい、小僧!生きてるかァ」
眼下に見える海面には、心太が大の字になって浮かんでいる。
「死んだ~」
心太は気が抜けたような声で答えると、夕日に染る空を見つめるのだった。
============
神木村に連なる山々はところどころ雪化粧を纏って冬支度を始めている。川沿いの桜並木もすっかり葉を落としてしまい、枝だけ丸裸で立ち並ぶ姿が寒々しい。
心太は永造の家の車庫前で、タイヤを抜いた事の代償にブラシを手に懸命にマイクロバスの洗車をしている。
永造は雑誌片手にデッキチェアにふんぞり返って、タバコを吹かしながら心太の作業を見張っている。
「おうぃ、色男。タイヤ周りもちゃんと擦れよ。手えぬくんじゃねえぞ」
心太は苦々しく「わかってるよォ」と答えると、ブラシを持つ手に力を込める。
「今年いっぱい、毎日だからな。サボんなよ」
「勘弁してくれよォ。俺だって忙しいんだぜ」
「バーカ。お前のどこが忙しいんだよ。デートの相手も居ねえじゃねぇか。ハッハッハ」
高笑いする永造を睨みつけ「うるせぇよ」と呟く心太。
洗剤を車体にぶちまけて不貞腐れた面で車体を磨いている。
ふと、見上げるとぽつぽつ雨が降り出してきた。
「あーあ、永ちゃん、雨だぜ」
永造は「ん?」と、空を見上げ舌打ちする。
「ったく。つくづくもってない野郎だな、お前も」
「天気に言えよ。降ってきたんじゃ、洗ってもしゃーねぇよな」
心太は「へへへ、ざまぁ見ろって」と、ほくそ笑みながらホースをグルグル巻き取っていると、目の前に綺麗な雑巾が差し出された。
「あと、運転席な。ピッカピカにしとけよ、ほれ」
雑巾を掲げてサングラスの奥でニンマリと微笑む永造。
心太は大きくため息をついて目の前の雑巾をひったくると、ブツクサ言いながら運転席に乗り込む。
ハンドルやダッシュボード周りを乱暴に拭いていく。
「クソッ!こんなボロボロの車っ!どんだけ磨いてもっ!綺麗になる訳、ねえじゃねェかッ!」
サンバイザーの表を拭いたあと、裏を拭こうと手前に倒した時にバラバラと紙切れが落ちてきた。
「…あ~もうっ!」
心太は、面倒くさそうに舌打ちして、膝に落ちたレシートや何やらを拾い上げて、ふと手を止める。
かなり年数のたったような、古い一枚の写真を手に取った。
写真は何処かのライブハウスで演奏するバンドを撮影したもの。
ライダースジャケットにサングラスをキメてギターをかき鳴らすリーゼントの男と、ハチロクマイクに手を回し、長い髪を振り乱しているミニスカートの女が、ピッタリと身体を寄せ付けて熱唱している姿だった。
写真の右下には2000年12月と、日付けが印字されている。
「2000年…」
心太が写真をまじまじと見入っていると、助手席の扉が開き、永造が「よっこらしょっと」と、乗り込んでくる。
「ほらよ」
心太は永造が差し出した缶コーヒーを受け取る。
「永ちゃん、この写真…」
「ん?あぁ…昔のな。古い写真だよ」
永造は缶コーヒーのフタを開け、ゴクリと一口飲む。
「もう二十年…か。ミナミ町のライブハウスだよ。俺たちが解散して、すぐつぶれちまったけどな」
「この女の人…確か、ジェシーさん?」
「なんだ、覚えてんのかよ。お前まだガキだっただろ」
「そりゃ知ってるよ。この村唯一の有名人だし」
永造は、思わずコーヒーを吹き出しそうになる。
「ハッ!有名人かよ!ま、この村ならそりゃそうか」
「テレビにも出てたろ?いっとき。オフクロが騒いでたの、覚えてるよ」
「フン。一発屋ってヤツだよ。誰が創ったのか知らねぇが、クソみたいな歌のな」
「…今は?」
「さぁな。何処でどうしてるのやら」
「…ふぅん」
永造は、助手席の窓を開け胸元から取り出したタバコに火をつける。
「で、お前の方こそどうなんだ?」
「何が」
「何がじゃねぇよ。春子に決まってるだろ」
心太、写真をサンバイザーのポケットにしまい込む。
「あれから、半年…か。何か進展あったのかよ」
「いいや。なんもねえよ」
「それで、何だ。お前はあれで満足したっていう事か」
「…満足…?」
「だから。長年の思いを告白してスッキリしたってコトか?ん?」
「…そんなんじゃねぇけど」
「フン。勢い込んで、行くな、なんて言ってはみたものの、今のテメーじゃ手の打ちようが無いってわけだ。幸せにしてやれねぇと」
「…まぁ、そんなとこだな」
「何とも古くせぇなぁ」
「…何がだよ」
「確かに、今のお前じゃ役不足かもしれんけどな」
永造は心太の正面に向き直ると、グイッと顔を突合せた。
「男が女を幸せにするなんてのは、まぁお前にとっては美学なのかもしれんが、俺に言わせりゃ昭和歌謡か演歌ってとこだな」
「…演歌?」
「あぁそうだ、流行りもしねえクソみてえな田舎演歌だよ」
「…それって、さっきのジェシーさんの話じゃ…」
「お前も若いんだからよ、もっとロックに生きろよ。ロックンロールによ」
「それは永ちゃんの趣味だろ」
「東京行って、連れ戻してくりゃいいじゃねぇか」
「…東京」
心太は、暫し俯き考え込む。
「…無理だよ」
缶コーヒーを手の中で転がしながら
「…駄目なんだよ」
と呟く。
「うん?」
「あいつは、いいヤツだから…うんと幸せになんねえと、駄目だと思うんだ…」
心太は、缶コーヒの口を開け、ゴクリと飲む。
「都会に出て、金持ちと結婚して、幸せになる。せっかくそんなチャンスがあんのによ、俺なんかが出しゃばる訳にいかねえよ」
「惚れた女の幸せを願って、身を引くってか」
「…ん」
「フン…ま、それもロックか」
永造は、納得したような、また諦めたように表情を崩す。
小雨まじりの雨は、いつの間にかチラチラと雪に変わっていった。
永造は「うー、冷えてきやがった」と首元をすぼめて背中を丸める。
「なぁ、永ちゃんだったらどうしてた?」
「ん?俺か?」
永造はしばし空を仰ぎ「うーん」と思い巡らす。
「ジェシーさんと一緒に暮らしてたんだろ?なんで別れたんだ?」
永造は、深くタバコを吸い込むと、灰皿を引き出して押し付ける。
「別れたんじゃねえよ」
「え?」
「アイツは、棄てて行っちまったんだよ。バンドもオレもな。へっへっへ」
「…棄てた?」
「その方が幸せになると思ったんだろ」
「何も…連絡、無いのか?」
「バーカ。何年経ってると思ってんだ。あるわけねぇだろ」
「…そっか」
「あいつの事だ。いい男見っけて上手くやってんだろ」
と、永造の携帯が鳴る。
画面に表示された「リカコ」の文字を見て、ニンマリと笑う永造。
「もしもーし。何だよォ、オレも寂しかったぜ~。あぁ、わかったわかった。今からいくから。ウン。ヨロシクゥ~」
ニヤニヤしながら電話を切る永造。
「ったく、しょうがねえなぁ。おととい行ったってのによォ。どうだ?お前も行くか?スナックリカコ」
「いかねぇよ」
呆れる心太を他所に、永造は
「あーあと、バスん中、掃除機かけたら帰っていいぞ」
と、言い捨てて「また明日な~」と手をヒラヒラさせながら出て行った。
心太は「まじかよ…」と呟くと、
「不良ジジイが!」
永造の後ろ姿に向かってパンチを繰り出すのだった。
============
日が落ちて、夕刻にはすっかり雪に変わり、永造の手伝いから解放された心太は、イチゴ畑の様子を見に戻って来た。
ジーパンのベルト通しにカラビナでぶら下げたトランジスターラジオからFMパーソナリティの軽快な声が流れている。
「さて、もうすぐクリスマスですね。何かご予定はあるんですか?」
「私は彼とデート、と言いたいところなんですが、いつもの女子会のメンバーでパーティーです」
と女性アナウンサーが答える。
「ハッハッ、まあね、それもいいじゃないですか」
「アオヤギさんは?」
「僕ですか?僕は一人で居酒屋で飲んで帰ります」
「えーさみしぃー」
心太は、カゴを脇に抱え剪定ハサミを片手にイチゴの苗木をかき分けている。
「いいんですよ。東京にはそんなサラリーマンいっぱいいるんだから」
「そうなんですかぁ」
「東京か…」とポツリ呟く心太。
「そんな寂しい人達にも幸せが届きますように。そしてクリスマスと言えばこの曲ですよね、山下達郎でクリスマスイブ」
村の公民館の玄関には、いかにも手作り感あふれるライトアップが施されていて、誰かが作った雪だるまが佇んでいる。
心太の母、民江は郵便局の前で原付に跨ったまま、村人と立ち話をしている。
サダオはどこかのカラオケボックスで友人達と楽しげに熱唱している。
永造は場末のスナックのカウンターに座り、店員と取り止めのないような話をしてニヤついている。
別の客が入って来て、店員がそちらへ愛憎を振り撒くと、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。
片肘をついて煙草を燻らせると、ふと、何か思い出したように寂しげな表情を浮かべる永造。
============
中腰になりながら苗木を掻き分けていく心太だが、見つかるイチゴの実は木苺のようにまるで小さいものばかり。
「チェッ…やっぱ今年もダメかぁ」
ため息混じりに未成熟なイチゴの実を手に取る心太だが、ふと目線を逸らした時、苗木の奥に他より少しばかり大きめのイチゴを見つける。
心太は思わず「おっ!」と声をあげると、剪定ハサミで傷付けないように慎重に収穫する。
形の整ったイチゴの実を満足気に顔の前に掲げてまじまじと眺めていると、正面に立つ人影に気がついた。
慌てて立ち上がった心太の前には春子が立っていた。
「は…春子?」
「出来たんだ、イチゴ」
心太、手に持った形の良いイチゴを恥ずかしそうに春子に見せる。
「え…あ、ああ、一個、いっこだけな」
「いっこだけ?あとは全滅?」
「いやまぁその…ハハハ…」
頭を掻きながら周りを見回す心太。
「でも、お前…なんでここに」
春子も呆れたように周りを見回す。
「まぁ、こんな事だろうと思ってね。心配だから帰って来てやったのよ」
「帰って…来た?」
「そ。あんた一人じゃ畑なんて無理でしょ」
心太の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「こ、これ食うか?」
心太の両手の中に差し出されたイチゴの実をまじまじと見る春子。
「…いいの?会心の一粒じゃないの?」
「お前に、その、食べて貰いたいんだよ。最初に」
春子、にっこりと微笑んで心太の手からイチゴを取ると、丸ごと口の中に入れる。
「ど、どうだ?」
もぐもぐと頬張る春子の口元をワクワクして見つめる心太。
「うーん、まずくは無いけど、30点ーー」
言い終わる前に、心太はもう、堪らなくなって春子を力いっぱいに抱きしめた。
思わず目を見開く春子だが、心太に身体を委ねる。
「ずっと、こっちにいるんか?」
「…うん」
「ホントに、手伝ってくれるんか?畑…」
春子が黙って頷くのを身体で感じる心太。
と、我に返り、体を離して春子の肩に両手を添える。
「いや、けど…幸せに、してやれるか…」
「え?」
「今の俺じゃ、お前のこと、幸せにしてやれるかどうか…」
春子はにっこりと微笑み、両手でそっと心太から身体を離す。
そして、大きく身をよじり、「うーん」と反動をつけたかと思うと、力いっぱい心太のボディにパンチをお見舞いした。
「ぉおっ!」
おもわず前のめりに倒れそうになる心太の胸ぐらを掴みあげ、顔を突き合わせる春子。
「誰がいつ幸せにしてくれって頼んだのよ」
「…え?」
痛みに顔を歪める心太。
「アンタに幸せにしてなんてあたしが言った?」
「言って…無い、けど…」
「ねえ、心太の幸せって、何?」
「オレの…幸せ…?」
「そう。あんたの幸せ」
「そ、それは…お前…」
「ん?」
「お前と…その…」
「聞こえない。ハッキリ言って」
「お前と、なんて言うか…一緒にいる事…じゃねぇか」
春子、勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。
「フフン。だったらアタシが幸せにしてあげるわよ」
「…え」
「アタシだってずっとアンタに惚れてるんだから」
「春子…」
ランタンの灯りに照らされて、唇をかさね合う心太と春子のシルエットがビニールハウスに映し出される。
静寂が二人を包む。
「あーあとね、来週から父さんも来るから」
「え!な、な、何で…」
弾かれたように徐に離れる二人の影。
「当たり前でしょ。縁談断った上に、こっちに帰ること説得するの大変だったんだから」
「そ…そうか…そりゃそうか」
「張り切ってたよ、イチゴの本なんか買って腕まくりして」
「くぅーっ、マジか…」
大きく天を仰ぐ心太を見て、思わず笑い出す春子。
============
「よっこらせっと」
心太は、ハウスの裏に立て掛けていた自転車を春子の前に持ち上げる。
「おー、復活したんだ、自転車。あのまま海に沈んだかと思ってた」
「永ちゃんと二人で引っ張り上げてよ。ロープで」
「無茶するから」
「へっへっ」
春子は「あ、そうだ」と、バッグから何やら取り出すと、心太に手渡した。
「はい、定期券」
「…ん」
心太は照れくさそうにそれを受け取ると、ニッコリと笑う春子につられて微笑み返す。
春子は、荷台に跨ると「ねぇ」と悪戯っぽく心太の顔を覗き込む。
「もっかい言ってよ。こないだの」
「…な、なんだよ、こないだって」
「海に飛び込む前のアレよォ」
「言うかよ。馬鹿」
「ちゃんと聞こえなかったのよォ」
「き、聞こえただろ!」
「いいじゃん、ケチー」
「絶対言うか!」
おもむろに走り出す自転車。
心太の背中に慌てて掴まる春子。
「ブレーキは?ブレーキ直したんでしょうね」
「うん?大丈夫だろ。多分…」
「ちょっとォ!」
夜のとばりが舞い降りて、夕闇が村を包みこむ頃、暖かな灯りをともす集落に向かう長い坂道を、心太と春子を乗せた自転車は甲高いブレーキ音を響かせて、疾走していくのだった。
ー終ー
舗装もされていない広く長い一本道の傍らに、標識だけ置かれたバス停がある。
春子は、一人佇んでいる。
両手で提げたボストンバッグを砂地の地べたに置くわけにもいかず、といって額に浮かぶ汗を拭うこともままならず、春子は青空に浮かぶ太陽を眩しそうに睨み付け、ふうとため息をつくのだった。
「遅いなあ、バス」
真っ直ぐに伸びる砂利道の果ては地面の隆起の加減で海に連なっていて、遥か先の海面に反射した光がゆらゆらと立ちのぼって見える。
春子の視線の先、道の向こうから自転車が一台ゆっくりとこちらに近づいて来る。
長いこと油を挿していないのか、ギーコギーコといやな音を撒き散らしている。
自転車を漕ぐ男が幼なじみの心太であることはすぐにわかったが、春子はまるで無関心を装うように直ぐに視線を落とし俯くのだった。
心太は、ようやく春子の前までたどり着くと、キーっと甲高いブレーキ音を轟かせ、Tシャツの襟元をバタバタと扇ぎながら
「ふぃー、暑っちい暑っちい。汗だくだ、ほれ」
と、屈託のない笑顔を春子に向けている。
「まだ4月だってのによ、これじゃ夏じゃねーか。どーなってんだよ、なぁ」
春子はちらりと心太を見るが、ため息まじりに
「何やってんのよ」
と、呆れたように答える。
「何ってお前、いやまあその、畑の様子を見ようと思ってよ」
「…畑って、全然向こう側じゃない」
「そんで、ついでにこの辺をぐるっと」
「ぐるっと何よ」
「いや...ぐるっとは、その、ぐるっとじゃねぇか」
春子、呑気そうな心太にひどく呆れて
「ばっかじゃないの」
と、ソッポを向く。
心太は春子の表情を意に介さずに
「あーそうだそうだ、バス、バスなら来ないぜ」
「え?どういうこと?」
「なんか、故障したみたいだぜ、永ちゃんバス」
「故障ぉ?」
============
村にはたった一台の小さなマイクロバスしかなく、農家を引退した永造が役場から委託を受けて一人で運行しているのだった。
「アイラブユーOK~♪︎」
今朝もいつもと同じようにロックスターかぶれのリーゼントにサングラスを決め込んで、鼻歌交じり母屋から出て来た永造は、隣接するガレージのシャッターを重たそうに「よっこらせ」と引き上げる。
シャッターはガラガラと音を立てて勢いよく上がると小型のマイクロバスが現れた。
車体には「神木村永ちゃんバス」の文字が入っており、口笛を吹きながら運転席に回り込んだ永造はドアを開けようとして「ん?」と思わず目を見開いた。
「な、なんじゃぁーこりゃ!」
バスのタイヤは全部外されていて、車体はブロックの上に綺麗に載せられている。
「ど、ど、どうなっとんじゃ」
永造はあまりの出来事に腰を抜かさんばかりにヨタヨタとバスの周りを一周すると、傍らに積まれたタイヤに近づいた。タイヤには何やら紙が貼られており、永造はサングラスを額にあげてまじまじと読んだ。
~タイヤ点検異常無し~
「点検~!?異常無しィ~!?」
永造はおもむろに手紙を引っぺがすと怒りを込めて叫んだ。
「だ、誰じゃー!」
村中に響き渡る程の永造の雄叫びに、物陰で様子を伺っていた心太は、まるで神に許しを乞う様に両手を合わせ、慌てて自転車に跨り逃げていくのだった。
============
「ありぁ、パンクかもなぁ」
「パンク!?」
他人の仕業のように腕組みして頷く心太。
「四本とも、イカれちまってたみたいだから、オレの経験上、だいぶ時間かかるかもしんねぇな」
春子、慌てて腕時計に目を落とす。
「そんな…電車乗り遅れちゃうじゃない」
「なんだよ、今日行かねえとダメなのかよ」
春子、呆れたように心太を睨む。
「当たり前じゃない!大事な...」
言葉に詰まる、春子。
「向こうで…大事な用があるんだから。父さん達も駅で待ってるし…どうしよう」
オロオロと焦る春子をじっと見つめる心太。
「…ま、乗れよ。送ってってやるよ」
春子、自転車に跨り荷台を叩く心太を見て戸惑いを見せるがすぐに向き直る。
「…いいわよ。タクシー呼ぶから」
「バーカ、朝っぱらからこんなとこにタクシーなんか来るわけねぇじゃねぇか」
心太、おもむろに春子の手からバッグを取りあげる。
「荷物これだけか?随分少ねぇんだな」
春子、お返しとばかり心太からひったくる。
「あとから送んのよ!引越しするのにいっぱい荷物抱えて行く訳ないじゃん!ばっかじゃないの」
しばし、沈黙する二人。
「遅れるぞ、電車。いいのか?」
「…昨日、何で来なかったのよ」
春子の、思わぬ切り返しに思わず口ごもる心太。
「え、昨日?ええと、なんか、あったっけか」
「送別会。あたしの」
「うん?…あ、いや、んーまぁ…」
「クラスの皆んなも、村の人たちもみんな来てくれたのに、あんただけ」
「いや…行くつもりでよ、途中まで…」
「途中まで何よ」
「サダオの奴がよ、その…つまんねぇこと言いやがるからよ…」
「何よ、つまらない事って」
「いや、その…お前の、ほれ、就職先の…」
「…縁談の、話のこと?」
「…まぁ…そんなような事をな」
「あぁ…そういう事。それでか…」
============
昨日の夜は村の公民館で春子の送別会が開かれたのだった。村と言っても、数十世帯程の小さな集落なので、誰かが都会に出るとなると、村民総出の恒例行事で、当然心太も出席することにしていた。
心太はジーパンにTシャツの普段着で、口笛など吹きながら公民館に向かう道中、不意に路地裏から伸びた手に引きずり込まれた。
「な、何すんだよ!サダオ!」
サダオは心太をがっしりと羽交い締めにする。
「何すんだじゃねぇよ。何だよお前そのカッコは」
「カッコ!?何が」
「春ちゃんの送別会行くんだろ?Tシャツって何だよ」
「わ、悪いかよ。お前こそ何だよ。そんなかしこまって。ただのお別れ会じゃねぇか」
サダオは心太の腕を掴みながら呆れたように言う。
「お前、聞いてないのか?春ちゃんのこと」
「何だよ、就職だろ、タダの。そりゃ就職となりゃ皆んな東京行くだろ。去年もタモツやサオリも」
「だから!東京の就職先の事だよ」
「就職先?知らねえよ、そんなもん。どうせ盆や正月には帰ってくるんだろ」
サダオ、おもむろに心太の体を引き寄せる。
「あのな、春ちゃんの就職する会社な、社長が春ちゃんの親父さんの友達なんだってよ」
「親父さんの友達…何っ!あの野郎コネ使いやがったんかよ」
「いや、たまたまらしいぜ。面接の時に住所と名前見て、社長がアレもしかしてってなったんだって」
「たまたま~?ふーん。ラッキーじゃねえか。世間は狭いもんだな」
「呑気な事言ってんじゃないよ。問題はな、その社長の息子なんだよ」
「社長の息子ぉ?む、息子が…どうしたんだよ」
何やら嫌な予感を感じとる心太。
「どうも、春ちゃんの事、一目見て気に入ったらしいんだ」
「春…のことを?」
思いもよらないサダオの話に、心太は顔を曇らせるのだった。
============
東京のマツオフーズ本社では、その日、新入社員の面接が行われていた。
春子はリクルートスーツを身にまとい、緊張した面持ちで役員面接に臨んでいる。
「それでは志望動機を聞かせて貰えますか。右の方から」
「はい」
と、右端に座っている女性がにこやかに返事をして話し始めている。
春子は、視線を宙に向け口をぱくぱくとさせて無心で練習をしている。
「えーっと、では次の方…橘さん、橘春子さん」
役員の一人が春子に問いかける。
「はっ…はい!」
春子、おもむろに立ち上がる。
「あー、座って座って。立たなくていいから」
「はっ、す、すみません」
ガタガタと座り直し大きく深呼吸する春子。
隣に並んで座る数名がドタバタする春子を見てクスクスと笑っている。
「ではどうぞ」
「は、はい…。あの、志望動機、志望動機ですね。えっと私の実家がですね、その…先祖代々農業を営んでおりまして、幼い頃からその、食に関する事には人一倍こだわりを持っておりましてというか、いえ、あの、こだわりと言いましても好き嫌いとかそんなじゃ無くて、食べ物を大事にとか、そんなような気持ちをですね、持っておりましたというか、その…」
無表情で春子を見る役員。
さらに緊張を高める春子。
「で…貴社のモットーにある、安全な食事を、ええと、その、なんて言いますか、人類に…」
役員はキョトンとして「人類に?」
春子、さらに慌てて「安全な食事を…世界の、人々に…でしたっけ」と伺うように聞く。
役員のひとりは仕方ないと言ったように「日本の皆さんに」と助け舟を出す。
「そう、日本国民の皆様に提供するといったような、その…社風に惹かれまして…そんなような事を...ハイ」
役員達が顔を見合せている。
春子の顔がさらに赤く染まる。
「ご実家はどういった農業を?」
「はい、え、あの、どういった…とは?」
「どんなモノを作られてるんですか?畑で」
「あ、畑…あの、主に、さつま芋とか栗だとか…」
「さつま芋…ですか」
「ハイ…」
恥ずかしさに思わず顔を伏せる、春子。
と、役員の真ん中でじっと履歴書に目を通している松尾社長が口を開く。
「うん?神木村のぉ、あなた、橘さん?」
「は、はい…」
「神木村ぁー、たちばなぁー…んー」
松尾社長、眼鏡を額に上げ天井を見上げて何やら考え込んでいる。
役員が訝しそうに顔を見合わせる。
「あの…社長、何か?」
松尾社長、ポンと手を打ち
「そうだ、思い出した!雄一郎さん、神木村の橘雄一郎さん」
驚く春子。
「え!とうさん…あ、父をご存知なんですか」
「そうかぁ、あなた雄一郎さんの娘さんかぁ」
今まで神妙だった春子の顔がパァっと笑顔に変わる。
「もちろん、知っとるとも。いやぁ懐かしいなぁ。赤ん坊のあんたを抱いたこともある」
「えぇー!ホントですか!」
松尾社長、眼鏡を戻し座り直す。
「私ねぇ、この会社を先代から継ぐときにね、農業研修に行かされたの。神木村に。1ヶ月も。その時居候させて貰ったのがあんたのお父さん家」
「へぇーそうだったんですか!全然知りませんでしたー」
「農家なんてワタシ初めてでしょ?もう嫌で嫌でねぇ。朝は早いし仕事は辛いし。一日で帰りたくなっちゃった」
「は、はぁ…」
「んだけど、雄一郎さんにこっぴどく怒られてねぇ。ひと月ぐらい辛抱出来んでどうすんだ!ってねぇ」
「あの、すみません、なんか…」
「あーいやいや、あの経験があったから、ほれ、今こうして何とかやれてるんだから。感謝しとるんですよ、雄一郎さんには。奥さんもお元気ですか」
「はい!ぜんぜん元気です」
「そうか~まだ作っとるの~さつま芋。美味かったなぁ。奥さんの手料理」
「肉じゃが!ですか?」
「そうそう!さつま芋の肉じゃが!それに、ほら栗ご飯も!」
「そう!」
面接を待つ数名が社長と春子のやり取りを見て思わず顔を見合せている。
先程の役員が「ゴホン」と咳払い。春子、思わず恐縮して
「あ、すみません…」と俯く。
柔和な笑顔で頷く松尾社長。
と、社長の隣の青年が感心したように口を開く。
「へぇーさつま芋の肉じゃがですか」
青年は、豪快な松尾社長とは対照的に細面で身綺麗な、いわゆる二枚目を絵にかいたような若者である。
「あ…ハイ…」
若者を直視出来ず恥ずかしげに顔を伏せる春子。
「珍しいですね。普通は肉じゃがと言えばじゃがいもでしょ?」
社長と春子、ニンマリと目を合わせる。
「美味いんだよ、それが。なぁ」
「ハイ!得意料理なんです、母さんの!」
「でも、さつま芋じゃ煮崩れしたりしませんか?柔らかすぎて」
「いやぁそれはだな…」
春子、社長を遮り
「皮付きのまま煮るんです!崩れないように」
「そうそう。それがまた甘味があって美味いんだ」
「なるほど。一度食べてみたいなぁ。春子さんは作れるのですか?」
突然下の名前で呼ばれ、どぎまぎする春子。
「え…私ですか?ハイ…あの、母ほど上手くありませんが…」
「おぉ、そりゃいい。いっぺんお前もご馳走してもらうといい。春子さん、コレは私のせがれでね、うちの専務をやらしとる」
「俊彦といいます。よろしくお願いいたします」
「あ、あの、こちらこそよろしくお願いします…」
松尾社長、身を乗り出し内緒話をする様に
「一応、まだ独身だよ」
「しゃ、社長!」
俊彦は慌てて諌めるが、意に介せずワッハッハーと大笑いする松尾社長。
苦笑いを浮かべて恥ずかしそうに俯く春子を、優しげに見つめる俊彦だった。
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月明かりに照らされる路地裏。
心太、おもむろにサダオの手を捻りあげて後にねじる。
「お前はまた見てきた様な事を」
サダオ、思わず「イテテテテ」と喚くと、心太の手を振り払う。
「痛えな!もう!俺は見てねえけどな、このまえ春ちゃん家に挨拶に来たんだとよ。その社長さんと息子が」
「挨拶…?」
「あぁ。運転手付きのでっけえ外車でな」
心太、小さくため息つき、「ふぅん」と、呟く。
「…いいのか?お前」
「何が」
「何って、春ちゃん、明日の朝イチで行っちまうんだぜ、東京」
心太、サダオを遮り
「あいつと俺はタダの幼なじみだ。それだけだよ」
「いや、けどよ!」
「いいじゃねぇか。あいつは幸せになるんだろ?」
「心太…」
心太、立ち上がりジーパンの砂ぼこりをはたくと「じゃな」と言って背を向ける。
「おい!どこ行くんだよ!」
「悪いけど、帰るわ。よろしく言っといてくれや」
と、サダオを背にして去って行く。
「か、帰るってお前!おい!」
心太は振り返ることも無く、ジーパンのポケットに手を突っ込んで路地の向こうに消えて行った。
「…ったく…意気地無しが」
心太の背中を見つめながら、苦々しく呟くサダオであった。
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公民館の座敷では、宴もたけなわとばかりに春子を囲んで村民たちが盛り上がっている。
春子もにこやかに談笑して応えているが、ふと辺りを見回わすと、座敷に並んだ料理の座卓が、ひとつだけポツンと手付かずのまま残されている。
春子は寂しげにその座卓を見つめるのだった。
============
夜も更けて、村中が静寂に包まれる頃、心太は自分の部屋のベッドで足を組んでふんぞり返り天井を睨みつけていた。
表の通りから、送別会帰りの酔っ払いの賑やかな笑い声や鼻歌が聞こえてくる。
「ほんじゃーな、民ちゃん」
「おやすみー」
「アンタたち、気をつけて帰んだよ。川に飛び込むんじゃないよ!」
酔いの回った民江の声が響き渡る。心太の母である。
「うぉーい。息子のトコロテンにもよろしくなァ」
「あいよォ」
心太は「チッ」と舌打ちして
「誰がトコロテンだ」
と苦々しく呟くと、天井から伸びた電気の紐に手を伸ばしてあかりを消すと、ゴロンと横になった。
民江はドカドカと階段を上がってきて、心太の部屋の引き戸を勢いよくガラガラと開ける。
「なぁーによ、アンタ。電気もつけんと」
「うるっせえな、夜中じゃねぇか」
おもむろに心太の布団をひっぺり返す。
「そんな事よりさァ、春ちゃんのこと、アンタ、知っとるの」
「…あぁ?」
「縁談よォ縁談!さっきサダ坊から聞いて、あたしゃもう、びっくりしてしまって」
「…知ってるよ」
「なんでも就職先の社長さんの息子らしいじゃないか。まさかねぇ、そんな人に見染められるなんてねぇ。ここらみんな貧乏農家なのに、いくら一人娘だって言ってもそりゃ雄さんも和ちゃんも大喜びで送り出すってもんよォ」
民江は一気にまくし立てると、手に持ったワンカップをぐびりと煽る。
「アンタもさぞや寂しかろうよ、心太」
「な、何がだよ」
「何がって、あたしゃね、てっきりあんたと春ちゃんがそんな風だとばっかり思っとったんだけどねえ」
「そんな風って、何だよ」
「いきなし町の整備工場辞めて帰ってきたと思ったら、気まぐれに畑なんか弄り始めて。そりゃまぁ、にわか百姓のあんたじゃ春ちゃんも苦労するさねぇ」
「う、うるせぇなババア!さっさと寝ろよ!」
「あんな器量も気だてもいい子、他にこの村に居ないしねぇ。あ~あ、残念、残念。残念無念」
民江は「よっこいしょ」と重そうに腰をあげる。
「あぁ、そうそう。明日の朝、永造さんがバスの点検しといてくれってよ」
「ったく、なんで俺が」
「しょうがないじゃないか。アンタしか車いじれるモン居ないんだから。春ちゃんのこと送るの最後になるかもしれんからしっかり見てくれってよ」
「あークソめんどくせえなぁ」
「送別会も出なかったんだから、ちゃんと見送ってやるんだよ。春ちゃんのこと」
民江は「にしても、残念残念」と言い残し、ドアを閉めて行った。
心太はしばらく片手枕に考え込んでいたが、「えぇい、クソっ!」とやにわに起き上がり、部屋を出ていった。
母屋のそばにある物置の中で、ガチャガチャと音を立ててスパナや懐中電灯を取り出している心太。
整備士の頃に揃えた道具を、手際よく選別している。
と、ふいに手を止めると、足元にある大型のジャッキに目をやる。
いかにも重そうなジャッキを抱えあげて、何やら考え込む心太。
============
青空を、ツバメが糸を引くように飛んでいく。
「そっか…それで昨日、来なかったわけか」
心太、春子に背を向けたまま、ぎこちなく微笑んでいる。
「よ、良かったじゃねぇか」
「…」無言でしやがみ込んで、うつむく春子。
「東京の、今度就職するトコの息子なんだって?あれだ、玉の輿ってやつじゃねえか」
「…まだ、正式に決まった訳じゃ…」
「なかなか無いぜ、そんな上手い話。なぁ」
心太、しきりに頷きながら、まるで自分に言い聞かせるようにまくし立てる。
「…そう…だよね」
「そ、そうだよ、無いよ。こんなド田舎のちっぽけな村からよォ、東京の社長夫人だなんてよ、有り得ねぇよ!」
「有り得ない…よね」
「畑しかねえんだから…こんなとこ…どうしようもねえよ」
心太は、遠い目で建物も何も無い村を見つめる。
「…イチゴは?今年は出来そう?」
心太、バツ悪そうに
「うん?んーまぁ、これからだよ、これから。けど、クリスマスには間に合わせねえとな。しこたま作ってよ、町のケーキ屋に売りつけてよ。うん」
と、自分に言い聞かせるように二度三度うなづいて見せる。
「去年は全然ダメだったけど、惜しいヤツもあったんだよ」
「そう…」
と、春子は遠くを見つめている。
「今年こそは会心の一粒ってヤツを作って、町中のケーキ屋にオレのイチゴが並ぶんだよ。ずらっとな」
「楽しみじゃん…」
「へっへっ、なぁ」
と、突然強いつむじ風が吹き、砂埃が舞い上がる。
思わず体を背ける心太と春子。
「ゴホゴホッ」と咳き込む心太。
「ったく、こんな砂利道がバス道だもんな。さっさと舗装ぐらいしろってんだよ」
うずくまった春子の頬に涙が流れる。
心なしか、肩が震えているのをみとめる心太。
「え、おい、春、どうした…目に入ったか」
春子は、頬をつたう涙を拭うと、絞り出すように呟く。
「こんな砂利道…」
「え?」
「こんな砂利道、東京には何処にも無いのよ!」
そして強い口調で言うと同時に、地面の砂を引っぱたいた。
心太、舞い上がった砂ぼこりに思わず顔を背ける。
咳き込みながらも顔の前を手で払い、文句を言いかけるが、地面をじっと見つめている春子に言葉が出ない。
「春…」
と、春子、突然かがめていた身を起こし、両手で顔をゴシゴシ擦ると、大声で笑いだした。
「アーハッハッハ!でもホントだよね!ホント、ラッキーだよね!」
春子の変貌ぶりにポカンとする心太。
「…は、春」
「新宿よ!都庁の目の前だよ?都庁。アンタ、見たことないでしょ」
「そりゃあ…まぁ、見たことねえよ」
「会社だって綺麗なんだよ~コンクリートでさぁ、もうピカピカしてんのよ!」
「ほ、ホントかよ…」
顔をあげた春子の表情は、何か吹っ切れたような穏やかな笑顔に戻っていた。
「まぁ、キミもそのうち遊びに来なさい。大都会を案内してあげるから」
心太は「…あぁ」と、答えるのが精一杯だった。
============
広く長く続く砂利道は、この季節、川を挟んだ両側の土手が見事な桜並木になっていて、毎年、通学路だったこの道を通るのが春子は好きだった。
心太の漕ぐ自転車の荷台に、春子は上品に横乗りして、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらを見上げている。頬を撫でる風が気持ちいい。
「久しぶりだねぇ。心太の自転車の後ろに乗るの」
「ん?あぁ、そうだな。中学校以来か」
春子、思い出すようにクスッと笑う。
「あれ、いつだっけ?あんたがさぁ、初めて自転車買って貰ったとき」
「あぁ、小5だろ」
「大きすぎて足なんか届かないのに」
「大人用だったからな」
「あたしが風疹かなんかでしばらく学校休んでた時にさ」
============
春子の家は、畑が広がる集落の高台にあり、段々畑の側道が長い長いくだり坂になっている。
二階の部屋で、母の和代が幼い春子の熱を測ったり、おでこに乗せたタオルを取り替えたりしている。
「うん、熱ちょっと下がってきたねぇ。あと少しの辛抱よ」
「ぶつぶつは?治る?」
春子は風疹のあとが残らないか心配しているのだ。
「大丈夫よ。もうキレイになってきたよ」
そう言いながら、和代は春子の頬を優しく撫で付ける。
と、そこへ玄関のチャイムがなった。
「誰かしら」
和代は春子の部屋を出ると、はーいと言いながらトントンと階段をくだり、玄関を開けた。
「あら心ちゃん。久しぶりねぇ」
玄関には、真っ黒に日焼けしたランニングに短パンのいかにも腕白そうな幼い心太がノートやらプリントやらがはいった袋を提げて立っている。
「これ、先生が持ってけって」
子供の頃も今と同じようにぶっきらぼうな態度で手提げ袋を突き出す。
「まぁまぁ、わざわざ有り難うね。自転車で来たの?」
「うん」
「あらまぁ、坂道えらかったでしょう」
心太、ぶるんぶるんと大きく首を降る。
「あぁそうだ、心ちゃん、ちょっと待ってねぇ」
和代はそう言って台所へと引っ込んでいった。
心太は階段の方が気になり、かがんで覗き込むように二階の様子を伺っている。
と、ほんのかすかに「ごほんごほん」と春子の咳き込む声が聞こえる。
じいっと息をひそめ、聞き耳をたてていると、和代がいそいそと小走りに戻って来たものだから、心太は慌てて起立する。
和代、ちらりと二階の方を見る。
「ごめんねぇ、春ちゃん、寝てるのよ」
見透かされたようで、恥ずかしくなる心太。
「でももう良くなってるから、大丈夫よ」
「が、学校は?いつ来れる?」
「うーん、そうねぇ、あと一週間位ぐらいかな。心ちゃん達に伝染るといけないから。はいこれ」
と、心太に手提げ袋を渡す。
「甘栗よ、持って帰って。もう炒ってあるから、食べてね」
心太、ペコリと頭を下げ、玄関を出ていく。
「お母さんに宜しく言っといてねぇ」
和代は心太の後ろ姿にそう声をかけると、微笑ましそうにまた二階の方を見て、部屋の奥へと戻るのだった。
二階の部屋のベッドでは、大人しく布団に入っている春子が、ぼんやりと窓の外を眺めている。
すると、何処からかキィーキィーと、甲高い機械音が聞こえてくる。
暫く止んだかと思ったら、またキィーキィーッと鳴り響く。
三回ほど繰り返し聞こえたところで、春子はどうにも気になって体を起こして窓の外を見る。
見ると、坂道の下の方から心太が小走りに自転車を押して登ってくる。
心太は坂の頂上まで来ると、春子の部屋の窓の方をキョロキョロと見て、おもむろに自転車に跨がると、猛スピードで坂道を下っていった。
坂の中腹辺りでブレーキを力一杯かけるので、キィキィ音が鳴り響くのだった。
春子は途端に嬉しくなって、窓をガラリと開けて身を乗り出した。
心太はまた同じように坂道を自転車を押して登って来て、春子の部屋の方を見ると、そこに待望の春子の姿を見つけた。
春子はにこやかに微笑むと心太に手を振る。
心太は照れ臭そうに手を挙げると、また自転車に跨がり、気持ち良さそうに下っていく。
そんなことを二度三度繰り返したところで、心太もいよいよ調子に乗って来て、春子に手を振りかえして下っていったりしたものだから、ハンドル操作を誤って脇道を逸れて絶叫と共に民家の植え込みに突っ込んでいった。
ガッシャーン!と大音響と共に植木鉢が割れる音が村中に鳴り響く。
春子は驚いて窓から身を乗り出して坂のふもとのほうを心配そうに見ると、心太が植え込みから転がるように飛び出てきて、申しわけ程度に植木鉢を整えると、自転車に跨がりフラフラと去っていった。
春子はあまりの出来事に、両手を口に当てて呆然としていたが、心太の様子に可笑しくなり思わず吹き出してしまうのだった。
============
春子は今、心太の自転車の後ろで揺られながらそんな子供の頃を思い出しているのだった。
「おっかしかったなぁ、あんたの顔」
「あのあと、えらい怒られたんだぜ。あの家のババアによ」
「そんで、あんたの運転が危なっかしいから、あたしが後ろに乗ってあげるって言ったのよ」
「そうだっけか」
「そうよ。覚えてない?あたしが作った定期券」
「…ん」
幼い春子、机に向かいカード大に切った画用紙にクレヨンで何やら熱心に書き込んでいる。
そこには、心太ん家、春子ん家の文字が矢印で結んであり、その上に「ていきけん」と平仮名で書かれている。
春子は、その定期券の周りを色鉛筆でカラフルに縁取りをすると「出来た!」と満足そうに微笑むのだった。
「あんたの後ろに乗るたびに渡したりしてさ。可愛かったよねぇ二人とも」
「ふぅん。忘れちまったよ」
春子、心太の背中をバンッと叩く。
思わず「イテェ!」と叫ぶ心太。
「懐かしいなぁ、あの坂道」
「行ってみるか」
「え?」
「ちょっと遠回りになるけどよ」
春子、心太の提案に暫しポカンとなるが、すぐに満面の笑みがひろがる。
「うん!行こう!」
春子は、おもむろに自転車を降りると、持っていたバッグをリュックのように背中に背負い、長いロングスカートをヒラリとさせると、乗馬のように荷台に跨がった。
「あ、そうだ、ちょっと待って」
春子は上着のポケットからイヤホンを取り出すと、片方を心太の耳に付け、もう片方を自分の耳に差し込んだ。
そして携帯を触り、音楽をかける。
二人の耳にはゆずの夏色が流れる。
ニッコリと微笑む春子。
心太も思わず嬉しくなり
「しっかり掴まってろ!」と叫ぶと、春子を後ろにのせ砂煙をあげて漕ぎ出すのだった。
============
幼い春子の手には心太の自転車に乗る定期券。
心太は照れ臭そうに受け取って頭を掻いている。
自転車に乗った幼い二人は楽しそうに桜並木の川沿いの一本道を走りー
広い神社の境内にある大木の周りをぐるぐると回り
ホウキをもった和尚に怒られたりー
のんびりと田舎道を走る永造のマイクロバスに手を振ったりー
そして春子の家の前の坂道を登ったところで、成長して大人になった二人の姿に戻るのだった。
心太、グッとハンドルを握り直し
「よーし、いくぞ!」と叫ぶ。
「行けー!心太!」
春子が応えるのを合図に心太の足が地面を蹴る。
坂道を下り始めた二人の自転車は、まるでジェットコースターのようにどんどんと加速して行く。
歓声をあげながら疾走する自転車を操縦する心太の背中にしっかりとしがみついている春子もまた満面の笑顔である。
坂道の中腹に差し掛かり、心太はもうそろそろ、とブレーキを握る。
が!手応えがない!
心太の握ったブレーキレバーは手の中で頼りなくパカパカと動くだけで、一向に効く気配がない。
「あれっ!?あれっ!?」と慌てる心太。
春子もスピードに異変を感じて表情が変わる。
「ちょ、ちょっと、心太!ブレーキ!」
「効かねぇ!ブレーキが効かねぇ!」
「えぇー!?嘘でしょォ!」
心太は最後の手段とばかりに地面に足を伸ばすと、猛烈な砂煙が後方へと棚引いてゆく。
春子は「キャー!」と絶叫し心太の腰に回した手に力を込める。
「クッソォーーー!」
と心太は力を振り絞り、目一杯レバーを握り締めると、あの甲高いブレーキ音が「キキーーー!」っと辺りに鳴り響いた。
二人を乗せた自転車は急激に速度を落とし、心太は安堵の表情を浮かべて春子の方を振り返る。
が、春子の
「心太!前!前見て!」の声に咄嗟に向き直る。
が、目前にはまた例の植え込みが迫っていた。
二人の「ワーーッ!」という絶叫のあと、ガッシャーン!と植木鉢が割れる音が鳴り響くのだった。
============
日が暮れかかる川沿いの一本道を、砂まみれになった二人が自転車を押しながら、とぼとぼ歩いている。
「全く、あんたは成長しないんだから」
「しょうがねえだろ、ブレーキ故障してんだもんよォ」
「点検しなさいよ。もと整備士でしょう?子供じゃあるまいし」
「オイラ、子供でーす」
変な顔をしておどける心太のお尻にバッグをお見舞いする春子。
「イテェ!」と仰け反る心太に、呆れたように吹き出す春子。心太もつられて笑いだし、二人並んで歩いていく。
============
駅では、春子の両親、雄一郎と和代が改札口の前でイライラした様子で周囲を見回している。
春子を待つあいだにすでに数本の電車をやり過ごしているため二人共に気が気でない。
そこへ、自転車を押しながらやってくる春子と心太の姿をみとめ、思わず駆け寄る和代。
「ちょっと春子ぉ!あんた、何してたの」
「母さん…ごめんなさい」と謝る春子。
「…あの、すんません」と心太もばつ悪そうに頭を下げる。
和代、後ろの心太に気づく。
「あら、心ちゃん?どうして」
「送って貰ったのよ。永造さんのバス、故障したみたいで」
「あら、そうなの…」
後ろで仁王立ちしている雄一郎が腕組みしながら言う。
「なんだ、お前たち、その格好は」
和代はそこらじゅう砂まみれでボサボサの髪型になった春子の姿に気づき目を丸くする。
「あらあら、まぁ、何よこれ」と、春子の体をはたく。
「転んじゃったのよ、自転車で。ねぇ」
「あ、あぁ…すんません」
雄一郎は呆れたようにため息をつく。
「なにやっとるんだ。トコロテン。いい歳して」
「ちょっとお父さん」
和代、雄一郎の背を叩きたしなめる。
「名前のとおりじゃないか。トコロテンみたいにいつまでもフラフラして」
「…すんません。心太っす…」
と、頭を掻く心太。
「それで、どうなんだ。畑の方は」
「え…あ、いや、まぁ」
「イチゴ、だったか」
「や、ボチボチっす…すんません」
雄一郎は、そんな風に詫びてばかりの心太を何やら言いたげに見つめていたが、口元をゆがめて背を向けて、
「おい、早くせんと、また一本やり過ごすぞ」
と言い残し、さっさと改札の方へ歩いていった。
「そうよぉ、特急の指定席、せっかく取ってたのに無駄にしちゃったんだから。東京まで鈍行よ」
「ゴメン…」
「…すんません」
申し訳なさそうに頭を下げる心太。
「はい切符。早くしなさいよ、春子」
「うん…すぐ行く」
「じゃあね、心ちゃん。どうもありがとね」
と和代も雄一郎を追って改札に向かっていった。
真正面に立ち、心太と春子は向き合っている。
「…そしたら、私行くね…」
「…あ、あぁ」
一瞬、言葉に詰まり見つめ合うふたり。
「…ねえ、今日、何か言いたい事あったんじゃないの?」
「え、いや、その…」
春子、真剣な眼差しで心太を見る。
「言っとくけど、最後だよ。今日で最後なのよ」
心太、春子の迫力に気圧される。
「…その、そのうち帰って来るんだろ…盆とか、正月とか…」
「だから、そういう問題じゃ無くて!」
煮え切らない心太に思わず声を荒らげる春子。
ホームからは雄一郎と和代が心配そうにふたりを見守っている。
そこにチャイムが鳴る。
「~二番線、上り電車、上野行きは間もなく到着致します~」
心太、天を仰ぎ、大きく息を吸い込む。
そして意を決したように春子の両肩をがっしりと掴む。
「は、春!」
心太の大声にどぎまぎして硬直する春子。
「は…い」
ゴクリと、唾を飲む心太。
「いいか、い…いっかいしか言わねえぞ」
春子の肩に置いた心太の腕がわなわなと震えている。
「うん…」
春子は期待に満ちた瞳でじっと心太を見つめる。
「俺は…その…俺はだな…」
心太の唇が僅かに開き、何か言いかけようとする。
と同時に、ホームの方から突然歓声と拍手が起こる。
「それでは~新郎新婦のご出発とォ~お二人の門出を祝ってェ~バンザイ三唱を~」
結婚式の団体なのだろう、華やかに着飾った若者たちに囲まれて、一組のカップルが照れくさそうにはにかんでいる。
「あ…」
言葉に詰まった心太の視線は春子の肩越しに歓声をあげる若者たちに吸い寄せられ、背けることが出来ない。
と、そこに「早く早く」と、両手に幼子の手を引いた母親が小走りにやって来て改札の前に立つ心太の背にぶつかった。
反動でよろめく心太に母親は「ごめんなさい~」と、言葉を残し改札へ駆け込んでいく。
新郎新婦を見送る若者達のバンザイ三唱が響き渡る。
「心太…?」
我に返った心太は、諦めたようにうつむき、そして、絞り出すように春子に言う。
「…幸せに、なれよ」
春子の肩を掴んでいた心太の腕が、力無く離れていく。
春子は気が抜けたように大きく溜息をつくと、
「…うん、わかった…」
と、精一杯の言葉を返した。
ボストンバッグの紐を腕に通し行きかける春子に
「春」と、心太がジーパンの尻ポケットから慌てて何か取り出して春子の手にそっと渡した。
春子は手にした古い小さな紙切れに目を落とす。
「…これ」
セロテープの補修された跡があるその紙切れは、二人が幼い頃に使っていた自転車の定期券だった。
「…持ってたの…」
「もし、村に帰ってきたら…それ見せろ。また、いつでもうしろに乗っけてやるから」
春子は受け取った定期券を持った手で心太の手を握り直すと心太の目をじっと見つめる。
「心太。アンタも幸せになるのよ」
春子は微かに微笑むと、心太に背を向け歩いていった。
心太は立ち尽くし、春子の背中を呆然と見送るのだった。
============
電車に乗り込んだ春子と両親。雄一郎は窓側の席にどっかりと腰を落とすと、おもむろに新聞を広げる。向かいの窓側に和代が座り隣の席に春子が並んで座る。
「心ちゃん、なんだって?」
春子の様子を伺うように心配そうに聞く和代。
「…うん、まあ、別に…」
春子は俯いて、手に持ったあの定期券をじっと見つめている。
和代はちらりと雄一郎の方を見るが、大きく広げられた新聞に隠れてしまっていて表情は伺えない。
「何か話でもあったんじゃないの?」
春子は、財布に定期券をそっと仕舞うと、通路側の肘掛にもたれかかって、
「話なんて無いから、大丈夫よ」
と投げやりに答えて、疲れたように瞼を閉じた。
~お待たせ致しました。上野行き上り電車、間もなく発車致します~
車内アナウンスが流れ、電車はゆっくりと動き始めるのだった。
============
線路脇の側道を、心太が自転車を押しながら歩いてくる。砂埃で汚れた身なりを叩こうともせず、ただ呆然と俯いたまま重い足を引きずっている。
ロータリーの横に差し掛かった時、停車しているマイクロバスの運転席から太い腕が伸びると同時に、心太の脳天に衝撃が走った。
「痛っ!」
まるで隕石が頭に激突したかのような激痛に思わず頭を抱えてしゃがみ込む心太。
と、間髪入れず棍棒のような太い腕が伸びて心太のTシャツの首元をぐいっと掴んだかと思うと、野太い声が放たれた。
「小僧、てめえだな。バスのタイヤ抜いたの」
心太の脳天に強烈なゲンコツを振り下ろしたのは紛れもなく永造だった。
「何のつもりだ?えぇ!」
烈火のごとく激怒する永造に、うなだれ俯いたままの心太。
永造の腕が更に力を増し、心太の胸倉を掴むと、力いっぱいグイッと引き寄せた。
「黙ってねえで何とかー」
思わず言葉に詰まる永造。
心太の両目からはまるで滝のような涙が流れ、頬全体を濡らしている。
「小僧…お前…」
心太の口が僅かに開き、絞り出すように言う。
「永ちゃん…、俺よォ…オレ、どうすりゃいい…どうすりゃいいんだ…」
電車はゴトンゴトンと音を立てながら駅舎を離れていく。
心太は電車の音に我に返る。
「…春、春子ォ」
心太は永造の腕を首元から力無く振りほどくと、まるで夢遊病者のようによろよろと自転車にまたがり、電車の後を追い始めた。
「お、おい、小僧」
永造は滑り出して行く電車と自転車で追う心太の姿を交互に見ながら「…春子?」と呆気に取られそう呟くのだった。
============
海岸線を縫うように伸びる長い長い線路には申し訳程度に舗装された車道が並行して走っている。
春子達を乗せた鈍行は田舎電車らしくゆっくりとした速度で夕日に染まりかけた海を横目にガタゴトと音をたてて進んでいくのだった。
電車が過ぎ、線路を鳴らす音が消えていったあと、遠くから自転車のキイキイ音が聞こえてくる。
心太の顔はもはや涙か鼻水か見分けがつかない程びしょ濡れになり、拭うこともままならず一心不乱に電車を追っている。
「春子…行くなよ、春子ぉ」
うわ言のように泣きべそを掻きながら自転車を漕ぐ心太。その虚ろな視線の先に春子を乗せた電車はみる見るうちに小さくなって行く。
「ちくしょう…」
心太はついに力尽き、ペダルを漕ぐ足をだらりと離した。
惰性で進む自転車。
心太は天を仰いだ。
と、突然「パパーン!」とクラクションが鳴り響く。
驚く心太の横に永造のマイクロバスが現れた。
「小僧!女か!理由は春子か!?」
心太、思わずウンウンと頷く。
「どうすんだ!てめぇ、諦めるのかよ!馬鹿野郎」
心太はカッと目を見開いて、バスのドアにある手摺りを握りしめた。
「永ちゃん!頼む!」
自転車に跨ったまま大声で永造に呼びかける心太。
「頼む!行ってくれ!」
「小僧…」
永造はニヤリと笑うと、サングラスを掛け直す。
「小僧!飛ばすぞ!絶対離すなよ!」
永造は窓から心太にそう叫ぶと、ダッシュボードをガサガサと弄り、取り出したカセットテープをカーステレオに突き刺した。
全開にした運転席の窓から響く矢沢永吉のロックナンバーに合わせるように、グンと加速するマイクロバス。
心太は「あわわわ」とバランスを取りながら必死でバスの手摺りに掴まるのだった。
============
春子は、座席の肘掛けに頬杖をつきながら、眠るでもなくぼんやりと電車に揺られている。
窓辺に座る母の和代は俯いて眠っているが、向かいに座る父の雄一郎は相変わらず新聞紙を広げている。
後ろの座席には改札で心太にぶつかった幼子が二人、車窓からの眺めを楽しんでいる。
「ママー、見てーバスだよー」
幼子のひとりが言うと「バスーバスー」と弟の方も合わせて言う。
「ホントねえ、バスねぇ」
と母親は携帯電話を弄りながら気にもとめず答えている。
「あれー?ママー自転車もー」
「じてんしゃじてんしゃ」
車窓からは線路と並走する車道に、永造のバスが並んで疾走するのが見える。
心太は後部ドアの手摺に自転車ごと掴まっている。
幼子たちはキャッキャキャッキャと窓を叩き始める。
「これこれ、窓叩かないの」
幼子の母親がたしなめると幼子たちは
「おーい、おーい」と手を振りはじめる。
「ママー、窓開けてー」
幼子が言うと母親は面倒臭そうに「ちょっとよ」と言いながら幼子が座る窓を開ける。
幼子が呼ぶ「おーい」という声に応えるように、永造がバスのクラクションを「パパーン」と二度三度うち鳴らす。
何となく、幼子たちのやり取りを背中で聞いている春子。
「おーい、おーい」
「おーい!」
「自転車のおじさん、何か言ってるー」
心太は電車に向かって叫んでいる。
「春ー!春子ォー!」
春子は、心太の声に気付きハッと我に返る。
車窓から心太の姿をみとめると、おもむろに立ち上がり、和代と雄一郎を押し退け窓を力いっぱい引き上げる。
「心太ー!」
春子の声に気が付く心太。
「春子ー!行くなー!」
「えー!なに!?」
「だから!行くなって言ってんだ!」
「なっ、なんでよ!」
「東京なんて行くな!ここにいろ!」
「だからなんでよ!」
大声で応える春子の姿に顔を見合わせる和代と雄一郎。
後ろの座席ではポカンとして春子を見つめる幼子たちを母親が怯えた様子で抱きかかえている。
「なんで止めるのよ!」
「だっ、だから…!俺が…」
心太、ちらりと運転席の永造を見る。
前方には線路と離れていくように車道がカーブに差し掛かっている。
「小僧…!早くしろォ!」
ハンドルを握る永造の腕に力が篭もる。
心太、ゴクリと息を飲みこむ。
「だから俺が!」
「何!」
「お前に、惚れてるからだ!」
思わず言葉を失う春子。
和代はハッと両手で口を覆い、雄一郎は広げた新聞紙を盾に硬直している。
「そ、そんなの…」
春子の顔が見る間に紅潮して行く。
「そんなの、とっくの昔に知ってるわよォ!」
春子の声が海風に乗って響き渡る。
心太の顔にはホッとしたようで、またバツの悪そうなぎこちない笑みが浮かんでいる。
春子の長い髪が全開の窓から舞い込む風に吹かれている。涙を堪えながらギュッと唇を噛む。
海岸線いっぱいのカーブにタイヤを軋ませながら回り込むマイクロバス。
「しっかり掴まれェ…!」
めいっぱいハンドルを切る永造。
遠心力で振り切られそうになった時、心太の掴むドアの手摺がボルトごと外れた。
「アッ!」
と春子が短く叫んだ瞬間、心太の体が自転車と共に宙を舞った。
「ウワーッ!!」
心太の叫び声はそのままガードレールを飛び越え、その体が海に飛び込むまで続いていった。
思わず窓から身を乗り出す春子。
と、和代と雄一郎も同じように身体を起こし固唾を飲んで窓の外を見守っている。
春子は、心太の姿が海に着水したのを見届け、呆れたようなため息をつくと、力が抜けたように座席に腰を下ろした。
雄一郎は額の汗を拭いつつ、座席にどっかと座り
「ったく!あの…バカモンが!」
と吐き捨てるように言うと、また新聞紙を広げ直した。
和代は「春ちゃん…」と心配そうに春子に寄り添う。
「…わかってんのよ…そんな事…」
そうつぶやく春子の頬に涙が溢れてくる。
和代は春子の肩をさすりながら、雄一郎の様子を伺うように見る。
雄一郎は、広げた新聞を読むことなく目を閉じて、大きな溜め息をつくのだった。
電車は海をまたぐ鉄橋をあとにしてやがて見えなくなって行った。
カーブを過ぎた辺りで止まったバスの窓から永造は半身を乗り出してふうと大きく息を吐いた。
「おーい、小僧!生きてるかァ」
眼下に見える海面には、心太が大の字になって浮かんでいる。
「死んだ~」
心太は気が抜けたような声で答えると、夕日に染る空を見つめるのだった。
============
神木村に連なる山々はところどころ雪化粧を纏って冬支度を始めている。川沿いの桜並木もすっかり葉を落としてしまい、枝だけ丸裸で立ち並ぶ姿が寒々しい。
心太は永造の家の車庫前で、タイヤを抜いた事の代償にブラシを手に懸命にマイクロバスの洗車をしている。
永造は雑誌片手にデッキチェアにふんぞり返って、タバコを吹かしながら心太の作業を見張っている。
「おうぃ、色男。タイヤ周りもちゃんと擦れよ。手えぬくんじゃねえぞ」
心太は苦々しく「わかってるよォ」と答えると、ブラシを持つ手に力を込める。
「今年いっぱい、毎日だからな。サボんなよ」
「勘弁してくれよォ。俺だって忙しいんだぜ」
「バーカ。お前のどこが忙しいんだよ。デートの相手も居ねえじゃねぇか。ハッハッハ」
高笑いする永造を睨みつけ「うるせぇよ」と呟く心太。
洗剤を車体にぶちまけて不貞腐れた面で車体を磨いている。
ふと、見上げるとぽつぽつ雨が降り出してきた。
「あーあ、永ちゃん、雨だぜ」
永造は「ん?」と、空を見上げ舌打ちする。
「ったく。つくづくもってない野郎だな、お前も」
「天気に言えよ。降ってきたんじゃ、洗ってもしゃーねぇよな」
心太は「へへへ、ざまぁ見ろって」と、ほくそ笑みながらホースをグルグル巻き取っていると、目の前に綺麗な雑巾が差し出された。
「あと、運転席な。ピッカピカにしとけよ、ほれ」
雑巾を掲げてサングラスの奥でニンマリと微笑む永造。
心太は大きくため息をついて目の前の雑巾をひったくると、ブツクサ言いながら運転席に乗り込む。
ハンドルやダッシュボード周りを乱暴に拭いていく。
「クソッ!こんなボロボロの車っ!どんだけ磨いてもっ!綺麗になる訳、ねえじゃねェかッ!」
サンバイザーの表を拭いたあと、裏を拭こうと手前に倒した時にバラバラと紙切れが落ちてきた。
「…あ~もうっ!」
心太は、面倒くさそうに舌打ちして、膝に落ちたレシートや何やらを拾い上げて、ふと手を止める。
かなり年数のたったような、古い一枚の写真を手に取った。
写真は何処かのライブハウスで演奏するバンドを撮影したもの。
ライダースジャケットにサングラスをキメてギターをかき鳴らすリーゼントの男と、ハチロクマイクに手を回し、長い髪を振り乱しているミニスカートの女が、ピッタリと身体を寄せ付けて熱唱している姿だった。
写真の右下には2000年12月と、日付けが印字されている。
「2000年…」
心太が写真をまじまじと見入っていると、助手席の扉が開き、永造が「よっこらしょっと」と、乗り込んでくる。
「ほらよ」
心太は永造が差し出した缶コーヒーを受け取る。
「永ちゃん、この写真…」
「ん?あぁ…昔のな。古い写真だよ」
永造は缶コーヒーのフタを開け、ゴクリと一口飲む。
「もう二十年…か。ミナミ町のライブハウスだよ。俺たちが解散して、すぐつぶれちまったけどな」
「この女の人…確か、ジェシーさん?」
「なんだ、覚えてんのかよ。お前まだガキだっただろ」
「そりゃ知ってるよ。この村唯一の有名人だし」
永造は、思わずコーヒーを吹き出しそうになる。
「ハッ!有名人かよ!ま、この村ならそりゃそうか」
「テレビにも出てたろ?いっとき。オフクロが騒いでたの、覚えてるよ」
「フン。一発屋ってヤツだよ。誰が創ったのか知らねぇが、クソみたいな歌のな」
「…今は?」
「さぁな。何処でどうしてるのやら」
「…ふぅん」
永造は、助手席の窓を開け胸元から取り出したタバコに火をつける。
「で、お前の方こそどうなんだ?」
「何が」
「何がじゃねぇよ。春子に決まってるだろ」
心太、写真をサンバイザーのポケットにしまい込む。
「あれから、半年…か。何か進展あったのかよ」
「いいや。なんもねえよ」
「それで、何だ。お前はあれで満足したっていう事か」
「…満足…?」
「だから。長年の思いを告白してスッキリしたってコトか?ん?」
「…そんなんじゃねぇけど」
「フン。勢い込んで、行くな、なんて言ってはみたものの、今のテメーじゃ手の打ちようが無いってわけだ。幸せにしてやれねぇと」
「…まぁ、そんなとこだな」
「何とも古くせぇなぁ」
「…何がだよ」
「確かに、今のお前じゃ役不足かもしれんけどな」
永造は心太の正面に向き直ると、グイッと顔を突合せた。
「男が女を幸せにするなんてのは、まぁお前にとっては美学なのかもしれんが、俺に言わせりゃ昭和歌謡か演歌ってとこだな」
「…演歌?」
「あぁそうだ、流行りもしねえクソみてえな田舎演歌だよ」
「…それって、さっきのジェシーさんの話じゃ…」
「お前も若いんだからよ、もっとロックに生きろよ。ロックンロールによ」
「それは永ちゃんの趣味だろ」
「東京行って、連れ戻してくりゃいいじゃねぇか」
「…東京」
心太は、暫し俯き考え込む。
「…無理だよ」
缶コーヒーを手の中で転がしながら
「…駄目なんだよ」
と呟く。
「うん?」
「あいつは、いいヤツだから…うんと幸せになんねえと、駄目だと思うんだ…」
心太は、缶コーヒの口を開け、ゴクリと飲む。
「都会に出て、金持ちと結婚して、幸せになる。せっかくそんなチャンスがあんのによ、俺なんかが出しゃばる訳にいかねえよ」
「惚れた女の幸せを願って、身を引くってか」
「…ん」
「フン…ま、それもロックか」
永造は、納得したような、また諦めたように表情を崩す。
小雨まじりの雨は、いつの間にかチラチラと雪に変わっていった。
永造は「うー、冷えてきやがった」と首元をすぼめて背中を丸める。
「なぁ、永ちゃんだったらどうしてた?」
「ん?俺か?」
永造はしばし空を仰ぎ「うーん」と思い巡らす。
「ジェシーさんと一緒に暮らしてたんだろ?なんで別れたんだ?」
永造は、深くタバコを吸い込むと、灰皿を引き出して押し付ける。
「別れたんじゃねえよ」
「え?」
「アイツは、棄てて行っちまったんだよ。バンドもオレもな。へっへっへ」
「…棄てた?」
「その方が幸せになると思ったんだろ」
「何も…連絡、無いのか?」
「バーカ。何年経ってると思ってんだ。あるわけねぇだろ」
「…そっか」
「あいつの事だ。いい男見っけて上手くやってんだろ」
と、永造の携帯が鳴る。
画面に表示された「リカコ」の文字を見て、ニンマリと笑う永造。
「もしもーし。何だよォ、オレも寂しかったぜ~。あぁ、わかったわかった。今からいくから。ウン。ヨロシクゥ~」
ニヤニヤしながら電話を切る永造。
「ったく、しょうがねえなぁ。おととい行ったってのによォ。どうだ?お前も行くか?スナックリカコ」
「いかねぇよ」
呆れる心太を他所に、永造は
「あーあと、バスん中、掃除機かけたら帰っていいぞ」
と、言い捨てて「また明日な~」と手をヒラヒラさせながら出て行った。
心太は「まじかよ…」と呟くと、
「不良ジジイが!」
永造の後ろ姿に向かってパンチを繰り出すのだった。
============
日が落ちて、夕刻にはすっかり雪に変わり、永造の手伝いから解放された心太は、イチゴ畑の様子を見に戻って来た。
ジーパンのベルト通しにカラビナでぶら下げたトランジスターラジオからFMパーソナリティの軽快な声が流れている。
「さて、もうすぐクリスマスですね。何かご予定はあるんですか?」
「私は彼とデート、と言いたいところなんですが、いつもの女子会のメンバーでパーティーです」
と女性アナウンサーが答える。
「ハッハッ、まあね、それもいいじゃないですか」
「アオヤギさんは?」
「僕ですか?僕は一人で居酒屋で飲んで帰ります」
「えーさみしぃー」
心太は、カゴを脇に抱え剪定ハサミを片手にイチゴの苗木をかき分けている。
「いいんですよ。東京にはそんなサラリーマンいっぱいいるんだから」
「そうなんですかぁ」
「東京か…」とポツリ呟く心太。
「そんな寂しい人達にも幸せが届きますように。そしてクリスマスと言えばこの曲ですよね、山下達郎でクリスマスイブ」
村の公民館の玄関には、いかにも手作り感あふれるライトアップが施されていて、誰かが作った雪だるまが佇んでいる。
心太の母、民江は郵便局の前で原付に跨ったまま、村人と立ち話をしている。
サダオはどこかのカラオケボックスで友人達と楽しげに熱唱している。
永造は場末のスナックのカウンターに座り、店員と取り止めのないような話をしてニヤついている。
別の客が入って来て、店員がそちらへ愛憎を振り撒くと、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。
片肘をついて煙草を燻らせると、ふと、何か思い出したように寂しげな表情を浮かべる永造。
============
中腰になりながら苗木を掻き分けていく心太だが、見つかるイチゴの実は木苺のようにまるで小さいものばかり。
「チェッ…やっぱ今年もダメかぁ」
ため息混じりに未成熟なイチゴの実を手に取る心太だが、ふと目線を逸らした時、苗木の奥に他より少しばかり大きめのイチゴを見つける。
心太は思わず「おっ!」と声をあげると、剪定ハサミで傷付けないように慎重に収穫する。
形の整ったイチゴの実を満足気に顔の前に掲げてまじまじと眺めていると、正面に立つ人影に気がついた。
慌てて立ち上がった心太の前には春子が立っていた。
「は…春子?」
「出来たんだ、イチゴ」
心太、手に持った形の良いイチゴを恥ずかしそうに春子に見せる。
「え…あ、ああ、一個、いっこだけな」
「いっこだけ?あとは全滅?」
「いやまぁその…ハハハ…」
頭を掻きながら周りを見回す心太。
「でも、お前…なんでここに」
春子も呆れたように周りを見回す。
「まぁ、こんな事だろうと思ってね。心配だから帰って来てやったのよ」
「帰って…来た?」
「そ。あんた一人じゃ畑なんて無理でしょ」
心太の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「こ、これ食うか?」
心太の両手の中に差し出されたイチゴの実をまじまじと見る春子。
「…いいの?会心の一粒じゃないの?」
「お前に、その、食べて貰いたいんだよ。最初に」
春子、にっこりと微笑んで心太の手からイチゴを取ると、丸ごと口の中に入れる。
「ど、どうだ?」
もぐもぐと頬張る春子の口元をワクワクして見つめる心太。
「うーん、まずくは無いけど、30点ーー」
言い終わる前に、心太はもう、堪らなくなって春子を力いっぱいに抱きしめた。
思わず目を見開く春子だが、心太に身体を委ねる。
「ずっと、こっちにいるんか?」
「…うん」
「ホントに、手伝ってくれるんか?畑…」
春子が黙って頷くのを身体で感じる心太。
と、我に返り、体を離して春子の肩に両手を添える。
「いや、けど…幸せに、してやれるか…」
「え?」
「今の俺じゃ、お前のこと、幸せにしてやれるかどうか…」
春子はにっこりと微笑み、両手でそっと心太から身体を離す。
そして、大きく身をよじり、「うーん」と反動をつけたかと思うと、力いっぱい心太のボディにパンチをお見舞いした。
「ぉおっ!」
おもわず前のめりに倒れそうになる心太の胸ぐらを掴みあげ、顔を突き合わせる春子。
「誰がいつ幸せにしてくれって頼んだのよ」
「…え?」
痛みに顔を歪める心太。
「アンタに幸せにしてなんてあたしが言った?」
「言って…無い、けど…」
「ねえ、心太の幸せって、何?」
「オレの…幸せ…?」
「そう。あんたの幸せ」
「そ、それは…お前…」
「ん?」
「お前と…その…」
「聞こえない。ハッキリ言って」
「お前と、なんて言うか…一緒にいる事…じゃねぇか」
春子、勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。
「フフン。だったらアタシが幸せにしてあげるわよ」
「…え」
「アタシだってずっとアンタに惚れてるんだから」
「春子…」
ランタンの灯りに照らされて、唇をかさね合う心太と春子のシルエットがビニールハウスに映し出される。
静寂が二人を包む。
「あーあとね、来週から父さんも来るから」
「え!な、な、何で…」
弾かれたように徐に離れる二人の影。
「当たり前でしょ。縁談断った上に、こっちに帰ること説得するの大変だったんだから」
「そ…そうか…そりゃそうか」
「張り切ってたよ、イチゴの本なんか買って腕まくりして」
「くぅーっ、マジか…」
大きく天を仰ぐ心太を見て、思わず笑い出す春子。
============
「よっこらせっと」
心太は、ハウスの裏に立て掛けていた自転車を春子の前に持ち上げる。
「おー、復活したんだ、自転車。あのまま海に沈んだかと思ってた」
「永ちゃんと二人で引っ張り上げてよ。ロープで」
「無茶するから」
「へっへっ」
春子は「あ、そうだ」と、バッグから何やら取り出すと、心太に手渡した。
「はい、定期券」
「…ん」
心太は照れくさそうにそれを受け取ると、ニッコリと笑う春子につられて微笑み返す。
春子は、荷台に跨ると「ねぇ」と悪戯っぽく心太の顔を覗き込む。
「もっかい言ってよ。こないだの」
「…な、なんだよ、こないだって」
「海に飛び込む前のアレよォ」
「言うかよ。馬鹿」
「ちゃんと聞こえなかったのよォ」
「き、聞こえただろ!」
「いいじゃん、ケチー」
「絶対言うか!」
おもむろに走り出す自転車。
心太の背中に慌てて掴まる春子。
「ブレーキは?ブレーキ直したんでしょうね」
「うん?大丈夫だろ。多分…」
「ちょっとォ!」
夜のとばりが舞い降りて、夕闇が村を包みこむ頃、暖かな灯りをともす集落に向かう長い坂道を、心太と春子を乗せた自転車は甲高いブレーキ音を響かせて、疾走していくのだった。
ー終ー
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爽やかな作品でした