ノーマス

碧 春海

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エピローグ

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 数日が立ち、名古屋市中区愛知県警本部の西側にある大名古屋シティービルディングの一階にあるパーティー会場では、西村悟刑事部長の本部長への昇進を祝う式典が行われようとしていた。控室では祝辞と花束を贈呈する予定の美濃部幹事長と、主役である西村悟刑事部長がテーブルを挟んで宇治茶を手に話し込んでいた。
「今度の襲撃のミスは誤算だったな。もっと的確に処理してくれないと困るよ。県警本部長に君を紹介した、私の立場もあるからそれなりの活躍をしてくれたまえ。それに次々と青龍会の組員が殺人未遂で逮捕され、それが同じ相手だとなるとマスコミなど疑う奴も出てくるからな」
 茶柱が立っているのに喜びを見せて言った。
「その件に関しては、うまく処理してあります。あいつらは絶対に口は割りませんし、金は少々掛かりますが、凄腕の弁護士を紹介しておきましたので、問題はないと思います。碧さんの件も、一部の人間が他殺ではないかと言い出しましたが、その後は他殺を示す証拠は何も出てきていませんし、先生の言われるバックアップデータについてもどこからも発見されていません。時が経てば皆んな忘れてしまいます。しかし、清流会に堂々と一人で乗り込んで組長に啖呵を切ったり、出来もしないことを言いたい放題。そんな奴が三度も命を救われるとは思いませんでした。本当に悪運の強い奴ですね。でも、誰も死にたくはないですから、暫くはおとなしくしているでしょう。証拠は何もないのですからね。ですから、先生にご心配をお掛けすることはないと思います」
 それでも目いっぱいに頭を下げた。
「分かりました、本部長になる方ですので、抜かりはないとは思いますが、細心の注意を払っておいて下さい。それと、衆議院がいつ解散するか分からない状況ですので、いつものようによろしくお願いしますよ」
 残りの宇治茶を飲み干して微笑んだ。
「はい、本部長になれば、地域特別捜査班は直ぐに分散させて、それぞれ地域に飛ばすことを考えています。それから、例のお金はスイス銀行の先生の個人口座に振り込ませて頂きます」
 右手の平を広げて五の意味を表した。
「今回は、君の昇進にも色々と手を回したので、もう少し色を付けてもらわないとね。青龍会の組長に話を通しておいてくれたまえ。それでは支度もあるので、壇上で会いましょう」
 立ち上がると頭を下げる西村刑事部長を後に部屋を出た。その時、会場の片隅では、朝比奈と松原刑事が顔を合わせていた。
「真由美さんの告別式も済み、正式に謝罪をしなければいけないと思っていました。今回の事件、真由美さんを巻き込み、僕の代わりに銃撃を受けたことは本当に申し訳ないと思います」
 朝比奈は松原刑事を前に深く頭を下げた。
「銃弾は左の腕を貫通していまして、真由美の直接の死因は急性の白血病だったのですから、朝比奈さんがそんなに気にされることはないと思います」
 右手の平を左右に振って答えた。
「いえ、やはり、真由美さんを殺害したのは僕なのです。真由美さんが受けた衝撃は普通の人では軽傷だったかも知れませんが、がんのそれもステージ4の状態でしたので、相当負担を掛けたと思います。それに、僕の代わりに撃たれることがなければ、もう少し元気でいられたのですから・・・・・・」
 胸に込み上げてくるものが言葉を詰まらせた。
「真由美から朝比奈さんのこと、詳しく、詳しく聞きました。真由美は、短い時間だったけど朝比奈さんと過ごせて幸せだったと語ってくれました。それに、真由美を撃った犯人に銃口を向け、もう少しで殺人犯にもなったかも知れないのに。こちらこそ、感謝しています」
 松原刑事が頭を下げた。
「それも違うのです。真由美さんが撃たれた状態から、死に至るものではないとは分かったのですが、真由美さんの病気のことも知っていましたので、その衝撃が悪影響をもたらす事も分かりました。まだ、公式には発表されていませんが、数ヵ月後に新しいがんの治療法が認可されるそうなのです。もし、真由美さんが、病院で静養し治療を受けていれば、間に合ったかも知れないのです。その可能性はあったのです」
 残念そうに手を握りしめて下を向いた。
「それは可能性の問題です。でも、朝比奈さんと出会わなければ、真由美は自殺していたと思います。真由美の言うように、短い時間だったかも知れませんが、本当に幸せだった。話を聞く程そう感じました。真由美はあなたの気持ちを抱いて旅立ったのです」
 安らいだ表情、少し微笑んだ表情を思い出していた。
「そう言って頂ければ、僕の存在感も無駄ではなかったと少しは感じられます。それではもう一つお願いがあります。少しお金が入ったら、二人で極上のサーロインステーキを食べに行こうと話していたのですが、残念ながらそれは叶いませんでした。ですので、これを真由美さんに送りたいのですが・・・・・」
 朝比奈はポケットから赤色の指輪ケースを取り出した。
「これは・・・・・」
 松原刑事はそのケースを開いて驚いた。
「小さいけれど、一応ダイアモンドのエンゲージリングです。遅れましたが、これくらいしか僕の気持ちを真由美さんへ届けられませんから、よろしくお願いします。それから、もう一つ真由美さんに対して悔いの残ることがあります。お父さんを殺害した本当の黒幕を、報告出来なかったことです。本当に申し訳ありませんでした」
 もう一度頭を下げて会場の前へと向かい、松原刑事はその後ろ姿に頭を下げた。
「それでは、これより愛知県警本部長に就任された西村悟様よりお言葉を賜りたいと存じます。皆様、大きな拍手でお迎え下さい」
 アナウンスに従って、西村愛知県警本部長が壇上に上がった。
「本日はお忙しい中、お集まり頂き感謝申し上げます。皆様もお感じのように、日本は安全な国治安の良い国と呼ばれていたのは昔のこと、現在においては凶暴な事件も増え、国を守る人間の贈収賄疑惑事件に選挙取締法違反など考えられない事件も増えてまいりました。しかし、私は法においてそれを厳しく取締、世界からも安全な国、治安の良い国と誇れる日本であるようにと、微力ながら尽くしてまいりたいと思っております。それに加え、いわゆる縦社会を愛知県警内では見直し、優秀な人間は適材適所に配置し、能力を発揮出来る環境を整備し、その中でも互いが互いを思いやれ競いあえる活力のある現場にしたいと考えます。それには、皆様のご協力が必要となります。どうか御協力の程お願い申し上げて、私の感謝の気持ちとさせて頂きます。本日は皆様ありがとうございました」
 一歩下がって頭を下げると、会場内は『おめでとう』と言う祝福の言葉と拍手で満たされた。
「それでは続きまして、美濃部幹事長により花束の贈呈がございます。皆様大きな拍手でお迎え下さい」
 美濃部幹事長が左手に花束を抱え、右手を振って壇上へと現れると、再び大きな拍手で盛り上がった。
「それでは、美濃部幹事長、一言ご祝辞をお願いします」
 女性のアナウンスが流れ美濃部幹事長がマイクを手にした。
「今、新型ウイルスに因る健康上の不安や、経済の復興についても皆様に心配をお掛けしております。特に地元愛知においては警察官内の不祥事もあり、それを逸早く立て直す為にも西村君のような正儀感に溢れ、勢いのある人材が活躍出来る県警本部長に就かれるのは、誠に喜ばしいことだと思います。これからも切磋琢磨し、先ずは愛知県が見本となれるように頑張ってもらいたい。よろしく頼む」
 美濃部幹事長はマイクをスタンドに戻し、西村本部長に右手を差し出して、二人はガッチリと握手をした。
「西村愛知県警本部長には、数多くの祝辞が送られています。その一部ではありますが、正面のスクリーンと音声にて紹介いたしますので、皆様よろしくお願いいたします」
 そのアナウンスが終わると、スクリーンには二人の姿が映し出された。
「今度の襲撃のミスは誤算だったな・・・・・・」
 先程の美濃部幹事長と西村愛知県警本部長の会話が流された。
「おい、何だこれは、早く消せ・・・・・」
 西村愛知県警本部長は慌ててアナウンスをした女性に駆け寄ったが、大神がその前に立ち塞がった。そして、スクリーンには不正行為の一部と書類などのデータが映し出され、至る所でシャッターの音がした。
「因果応報、悪いことをすればそれに報いる処罰が下される。それにあなたは正義感があふれる人物だそうですね」
 大神は西村の耳元で囁くと、持っていた花束が床へと落ちた。
「そして、あなたも覚悟しておいて下さい」
 美濃部幹事長に向けて言い放ち、大勢の警察官が二人の身柄を確保し連行して行った。
「今回はうまくいったからいいけど、お前はいつも危ないことをさせるよな」
 壇上に上がって来る朝比奈に声を掛けた。
「宝の持ち腐れでは行けませんから、少しは正義の為にも親父の力を借りたまでのこと。それに、マスコミに晒すことでやたら権力を振り翳す人間や、知らずにいる国民の目が覚めればいいけどな。お疲れ様でした」
 右手を差し出して握手を求めた。
「ありがとうと言うべきかな」
 その手をしっかりと握り締めた。
「だけど、俺が仕組んだなんて親父には言わないでくれよ」
 慌てて大神の目の前で両手を合わした。
「分かってるよ。だけどお前の計画の為で、愛知県警本部は信用回復においても大変なことになるだろうな」
 左の手の平を右手の拳で叩きながら言った。
「それは全く心配していないよ。お前がいるからな」
 大神に背を向けると、正面には美紀の姿があった。
「余計なことをするよな・・・・・」
 振り返って大神の顔を睨み付けたが、大神は両手の平を広げて微笑んだ。
「あのさ、どうして僕を待ってたんですか」
 車に乗り込むと朝比奈が話を始めた。
「昨日、優作さんが落ち込んでるみたいだから、私に励ましてやって欲しいと大神さんから連絡を受けたから、迷惑だった」
 助手席に腰を降ろしてシートベルトを締めた。
「迷惑じゃないけど、とりあえず何処へ行けばいいのでしょう」
 車のエンジンを掛けて尋ねた。
「瀬戸市の文化ミュージックホールで、今日の午後からバイオリンのコンサートがあるの、出来れば二人で聴きたいなって思って」
 前売り券を二枚見せて答えた。
「分かった、どうせ暇ですから、一緒に聴かせて頂きます」
 瀬戸に向かって車を走らせた。
「真由美から色々聞いたよ、恋人契約書のことも。優作さんは、本当に好きだったんだね」
 膝の上で両手を組んで言った。
「僕は好きだったけど、彼女の本当の気持ちは分からないな。自分が生きられる時間が少ないと感じていたから、ひょっとすると恋に恋していたのかも知れない」
 初めて話した時から亡くなるまでの場面が頭に描き出された。
「私がもし、恋人契約書を提出したら、署名捺印を頂けますか」
 横を向いて真剣な眼差しで尋ねた。
「あっ、あのさ、今から聴く、バイオリンの名器と呼ばれているのはどんなものが知っている」
 話を変えて尋ねた。
「えーと、ストラディバリウスとかグァルネリですよね」
 左の顳かみを叩いて答えた。
「では、その製造方法はどうでしょう」
 ひと安心して問題を続けた。
「木片を楽器の形に加工してニスを塗るんでしょ」
 それ以上思い浮かばなかった。
「まず、材料となる木片を五年程海水に付け、楽器にされる直前に細かく砕いた砂を混ぜたビールにつけるんだ。こうすると、普通だと詰まってしまう木の中の組織の管が、いつまでも貫通したまま保たれ、独特の音色を奏でることが出来るんだ。さらに、表面に塗られているニスも、トンボやハチの羽を溶かして作ったもので、それも柔らかい音を生み出す要因だと言われている。そういうことを考えて聴くと、また一段と感動出来るんじゃないかな」
 顔を左右にゆっくりと動かしてみた。
「よく考えて聴くことにはします。あの、恋人の契約書の件ですが・・・・・」
 朝比奈の話を聞き終えてもどうしても答えをもらいたくて尋ねた。
「まぁ、あの時とは、状況が違ったからね。彼女の女性としての勇気ある行動を受け止めない訳にはいかなかったから」
 話をそらした効果はなかったと覚悟して答えた。
「そうだよね。あの状況で何もしない方がおかしいよね」
 残念そうに肩を落とした。
「あのね、この前テレビの番組で犬のチャレンジコーナーがあって、ご主人の『待て』の合図の下で、松阪牛のA5ランクの生肉を出して一分間我慢出来るかの実験をしたんだけど、飼い主は自信満々だったのに、十匹の飼い犬の内七匹は目の前に出した途端にかぶりつき、二匹はヨダレを垂らしながら三十秒しか待てず、結局達成したのは一匹だけ、飼い主の『待て』の成功率は十%だったんだよ」
 変な喩えを出して答えた。
「でも、反対に言えば飼い主の『待て』の指示に従った犬がいたんだよね。優作さんは、我慢の出来ない九匹の方だった訳だ。でも、女性から求められてあの状態で何もしないのは女性に対しても失礼なのかも知れないけどね」
 言い訳を聞いているようで益々落ち込んだ。
「残念ながら、僕はご主人様の『待て』を守れた残りの一匹でした」
 力を込めて言い返した。
「えっ、私の問いに、真由美もそう話してくれたけど、それは私と優作さんのことを気遣ってのことだと思ってた。本当だったんだ」
 驚いて目を見開いた。
「言っとくけど、あの時点ではまだ恋人ではなかったし、彼女のこと何も知らなかったからね。確かに一緒に住んでたけど、二日目は僕が襲われて大変だったし、三日目はもう彼女の家には戻らなかった。まぁ、信じるか信じないかは美紀さん次第。それでも契約書を提出して頂ければ、契約内容をじっくり検討して署名捺印させて頂きます。先ずはその前に、バイオリンの音色を二人で楽しんで真由美さんのことを偲ぼうか」
 その言葉に真由美も頷いた。
「あっ、そうだ、もし、僕のお気に入りの香水を美紀さんに送ったとしたら、何処に付けてくれますか」
 車を文化ミュージックホールの駐車場に止めて朝比奈が尋ねた。
「えっ、優作さんが香水ですか・・・・・・・ブラウスかペンダントかな」
 付けたことはなかったので、想像し少し間を置いて答えた。
「そうですね。美紀さんは真由美さんのようにはなれないかも・・・・・」
 頷いて扉を開けた。
「えっ、どういう事、ねえ・・・・・・」
 そう叫んで朝比奈の後を追った。
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