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五章
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その翌日、朝比奈は夕刻から行われる内川のお通夜に参列する前に、STNクリーンボックスの名古屋支社に立ち寄ることにした。最近益々需要も増え、多くの企業が参入してきた家事代行業界ではあるが、どの様な形態で料金価格がどのようになっているのか、ここに出てくるSTNクリーンボックスを例として述べてみる。
先ずは、お試しプランは交通費別途で2時間で1万円。定期としては月2回以上で1回の利用が2時間以上が原則で、内容により1時間8千円からとなり、スポットと呼ばれる1度きりの利用は2時間で1万2千円からとなっていた。本社は東京で、北海道、埼玉、神奈川、大阪、兵庫、京都、愛知、岐阜、三重が対応エリアであった。朝比奈が訪れたSTNクリーンボックスは、継続率97%とスタッフの90%以上が家事関連の有資格者で、品質の高さに定評のあり、日本で初となる『家事代行サービス認証』を取得し、本当に上質の家事代行サービスを提供していた。実際にはどんなサービスが受けられるのかというと、掃除・洗濯・料理が基本で、それ以外にもベビーシッター・産前産後のケア・高齢者の介護・家庭のお悩み相談・家電の簡単な修理なども依頼されることがあるようです。
特にSTNクリーンボックスは、お客様の要望を的確に把握すること(Communication)真心を込めた思いやり(Cordiality)プロとして礼儀正しい行動をする(Courtesy)の3つのCをコンセプトとして掲げてサービスを提供することを目指し、他社と比較しても質の良い家事代行サービスを受けられると、角界の著名人からの依頼も多かった。
「家事代行サービスのお申し込みでしょうか」
ほんの数年前だったが、隣の店舗も買い取って規模も大きくなっていた会社の入口を入り、変わってしまった受付を眺めていると、受付の新人であろう若い女性が椅子から立ち上がって、珍しくスーツ姿の朝比奈に声を掛けた。
「あの、僕は・・・・・・」
見覚えのない女性社員にどう答えていいのか戸惑っていると、通り掛かった1人の男性が朝比奈の後ろ姿を見て近付いてきた。
「えっ、朝比奈なのか。また登録しに来てくれたんだ。助かるよ、人手がなくてな、お前のような優秀な人材を育てるのは本当に大変だからな」
声を掛けたのは、この会社の所長の小鳥遊優一だった。
「いえ、今日はちょっと別件でして」
朝比奈と所長の会話に、受付の女性は座り直した。
「なんだ、残念だな。それで、どんな用事でわざわざ足を運んで来たんだ」
そう言いながら、小鳥遊は事務所の奥にある応接室へと朝比奈を連れて行った。
「先日亡くなった内川先生の事はご存じですよね」
腰を下ろすと早速話を始めた。
「ああっ、テレビのニュースで知ったよ。私も先生のファンだったから、お会いしたことはなかったけれど本当にショックだったよ。ああっ、これで新作は読めないんだってね。それで、今日は先生の話なのか」
頭を切り替えて尋ねた。
「僕が勤めていた時には、内川先生の家事代行の依頼は無かったのですが、辞めてから新たに契約されていたのですね」
先生とは数週間の付き合いではあったけれど、辞めなければ自分が担当していた可能性もあり、今となって後悔していた。
「そう、朝比奈君が登録を解除してから半年くらいかな、内川先生は奥さんと2人で暮らしていらしたんだけれど、奥様が家事全般をされていたんだ。しかし、その奥様が体調を崩して入退院を繰り返すこととなり、内の会社に依頼が来て住み込みで家事全般をすることになったんだよ」
ちょっと席を外すと缶コーヒーを手に戻って来た。
「文芸社の編集長に聞いたのですが、3人のお子さんは誰も同居して面倒を見ることはしなかったのですね」
頭を下げ缶コーヒーを受け取った。
「詳しい話は聞いてはいないけれど、先生の実家は犬山だったからお子さん達の通勤とかの仕事上の都合だったんじゃないのかな。先生も取材などで家を空けることが多く、それこそ内のような家事代行サービスが充実して来たから、片親になってもお金があれば困ったりはしないからな」
無糖ブラックのコーヒーを口に含んだ。
「それで、内川先生の家の担当をしていたのは誰だったのですか」
朝比奈は缶コーヒーが苦手ではあったが、所長の折角の行為に同じように口へと運んだ。
「ああっ、安良木楓さんだよ。朝比奈君が抜けた後の内のエースだからね。超有名人の内川先生の家庭を任せられるのは彼しか居ないよ」
「やはりそうでしたか。編集長からも男性の担当者と聞いていましたので、僕が所長の立場だったとしても安良木さんを推薦したと思います。それで、その安良木さんは今日はどちらかにお出掛けなんですか」
事務所内に姿は見えなかったので残念そうに尋ねた。
「えーと、今日は朝から隣の建物で新人社員の研修を行っているから、予定ならもう直ぐ戻ってくるはずなんだけどな」
小鳥遊は掛け時計に目を移すと、応接室の扉を開け事務室を見渡すと、丁度安良木が戻ってきていて、手招きで応接室まで呼ばれることとなった。
「楓さん、お久しぶりです」
応接室に入ると直ぐに朝比奈は立ち上がって挨拶した。
「えっ、朝比奈君。またここで一緒に仕事をする気になってくれたのかい」
見たことのないスーツ姿の朝比奈に小鳥遊と同じ反応をした。
「今日は、楓さんにお話を伺う為に寄らさせていただきました。忙しいとは思いますが、少し時間をいただけないでしょうか」
STNクリーンボックスの名古屋支社のエースには、今の時間は貴重であることは経験上理解できた。
「そうだな、お昼の休憩時間を使って食事をしながらの話になるから、それでよければなんとかなりそうだよ。久しぶりに、直ぐそこの尾張食堂でどうだ」
食堂の方向を指差した。
「勿論それで結構です。お話を伺うのですから、今日は僕が奢りますよ」
「じゃ、味噌カツランチの大盛りにしようかな」
2人は小鳥遊に頭を下げて会社を出ると、すぐ近くにある尾張食堂で昼食をとりながら話をすることになった。
「それで、聞きたい話って何かな」
目の前の味噌カツランチの大盛りを前に話を切り出した。
「小鳥遊所長にも伺ったのですが、楓さんが亡くなった内川先生の家庭の家事代行の担当社だったのですよね」
「本当、突然だったから驚いたよ。とても可愛がってもらったし、来週からも予定が入っていたから、もう会えないと思うと本当に淋しいよ」
食事をしていた手が止まって真面目な表情で答えた。
「小鳥遊所長の話では住み込みでの家事代行だったそうですが、家族の事情なんかもご存知だったのでしょうか」
あの頃よく食べた味噌カツの味が口の中に広がっていた。
「ああっ、ずっと一緒にいたから感じるところはあったよ。雑誌などの家族の紹介欄にも載っていたように、内川先生と奥さんは本当に仲の良い夫婦だったんだけど、ここだけの話、親子の仲は余り良くはなかったと思う。先生に聞いたことがあるんだけど、子供達がそれぞれ入学入試などの大切な時期に会社を突然辞めてしまって、今でこそ日本でも有数の小説家になったけれど、初めは鳴かず飛ばずで収入も無く、貯金も切り崩して奥さんやお子さんに随分苦労を掛けたそうなんだ。私もまだ幼い子供が2人居るけど、高校まで卒業させる為には全て国立や公立だったとしても、1人でおよそ6百万円これが全て私立の場合は3倍の1千8百万もすると言われているんだ。それが3人共奨学金を受けていたそうですがそれでも大学を卒業させるのは大変だったろうな。ほんと、殆んど無職状態で特別裕福でもなかったアパート住まいの内川が、犬山市に一戸建ての家を買うなんて、ギャンブルと同じだったと思う。そんな状態だったから、親子関係も上手くいくはずはないよ。ただ、奥さんがご存命の頃は、良く実家で集まることがあったようだけど、私が家事代行を始めた頃は数ヶ月に1度、それも何かの記念日でなければ集まることはなかったよ」
時間を気にしながら朝比奈が聞きたいであろうことを掻い摘んで話した。
「最近はいつ集まったのか覚えていますか」
「えーと、確か先月は奥さんの1周忌があったので、自宅で長男夫婦、次男夫婦、長女の5人共訪れて偲んでいました。私もそれに合わせて料理は作ったけれど、少し離れたところにある寿司店から特上寿司も頼んだと記憶しているよ」
「話を聞いたところ、先生は楓さんのことを信頼していたようですけど、遺産について何か先生から相談を受けたことはなかったですか」
「そう言えば小説の中での話で、まさか先生のことだとは思わなかったけど、実の子供に遺産を相続させない方法とか、遺言書で遺産を子供以外に相続させない方法など調べていたようで、私にも聞いてきたことがあったなぁ」
その時の情景が頭に浮かんできた。
「そうだったのですか。今のまま遺言書が出てこなければ、先生の総資産は3人のお子さんで分けることになるようですね」
「しかし、内川先生の総資産となれば相当な金額になるだろう。確かに、子供の頃は苦労したかもしれないけれど、親の面倒や介護もする気がなかったのに、何億もの遺産が転がり込んでくるんだからな」
「そんな関係だったから、遺産を残したくなかったのでしょうか。そうだ。もう1つお聞きしたいのですが、その奥様の1周忌前後に内川先生の家を訪ねてきた人は居なかったでしょうか」
右の人差し指を1本立てるいつものポーズで尋ねた。
「そうだな、内川先生は一人っ子で兄弟姉妹は居なかったし、ご両親は既に亡くなっていたから、本当に家族はお子さんの3人だけだったし、犬山に引っ越してきてからの友人も近くには居なかったから、雜誌社など仕事関係の担当社くらいだったかな。時々、寿司の出前や、デリバリーなどで注文することはあったけど、全て私が取り次いで先生と直接会うことはなかったと思う」
一応過去の記憶を辿ってから答えた。
「その雜誌の担当者の中に女性は居ませんでしたか」
「いや、私が担当していた間には、女性の担当者は見ていないな」
「そうですか・・・・・」
「あれ、もしかして内川先生の死に何か問題でもあるのか。相続の件とか、朝比奈君はここを辞めて探偵事務所の調査官になってたりするのかな」
想像を膨らませて尋ねた。
「いいえ、今は『ゼア・イズ』の夜のバイトだけになってしまいました。実を言うと、先生が亡くなる当日まで名古屋クラウンホテルでお世話をしていたのは僕だったのです。いつも利用している家事代行会社を使わなかったのは、短期間であったのと先生と父が古くからの友人で、僕が無職だったのを聞いて依頼してきたのだと思います。ただ、先生が亡くなった時間、僕は深夜のアルバイトに出掛けていてその瞬間に立ち会うことができませんでした。今更、タラレバの話はしたくありませんが、もし僕がその場に居られたら先生は助かっていたのではないかと思うと、本当に申し訳なくてせめて死の真実を突き止めたいとこうして調べているのです」
「死の真実って・・・・・そう言えば、ニュースでは死因については伝えてなかったなぁ。でも、先生は持病があり薬も飲んでいたぞ。それに、名古屋クラウンホテルに宿泊していたならスウィートルームを利用するから、部屋は勿論オートロックだろうし、お世話係であった朝比奈君かホテル関係者以外は、部屋に入ることはできないだろう。特に、亡くなっていたのが深夜だとすれば、訪ねてきた人もいないだろうし防犯カメラでチェックできるだろう」
朝比奈が内川の死に対して何に疑問を持っているのか全く分からなかった。
「楓さん、ここだけの話なのですが。勿論、青酸化合物のような即効性の毒物ではなく、先生が常用していた薬の中にエチレングリコールという薬を紛れ込ませて、じわじわと腎臓に悪影響を与えて死に至らせたと考えられます。今のところは警察では、それが先生自身によるものではないか、つまり自殺として処理しようとしていますが、それまで付き添っていた僕には、それはちょっと無理があり違和感を覚えました」
島崎の話の様子から朝比奈は、余程の証拠が出てこなければ事件として捜査はされないと感じていた。
「ちょっと待てよ。でも、朝比奈君が自殺ではないと思っているとしたら殺人事件ってことになり、薬を摩り替えられた人物が犯人ってことになるな。まさか、先生のお子さんが犯人ってこと・・・・・・・」
最後の方は言葉が詰まった。
「はい、それに可能性を考えれば、先生に薬を渡した病院の関係者や家事代行として接していた楓さんも含まれますよ」
味噌カツランチを食べ終えて両手を合わした。
「おいおい、私はそんな恐ろしいことはしないよ。大体、先生が亡くなって、超優良のお客様も無くしてしまったんだからな」
ムキになって言い返した。
「勿論、そんなことは思っていませんし、こうしてランチを奢ったりなんかもしませんよ」
湯呑を手にして冷めたお茶を口にした。
「でも、それは朝比奈君がすることじゃなくて警察がすべきことだろう。現に警察は誰もこうして訪ねては来なかったぞ。1人くらいは朝比奈君のように疑う人間が居てもいいだろうに」
安良木は以前より、遺族年金や傷病手当の不正受給をしていると分かっている人間に対して、何も行動しない警察や検察に対する不信感を抱いていた。
「先程も話したように、警察は内川先生の死に対しては事件性が無いとして処理したいと考えているようです。事件となれば、亡くなったのが有名人の内川先生ですから、警察の威厳にかけても大勢の警察官を動員しなければならないし、勿論あやふやな結末にすることなく、犯人を逮捕しなければなりませんからね」
「だからと言って・・・・・・」
「有耶無耶にはならないように誰かが真実を証明しなければならないのです。そう、『真実はいつもひとつ』って感じかな。まぁ、たった1人で微力ではありますが、今の及び腰の警察よりは、先生の無念を晴らすことはできると思います。少しの間でしたけれど、先生には色々お世話になりましたから、せめての恩返しと思ってやっています。幸いなことに、先生のお世話をするという仕事がなくなり、時間を持て余していますからね」
「そうか、私は朝比奈君以上にお世話になっていたから、何か手伝えることがあったらいつでも言ってくれ。私も、先生の仕事が無くなって、暫くは時間が作れるからな」
朝比奈の頑固さは知り尽くしているので行動に対して否定はしなかった。
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」
2人は会話を終えると、約束通り朝比奈の奢りで会計を済まして店を出てて、それぞれ別れて別の方角へと歩き出した。朝比奈は、その後『ゼア・イズ』で内川のお通夜に出る時間まで店のシフトに入ることにしてた。
先ずは、お試しプランは交通費別途で2時間で1万円。定期としては月2回以上で1回の利用が2時間以上が原則で、内容により1時間8千円からとなり、スポットと呼ばれる1度きりの利用は2時間で1万2千円からとなっていた。本社は東京で、北海道、埼玉、神奈川、大阪、兵庫、京都、愛知、岐阜、三重が対応エリアであった。朝比奈が訪れたSTNクリーンボックスは、継続率97%とスタッフの90%以上が家事関連の有資格者で、品質の高さに定評のあり、日本で初となる『家事代行サービス認証』を取得し、本当に上質の家事代行サービスを提供していた。実際にはどんなサービスが受けられるのかというと、掃除・洗濯・料理が基本で、それ以外にもベビーシッター・産前産後のケア・高齢者の介護・家庭のお悩み相談・家電の簡単な修理なども依頼されることがあるようです。
特にSTNクリーンボックスは、お客様の要望を的確に把握すること(Communication)真心を込めた思いやり(Cordiality)プロとして礼儀正しい行動をする(Courtesy)の3つのCをコンセプトとして掲げてサービスを提供することを目指し、他社と比較しても質の良い家事代行サービスを受けられると、角界の著名人からの依頼も多かった。
「家事代行サービスのお申し込みでしょうか」
ほんの数年前だったが、隣の店舗も買い取って規模も大きくなっていた会社の入口を入り、変わってしまった受付を眺めていると、受付の新人であろう若い女性が椅子から立ち上がって、珍しくスーツ姿の朝比奈に声を掛けた。
「あの、僕は・・・・・・」
見覚えのない女性社員にどう答えていいのか戸惑っていると、通り掛かった1人の男性が朝比奈の後ろ姿を見て近付いてきた。
「えっ、朝比奈なのか。また登録しに来てくれたんだ。助かるよ、人手がなくてな、お前のような優秀な人材を育てるのは本当に大変だからな」
声を掛けたのは、この会社の所長の小鳥遊優一だった。
「いえ、今日はちょっと別件でして」
朝比奈と所長の会話に、受付の女性は座り直した。
「なんだ、残念だな。それで、どんな用事でわざわざ足を運んで来たんだ」
そう言いながら、小鳥遊は事務所の奥にある応接室へと朝比奈を連れて行った。
「先日亡くなった内川先生の事はご存じですよね」
腰を下ろすと早速話を始めた。
「ああっ、テレビのニュースで知ったよ。私も先生のファンだったから、お会いしたことはなかったけれど本当にショックだったよ。ああっ、これで新作は読めないんだってね。それで、今日は先生の話なのか」
頭を切り替えて尋ねた。
「僕が勤めていた時には、内川先生の家事代行の依頼は無かったのですが、辞めてから新たに契約されていたのですね」
先生とは数週間の付き合いではあったけれど、辞めなければ自分が担当していた可能性もあり、今となって後悔していた。
「そう、朝比奈君が登録を解除してから半年くらいかな、内川先生は奥さんと2人で暮らしていらしたんだけれど、奥様が家事全般をされていたんだ。しかし、その奥様が体調を崩して入退院を繰り返すこととなり、内の会社に依頼が来て住み込みで家事全般をすることになったんだよ」
ちょっと席を外すと缶コーヒーを手に戻って来た。
「文芸社の編集長に聞いたのですが、3人のお子さんは誰も同居して面倒を見ることはしなかったのですね」
頭を下げ缶コーヒーを受け取った。
「詳しい話は聞いてはいないけれど、先生の実家は犬山だったからお子さん達の通勤とかの仕事上の都合だったんじゃないのかな。先生も取材などで家を空けることが多く、それこそ内のような家事代行サービスが充実して来たから、片親になってもお金があれば困ったりはしないからな」
無糖ブラックのコーヒーを口に含んだ。
「それで、内川先生の家の担当をしていたのは誰だったのですか」
朝比奈は缶コーヒーが苦手ではあったが、所長の折角の行為に同じように口へと運んだ。
「ああっ、安良木楓さんだよ。朝比奈君が抜けた後の内のエースだからね。超有名人の内川先生の家庭を任せられるのは彼しか居ないよ」
「やはりそうでしたか。編集長からも男性の担当者と聞いていましたので、僕が所長の立場だったとしても安良木さんを推薦したと思います。それで、その安良木さんは今日はどちらかにお出掛けなんですか」
事務所内に姿は見えなかったので残念そうに尋ねた。
「えーと、今日は朝から隣の建物で新人社員の研修を行っているから、予定ならもう直ぐ戻ってくるはずなんだけどな」
小鳥遊は掛け時計に目を移すと、応接室の扉を開け事務室を見渡すと、丁度安良木が戻ってきていて、手招きで応接室まで呼ばれることとなった。
「楓さん、お久しぶりです」
応接室に入ると直ぐに朝比奈は立ち上がって挨拶した。
「えっ、朝比奈君。またここで一緒に仕事をする気になってくれたのかい」
見たことのないスーツ姿の朝比奈に小鳥遊と同じ反応をした。
「今日は、楓さんにお話を伺う為に寄らさせていただきました。忙しいとは思いますが、少し時間をいただけないでしょうか」
STNクリーンボックスの名古屋支社のエースには、今の時間は貴重であることは経験上理解できた。
「そうだな、お昼の休憩時間を使って食事をしながらの話になるから、それでよければなんとかなりそうだよ。久しぶりに、直ぐそこの尾張食堂でどうだ」
食堂の方向を指差した。
「勿論それで結構です。お話を伺うのですから、今日は僕が奢りますよ」
「じゃ、味噌カツランチの大盛りにしようかな」
2人は小鳥遊に頭を下げて会社を出ると、すぐ近くにある尾張食堂で昼食をとりながら話をすることになった。
「それで、聞きたい話って何かな」
目の前の味噌カツランチの大盛りを前に話を切り出した。
「小鳥遊所長にも伺ったのですが、楓さんが亡くなった内川先生の家庭の家事代行の担当社だったのですよね」
「本当、突然だったから驚いたよ。とても可愛がってもらったし、来週からも予定が入っていたから、もう会えないと思うと本当に淋しいよ」
食事をしていた手が止まって真面目な表情で答えた。
「小鳥遊所長の話では住み込みでの家事代行だったそうですが、家族の事情なんかもご存知だったのでしょうか」
あの頃よく食べた味噌カツの味が口の中に広がっていた。
「ああっ、ずっと一緒にいたから感じるところはあったよ。雑誌などの家族の紹介欄にも載っていたように、内川先生と奥さんは本当に仲の良い夫婦だったんだけど、ここだけの話、親子の仲は余り良くはなかったと思う。先生に聞いたことがあるんだけど、子供達がそれぞれ入学入試などの大切な時期に会社を突然辞めてしまって、今でこそ日本でも有数の小説家になったけれど、初めは鳴かず飛ばずで収入も無く、貯金も切り崩して奥さんやお子さんに随分苦労を掛けたそうなんだ。私もまだ幼い子供が2人居るけど、高校まで卒業させる為には全て国立や公立だったとしても、1人でおよそ6百万円これが全て私立の場合は3倍の1千8百万もすると言われているんだ。それが3人共奨学金を受けていたそうですがそれでも大学を卒業させるのは大変だったろうな。ほんと、殆んど無職状態で特別裕福でもなかったアパート住まいの内川が、犬山市に一戸建ての家を買うなんて、ギャンブルと同じだったと思う。そんな状態だったから、親子関係も上手くいくはずはないよ。ただ、奥さんがご存命の頃は、良く実家で集まることがあったようだけど、私が家事代行を始めた頃は数ヶ月に1度、それも何かの記念日でなければ集まることはなかったよ」
時間を気にしながら朝比奈が聞きたいであろうことを掻い摘んで話した。
「最近はいつ集まったのか覚えていますか」
「えーと、確か先月は奥さんの1周忌があったので、自宅で長男夫婦、次男夫婦、長女の5人共訪れて偲んでいました。私もそれに合わせて料理は作ったけれど、少し離れたところにある寿司店から特上寿司も頼んだと記憶しているよ」
「話を聞いたところ、先生は楓さんのことを信頼していたようですけど、遺産について何か先生から相談を受けたことはなかったですか」
「そう言えば小説の中での話で、まさか先生のことだとは思わなかったけど、実の子供に遺産を相続させない方法とか、遺言書で遺産を子供以外に相続させない方法など調べていたようで、私にも聞いてきたことがあったなぁ」
その時の情景が頭に浮かんできた。
「そうだったのですか。今のまま遺言書が出てこなければ、先生の総資産は3人のお子さんで分けることになるようですね」
「しかし、内川先生の総資産となれば相当な金額になるだろう。確かに、子供の頃は苦労したかもしれないけれど、親の面倒や介護もする気がなかったのに、何億もの遺産が転がり込んでくるんだからな」
「そんな関係だったから、遺産を残したくなかったのでしょうか。そうだ。もう1つお聞きしたいのですが、その奥様の1周忌前後に内川先生の家を訪ねてきた人は居なかったでしょうか」
右の人差し指を1本立てるいつものポーズで尋ねた。
「そうだな、内川先生は一人っ子で兄弟姉妹は居なかったし、ご両親は既に亡くなっていたから、本当に家族はお子さんの3人だけだったし、犬山に引っ越してきてからの友人も近くには居なかったから、雜誌社など仕事関係の担当社くらいだったかな。時々、寿司の出前や、デリバリーなどで注文することはあったけど、全て私が取り次いで先生と直接会うことはなかったと思う」
一応過去の記憶を辿ってから答えた。
「その雜誌の担当者の中に女性は居ませんでしたか」
「いや、私が担当していた間には、女性の担当者は見ていないな」
「そうですか・・・・・」
「あれ、もしかして内川先生の死に何か問題でもあるのか。相続の件とか、朝比奈君はここを辞めて探偵事務所の調査官になってたりするのかな」
想像を膨らませて尋ねた。
「いいえ、今は『ゼア・イズ』の夜のバイトだけになってしまいました。実を言うと、先生が亡くなる当日まで名古屋クラウンホテルでお世話をしていたのは僕だったのです。いつも利用している家事代行会社を使わなかったのは、短期間であったのと先生と父が古くからの友人で、僕が無職だったのを聞いて依頼してきたのだと思います。ただ、先生が亡くなった時間、僕は深夜のアルバイトに出掛けていてその瞬間に立ち会うことができませんでした。今更、タラレバの話はしたくありませんが、もし僕がその場に居られたら先生は助かっていたのではないかと思うと、本当に申し訳なくてせめて死の真実を突き止めたいとこうして調べているのです」
「死の真実って・・・・・そう言えば、ニュースでは死因については伝えてなかったなぁ。でも、先生は持病があり薬も飲んでいたぞ。それに、名古屋クラウンホテルに宿泊していたならスウィートルームを利用するから、部屋は勿論オートロックだろうし、お世話係であった朝比奈君かホテル関係者以外は、部屋に入ることはできないだろう。特に、亡くなっていたのが深夜だとすれば、訪ねてきた人もいないだろうし防犯カメラでチェックできるだろう」
朝比奈が内川の死に対して何に疑問を持っているのか全く分からなかった。
「楓さん、ここだけの話なのですが。勿論、青酸化合物のような即効性の毒物ではなく、先生が常用していた薬の中にエチレングリコールという薬を紛れ込ませて、じわじわと腎臓に悪影響を与えて死に至らせたと考えられます。今のところは警察では、それが先生自身によるものではないか、つまり自殺として処理しようとしていますが、それまで付き添っていた僕には、それはちょっと無理があり違和感を覚えました」
島崎の話の様子から朝比奈は、余程の証拠が出てこなければ事件として捜査はされないと感じていた。
「ちょっと待てよ。でも、朝比奈君が自殺ではないと思っているとしたら殺人事件ってことになり、薬を摩り替えられた人物が犯人ってことになるな。まさか、先生のお子さんが犯人ってこと・・・・・・・」
最後の方は言葉が詰まった。
「はい、それに可能性を考えれば、先生に薬を渡した病院の関係者や家事代行として接していた楓さんも含まれますよ」
味噌カツランチを食べ終えて両手を合わした。
「おいおい、私はそんな恐ろしいことはしないよ。大体、先生が亡くなって、超優良のお客様も無くしてしまったんだからな」
ムキになって言い返した。
「勿論、そんなことは思っていませんし、こうしてランチを奢ったりなんかもしませんよ」
湯呑を手にして冷めたお茶を口にした。
「でも、それは朝比奈君がすることじゃなくて警察がすべきことだろう。現に警察は誰もこうして訪ねては来なかったぞ。1人くらいは朝比奈君のように疑う人間が居てもいいだろうに」
安良木は以前より、遺族年金や傷病手当の不正受給をしていると分かっている人間に対して、何も行動しない警察や検察に対する不信感を抱いていた。
「先程も話したように、警察は内川先生の死に対しては事件性が無いとして処理したいと考えているようです。事件となれば、亡くなったのが有名人の内川先生ですから、警察の威厳にかけても大勢の警察官を動員しなければならないし、勿論あやふやな結末にすることなく、犯人を逮捕しなければなりませんからね」
「だからと言って・・・・・・」
「有耶無耶にはならないように誰かが真実を証明しなければならないのです。そう、『真実はいつもひとつ』って感じかな。まぁ、たった1人で微力ではありますが、今の及び腰の警察よりは、先生の無念を晴らすことはできると思います。少しの間でしたけれど、先生には色々お世話になりましたから、せめての恩返しと思ってやっています。幸いなことに、先生のお世話をするという仕事がなくなり、時間を持て余していますからね」
「そうか、私は朝比奈君以上にお世話になっていたから、何か手伝えることがあったらいつでも言ってくれ。私も、先生の仕事が無くなって、暫くは時間が作れるからな」
朝比奈の頑固さは知り尽くしているので行動に対して否定はしなかった。
「ありがとうございます。その時はよろしくお願いします」
2人は会話を終えると、約束通り朝比奈の奢りで会計を済まして店を出てて、それぞれ別れて別の方角へと歩き出した。朝比奈は、その後『ゼア・イズ』で内川のお通夜に出る時間まで店のシフトに入ることにしてた。
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