ハイリゲンシュタットの遺書

碧 春海

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七章

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 朝比奈は、田中の後ろ姿を見送った後しばらく考えてから、姉が経営する朝比奈法律事務所に向かった。事務所が入っているオフィスビルを見上げると、朝比奈が思っていた通りに事務所の明かりが点っていた。朝比奈の姉の麗子は父親と同じく東大法学部を卒業し、司法試験と国家公務員試験も合格して検察官としてのエリートコースを歩んできたが、ある事件をきっかけに検察官を辞めて弁護士事務所を立ち上げて現在に至る、所謂ヤメ検弁護士であった。朝比奈との仲は悪くはなかったが、賢姉愚弟と周囲からは見られて育ち、世間ではそりが合わない姉弟として認識されていた。
「こんばんわ。お邪魔します」
 朝比奈は扉をそっと開けて声を掛けた。
「あっ、優作。事務所に来るのは久しぶりだね」
 事務員兼パラリーガルの糸川美紀が朝比奈の姿を見て声を掛けた。美紀が関わった事件を朝比奈が解決したことで付き合うことになり、周りからは恋人だと思われ美紀もそのつもりではいるのだが、アルバイトばかりで定職に就いていない身としての朝比奈は、結婚して欲しいとは言い出せずにいた。麗子は仕事は勿論プライベートでも可愛がっている美紀に対して、いつまでもケジメをつけないで誤魔化し、あやふやな関係のままにしている朝比奈に対して怒りさえ感じていた。それともう1つ、いつも事件に首を突っ込んで家族だけでなく、美紀を含め周りの人間にいつも迷惑を掛けていることに憤慨していた。
「あの、どちら様でしょう」
 奥に居た麗子が2人に近づいて声を掛け、その言葉に美紀は目を大きく見開いた。
「確かにしばらく顔は合わせていませんが・・・・・」
 申し訳なさそうに朝比奈が答えた。
「私にはあなたによく似た弟が1人居るのですが、定職にも就かず我が家に寄生しています。彼女も居るようですが、中途半端な態度を取っていて本当に困っているのですよ。それで、今日はどの様な御用でしょうか」
 麗子は朝比奈を睨み付けた。その顔は般若と呼ばれる何処かの皇族の奥様よりも怖い感じがした。
「家の家事については申し訳ないと思うけど、日中は内川先生のお世話をして夜は『ゼア・イズ』の夜間勤務があるから、家には戻れなかったんだ」
 1日だけ戻った家は、洗濯物は貯め放題でリビングでは散らかし放題。ゴミ出し日も知らないのでただ袋に詰めて置いてあるだけ。一応料理を試みたであろうキッチンは見るも耐えない状態であった。よくも数日でこんな状態にできるものだと、反対に感動しながらも以前の状態に戻すのに流石の朝比奈も時間を要した。
「えっ、あなた、内川先生のお世話をしていたの。という事は、亡くなった時に一緒に居たのはあなただったの」
 朝比奈の言葉に普段余り動揺しない麗子も流石に驚いていた。
「まさか、親父に何も聞いていないのですか。そのお世話を依頼してきたのは親父なんですよ。それに、残念ながら僕は『ゼア・イズ』に居ましたから、内川先生の最期の時を看取ることはできませんでした」
 父親の憎たらしい顔が頭に浮かんだ。
「家の状態が酷くなっていくのに、家に1度も帰ってこないなんておかしいとは思っていたのよね。でも、こちらから『今何してるの』なんて連絡するのも嫌だったから、あなたからお詫びの連絡が入るのを待っていたのよ」
 般若から普通の表情へと戻った。
「誤解が解けて良かったです。今日僕はお通夜に参列したのですが、姉さんは告別式に出るつもりなのですか」
 誤解が解けた朝比奈はソファーに腰を下ろした。
「何とか今の仕事が片付きそうだから、明日の告別式には参列するつもりよ」
 朝比奈の対面に座った。
「東正区にある『セレモニーホール彩陽殿』の1番大きな斎場だったのですが、大勢の参列者が詰め掛けていました。明日の告別式はもっと大勢の人が押し寄せますので大変だと思いますよ」
「分かった、少し早目に行くことにするわ。まさかあなたそんなことを伝えにきた訳じゃないわよね。ちょっと待ってよ。そう言えば、内川先生の死因については報道されていなかったわよね。えっ、先生は名古屋クラウンホテルで亡くなっていたから、事故ではないはずだから病気。でも、ニュースではその報道はされなかったっことは」
 麗子は考え込んでしまった。
「あっ、因みに、警察は自殺を疑っているようです」
 麗子の考えを推測した。
「あなたの口振りからして自殺は無いってことなのね。まさか・・・・・・」
 麗子も朝比奈の考えを推測した。
「はい、そのまさかが起こったのだと思います。実際に僕は中田警察署で取り調べも受けてきましたから、その内容から推測すればまず間違いなく殺人事件ですね」
 自信を持って答えた。
「ちょっと待って、プレイバック、プレイバック。聞き捨てならないことをスンナリと答えたわね。今、警察署で取り調べを受けたって言ったわね」
 昔流行した歌謡曲の口調で始め、また般若の顔へと変わっていった。
「あの、誤解の無いように。一応僕が第一発見者だったので、警察も形式的に事情を聞いただけで、深い意味はないと思います」
 目の前で右手を左右に振った。
「あなたはいつもいつも事件に絡んでくるのよね。どうしてなのかしら」
 朝比奈の言葉を聞いて、怒りの顔から今度は呆れ顔になった。
「あの、弁解をする訳ではないのですが、僕が事件を起こしているのではなく、勝手に向こうからやってきて、自然に巻き込まれてしまっているんです」
 必死に弁解した。
「自然に巻き込まれる?強引に自分から巻き込んでいるとしか思えないんですけどね。そう言われることを覚悟で、やって来たってことは余程重要なことを調べてほしいってことなんでしょ。事と次第、内川先生の為になるのなら手伝ってあげてもいいわよ」
 その姉の言葉に感謝しながら、朝比奈はこれまで自分が調べ疑問に思うことなどを簡単に説明した。
「実際に犯人は、内川先生が亡くなって得をする人物ってことになるよね。詳しくは調べていないんだけれど、法定相続人である子供たちはお金には困っていないようなんだ。だから、今すぐ内川先生を殺害する動機は無い事になる。ただ、兄弟妹の関係は良いみたいなんだけど、親子関係は昨年母親が亡くなってからは、益々悪くなっているようだった。だから、内川先生は遺言書を残して子供たちには財産を残さないようにしたかったのかも知れない。それに気づいた子供たちが、内川先生が遺言書を作る前に殺害を企てたのかも知れません」
 今までの情報を結びつけて1つの結論を導き出した。
「それはどうかな。いくら内川先生が子供以外に遺産を残したくなくて、遺言状で誰か他の人間に残そうと考えたとしても、子供たちには相続権があるのだから、遺留分として相続できるのよ。この場合は、遺言状がなければ、全財産を親子3人で3等分するから3分の1だけど、遺言状があったとしても全財産の半分は遺留分として残り、それぞれ遺産の6分の1は相続できるのよ。例えば、遺産が12億だとすれば、確かに4億が2億に減るけれど、全く貰えなくなる訳ではないし、お金に困っていないのなら馬鹿でもない限り殺人とリスクを犯すとは思えないわ。完全犯罪が成功する確率が100%でない限りはね」
 弁護士としての意見を伝えてきた。
「それでは姉さん、反対に3人の子供に遺産は必ず譲渡されるのですか」
 納得ができない朝比奈は質問を変えて尋ねた。
「民法891条に定められた5つの欠格事由に該当した場合は、相続人がその資格を失うとなっているわ」
 目を閉じてその項目を思い出そうとしていた。
「それは何ですか」
 朝比奈はゆっくりと尋ねた。
「1、故意に被相続人又は相続について先順位若しくは同順位にある者を死亡に至らせ、又は至らせようとした為に、刑に処された者。2、被相続人が殺害されたことを知って、これを告白せず、又は告白しなかった者。ただし、その者に是非の弁別がないとき、又は殺害者が自己の配偶者若しくは直系血族であったときは、この限りではない。3、詐欺又は強迫によって、被相続人が相続に関する遺言をし、撤回し、取り消し、又は変更することを妨げた者。4、詐欺又は強迫によって、被相続人に相続に関する遺言をさせ、、撤回させ、取り消させ、又は変更させた者。5、相続に関する被相続人の遺言書を偽造し、破棄し、又は隠匿した者。その何れかに該当すれば相続権はなくなるけれど、遺言書が残されているのかどうか分からなくて、それも誰に遺産を譲渡するのか知り得ない状態では該当するとは思えないわね」
 民法891条の文面を語り終えると目を開けて答え、朝比奈は流石だと感心していた。
「それでは、内川先生はどんな理由があったのかは知りませんが、遺産を渡したくないと考えていた相手であっても、相続人であれば減額ができたとしても、相手は受け取れてしまうのですね」
 内川の気持ちになると、何故か切なく感じてしまった。
「そうね、『相続排除』と言って、権利を持っている人を相続から外すことができる制度で、自分が死んでもこの人にだけは財産を渡したくない」と考えた場合ににとても有効な方法がある。と言っても、誰でも自由に排除できる訳ではないのよ」
「どれだけ被相続人の意志に基づくものだからと言って、ただ気に食わないとか嫌いだからという理由だけでは無理なんですね」
「そうね、被相続人に不利益を与えたとか被相続人を著しく不快にさせた場合で、例えば被告人を虐待した、被告人に対して重大な屈辱を与えた、被相続人の財産を不当に処分した、ギャンブルなどの浪費による多額借金を被相続人に返済させた、度重なる非行や反社会勢力への加入、犯罪行為を行い有罪判決を受けているなどの場合が該当するかな」
 麗子は指を折った。
「残念ながら今のところの捜査では該当しないな」
 残念そうに言った。
「本当に、内川先生はそんなに遺産を渡したくない程、子供を嫌っていたのかしら」
 相続排除をするのは相当な決意が必要だと思っているので、そんなことをするような出来事があったとは思えなかった。
「僕も調べてみますが、長男は弁護士ですので姉さんの方から情報が入れば嬉しいです」
「内川先生のことを思ってのことだとは思うけど、いつも言っているように程々にしておいてね。それと、遺言状についてや遺留分に相続排除などについても、弁護士だから良く知っているはずよね。先生が専門家である長男に秘密で、遺言書を残すのは難しいんしゃないのかな。公正遺言書は勿論だけど、自筆遺言書を作るとしても大手の法律事務所に依頼すれば、内容は守秘義務があるから話せないとしても、父親が遺言状を作成したとか依頼を受けたなんて事は漏れ伝わるんじゃないかな」
 自分の経験からの言葉であった。
「そういうものなのですか。では、それを含めて情報収集をお願いします」
「簡単に言ってくれるけど、ただでも忙しくて猫の手、猿の手、優作の手でも借りたいくらいなのよ。そんな仕事の合間にしなくちゃいけないんだから、結構高く付くわよ。先ずは、もう直ぐ美紀ちゃんは仕事が終わるから、家まで送ってくれないかな。忙しくてまだ夕食も食べていないから、ちゃんと接待してくださいね」
 美紀に向かってウインクした。
「分かりましたよ。じゃ、行こうか」
 その言葉を後に美紀は慌てて準備をして事務所を後にすることになった。朝比奈は仕方なく来た道を戻って『ゼア・イズ』に向かうことにした。
「美紀、最近仕事の方はどう?」
 席に着くと久しぶりに2人きりで会うこともあり、何から切り出して良いのか迷った挙句の言葉だった。
「優作から仕事の話をされてもね・・・・・」
 呆れ顔で答えた。
「そっ、そうだよな」
 誰に対しても我関せず、自分のペースで進めていく朝比奈ではあったが、美紀にはちょっぴりは負い目を感じているのか、いつものように堂々とはできないでいた。
「1人の素敵な女性がいつか、いつかとその日を待っているのに、フラフラと事件に首を突っ込んで皆に迷惑を掛けてね」
 視線を落とし顔を左右に振った。
「いらっしゃいませ。えっ、さっきの女性とは違うんですね。先輩も隅に置けませんね」
 水とおしぼりを持ちオーダーを聞きに来た新人のアルバイト男性が驚いた。
「えっ、さっきの女性、優作どういうこと・・・・・・」
 厳しい表情、鋭い目で朝比奈を睨み付け、アルバイトの男性はその迫力に一歩二歩と後ずさりした。
「あっ、それは、今回の内川先生に関係した人で、ただ単に話を聞いていただけだよ」
 その眼差しに声も浮ついていた。
「分かった。夕食代は勿論優作の奢りで、優作はいつものように紅茶でいいよね」
 ドスの効いた美紀のその言葉に優作は生唾を飲み込んで頷いた。
「私はマスター特性のイクラ丼の超特盛で生ジョッキの大をお願いします」
 2人の関係を知っているマスターや他のスタッフは当然と頷き、新人君は呆気に取られていた。
「僕も、紅茶はキャンセルで、生ジョッキの大・・・・・いや、中に変更で」
 そう言うと、財布を取り出して美紀に見えないように紙幣を確認した。
(仕方ない、また『ツケ』でお願いしするしかないよな)
 そう呟くとゆっくりと財布をポケットに戻した。
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