ハイリゲンシュタットの遺書

碧 春海

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六章

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 夕刻になり、朝比奈は時間を見計らって賄いを食べてから会場へと向かった。内川の葬儀場『セレモニーホール彩陽殿』は中日ドラゴンズの本拠地バンテリンドームナゴヤの近くにあり、名古屋市では最も大きな葬儀場であった。世相なのか今では家族葬が増え、有名人であっても既に葬儀は家族で執り行われたとニュースで伝えられることも多かったが、流石に国内は素より海外にもファンが多く居る内川康晃の葬儀は、先のテレビなどのマスコミでの報道もあり、通夜や告別式もしっかりとした規模で行われることとなった。葬儀会場に近づくと、朝比奈はダークブルーのスーツの色に合わせたネクタイをポケットから取り出して締めると、会場の中へと足を踏み入れた。受付を済ませて大勢の列に並び、自分の番が回ってくると、椅子に腰掛けていた家族に頭を下げた後、大きく掲げられた内川の微笑む写真に手を合わせると、誓を胸に焼香を済ませた。そして、朝比奈がロビーの片隅に何気なく目を移すと、女性と話す芸文社の草壁編集長の姿を発見してそっと近づいた。
「朝比奈さん、丁度良かった。昨日お話した内川先生の以前の担当社だった田中絵梨さんです」
 近づいて来た朝比奈に気がついて田中を紹介した。
「初めまして、内川先生のお世話をさせて頂いていた朝比奈優作です」
 涙を流したのであろう、目の辺りが赤く腫れている田中に軽く頭を下げた。
「えっ、先生が話されていた、家事代行サービスの方なのですか」
「あっ、いえ、確かに昔は登録していて、実際に仕事もしていましたが、今回は内川先生と僕の父が親しく、作品の舞台が伊勢・志摩ということで、名古屋クラウンホテルに滞在することになり、話し相手程度にと依頼していただきましたが、先生の死に対して何もできなくて申し訳なく思っています」
「そうだったのですか・・・・・・」
「あの、草壁編集長から伺ったのですが、お母様の体調も良くなり近々芸文社に復帰されるそうですね。おめでとうございます」
 話す話題を必死に考えた。
「朝比奈さん、今その件で彼女と話していたのだけれど、担当していた先生が亡くなったこともあり、一度白紙に戻して欲しいと言われてしまってね。確かにショックではあると思うけれど、彼女の経験と実力は社内の誰もが認めているし、来週でなくても構わないから戻ってきて欲しいと説得していたところなんだ」
 草壁は困惑した表情で田中を見た。
「そうでしたか。詳しい事情は分かりませんが、先生のことがあったからこそ、そして残された作品の為にも、田中さんには是非復帰して欲しいと思います」
「もう一度考えてみます。それでは・・・・・」
 頭を下げて立ち去ろうとした。
「田中さん。折角お会いできたのですから、できれば僕の知らない先生のお話を伺わさせていただけないでしょうか」
 田中の後ろ姿に朝比奈が声を掛けた。
「えっ、私とですか」
 振り返ったが、少し躊躇していた。
「今夜は是非、先生のことを偲んでお互いの思いを出し合っても良いと思うのですがどうでしょう。それに、先生の死について詳しくお話できることもありますから」
 横目で草壁を見ると『よろしく頼むよ』とばかりに頷いた。
「分かりました。よろしくお願いします」
 先生の死についてという言葉に興味を示したようであった。そして、2人は葬儀場を後にすると、再び『ゼア・イズ』に戻ることとなった。
「田中さんは小説家を目指されていたそうですよね。内川先生は随分評価されていたようですが、今でもその夢はお持ちなのですか。確か、先生は初めから小説家を目指していた訳ではなく、サラリーマンを辞めて小説家に成られた、遅咲きの花、それも大きな大輪を咲かせたのですよね」
 注文したコーヒーを前に朝比奈が話を始めた。
「私にはそんなことは言われなかったのですが、先生がそう言って下さっていたのならとても嬉しいです。でも、先生の担当をさせて頂いたり、他の先生の作品に触れることにより、自分の実力の無さ、表現力の貧しさを痛感させられました。ですから、今は全く考えていません」
 朝比奈の視線を外すように下を向いた。
「あなたの作品を読んだことはないので、無責任なことは言えませんが何かもったいない気がします。あっ、そうだ、良ければ、あなたの作品読ませていただけませんか」
 内川先生が高評価する人の作品に興味があった。
「あ、いいえ、私が先生の担当でしたので、贔屓目で押してくれていたのだと思います。私の作品など、他人に読んでいただける程の物ではありません。申し訳ありません」
 先生の死についての話が出ないのならば、早くこの場をでて行きたい気持ちであった。
「こう見えても、先生の作品は全て読み尽くしていますし、素人目から見て感じることもありますよ。是非お願いできませんか」
 強引に詰め寄る、空気が読めない朝比奈であった。
「分かりました。実家に置いてありますので、今度お会いする機会がありましたら、お持ちします」
 そうは答えたが、2度目に会うことは無いと思った。
「とても楽しみです」
「あの、編集長から簡単には伺っているのですが、朝比奈さんは内川先生の死について、何か疑問をお持ちだとお聞きしたのですが、警察は自殺の可能性も視野に入れているとか。でも、私は・・・・・」
「僕も内川先生が自殺したなんて思ってはいませんよ。警察が自殺の根拠としている遺書についても、何か疑わしいですからね」
「えっ、遺書があったのですか・・・・・」
 朝比奈の『遺書』という言葉に動揺した。
 「それはまだ聞いていなかったのですね。まぁ、はっきり言えば、先生は誰かに殺害されたと僕は考えています。今のところは、まだ誰が犯人かを示す証拠はないのですが、可能な人間は限られていますので、これから色々な方に話を聞いて絞り込んでいくつもりです。ですので、田中さんにも協力していただいて、先生についてご存知のことを教えてもらえませんか。特にご家族についての話が伺えれば助かります」
 真剣な眼差しで田中を見た。
「仕事の打ち合わせで、家の方には何度かお邪魔することはあったのですが、それも1年以上前のことですので、現在の状況とは違うかも知れませんよ」
 それでも、できる限りの情報を呼び起こそうとしていた。
「いえ、その時の家族の状態でも教えていただければ助かります」
「内川先生と奥様はとても仲の良いご夫婦でした。奥様もとてもお優しい方で、食事などを何度もご馳走してくださったり、本当に良くしていただきました。ただ、3人のお子さんには1度もお会いしたことがありませんので、どのような方なのか全く分かりませんが、奥様のお話では当時は内川先生とは上手くいっていないとのことでした」
「他の人から聞いた話と一緒ですね」
 編集長の話を裏付けることにはなった。
「えっ、内川先生の死にお子さんが関与しているのですか」
 田中は、朝比奈の言葉に流石に驚いていた。
「あっ、いえ、色々な可能性を探っているところです」
「あの、失礼ですが、朝比奈さんはどの様な仕事をなさっているのですか」
 事件のことを調べるなんて片手間にできることではない。朝比奈の素性に興味を持った。
「そうですよね。田中さんの目にも異様に映りますよね。残念ながらこの歳になっても定職には就けずに、父や姉には早くニートを卒業して自活しろといつも急かされています。でも、家族以外には迷惑を掛けていませんし、自由気ままに過ごせる人生も良いかなと、自分には言い聞かせています。でも、全く働いていない訳ではなく、短期的ではありますが先日までは先生のお世話をしていましたし、ここの店でもアルバイトリーダーとして、少しは役に立っていると思います」
 余り自慢できることではないが、少し胸を張って答えた。
「えっ、家事代行をしたり、カフェバーのアルバイトですか・・・・・・」
 意外な言葉に何から突っ込んで聞いたらよいのか戸惑っていた。
「それだけじゃないですよ。車の整備士・免許講習所の講師・保育士・大学の警備員・カラオケ店の裏方・コールセンターのスタッフ・宅配の配達員・自動車工場の組立員・結婚式場の司会者・葬儀社のスタッフ・・・・」
 朝比奈は指を折って今までの経験を蘇らせていた。
「あの、もういいです」
 田中は慌てて右手で制した。
「そうですか・・・・・」
 残念そうに手を引っ込めた。
「この店は長いのですか」
 質問を変えて尋ねた。
「大学時代にこの店がオープンしてから少し経ってから採用されましたので、ここではマスターの次に古株なんですよ。ありがたいことに、アルバイトのシフトについてはマスターから任されているので、比較的自由な時間が作れますので助かります。あっ、そうだ、田中さんは夕食はまだですよね。良ければ僕が奢りますので、メニューにないものでも田中さんが今食べたいものを注文してください。意外と、マスターか僕で作っちゃったりしますから」
 一応、メニューを開いて田中に見せた。
「それでは、オムライスをお願いします」
 田中はそんなことは有り得ないと、メニューをしっかり見た後で意地悪をするつもりはなかったが、そこには載っていない料理をオーダーしてみた。
「少々お待ちください」
 朝比奈は厨房に入り、帽子とエプロンを着けると、中華鍋を左手に持ちコンロに乗せた。鍋が温まるまでに卵と具材を用意してご飯をお椀に盛ると、鍋の音で頃合を見ると先ずはラードをスプーンですくい入れて、右手だけで卵を割り手際よく溶きほぐし、おろしニンニクを加えてお椀に盛ってあったご飯を入れて、ある程度混ぜ合わしたら料理酒を大さじ1杯程掛けまわしながら振るい入れ、刻みネギなどの具材を混ぜ合わせる。具材などが混ぜ合ったらオタマで中央部分を空けて、そこにマスター特性の調味料を入れて更に混ぜ合わせる、最後にごま油を垂らして香り付けをすれば、中の味付けご飯が出来上がり大き目のお皿に盛り付けた。そして、隣に既にバターを入れて温めてあった別のフライパンに、牛乳・マヨネーズ・塩少々を加えた卵液をバターが溶けきる前に一度に入れ、五秒程触らずに待ってから、菜箸でフライパンの淵から中心の方へ大きく掻き混ぜ、フライパンも前後に動かしてスクランブルエッグ状態にする。10秒程待って火からおろし、手際よく盛り付けた味付けご飯の上にスライドさせた。最後はそのフライパンで、ケチャップ大さじ4、水大さじ1杯半、バター10g弱を混ぜ合わせ、弱火にかけてバターが溶けて液状になったソースを卵の上に掛けた。朝比奈は完成したオムライスとコンソメスープを持ってテーブルに戻って来た。
「自己流ですのでお口に合えばいいですけど」
 ゆっくりと田中の前に置いた。
「えっ、本当に朝比奈さんが作られたのですか」
 ふわふわした卵のオムライスの出来栄えに驚いていた。
「一応調理師免許も持ってますし、先程話したようにこの店で何年も修行させてもらっていますから」
 慌てて帽子とエプロンを外して隣の席に置いた。
「でも、オムライスはメニューに無いですよね」
 そう言いながらスプーンを手にした。
「まぁ、マスターと僕が居れば、大体のものは作れます。メニューに載せていたらキリがないものですから、お得意様は知ってて注文してくれます」
 マスターの方を見ると、その会話が聞こえたのか小さく頷いた。
「こんなお店は初めてです。カフェバーなんですよね」
 口に運んだふんわり卵が口に広がり幸せな気分になった。
「明日の告別式は何時に来られますか」
 美味しそうにオムライスを頬張る田中に尋ねた。
「私は、1度ホテルに戻ってから実家に帰るつもりです。ですから、今夜が先生との最後のお別れでした」
 食事をする手が止まった。
「そうでしたか、文芸社の仕事も断ってこれからどうされるのですか」
 他人の仕事についてどうこう言える立場ではなかったが、彼女の仕草や表情を見てとても心配になった。
「まだ何も考えていません。元々、先生の担当ができるということで復帰する予定でしたから、それが叶わなくなりましたので今は本当に白紙状態です」
 残念そうに肩を落とした。
「今は大切な時間なのかもしれませんね。僕が言うのもおかしいですが、人生まだ先は長いですからしっかりと悩んでください」
 年下で田中よりは人生経験も少ないはずなのに、職業経験だけは豊富な朝比奈はなぜか自信を持って諭すように言葉を掛けた。
「取り敢えずは、施設に入ったばかりの母親の面倒を見ようと思います」
「自宅へ戻るということは、田中さんの書かれた作品が今度お会いする時には読めるということですね。とても楽しみです」
 本当に嬉しそうに田中を見たが、そんな日が来るとは思えなかった。それでも朝比奈の強引さに負けて、連絡先を交換して別れることとなった。
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