ハイリゲンシュタットの遺書

碧 春海

文字の大きさ
15 / 16

十四章

しおりを挟む
 翌日、犬山市にある内川家の実家に長男の陽一、次男の光雄、長女の友美が、父親内川康晃の財産の分割について話し合う為に集まってきていた。3人がリビングに腰を下ろした時に玄関のインターフォンが鳴った。
「すいません。内川康晃さんのお宅に間違いないでしょうか。お花のお届けものがございますので、受け取りのサインをお願いします」
 メガネを掛け、制服に帽子を目深に被った女性が画面に映し出された。
「そうですか、今玄関を開けますのでお待ちください」
 長男が立ち上って対応した宅配業者と思われる女性は、色々な花で彩られた籠を持って玄関先に入り、長男が招き入れた女性は他の2人にも頭を下げて、リビングにある机の上にそっと置くと、長男にボールペンを渡して伝票にサインをもらい、もう一度頭を下げてリビングを後にした。
「今頃誰が花なんて送って来たんだ」
 次男が長男に近づいた。
「送り主は、文芸社の草壁編集長になっているな」
 伝票に目を移して答えた。
「今日は俺達が居たからいいけど、誰も居なかったら枯れちゃうのにな」
 不思議そうに立派な花籠を見ていた。
「そんなことはどうでもいいから、早く財産分与について話し合おう」
 次男は催促して長男を席に着かせた。
「調べたところ、親父の預貯金は約18億3千万円に生命保険の死亡時の保険金、この実家の土地家屋と後は著作権なんだが、実家は誰も住まないということで売却して現金化して分配するとして、保険金に関してはまだ死亡原因が確定していないので、保険金が出た後で等分するとして、問題なのは著作権だな」
 長男が書類を2人に渡した。
「親父の著作権は本人の物だから、そもそも俺たちが相続できるのか」
 次男が書類を手に尋ねた。
「ああっ、著作権の権利の内、著作者人格権は相続できないが、財産権は相続できるんだ。その著作権も田中絵梨という編集担当者になっていたんだ」
 苦虫を潰したような表情で長男が答えた。
「著作権って実際にはどんなもので、親父にはどれくらいあるんだ」
 よく聞く言葉ではあったが、次男には実際にどのようなものなのかはっきりと理解できていなかった。
「著作権法というものがあって、著作物を保護する為の権利なんだ。まぁ、簡単に言えば、出版や上映に対して権利を与えるもので、使うものはその対価を支払うというもので、著作者が著作物を創作した時点から著作者の死後70年間とされているが、親父の場合はどれくらいの金額になるのかは計算できないな」
「しかし、そんな貴重な著作権もただの編集部員に譲るなんて、余程俺たちのことを嫌っていたんだな。俺たちも親父のことは嫌いだったけど」
 呆れ顔で次男が答えた。
「まぁ、その著作権を3億と換算して、お前たちが相続したいというのであれば、預貯金の相続金額から差し引くことになるが、意見を聞こうと思う」
 長男は2人の顔を見た。
「俺は現金だけでいいよ」
「私も」
「それでは、著作権を3億と換算して合計21億3千万円として均等に7億1千万円になり、2人は現金を、俺は著作権の相続と現金4億1千万円。それと、実家の土地家屋の売却金の3等分と言うことでいいんだな」
 下書きとして持参したノートに書き込んだ。
「ちょっと待てよ。実際に石田を撲殺する計画を立て実行したのは俺なんだぞ。そんなリスクを負ったんだから、もう少し多めに貰わないと割が合わないな」
 次男が異論を申し出た。
「それを言うなら、シアン化カリウムを盗み出し亜久井弁護士に飲ませたのは私なのよ。女の方が相手も油断するからと言って、2人が私に無理やりさせたのよ。私だってリスクを負っているんだからね」
 長女が次男の言葉を受けて続けた。
「あのな、そもそも俺が亜久井弁護士から遺言書が作成されていることや、親父が俺たち3人の相続排除の相談を受けていることを聞かなければ、ひょっとすれば俺たちは相続排除され親父の財産は全くの赤の他人に全て渡ってしまうところだったんだぞ。そう考えれば、それ相当の金額だと思う。文句は言わせないぞ」
 2人の弟妹の顔を睨み付けた。
「分かったよ。でも、遺言書には著作権だけでなく、全財産をその田中絵梨って女に譲って本当に書いてあったのか。変な親父だとは思っていたんだけど、そんなことを考えるなんて普通じゃないよな。病気だったんじゃないのか」
 親である内川のことを思い出し、顔を左右に振った。
「まぁ、俺たちのことを嫌って、何処かに寄付をするっていうのはアリかなとは思ったけど、まさか担当だった編集者に全財産を譲るって文字を見た時は、正直言ってめまいがした。本当に怒りが込み上がって、文字が残るのも嫌だったから火を点けて燃やしてやったよ」
 その時の情景を思い出して語気を強めた。
「でも兄さん、そんなことしても大丈夫なのか。と言うよりも、事件の進展具合はどうなっているのか、話は入ってきてないのか。俺達が事件に関与しているなんて発覚したら、遺産どころじゃないだろ」
 反対に不安な表情で長男の顔を見た。
「愛知県警内に親しい人物が居るので、色々確認してもらったんだが、まず親父の件については遺書も出てきたし、俺達の意見も参考にされたようで、間も無く自殺として処理されるようだ。亜久井弁護士については、シアン化カリウムの入手経路については捜査されているようだが、多額の借金があったことやスマホに遺書が残されたことなどから、これも自殺として決着するだろうとの事だ。問題なのは石田の事だが、これは岐阜県警に探りを入れた結果、防犯カメラに女性が犯行前後に貸別荘を出入りする映像が残っていた為に、今はその女性を犯人として捜査しているそうだ」
 書き終えた書類を折り畳んでポケットに入れた。
「石田の件は予定外だったけれど、それ以外は上手くいってよかったよな。兄貴が警察に顔が効いて情報が入ってくるから助かるよ」
 安堵の表情で次男が答えたその時、玄関のインターフォンが再び鳴った。『何だこんな時に何度も』とばかりに長男が立ち上がってモニターを見た。
「どちら様ですか」
 言葉に迷惑そうな感じが込められていた。
「申し訳ありません。愛知県警捜査1課の大神と申します。お父様の事件に関して少しお聞きしたいことがありまして、今日は丁度3人がお揃いとのことですので、是非お時間を取っていただけないでしょうか」
 大神は丁寧に話し掛けた。
「分かりました。今玄関を開けますのでお待ちください」
 長男は玄関に向かい、大神の他部下の2名の刑事と、朝比奈と先程の謎の女性配達員までが長男の後に付いて続々とリビングに姿を現した。
「随分大勢ですね。でも、確か親父の件は中田署が調べているはずですよね」
 次男はその姿に驚いて少し動揺していた。
「はい、確かに、お父さんの事件の管轄は中田署ですが、こちらにいらっしゃるのは愛知県警の第一線で活躍している大神刑事です。つまり、愛知県の事件に関して全て扱うことになっているのですよ」
 朝比奈が一歩前に出て答えた。
「あっ、そうなんですか。でも親父は自殺で決定されるのではないのですか」
 慌てている3人を代表して長男が質問した。
「えっ、まだそんなことどこも発表していませんが、一体どこからの情報なのでしょう」
 朝比奈は首を傾げた。
「まぁ、風の便りというか、それに兄貴は優秀な弁護士で、顔も広く各界に知り合いも多いのですよ」
 腰掛けていた次男が答えた。
「壁に耳有り障子に目有り、世間ってそんなに狭いものなのでしょうかね。本当に良いお友達を沢山お持ちのようですね」
 皮肉を込めて朝比奈が言い返した。
「そっ、それで、私達に何を聞きたいのですか。知っていることは、中田署の刑事さんにお話しましたよ」
 長男はふんぞり返るように席に着いた。
「まぁ、いいでしょう。中田署は自殺で処理しようとしているようですが、我々は別の観点からお父様は病気は勿論自殺ではないと考えています」
 朝比奈は負けないように堂々と長男の前に腰を下ろした。
「何を言っているんだ。親父のパソコンに遺書が残されていたはずだろう」
 ちょっと緊張しながら言い返した。
「えっ、そんな情報まで仕入れているのですか。お兄様は本当に顔が広いんですね。確かに、遺書らしいものは見付かりましたが、我々はその文面にも注目していまして、こちらの大神刑事が中田署に再捜査を依頼しています」
 感心しながら顔を左右に振った。
「そんな、まさか・・・・・」
 3人の兄弟妹が口を揃えた。
「お父さんの件については私から説明させていただきます。内川先生は、持病の糖尿病と高血圧を抑制する為の薬を飲んでいらっしゃいました。その薬の中には、エチレングリコールの入ったカプセルが残っていました。このエチレングリコールは皆さんもご存じのように、即効性ではありませんがじわじわと腎臓にダメージを与えて、腎不全を起こして死亡します。まさに、内川先生の場合がそうでした。まぁ、残りの薬を調べなければ、警察は病死と判断したでしょうが、エチレングリコールが発見されたことで、病死ではないことが分かったのですが、お兄さんが言われたように先生のパソコンから遺書らしい文章が発見され、また貴方達の証言から今度は自殺ではないかと判断されることになりました」
 大神が代わって今の状況を語った。
「遺書らしいって言ったけど、どういう事なんだよ。俺たちが話した親父が自分の作品に自信をなくしていたのは本当なんだぞ」
 次男がそう言うと、他の2人も頷いた。
「それではまずその遺書らしい文面について僕の方から説明させていただきます。僕はその文章を見て先生の自殺を疑いました。だから、警察に遺書らしいと言ったのです」
 今度は朝比奈が代わって答えた。
「何なの、その遺書らしいって、だったらどうして親父がそんな文章を残すんだ」
 怒りを込めて尋ねた。
「ここに、お父さんが残された遺書らしい文章のコピーを持ってきましたので、読ませていただきます。『私はこれで君からお別れすることになる。本当に悲しいことだ。親愛なる希望よ!私はお前と共にやって来て、ある時期までは、回復するかもしれないと思っていた。でも今、君と完全に別れかれなければならない。木々の葉が秋に色を変えて落ちてしまうように。希望もそれと同じように枯れ果ててしまった。ここに来た時とほとんど同じようにして私は去る。美しい夏の日々に私を勇気づけた気持ちも失せてしまった。おお、神の摂理よ!どうかもう一度喜びに満ちた一日を私に見させてください。もう私の心の中に真の喜びがなくなってから、どんなに長い時が経ったのでしょう。いつ?おお、神よ!いったいいつになったら私は自然と人間との神聖なる世界の中で再び喜びを見出す事ができるのでしょうか?もう二度とない?ああ、それはあまりにも酷すぎます!』ですが」
 一応、念の為に書類に目を通しながらゆっくりと読み上げた。
「私はこれで君からお別れすることになる。本当に悲しいことだ。そこだけ聞いても、遺書にしか聞こえませんでしたが、どこをどう疑われているのですか、反対にお聞きしたいくらいですね」
 長男は冷静を取り戻して感想を述べた。
「えっ、やり手の弁護士とお聞きしていたのに、それに2人の弟妹さんもとても優秀との評判ですから、この文章を聞いただけで直ぐにお分かりだと思ったのですが」
 そう言いながら、朝比奈は3人以外に大神の顔を見た。
「お、親父らしい、そして我々とは違い小説家らしい遺書だとは思いますよ。少し難しくて理解しづらい文章ではありますがね」
 長男が弟妹の顔を見ると2人は首を振り、仕方なく代表して答えた。
「これは世界的にも有名な遺書。『ハイリゲンシュタットの遺書』の1文なんですよ」
 朝比奈は大神の顔を見た。
「確か、ベートーべンから弟への遺書と言われているが、よくは似ててもそんな文章ではなかったと思うけどな」
 大神が口を出した。
「そう、ウィーン郊外で耳への負担を減らす為に治療中だったベートーベンが1802年10月6日に弟のカールに当てた遺書だ。その遺書は全部で手紙4枚分と結構な長さになっていたんだが、実はその4日後の10日に追加されていたのがこの文章なんだ。文面を読めば遺書と解釈されても仕方がないのだけれど、この文章を書いたベートーベンは希望と決別し神に向かって嘆くと共に、自分の境遇を悲観することなく、自分が誕生したその使命を全うする為、これを境にして何かを吹っ切ったように、交響曲第9番などの様々な傑作を誕生させています。先生はこの文章を読み、体力・知力・病気等の衰えを受け入れ、新たに制作活動をするという意欲を見せようとした。正に先生もベートーベンの境地に至ったのだと僕は思います。つまり、先生は自殺どころか、ベートーベンが残したこのハイリゲンシュタットの遺書を見ることによって、自分を奮い立たせていたのかも知れません。当然自殺なんて考えられない、僕はこの文章を見て、先生の気持ちが直ぐに分かりました。先生はあなた達に殺害されたのです」
 朝比奈は、左の顳かみを叩きながら説明した。
「貴重なお話を聞かせていただき、大変勉強になりました」
 長男は大袈裟に手を叩き微笑んだ。
「エリートの弁護士さんに褒めていただき本当に嬉しいです。では、お言葉に甘えさせていただいて、もう少し話を続けたいと思います。まず、一連の事件の発端は、内川先生とあなた達3人の不仲が原因でした。そして、3人共に多額のお金が必要になったが、先生はそれらの援助に答える事はなかった。多額の資産があるのに、困っている自分達への対応は許しがたいものであったのでしょうね。それに、先生が遺言書を作成し他人に全財産を譲る行為を、石田さんが紹介した亜久井弁護士から聞かされてしまった。遺産の遺留分はあると思ったが、相続排除の手続きも依頼されていて、それが家庭裁判所で認められれば、全く相続できないことはご存じですよね。このままでは、全ての財産は田中絵梨という全く知らない女性に取られてしまう。それであなた達は相談して父親である内川先生を殺害することを決断したのですよね」
 大神に隣の席を勧めた。
「ちょっと待ってくださいよ。実の父親なんですよ。それに、あなたが言われるような、親子の仲が悪いということは全くなかったのです。それどころか、私達の話をよく聞いてくれていて、支援に対してもとても協力的でした。それに、あなたの言われる遺言書についても父は作っていなかった。もし、あるのなら今ここに出してもらえませんか」
 長男は顔を赤く染めて、興奮気味に煽り立てた。
 「まぁ、下手な余興と思って、もう少し僕の推理に付き合ってください。先生が相続について相談していた亜久井弁護士は、先生が亡くなった事であなた達、いや、おそらく同じ弁護士である陽一さんに、遺言書や相続排除であなた達を脅した。まぁ、亜久井弁護士もお金に困っていましたし、亡くなった依頼人への信用よりは、生きているあなた達の遺産の方に魅力を感じたのでしょうね。勿論、先生の総遺産の金額も知っていたでしょうから、相当の金額を要求された。当然、遺産を相続できれば払えない金額だったのでしょうが、これからも強請られる恐怖や、弱みを握られていることをデメリットと感じたあなた達は、亜久井弁護士も殺害する計画を立てた」
 嬉しそうに3人の顔を見た。
「それはおかしいな。確か亜久井弁護士が亡くなった時刻は、親父のお通夜が執り行われていたはずですよ。我々3人には不可能です。それにそもそも、亜久井弁護士は自殺だったんじゃないのですか。スマホに遺書も残されていたんですよね」
 慌てて長男が言い返した。
「まぁ、遺書のことなど随分詳しいですね。確かに、喪主である陽一さんは皆の目もありますから葬儀場を抜け出すことは無理だったでしょうが、亡くなった亜久井弁護士の事務所は、葬儀場から徒歩で10分も掛からないところにありましたから、女性であっても30分程席を外すことができれば犯行は可能だと思いますよ。それに、遺書と言われましたが、この文章は先生が残されていたハイリゲンシュタットの遺書と同じだったのです。どちらからの紹介か分かりませんが、2人は共有して感銘を受けていたのかもしれません」
 女性という言葉を使い、暗に長女の犯行を感じさせていた。
「おっ、俺達はその時間全員葬儀場に居たんだ。証拠、そう証拠を出せよ」
 感情を剥き出しにして次男が叫んだ。
「それに関しては今のところは証拠は出てきていません。残念ながら防犯カメラでは確認できませんでしたからね。まぁ、裏口から出て行かれたのでしょうが、警察の捜査能力を甘く見てはいけませんよ。お通夜の葬儀場のスタッフと参列者全員に確認を取れば、1人くらいはその姿を見ている人が居るかもしれません」
 朝比奈は大神の顔を見た。
「もし、もし仮に葬儀場から出たことが確認されたとしても、それは可能性があるというだけで、実際の証拠にはならないだろう。私達を愚弄するのは名誉毀損に成りかねない。愛知県警にも抗議させていただきます」
 長男は冷静を装って答えた。
「警察に抗議ですか?僕は一向に構いません。元々警察官ではありませんからね」
 朝比奈は横目で大神を見ながら、涼しい顔で言い返した。
「えっ、あなたは警察の人ではないのですか」
 あれだけ勝手に自分の推理を言いたい放題に喋っていた人間が警察官ではなかったことに長男は怒りが込み上げてきた。
「僕は1度も警察などと名乗ってはいませんよ。警察が間違わないようにアドバイスをする、小説でのレストレード警部に対するシャーロックホームズのようなものでしょうか」
 朝比奈は大神と自分を順次指差した。
「いい加減にしろよ」
 今度は次男が怒鳴った。
「でも、本当に疚しい事が無ければ、もう少し我々に付き合っていただいても良いのではないですか」
 横で大神がわざと大きく頷いた。
「それは構いませんが、後で後悔することになってもしりませんよ」
 長男は精一杯威厳を保って答えた。
「勿論、覚悟の上ですので、最後までしっかり聞いてください。今度は、亜久井弁護士が亡くなり、その友人であった石田さんも内川先生と続いての事件で、流石に異変に気づいて暫く身を隠すことにしました。流石に、亜久井弁護士とあなた達の関係は知らず、また亡くなった時に皆さんにアリバイがあること告げられた石田さんは、お金などの援助などあなた達の助けを受け入れて、罠とは知らず下呂の貸別荘に身を潜めることを選んでしまった。そして、見事に裏切られて、あなた達の計画通りに撲殺されてしまった」
 然りげ無く下呂の温泉地の地図を広げた。
「ああ、その事件はニュースで知りましたよ。確か、何処かの雜誌社の編集部員で、週刊誌などでも話題になっていましたよね。でも、その亡くなった石田という人物は、僕たちとは全く関係がありませんし、亡くなった時刻は名古屋のホテルで食事をしていましたよ」
 いい加減にして欲しいとばかり、苦虫を噛み締めた表情で長男が答えた。
「はい、長男の陽一さんと長女の友美さんは言われた通り、名古屋クラウンホテルで食事をされています。しかし、次男の光雄さんは下呂に行かれていますよね」
 その話になり下を向いていた次男へと目を移した。
「俺は確かに家族旅行で下呂温泉には来ていましたが、その石田という人物が亡くなった時間は何時なんですか」
 次男は顔を上げて仕方ないという感じで答えた。
「下呂の所轄では午後8時と判断しているようですが」
 次男の下手な芝居に笑いを堪えて答えた。
「ああっ、その時間なら、あの有名な明水館に着いていましたよ。ホテルの関係者に確認して頂ければ直ぐに分かりますよ」
 一応、準備をしていた言葉を告げた。
「いや、その明水館は、石田さんが亡くなった貸別荘から車で10分程度の距離にありました。犯行時刻が午後8時以前であれば、光雄さんにも可能でありアリバイは成立しませんよね」
 光雄の言葉に嬉しそうに答えた。
「馬鹿な、先程あなたは下呂の所轄が犯行時刻は午後8時と判断したと言っていたじゃないですか。派出所の警察官もそう言っていたんでしょ」
 自信を持って答えた。
「えっ、派出所の警察官が確認したとどうして知っていらっしゃるのでしょう。そんなことは、ニュースでは伝えていないはずですよ」
 朝比奈の微笑みが途切れない。
「それは、現地にいて、そういう話が伝わっただけですよ。その派出所の警察官が駆け付けた時に事件が起こった。その時間が午後8時過ぎだったと聞いたので、そう覚えていたのですよ。その時間に逃げ去る犯人らしい人物を見たともね」
 言葉か震えていた。
「でしたら、どうしてわざわざ僕に犯行時刻を聞いたのですか。既に話を聞いて知ってらしたのですよね。確かに、派出所の警察官が事件のあった貸別荘に向かい、凶器と思われるガラスの置物が割れる音を聞いています」
 朝比奈は地図上の貸別荘の位置を示した。
「では、その時間、午後8時が犯行時刻じゃないのですか。その時間は私は明水館に居ましたから犯行は無理なんですよ。その貸別荘から逃げた奴が犯人じゃないですか」
 次男は呆れ顔に変わった。
「流石に光雄さんも優秀でいらしゃったんですね。石田さんをガラスの置物で撲殺した後で、既に調べ上げていた遺言書に書かれていた田中絵梨という女性を、石田さん殺害の犯人とする為に連絡を取って、内川先生の財産相続の件に付いて話し合いたいとか言って、あの貸別荘に午後8時に呼び出した。勿論、派出所のにも不審者がいると、午後8時に到着するように連絡を入れて、丁度鉢合わせようとしたのですよね。ただ、田中さんが予定の時間よりも早く到着した為に、その狙いは外れましたけどね」
 今度は制服にメガネを掛けた女性を見た。
「その場に犯人が居なければ、その凶器のガラスの置物も割れませんよね。その時間が午後8時なら犯行が行われたのもその時間ですよね。私はその時は明水館に居ましたので、勿論犯人ではありませんよ」
 朝比奈の目を見ずに長男の陽一に顔を向けて同意を求めた。
「それこそが、あなたの仕掛けたトリックだったのですよね。理工系の大学を卒業していれば当然知っている『共鳴振動』を利用したんですよね。螺旋階段の端にガラスの置物を置いて、そのガラスの置物が共鳴する大音量の音楽をスピーカから流すと、ガラスの置物が揺れ始め移動して落下させたのです。実際に検証しましたし、音楽が流れていたのは貸別荘を訪れた警察官も証言しています」
 朝比奈が大神達を示すと皆んなそれぞれ頷いた。
「まぁ、まぁ、その現象が仮に使われたとしても、音楽が流れ続けていれば大音量な訳だから、ガラスの置物が割れる音など聞くことはできないだろう。あんたの論理は矛盾するだろう」
 最後の方は声が掠れていた。
「勿論、落下時間も計算されていたでしょうから、警察官が訪れるタイミングで音が切れるようにしたのですよ。タイマーを使っていたとしても、警察官の到着時間は不定であり、その時間まで予想するのは不可能であると言いたいのでしょうが、この機械を使えば外部からのスマホ等の通信機器で電源のオン・オフを自由に操作できてしまうのです」
 朝比奈はポケットから現物の機械を取り出して3人に見せた。
「そんな機械なんて知らないし、もし仮にそれを使うことができて外部からの操作が可能だったとしても、あなたが言うように警察官が貸別荘に到着する正確な時間は、近くに居なければ分からないだろう。俺は、その時は何百メートルも離れた明水館に居たんだ。何度も言うけどそれは間違いのない事実なんだよ」
 高圧的な態度で言い切った。
「そうなんですよね。それが最後まで分かりませんでした。殺害現場がどうしてあの貸別荘だったのか。どうして、その時あなたが遠く離れた明水館に居られたのか。When you have eliminated all which is impossible then then whatever remains however improbable must be the truth.」
 朝比奈はそう言うと、ブルーの制服に黒縁メガネの女性を指差した。
「可能なことを消していった時、いかに有り得なく見えても残った物事が真実である」
 朝比奈の英文を訳した。
「これは、かの有名な探偵、シャーロックホームズが残した言葉で、2つの事を繋ぎ合わせれば、1つの真実が浮かび上がってきました。光雄さんあなたは、石田さんを撲殺した後、螺旋階段の端にガラスの置物を設置し、音響機器の電源を入れたままコンセントにこの機械をオフの状態で設置して、明水館に向かい到着すると直ぐに派出所に不審者の情報を告げる。そして、直ぐに明水館の屋上に上って、天体観測用の望遠鏡を貸別荘に向けて、警察官が近付くのを確認してスマホを使い音響機器から高音量を発生させて、ガラスの置物が落ちる支度をして、ガラスの置物が落下する時間を過ぎた時に、今度はスマホで電源をオフにしたのです。ホテルで確認しましたが、貸別荘まで何の障害物もなくて入口までの状況がはっきりと見ることができました」
 朝比奈は、地図で直線距離にある2つの建物を示した。
「そっ、そんな馬鹿な・・・・・・」
 完璧だと思っていたトリックが簡単に解かれてしまい言葉をなくした。
「事件当時は、貸別荘から離れた所に車を置いていたのでしょうが、実験の検証などでどうしても当日までに貸別荘を訪れなければならなかった。あなた油断しましたね。前日の防犯カメラにあなたの姿がバッチリ映っていましたよ」
 今度は大神が背広の内ポケットから次男の姿が映し出された写真を取り出して、テーブルの上に並べた。
「そっ、それだけで、俺の犯行とは限定できないよな。犯行をした確実な証拠を見せてもらわないとこちらも納得はできないな」
 次男は長男の顔を見ながらも、最後まで抵抗する姿を見せた。
「はーあ、ここまで証拠を出しても認めてはいただけませんか。この証拠は出したくはなかったのですが仕方ないですね」
 朝比奈は今度は違うポケットから録音機を取り出して、先程の3人の会話を再生させた。
「えっ、これは、もしかして・・・・・・あの花籠か」
 長男が立ち上がると花籠に近づいて仕掛けられた盗聴器を取り出した。
「僕の推理を裏付けする会話がバッチリと録れています。今の盗聴器は性能が良いですね。録音だけでなく、映像もしっかりと撮れていますよ。一緒に見ますか」
 今度はズボンからスマホを取り出した。
「こんな、盗撮や盗聴は証拠にはならない」
 長男は機械を床に叩きつけて足で踏み潰した。
「でも、全く証拠が無い場合で犯人を特定するのは難しいですが、犯人である証拠の裏付けを取るのは、警察は得意なんですよね。特に愛知県警はとても優秀ですから、これを手掛かりにしっかりと証明してくれると思いますよ。ねっ、捜査1課大神班の皆さん」
 3人の同意を求めそれぞれに大きく頷いた。
「くそー・・・・・・・」
 長男も下を向いて顔を左右に振った。
「皆さんには残念なお知らせですが、これであなた達は犯罪者となり、内川先生の遺産を相続する権利を失いました。財産の遺留分を請求する権利はあったのに、本当に残念なことをしましたね」
 朝比奈は大きく溜息を吐いて肩を落とした。
「もし、仮にそうなったら、親父の遺産を相続するものは誰も居なくなってしまうんだぞ。20億近い遺産が何の関係もない国庫に入ってしまう。そんな馬鹿なことが許されるのか」
 長男が憤慨して怒鳴った。
「この録音機にも残されていますが、陽一さんは内川先生の遺言書に遺産の全てを田中絵梨さんに譲ると書いてあったと言われていますよね。もう一度流しましょうか」
 朝比奈は巻き戻す準備をした。
「いや、結構です。でも、私の言葉だけで、実際に親父の遺言書は残ってはいませんので、残念ながら認められることはないですよ。どうして会った事もない人間に、大事な親父の遺産を渡さなきゃいけないんだ。それなら、まだ国に持って行かれた方がマシだな」
 長男はそう嘯いた。
「それではまず、田中絵梨さんを紹介します」
 右手で指差すと、先程の制服姿の女性が1歩前に出て、帽子と黒縁メガネを外した。
「えっ、こいつが・・・・・」
 次男が驚いて奇声を発した。
「紹介していただいても何の意味もありませんね。どんな手を使ったのか知りませんが、親父には全ての遺産を譲ると聞かされていたのでしょうかね。しかし、無駄骨を折ることになりましたね」
 長男は様を見ろとばかりに言い放った。
「あなたは内田先生の遺言書を破棄し、田中絵梨さんの相続の権利も失くした。確かに、遺言書の存在は先生本人と亜久井弁護士に陽一さんの3名だけでしょう。その内の2人が亡くなり、もう1人のあなたはその存在を認めないでしょう。だから、先生の遺産を受け取れる人間は居なくなった。本当にそうでしょうかね、。残念ながら、あなた達以外にもう1人相続できる人物が居たのですよ」
 朝比奈は田中に席を譲った。
「馬鹿な。まさか、あの親父に隠し子が居たなんて言うんじゃないよな」
 今度は次男が呆れ顔で尋ねてきた。
「ご存知の通り、先生はそんな人ではありません。その相続人は、やはりこちらの田中絵梨さんですよ」
 朝比奈は両手を使って座っている田中を示した。
「何言っているんだ。遺言書は無いんだから、その女だって遺産は相続できない。負け惜しみで発言しないでもらいたいね」
 法律のことも知らないくせにと長男は朝比奈の言葉に異論を唱えた。
「いえ、残念ながら遺言書は破棄されましたが、実は田中絵梨さんと内川先生は婚姻をなさっていらして、戸籍上は先生の妻でありあなた達の母親となっているのですよ」
 朝比奈が田中の顔を見ると、ゆっくりと頷いた。
「そんな・・・・・」
 今度は長女が声を発した。
「お疑いでしたら、役所で確認していただければ・・・・・・ああっ、今の立場ではそんなことはできないでしょうがね。自分の父親を殺害するような鬼畜を、戸籍上では子供に持つことになりますが、残りの人生は先生の妻として生きて欲しいと僕は願っています」
 朝比奈は田中の顔を見て微笑むと、3人はうな垂れて駆け付けた愛知県警の応援の警察官達に連行されていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...