ノーマス

碧 春海

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プロローグ

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  日本の中心部東京、その更に中心にある民自党本部の幹事長室で二人の話し声が聞こえた。
「先日、幹事長からお預かりしました、日本学術会議の推薦名簿なのですが、七名分が黒塗りで消されています。この名簿をそのまま首相に提出しても、本当によろしいでしょうか」
 碧正義官房事務次官は、肘掛の付いたソファーに腰を降ろした美濃部幹事長の机の上に、書類を置いて尋ねた。
「どうした、別に問題はないだろう。その七名は今の政府に対して、学会やマスコミ等で常々批判的な意見を述べている人物なんだからね」
 背凭れに身体をゆだね、足を組んで葉巻にジッポーのライターで火を点けた。
「お言葉ですが、通例に従えば日本学術会議から推薦された百五名はそのまま首相に提出され、全てが承認されています。このままでは、人数も九十八名になってしまいます。それに、首相が判断されるのだとすれば納得出来ますが、このように先に黒く塗りつぶされていては、その判断は首相がしたものではなくなります」
 碧官房事務次官は黒塗りの部分を示して追求した。
「削除した人選については総理も承認しているし、その行為に対しても憲法違反にはならないと確認しての上での行為だから、君が心配するようなことではない」
 葉巻を煙を燻らしながら答えた。
「しかし、黒く塗り潰した名簿を提出するのは流石に不味いと思います」
 食らいついて碧官房事務次官が詰め寄った。
「日本学術会議は年間に十億以上も国から貰っているんだから、そんな事に目くじらを立て政府と争っても、何の得にもならないことぐらい分かっているさ。飛び抜けて頭のいい人の集まりなんだからね」
 吸い込んだ煙を碧官房事務次官の顔に吹き掛けた。
「ことが明らかになれば、日本民主の党などの野党も指摘して来ると思います」
 その煙の匂いを我慢しながら言った。
「君、何も分かってないね。今の民自党は国会議員の五分の三以上を占め、同じ与党の明正党を合わせれば三分の二の議席数を越しているのだよ。それに、今はまだ国会も開かれていないから、追求されることもないよ。それに、元々党内でも日本学術会議の存在価値について話題になっていて、追求されたとしても、首相からはそのまま任命するという前例を踏襲するのは止めるべきと判断したとか、総合的俯瞰的に色々な観点で任命したと述べて頂いて、最終的には人事に関してはお答え出来ませんとでも言えば済むんじゃないのかな」
 薄笑いを浮かべて答えた。
「それでも、テレビ報道などのマスコミで、東京検察庁長官の強引な定年延長を決めた上での麻雀賭博事件や夜桜を見る会など特集として取り上げています。その指摘や批判を受けない為にも、原本の推薦名簿を提出して承認して頂いた方がよろしいかと思います」
 そう説明すると再度頭を下げた。
「そんなことは、君が口を出す問題ではない。さっさと指示に従えればいいんだ。」
 机を叩いて怒りを表わした。
「では、最後になるのですが、大和田製薬への国有地売却の譲渡金額等の公文書改ざんについては追求されれば隠し通すことは出来ません。その点はご承知下さい」
 碧官房事務次官は頭を下げて部屋を後にした。
「ちょっとまずい事になったな」
 頭に右手を当てて顔の中央に皺を寄せた丁度その頃、遠く離れた愛知県名古屋市の東部に隣接する尾張旭市。東鉄瀬戸線の三郷駅の南にあるカフェレストラン『ぽっかぽか』では二人の若い女性が、大学の講義を終えての帰りに久しぶりにティータイムを楽しんでいた。
「糸川先輩、最近なんだかとても明るくなりましたよね。何かいいことあったのですか。特にアパートを出て引っ越してからは何か別人みたいですよ」
 碧真由美はカフェオーレと、サービスで付くシフォンケーキを交互に美味しそうに口にして尋ねた。
「そうね、まゆにも話せない、迷い事とか、心配事を抱えていたんだけど、ある事件がきっかけで全て解消されたからかな。あの頃は本当に色々悩んでいて、変なアルバイトにも手を出すところだった。でも、ある人が助けてくれたの、マジでその人が現れていなければ、本当に自殺していたかも知れない」
 糸川美紀がピーベリーという銘柄のコーヒーを口にして答えた。
「その人って男性ですよね」
 少し上目遣いで真由美が尋ねた。
「あっ、そう、だけど・・・・・」
 どうしてそんなことを聞くのか警戒しながら答えた。
「好きになったんじゃないですか。あの頃は、先輩彼氏は居なかったし、命の恩人でもある訳ですから、素敵な人だったら恋に落ちてもおかしくはないですよね」
 一人納得して答えた。
「確かに私の人生を変えてくれた人だけど、ちょっと変わった人だから付き合うのは大変かな。例えばさぁ、カンガルーの名前の由来について知ってるかなんてね」
 その時の表情を思い浮かべて言った。
「えっ、カンガルーって誰がどうして付けたのですか」
 興味を示して真由美が尋ねた。
「キャプテン・クックがお腹に袋がある奇妙な動物を見つけて、原住民に『あれは何という動物だ』と聞くと、『カンガルー』という返事があったそうなの、でもこの『カンガルー』という言葉は現地語で『ワシは知らんな』と言う意味なんだって、でも生活には関係ないどうでもいいことよね。それに、よく聴く曲も、松山千春とかオフコースなんておじさんが聞くような歌ばっかりなのよ、本当に変でしょ」
 微笑みながら答えた。
「そんな話が出来る相手がいるなんて、なんか幸せだな。その相手、誰だか当てましょうか」
 真由美が頷いて尋ねた。
「えっ、見たことあるの」
 驚きの表情で尋ねた。
「前に住んでいた先輩のところに小荷物を運んで来た、『白犬ヤマタ』の配達員じゃないですか。女の勘は鋭いですよ」
 どうだという顔で美紀の目を見詰めた。
「そっ、そうだけど、まゆは一回だけ見ただけだよね。それで分かるなんて・・・・」
 いくら女の勘っていっても、そんなことが分かるなんて信じられなかった。
「先輩に変化が見られたのは、あのアパートから引っ越したからですよね。それに、実は、二人が一緒に仲良く歩いているところを見たんですよ」
 右の親指を立てて答えた。
「で、でも、恋人じゃないよ。ただの友人だよ。いつかまゆにも紹介しようと思っていたんだけど、住む家が変わっちゃったし、お互いになかなか一緒に会える時間が取れなかったから。でもね、まゆだけに話すけど、私『相貌失認』という病気で、人の顔を覚えたり判断することが出来ないの。今こうして、話していても声や仕草などでまゆって分かるけど、顔だけでは全く認識出来ないの。でも、その人だけは何故か分かるの、母の顔も分からないのに・・・・・・」
 カップの中のピーベリーの揺れを見詰めながら言った。
「朝比奈優作さんですよね」
 真由美の言葉に反応して美紀が顔を上げた。
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