一樹の陰

碧 春海

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エピローグ

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「川瀬さん、ちょっといいですか」
 大神は、渡辺警視正を連れて立ち去ろうとしていた川瀬に声を掛けた。
「亡くなる当日の貴田准教授と西村副部長にそれぞれ会いに行かれています。それは、警察官としてですか、それとも個人的な目的があってのものだったのでしょうか」
「それは・・・・・・」
「母親の死について解明したいと言うあなたの気持ちも分からなくはないですから、今回は厳重注意で済ませますが、今後は無謀な単独行動は絶対にしないで下さい。いいですね」
「無謀はどっちですか。こんなに薄い防弾チョッキを着せといてよく言いますよね。距離は少し離れていましたけどすごい衝撃でしたよ。肋骨か鎖骨にきっとひびが入っているかも知れません。それに、至近距離だったら命だって・・・・」
 ワイシャツのボタンを上から順に外して防弾チョッキを見せた。
「相手はベテラン刑事なのですから、従来の分厚い防弾チョッキを着込んでいたら見破られていたでしょう。薄いと言われましたが、NASAが開発した特別な繊維を織り込んだもので、強度は通常の繊維の八倍から十倍あるのです。それにしても、命の恩人に文句を言うなんて恩を仇で返すようなものですよ」
「命の恩人ですか・・・・しかし、頭を狙われたり、もう少し近くから撃たれていたら死んでいたかも知れないのですよ。それなのに、あなたはこんなところで自慢げに推理を披露していたのですからね、良い身分ですね」
「人間にはそれぞれの役割分担と言うものがあるのです。所詮あなたは警察機構の底辺の部分、ノンキャリの命令される側の人間なのです。私の命令に素直に従っていればいいのですよ」
 大神の意外な言葉に優子の顔が強張った。
「私が死んでいたとしても仕方がなかったと言うことですか」
「残念ながら今回の事件には物的証拠が乏しくて、事件解決の為にはどうしても実行犯である坂東警部の自供が必要だった。しかし、あの坂東警部がそう簡単には罪を認めないでしょうから、肉を切らして骨を絶つような方法を摂らざるを得なかったのですよ。大儀の為には少々の犠牲は仕方のない事です」
「それが私の役目ですか、大神さん」
 川瀬が大神の胸倉を掴むと、慌てて優子が駆け寄り止めに入ろうとした。
「無事で本当に良かった」
「左胸の衝撃は本当ですよ」
 掴んでいた両手を離して大神の胸元を直している川瀬を目の前にして、優子は豆鉄砲をくらった鳩のように呆気に取られていた。
「坂東警部が息子とも思っていた川瀬さんの頭部を射ったり、ましてや近距離から狙ったりするとは僕の頭には浮かびませんでした。それに、入院することになれば、親切丁寧な良い病院を紹介しますよ。ねっ、優子さん」
 大神の笑顔は憎たらしい程魅力的だった。
「二人で私を騙したのですね」
 心配して真剣に止めに入ろうとした自分の姿が蘇り、怒りが込み上げて来た。
「あっ、いや、これでも一応売れないミステリー作家ですので、もう一波乱あった方が面白いかなと思いまして」
「命を落とす可能性が全く無い訳ではないので嫌だって言ったのだけど、強引に誘われて部下としてはどうしても断れなくって」
「あれ、川瀬さんだって随分乗り気だったのに、一人だけずるいな。それにまだ部下じゃないのに」
「いい加減にして下さい。言い訳は聞きたくありません」
 強い口調ではあったが、優子の瞳は微笑んでいた。
「優子さんは嘘はつけても、本当に純で自分の気持ちが直ぐに態度や表情に出ますから、話をしていれば優子はんは決して川瀬さんを危険な目にあわせることに賛成はしてくれななったでしょうからね」
 大神は川瀬に同意を求めるように首を傾けた。
「それにしても、まさか坂東警部が実行犯だったとは、大神さんから事件について詳しい話は聞いていましたが、実際に坂東警部に撃たれるまではとても信じることが出来ませんでした」
 川瀬にとっては左胸に受けた銃弾の衝撃よりも、心に受けたダメージの方が何倍も何倍も強かった。
「坂東警部も川瀬さんを射殺することに躊躇いはあったと思います。渡辺警視正の絶対的な命令であっても、息子のように思っていた川瀬さんに向けて引き金を引きたくはなかったでしょう。坂東警部は今回の事件から川瀬さんを遠ざけようと県警への移動を強く望んでいたのです。それは、坂東警部の良心の表れだったのですが、川瀬さんがどうしても今回の一連の事件の解決に意欲を見せたものですから、尚更計画通りに進めるしかなかったのでしょうね」
「警部の最後の良心ですか」
「川瀬さんとの絆よりも、渡辺警視正との鎖縁の方が強かったのかも知れません。高卒の坂東さんが警部に昇格する為には本人も相当な努力をされたのでしょうが、きっと渡辺警視正の後ろ盾もあったのでしょうね。それと、坂東さんの家庭の事を少し調べてもらったのですが、奥さんが先物取引に手を出して相当の額の借金を作ったようです。その借金返済の為に、渡辺警視正から多額の資金が坂東警部に流れていた形跡がありました。詳しく調べてはいませんが、おそらくそのお金は昭和製薬の使途不明金の一部だと思われます」
「そうだったのですか。奥さんを先物取引に巻き込んだのも渡辺警視正の仕業だったのかも知れませんね。色々な手段で坂東警部を追い詰めて渡辺警視正の命令には逆らえないようにしていたのですね」
「坂東警部もある意味、被害者だったのでしょうね。いつか誰かに自分の暴走を止めてもらいたかった。それが川瀬刑事だった事を、坂東警部はきっと感謝していると思います」
「ありがとうございます」
 川瀬は深々と頭を下げた。
「思えば、今回の事件は悲しいことばかりでした。優子さんを愛し、大切に思って自分の血液型を偽った為に実の息子であった裕司さんが殺害されてしまいました。今の澤田さん夫妻の気持ちを察すると胸が痛み、掛ける言葉もありません。それにもう一人、和也さんの不慮の死により、生きて行く為に愛する子供を手放さなければならなかった萩原幸子さん。苦労して育てられたもう一人の息子さんが警察官となり、これからやっと幸せになれると言うその時に、自己血を間違える単純なミスにより亡くなってしまいました。澤田裕司さんと萩原幸子さんが今まで何の為に生きてきたのかを考えるととても空しく、死をもたらした犯人に対して今も強い怒りを感じています。せめて、亡くなったお二人の為にも、川瀬さんと優子さんには幸せになってほしいと心から願っています」
 大神の言葉に川瀬刑事と優子はゆっくりと頷いた。
「それについて、川瀬さんにお願いが一つあります」
「何でしょう」
「優子さんは、血が繋がってはいませんが大切なお兄さんを失い、澤田夫妻は実の息子を亡くされました。どうでしょう、優子さんの兄としては勿論なのですが、澤田家の家族として生きてみませんか」
「それは・・・・・・・」
「心配は要りません。澤田夫妻からは快諾を得ています」
「おい、ちょっと待て。川瀬君も優子さんも和也の子供と証明されたのだぞ、どうして澤田家の人間になれるのだね。勿論、新宮司家に戻るに決まっているだろう」
 新宮司正勝が堪らず口を挟んだ。
「伯父さん、僕の話をちゃんと聞いていましたか。川瀬刑事と優子さんは母親を、澤田夫妻は大切な息子さんを亡くしているのです。伯父さんは今回の事件で誰かを亡くしていますか。和也さんを三十年も前に勘当して、川瀬さんや優子さんが生まれた事も全く知らなかったのでしょう。達也さん一家が飛行機事故で亡くなっていなければ、こうして祖父と孫として会うこともなかったですよね。まぁ、最終的には二人が選ぶ事ですが、家系と会社を守る為だけに必要だと考えている伯父さんには、お二人を引き取る権利があるとは思えませんけど」
「大神さん、そんなに責めないで下さい。おじさまも息子さん夫婦を亡くして寂しかったのですよ。会社や家で傍にいてくれる身内が欲しかったのです。ただそれだけです」
 優子は大神に近付き向きに成って言った。
「そうですね。僕が関与する事ではありませんでした。お二人共ゆっくり考えて答えを出せばいいと思います。でも、三十にも成りますし、川瀬刑事が僕の義理のお兄さんになる可能性もまだ有りますから」
 それは困ったと言う表情で頭を下げて大神は扉へと向かった。
「えっ」
 優子が大神の最後の言葉の意味を考えて声をを発した。
「あの、大神さんはどうして坂東警部が実行犯だと分かったのですか」
 大神の背中越しに川瀬が尋ねた。
「ああっ、忘れていました」
 大神は振り向くと、ジャケットの内ポケットから虎と龍の図柄が刻まれたジッポーライターを川瀬めがけて放り投げた。
「何処でこれを・・・・・」
 両手で受け取った川瀬が不思議そうにライターを見詰めた。
「清水医師の殺害現場で拾ったものです。坂東警部に返しておいて下さい。あっ、それと、優子さんにはもう一つこれをプレゼントします」
 ポケットからADを取り出して優子に渡した。
「小田和正の『やさしい風が吹いたら』ですか」
「姉が亡くなる前に僕に托した最後のメッセージです。死に至ったのは姉の譲れない正義だったのでしょうが、僕にはどんなことがあっても生きていて欲しかった。どんなことがあっても、ずるいですよね、自分だけ先に死んでしまって、僕に頑張って生きろなんて」
「そんな・・・・」
「でも、優子さんには新しいお兄さんが出来たのですから」
 大神は川瀬の方に振り向くともう一度頭を下げて部屋を出た。
「お待たせしました。優子さんと川瀬さんに会ってあげて下さい」
 大神は部屋の外で心配そうに待っていた澤田裕美に声を掛けた。
「色々ありがとうございました」
 裕美は深々と頭を下げた後、急いで社長室に入って行った。
「一樹の陰,龍と虎か・・・・・・・」
 大神は母親に抱きつく優子の姿を想像し両手を重ねて微笑んだ。
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