ハイリゲンシュタットの遺書

碧 春海

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二章

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 有名作家である内川康晃の死は直ぐにテレビのニュースで報道されることとなった。警察は病死で間違いないと判断したためではあったが、具体的な死因については伏せられたままであった。それでも、島崎刑事は朝比奈の言葉が耳に残っていたのか、念の為に司法解剖をすることにしたが、勿論死因に関係するような外傷はなく、解剖結果としては体内からは毒物は発見されず、最終的には腎不全による病死と判断された。しかし、朝比奈がもう1つの指摘していた机に残されていた薬の成分を科捜研で調べたところ、1つのカプセルにエチレングリコールが混入されていることが分かった。警察は急遽、自殺及び事件性の可能性があるとざわめきだし、内川の家族や同じ部屋に泊まっていた朝比奈をしらべることになった。島崎は朝比奈から渡された名刺からバイト先である『ゼア・イズ』に連絡したが、朝比奈はまだ出勤しておらずマスターから自宅の住所を聞き出した。そんなこととは知らない朝比奈は、内川をお世話する仕事は無くなり、自宅のリビングで最後の作品となる小説を読んでいた。そして、途中まで読み進んだところで、家の玄関の呼び鈴が鳴り、玄関に向かうと先程あったばかりの島崎と吉沢の顔がモニターに映し出されていた。「申し訳ありません。内川先生の死について自殺、或いは他殺の可能性も出てきましたので、第一発見者で同室に宿泊されていた朝比奈さんに、改めて事情をお聞きしたいと伺わさせていただきました。ちょっとのお時間よろしいでしょうか」
 朝比奈がドアを開けると2人は玄関に入り込んできた。
「あの、質問をお受けするのは構いませんが、ちょっと自宅では不味いので警察署でお願いできないでしょうか」
 朝比奈は慌ててこれ以上の家への侵入を必死に拒んだ。
「何か自宅を見られては困ることでもあるのですか」
 家の中を見渡しながら尋ねた。
「いや、多分もう直ぐ姉が帰ってくると思います。家族には心配掛けたくありませんので、警察署で話しませんか。直ぐに準備しますので外で待っていてください」
 朝比奈は2人を強引に玄関先へと押し出して、一旦ドアに鍵を掛けた。確かに朝比奈の言うことは理解できるが、島崎は朝比奈の慌てた表情に不信感を覚えた。そして、暫くしてドアの扉が開いて朝比奈が現れ一緒に中田署に向かうことになった。3人とも無言のままでの異様な車での時間を過ごした後、中田署に着くと直ぐに取調室に場所を移して朝比奈から話を聞くことになった訳だが、応接室ではなく取調室での話し合いとなったのは、島崎が朝比奈のことを怪しんでいた為だと想像できた。
「改めて伺いますが、あなたが内川先生のお世話係になった経緯をお聞かせください」
 朝比奈と対峙して座った島崎が口を開いた。
「先生の自宅は、愛知県犬山市の明治村に隣接する場所にあるのですが、今回の作品は伊勢・志摩と名古屋を舞台とした物語で、取材等の関係で名古屋クラウンホテルに滞在して執筆をすることになったそうです。地方でのホテルでは出版会社の担当者がお世話を兼ねて同行するようですが、今回は名古屋のホテルということでもあり、先生は僕の父親と古くからの友人でもあった為に、定職に就いていない僕が半ば強引に、そして強制的に有無を言わせずに割り当てられたのです」
 父親の憎たらしい顔が頭に浮かんだ。
「えっ、あなたは本当にアルバイトだけで、定職にはついていないのですか」
 それほど若くはない風貌の朝比奈の姿を見詰めた。
「はい、定職には就いていません。先日、島崎さんにもお話しましたが『ゼア・イズ』と言う店にはずっと働いていますよ。まぁ、夜のバイトの為、その間でもよければということで、引き受けることにしたのです。ですから、『ゼア・イズ』の仕事が本職であり、本当にたまたま内川先生のお世話をする話が舞い込んできたということです」
 普通の人間なら萎縮するシチュエーションではあるが、朝比奈にとっては何か懐かしさを感じていた。
「一応、あなたが証言した通りに『ゼア・イズ』でマスターに確認したので、そのことはお伝えしておきますが、本当に先生の身体に異常はなかったのでしょうか。現場に居たのはあなただけでしたので、それ以外の人物は確認できていませんからね」
 身近な人間、第一発見者を疑うのは捜査の基本である。
「ちょっと待って下さい。こうして僕に話を聞きに来られたということは、内川先生の死は病死ではなくて事件性があると警察は判断したってことですね。アーモンド臭はしなかったので、青酸化合物以外の毒物だとは思いますが、なぜ、どうして、誰が先生に飲ませることができたのでしょうね」
 朝比奈は謎解きモードに入っていた。
「いえ、解剖の結果は病死でした・・・・・・」
 どこまで話して良いか言葉が止まった。
「えっ、解剖結果は病死だったけど、警察は捜査を始めたってことですね。つまり、先生が飲み残していた薬の中に、糖尿病や高血圧を抑制する薬以外のものが混入されていた。それは即効性の毒物ではなかったので、事件性があるかもしれないと最も身近にいた僕から事情を聞き出そうという訳ですね。いいですね。死亡の原因は腎不全で、残された薬の中のカプセルにはエチレングリコールが仕込まれていたりしてね」
 嬉しそうに微笑んだ。
「どうしてそれを知っているんだ」
 警察関係者以外に知りえない情報を微笑みながら口にする朝比奈に驚いた。
「えっ、当たっていたのですか。それで最も近くに居た僕が疑われているのですね。でも、僕が犯人なら、刑事さんにペラペラと話したりはしませんよ」
 島崎の表情に、自分と同じことを考える人物が居ることに今度は朝比奈が驚いた。
「まだ、事件とは断定されてはいない。自分で薬を調合してた自殺の可能性もあるからな」
 実際はまだ疑惑の段階であり、帳場も立っていなかった。
「でも、どう見ても自殺の可能性は無いですよ。まぁ、即効性の毒物を手に入れるのは難しいですが、他に自殺する方法はありますからね。わざわざ時限爆弾のようにいつ死ぬか分からない方法を取るとは思えませんからね」
 朝比奈は最後に会った先生の姿を思い出してはっきりと答えた。
「そう思いたい気持ちは分からなくはないですが、1度死を考えた人間は不可解な行動を取ることがあります。あなたが言うように100%否定はできませんよ」
 我々警察はそんな人間を沢山見てきたのだと自信を持って答えた。
「まぁ、経験に関しては勿論敵いませんが、先生は作品に対してとても前向きで、連載されていた『伊勢・志摩連続殺人事件』を書き上げ、次回作も冬文社から依頼されていると聞いてますよ。そんな先生が自殺するとは考えられません」
 とは言ったものの、内川が朝比奈に残した最後の言葉『よろしく頼むよ』が気になった。
「冬文社ですか」
 そう呟くと、吉沢刑事が取調室から出て行った。
「そんな手段で自殺するなんて通常は考えられないということは、警察も分かっていますよね。となると、他に自殺を匂わす物的証拠が見つかったという訳ですよね」
 朝比奈の葬儀社での殺人トリックを使いたいとの意欲的な内川の姿から思えば、自殺を選ぶとはとても考えられない。何か警察に事件にできない訳があると感じていた。
「内川先生のパソコンのデータを調べてもらったところ、ある文章が残されていたんだよ」
 机の中から1枚の資料を取り出した。
「これは、『私はこれで君からお別れすることになる。本当に悲しいことだ。親愛なる希望よ!私はお前と共にやって来て、ある時期までは、回復するかもしれないと思っていた。でも今、君と完全に別れかれなければならない。木々の葉が秋に色を変えて落ちてしまうように。希望もそれと同じように枯れ果ててしまった。ここに来た時とほとんど同じようにして私は去る。美しい夏の日々に私を勇気づけた気持ちも失せてしまった。おお、神の摂理よ!どうかもう一度喜びに満ちた一日を私に見させてください。もう私の心の中に真の喜びがなくなってから、どんなに長い時が経ったのでしょう。いつ?おお、神よ!いったいいつになったら私は自然と人間との神聖なる世界の中で再び喜びを見出す事ができるのでしょうか?もう二度とない?ああ、それはあまりにも酷すぎます!』ですか・・・・・」
 朝比奈は1度文章に目を通すと、島崎にも聞こえるように敢えて声に出して読んだ。
「流石小説家ですね。私にはちょっと難しくて理解できませんが『私はこれで君からお別れすることになる』との書き出しからすれば、やはり遺書に間違いないと思われます」
 その時、取調室のドアを開けて吉沢刑事が入室し、島崎の耳に小声で言葉を伝えた。
「あの、今冬文社に確認してもらったところ、内川先生には作品を依頼していなかったようなのです。やはり、あなたの勘違いだったのではないですか。一応、ご家族の方にも遺体の確認後、応接室で話を伺っていますが、現段階では自殺の可能性が高いと判断せざるを得ません。内川先生もその作品を最後にするつもりだったのでしょう」
 朝比奈から戻された遺書と思われる文章をもう一度確認して答えた。
「島崎刑事、文章を見せていただいてありがとうございました。とても参考になりました」
 朝比奈は満足そうに微笑むと島崎に向かって頭を下げた。
「やはり内川先生自殺だったのですね。先生の新作が読めなくなるのはとても残念です」
 朝比奈も自殺を認めたと理解して吉沢が声を掛けた。
「どうでしょうかね。家族や他の仕事関係者に最近の先生の行動について、まだ聞いてもいませんからね。それより、折角取調室にご招待していただきましたので、もう少し付き合って頂けませんか」
 朝比奈は2人の顔を交互に見てお願いした。
「あのね、招待したんじゃなくて、あなたが強引に連れてこさせたんでしょ。内川先生の死に事件性があると分かれば、改めて来ていただくことになりますが、このように自殺の可能性が高くなりましたので、今日のところはお帰りいただいて結構ですよ」
 島崎は扉を指差した。
「実は、僕はバイトに向かう前に先生から書き終えた原稿を1度預かったのですが、戻った時にある文字が付け加えられていたんですよ。ちょっと気になりませんか」
 朝比奈はパイプ椅子に深く腰を収めると腕を組んで問い掛けた。
「えっ、何が書かれていたんだ」
 島崎は朝比奈の態度が気に入らなかったが、話には興味を示した。
「あっ、ちょっと、お腹がすきませんか。できれば、夕食が取りたいのですが、お願いできませんか」
 その表情を確認して申し出た。
「いえ、その文字をお聞かせ願えれば済むことで、時間は掛かりませんよね」
 島崎は顔を左右に振った。
「取調室での食事なんてなかなか経験できませんよね。TVドラマでの取り調べで証言を引き出す為に『カツ丼でも食べてゆっくり話そうか』なんて言って、人情刑事が泣き落とすシーンがよく出てきますが、その時のカツ丼代は原則本人持ちなんですよね。本人の意見も聞かずに勝手に注文して、そのカツ丼代も支払わせるなんて警察はすごいですよね。僕の場合は容疑者でもなく、まぁ、重要参考人なのでしょうか。それに、それが内川先生の死に対して重要なヒントに証拠となるかも知れませんので、できれば島崎さんのポケットマネーでお願いできませんか」
 島崎に顔を近づけた。
「わっ、分かった。おい、吉沢、カツ丼を注文しろ」
 島崎は振り返ってそう告げた。
「あの、できればカツ丼ではなく、牛丼にしてください。すぐ近くに吉田屋がありましたので『肉だく牛丼』の超特盛つゆダクで、できれば3人一緒に食べながら話しませんか」
 その言葉に頷くことはなく吉沢は取調室を出て行った。
「それで、その情報は『肉だく牛丼』の超特盛つゆダクに値するようなネタなんだろうな」
 ドアが閉まる音を耳にして島崎が尋ねた。
「もしかしたら、牛丼を奢らせる為に僕が嘘をついているなんて思っていませんよね。その内田先生の最後の原稿は家にありますが、明日には雑誌社の担当者に渡すつもりでいますので、それまでに家まで来て頂ければ嘘ではないと確認できますよ」
 島崎の心の中を察して嬉しそうに首を回した。
「それでは、その文字は牛丼を食べてから伺うこととして、まずあなたの家族についてお話いただけませんかね。これは通常の調書ですよ」
 島崎も朝比奈の真似をして首を回した。
「家族としては、母を幼い時に亡くしていまして、父と姉の3人家族です」
「あなたは定職に就かずアルバイトで生計を立てているようですが、父親とお姉さんはどのような職業に就いているのですか」
 嫌味を込めて質問を続けた。
「父や姉の職業が今回の事件に関与しているとは思いませんので、お話する気はありません。どうしてもと仰るなら、住所も分かっていますので、どうぞそちらでお調べください」
 冷静に会話を楽しんでいた朝比奈に動揺が見られた。
「何か知られては不味い事があるのでしょうかね」
 こちらのペースに持ち込めるとばかりに笑みを浮かべたその時、扉を開けて吉沢が吉田家のトレードマークの袋に入っていた『肉だく牛丼』の超特盛つゆダクを取り出して朝比奈の目の前に置いた。
(税込で1089円でした。立て替えておきましたので、後で返してくださいよ)
 吉沢は島崎の耳元で呟き、分かっているよと顔で返事をした。
「それでは遠慮なくいただきます」
 朝比奈は、別になっていた牛丼の具をご飯の上に掛けると手を合わせて食べ始めた。
「食事のところ申し訳ありませんが、内川先生が書き残された言葉を教えていただけませんか」
 牛丼の甘ったるいタレの香りが漂いお腹が鳴った。
「先程話したように、アルバイトに向かう前には最後のページは『完』で終わっていたのですが、戻って来た時はその文字の下に『it takes two to tango』と付け加えられていました」
 牛丼を頬張りながら答えた。
「えっ、『it takes two to tango』英語ですか・・・・・」
 島崎は復唱すると吉沢に視線を移したが、返答はなく顔を左右に振った。
「直訳すれば『タンゴは2人で踊るもの』でしょうか。時には、タンゴは1人では踊れない。つまり、1人の責任ではない、一蓮托生と言う意味でも使われますね」
「一蓮托生、それでそれはどんな意味で、何を伝えようとしていたんだ」
「それは」
「それは」
「それは」
「全く分かりません」
 朝比奈の言葉に真剣に聞こうとしていた二人の刑事はガクッと崩れた。
「分からない言葉が『肉だく牛丼』の超特盛つゆダクに値するとは思いませんがね。まぁ、書き手だけではなく、読み手が存在して小説家が存在すると読者に感謝の意味を伝えたかったのだろう。約束だから、食べ終えたら帰っていただいて結構です。ご苦労様でした」
 期待していた分朝比奈の言葉に落胆していた。
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