ハイリゲンシュタットの遺書

碧 春海

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エピローグ

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「それにしてもお前、ハイリゲンシュタットの遺書のことをよく覚えていたな」
 3人と警察官が部屋を出たタイミングで大神が朝比奈に尋ねた。
「ああっ、俺もベートーベンの様に何かと悩み苦労しているから、共鳴するところがあるからなぁ」
 朝比奈は目を瞑り、交響楽第9番を指揮しているような格好を見せた。
「あーあ、そんな格好はもういいよ。あの文章を見たから、ベートーベンと内川先生のことを重ねて自殺ではないと感じ取った訳だ」
 大神は朝比奈の腕を掴んで尋ねた。
「色々な要因があったけれど、その文章を見て確信したよ」
 大神の手を振り払って田中の前に腰を下ろした。
「それにしても、田中さんが内川先生と婚姻していることをよく知っていたな。打ち明けられていたのか」
 田中の顔を横目で見ながら大神が尋ねた。
「その話を正式に話を聞いたのは昨夜だった。実を言うと、先日すこやか荘から借りた田中さんの小説を読んで、先生との小説での共通点を読み取ることができたんだ。先生の作品は初版から全作品読んでいたんだけど、最近の作品はちょっと作風が変わってきたように感じていた。その答えが、田中さんの作品を読む内に分かった。先生の最近の作品は田中さんがアドバイスをしていた・・・・・・と言うか、2人の共同作品になっていたんですよね。先生にとっては田中さんは、作品でも人生においても掛け替えのない人に成っていたのでしょう。もう1つは、お前に見せてもらった先生のスマホの発着信記録の中に、田中さんの番号が残されていた。これは、僕の想像ですが、先生は田中さんにプロポーズをしていて、自分が署名した婚姻届を渡していたのではないでしょうか。それで、事件があった日に、田中さんが役所に婚姻届を提出したことを告げられたのではないでしょうか」
 そう言って、正面を向いた朝比奈に田中はゆっくりと頷いた。
「ちょっと待てよ。田中さんからの着信があったことを、どうしてその時に話してくれなかったんだよ。それに、記録はあっても話の内容までは分からなかったはずだぞ」
 本当に空気の読めない自分勝手な奴だと今更ながら呆れていた。
「それは、先生が最後の原稿に書き加えた『it takes two to tango』の文字だよ」
 大神を指差して答えた。
「えっ、1人だけの責任じゃない。あなたのせいよ!だったっけ・・・・・・」
 思い出しながら答えた。
「韓流ドラマの見すぎだ。確かにこのフレーズは、パートナーが2人必要な南米の『タンゴ』というダンスを指していて、1952年にアル・ホフマンとディック・マニングが歌った『Takes Two To Tango』と言う曲から由来され、その後『2人にはそれぞれに責任がある』と言う意味の表現で広がったから、大神の言う意味で使われることが多いが、俺は単純にタンゴは1人では踊れない。先生は田中さんとこれからの人生を歩めることをとても嬉しく思い、その思いで原稿に書き込んだと思いたいね」
 朝比奈は、右の顳かみを叩きながら答えた。
「あの、朝比奈さんはベートーベンの遺書だったり、シャーロック・ホームズの言葉や『共鳴振動』に『Takes Two To Tango』など、どうしてそんなに詳しいのですか」
 ずっと黙っていた田中が口を挟んだ。
「ああっ、それはこいつが『サヴァン症候群』だからです。興味があることや、珍しいことなどは写真や画像として頭の中に残して置けるのですよ。これがこいつの唯一の特技なんですが、空気が読めなかったり、マイペースで人の話を全く聞かないって言う副反応があるみたいで、上手く他人と付き合うことができなくて、友達と呼べるのは私くらいで定職にも就けないんですよ。先程あいつが右の顳かみを叩いていたのは、脳の中の海馬を刺激してその情報を引き出しているようなのですが、何処までが本当で何処からが嘘なのか本人しか分かりませんけどね」
 朝比奈の動作を真似してみせた。
「サバン症候群ですか・・・・・・でも、この事件に関しては、警察から依頼されたものではないのですよね。事件に時間を費やして収入も無いなんて、朝比奈さんはどうしてそんなに事件に拘るのですか」
 田中は朝比奈の行動が理解できなかった。
「それはシャーロック・ホームズが言った『 The word is its own reward 』かな。田中さん、いや内川絵梨さんにも先生の意思を引き継いで素晴らしいミステリー小説を書き続けていただきたいと僕は願っています」
 朝比奈の眼差しに小さく頷きを持って答えた。  
「事件解決こそが、その報酬ってか。支払いに困窮して『ゼア・イズ』のマスターに前借りしている奴がね」
 大神は朝比奈の肩を2度叩くと、顔を振って出口へと向かった。
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