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秋の夕暮れは、太陽の名残と月への予感を混ぜて、朱く、蒼く、揺らめいている。
「一条くーん」
向けられた瞳には明らかな劣情の色が含まれていて、一条朔(いちじょうさく)は嫌悪に眉を顰める。
高校の敷地内に設えられた弓道場を出て、同じ敷地にある寮へと帰る道で男が待ち構えていた。
「なぁ、オレにもヤらせてくんねぇ?一回でいいから」
ニヤついた男は制服の色から見て、高等部の三年生。
一つ上だ。
中高一貫全寮制の名門男子校が聞いて呆れるな、と品のない笑みを浮かべる上級生に朔は思う。
名家の子息が集まっているそうだが、実態はこの程度だ。
むしろ、学園の敷地内は治外法権のようなもので、大抵のことは教師たちも黙認してしまう。関わりたくない、というのが本音かもしれないが。
軽蔑を隠そうともせず男を睨むと、朔はそのまま歩き去ろうとする。
「そんな簡単に逃がすと思ってんの?」
腕を掴まれて引き戻される。
「離せよ」
言ったところで離すはずもないとわかってはいるが、一応口にする。案の定離す様子がないのを確認すると、朔は一つ、ため息を吐く。
素早く相手の腕を捻りあげると足を払って地面に倒す。
「いってぇ!くそっ!おいっ」
叫ぶ相手の腕を抑えたまま、その背を膝で抑えて動けないように力を入れる。
「もう俺に近寄っ…!」
警告しようとした朔は、誰かに背中を思いきり蹴られて体制を崩す。
―――しまった…っ
立て直すより早く、首元を掴まれ地面に引き倒される。
仰向けにされた腹の上には、先ほどとは別の男。
どうにか抜け出そうと力を込めるが、男はバランスを崩す気配もない。
がっしりした体格に強く腹部を圧迫されると苦しさに抵抗もままならない。周囲を見回すといつからいたのか複数の男たちが取り巻いている。
全て高等部の三年生ばかりだ。
浮かべた笑みはやはりどれも品がない。
「最低だな…」
最大限の侮蔑を込めて睨みつけるが、男たちの笑いは広がるばかりだ。
「大人しくしてた方が可愛かったんだけどなぁ」
「お前らおせぇよ」
「つーか、簡単に倒されてるお前が馬鹿なんだろ」
「可愛い顔してんなら可愛く啼いてるだけでいいのによ」
見下ろす上級生の目に情欲がちらつき、朔は吐き気さえしてくる。
「とりあえず一回ずつな」
腹の上の男が言うと、周りの男たちはそれぞれ腕や足を抑え込む。朔が動けないのを確認すると力任せにシャツを引き裂く。ボタンが幾つか弾け飛ぶ。
込み上げる恐怖と嫌悪で震えそうになるのを、ぐっと拳を握って耐える。
―――さすがにもう無理、かな…
体格的にも人数的にも圧倒的に不利だ。
僅かばかりの抵抗をしたところで好転するとは思えない。
どうせ飽きればすぐに終わる。
朔は投げ遣りな思考で感情を抑え込む。
外気に触れた肌寒さの所為か嫌悪の所為か、肌が粟立つ。
リィ―――― ン
グッと歯を食いしばった朔は、鈴の音が聞こえた気がして視線を動かす。
高く清らかな心地好い音色。
『来い』
声がする。
ベルトが引き抜かれる。
『こちらに』
空が
光に染まる。
視界が眩む。
強い力で空に引き寄せられた気がした。
最後に聞こえたのは、男たちの困惑の声。
こうして劣情をぶつけられることは初めてではなかった。
それは生まれもったこの容姿の所為か、また別の何かなのか。
陽に当たればキラキラと輝く金髪、透けるような白い肌、吸い込まれそうな大きいグレーの瞳。
母から唯一受け継いだ北欧の血を色濃く残す愛らしい顔立ちの美少年。
ただでさえ人目を引くその姿に加え、朔には匂い立つような色気があった。
それは時に憧憬や敬愛だけでなく、劣情をも喚起するらしく。
さきほどのように知りもしない相手から一方的な感情をぶつけられることが間々あった。
だから朔自身はこの外見も、そんな自分に惹かれる人達も、反対に嫌悪を露にする人達も、全てが疎ましかった。
こんなもの、欲しくなどなかったのに。
こんなものを持って生まれたせいで。
バシャンッ
激しい水音と手足に絡みつく冷やりとした感覚。
慌てて目を開ければ、視界に広がるのは透き通った水面だった。
水深は浅く、四つん這いで両手両足を底に付いた朔の肘までしかない。
正方形の真っ白な石が敷き詰められた水底には塵一つ見当たらない。
自らの状況も居場所もわからず、混乱したまま辺りを見回すと、朔がいるここは四角く人工的に整備された池のようなものだとわかる。
見慣れた学園の風景ではない。
男たちの姿もない。
ゆるゆると体を起こして立ち上がると、はだけた制服から水が滴り落ちた。何処にも違和感や痛みはないが、濡れた体が冷たい。
池の周りには、湖底と同じく真っ白な石材で幾本もの円柱が等間隔で聳え立ち、その奥には眩しいほどの白い壁が四辺を囲む。
朔の正面にある柱の奥には、白い世界には異質な黒い扉が見えた。
そのまま視線を上に滑らせると、柱と壁で支えられた白い天井は目が眩むほど高くドーム状に丸くなっていた。
さながら、ヨーロッパの観光名所にある神殿のようだ。
「どこだ、ここ…どうなった…?」
少し前とは何もかもが違う。違いすぎる。
そもそもこんな白亜の建物は高校の敷地内には無い。いや、高校の敷地内どころか朔の生活圏内には思い当らなかった。
「夢か…?」
現実に耐えかねて、おかしくでもなったのだろうか。意識を失って夢を見ているとか。それとも、ショックのあまり死んでしまったとか。
いや、いっそ死にゆく途中であればいいと思う。例えば、あの黒い扉の向こうがあの世だとか。
バンッ
朔が視線を向けた途端、大きな音を立てて黒い扉が開く。
勢いそのままに池の縁まで駆けてきたのは、小柄な少年だった。
池の中に朔の姿を認めると、大きな眼を驚愕に染めて何かを言う。
聞いたことのない言葉だった。
短い赤毛を元気良く跳ねさせたその姿は、小動物のようで愛らしい。
少年がまた言葉を発するが、朔には理解できない。
日本語ではない、英語でもない、知っているどの言葉にも似ていない気がする。
言葉だけではない、その服装もまた、朔には見たことがないものだ。
少年の踝まである白いワンピースは腰のところで刺繍の入った金色の帯が締められている。ゆったりとした袖は肘の少し先まで。そこから伸びた細い手首には左右それぞれに一つずつの腕輪が光る。
「俺、死んだの?」
少年に向けて問いかけると、朔が声を発したことでさらに驚いたのか、ビクッと肩を揺らして踵を返す。今しがた入ってきたばかりの扉へ戻ると、少年が手を掛ける前に扉は外側へ開かれた。
現れたのは、美しい青年。
思わず息を呑んだ。
オレンジがかった栗色の長い髪を高い位置で一つに束ね、精悍な顔立ちの凛々しい青年は静かに進む。
少年が即座に脇に控え、頭を垂れているところからも身分の高さが窺えるが、それ以上に纏う空気が高貴だった。人の上に立つように作られた、そんな印象さえ受ける。
着ている服も華やかだ。高い襟に刺繍が施されたシャツの上に光沢のある黒の上下。スーツに似ているが、金糸の細かい刺繍で豪華に飾られている。
―――なんだこれ…
人も服も言葉も場所も、自分の知っているものとは掛け離れている。
まるで空想の世界のように。
青年は池の畔まで歩んでくると、一瞬立ち止まり少し考えたようだが、すぐに池の中へと歩を進める。豪奢な衣装と足元が濡れるのも構わず、朔の元まで歩く。
その動きに気付いたのか、控えていた少年が頭を上げると、慌てた様子で何かを訴えている。青年の背中へ頻りに声を掛けているが、いっそ清々しいほど無視されている。
近すぎるほど目の前までやってきた青年は、切れ長でくっきりとした二重の眼を少し見下ろす角度で、朔に向けた。
視線が絡む。
青い瞳。
晴れた空のように澄んだ青が、朔を射る。
視線を外せない。
綺麗だ、と思う。
自分のくすんだグレーとは正反対で。
とても、苦手だ。
「―――――」
長い睫毛が瞬いて、何かを告げる。
やはり言葉も意味もわからない。
しかし、その優しく低い声音に呪縛から解かれたように、朔は俯いた。
ふっ、と暖かな感覚がする。
青年が自らの上着で朔を包んでいた。
仄かに、甘やかな香り。
「―――、――――?」
「あの、俺…」
何かを問われた気がするが、言葉が分からない。どう伝えたものかと返す言葉に惑い青年を見上げると、やはりその青い瞳は澄んでいて。
「…っ!?」
気を取られた一瞬の内に、口付けられていた。いつの間にか頭と腰を抱えこまれて動けない。
「んっ…!…待っ…」
唇が離れたほんの一瞬、抗議するために開いた朔の口内に今度は暖かくぬるりとしたものが押し入る。
歯列の裏をなぞられ口蓋を舐められると、嫌悪はなく、くすぐったい痺れるような感覚が襲ってくる。もはや抵抗もままならず、舌を絡め取られ青年の思うまま深く貪られると靄がかかったみたいに思考が停止していく。
「っは…ぁっ…ん」
重ねられる唇が角度を変える合間に息をすると、知らず声が漏れる。一頻り翻弄した青年は、差し込んだ舌から唾液を流し込むと、素直に飲み込んだ朔を見て漸く唇を離した。
優しく微笑み、朔の頬を撫でる。
青年のシャツを握り締める朔に気付いているのか、腰に回した片腕は力強いままだ。
「上手だ」
甘く響くバリトンで囁かれ、朔ははっと我に返った。
掴んでいたシャツを離し、青年を突き飛ばして距離を取る。
「っ…………」
驚く相手を睨みつけて口を開くが、吸い込んだ息は言葉にならない。視線を落とし朔は小さく呟いた。
「最悪…」
足元の湖面は、余韻を引くように波打っている。
さきほどまで曖昧だったこの状況が、青年の熱で一気に現実味を帯びる。
「フィーネ陛下。お気が済まれたのであれば、お早くお戻りくださいませ。幾ら陛下であれども、神事以外で長く神池を侵されれば神の御不興を買いまする」
まだ声変わりもしていない幼い声が響く。
二人を見守っていた少年が恭しく片膝をつき、進言している。
「わかっている」
軽く一声返すと、少年に気を取られていた朔を素早い動きで抱き上げた。
青年の豪華な上着ごと、朔は横抱きにされる。
「っ!……何するんだ」
暴れたのはほんの一瞬。
ため息をつくと感情の無い声で訊ねる。
「もう何もしない。大丈夫だ。場所を変えて話をしよう。そのままでは冷えきってしまう」
穏やかに答えると青年は扉へと歩き出す。
確かに、青年の上着が暖かいとはいえ、はだけたシャツ一枚で濡れたままの朔はじわじわと体が冷えてきていたが。
「そうじゃない。なんで抱えられなくちゃいけないんだ。自分で歩ける」
「この方が速い」
即答され、朔は言い返すのを止めた。
何を言っても無駄な気がした。
突然視界が暗転する。
青年が明けた黒い扉の先は闇だった。
言いようのない不安に駆られ、朔は思わず青年の服を握りしめていた。
「大丈夫。直に目が慣れる」
優しい声と甘い香りが降ってくる。
言葉通り、じっと目を凝らすと暗闇は薄れ、辺りの輪郭が浮かび上がってきた。
黒い扉の先、青年が進むここは回廊のようだ。
朔の手から力が抜ける。
淡い光を灯す燭台も等間隔で設置されていて、目が慣れてくるとそれほど暗くはないことがわかる。
あの池のあった白い部屋が明るすぎただけなのだ。
柱の合間から見える空は夜だ。月が、出ている。
悔しいほど安定した腕に抱かれて回廊を進む中で、朔はふと気付いた。
言葉がわかる。言葉が通じる。
つい先ほどまでは、彼らが何を言っているのか朔には全く理解できなかった。
なのに。
会話が出来ている。彼らの言葉が理解できる。
―――なんなんだこれ……
困惑する朔を余所に、そのまま10分程も進んだだろうか。
着いた先は庭の見える回廊を抜け、石造りの建物内にある広いがシンプルな一室だった。
入ってすぐの応接用と思われるソファに、そっと優しく下ろされた。
青年は濡れたブーツの様な編み上げ靴を脱ぎ捨てながら、赤毛の少年に呼び掛ける。
「ファイレン、アーレイを呼んでくれるか」
ファイレンと呼ばれた少年が、静かに部屋を辞するのを見送って、朔に向き直った。
ソファの足元に膝をつくと、朔の濡れたスニーカーに手を掛け、紐を解く。
「……っ」
「濡れたところを拭うだけだ。それ以上は触れない。冷えたままでは体に良くないだろう。今はこれしかないが、上も替えた方がいい」
咄嗟に足を引いた朔を宥めるように落ち着いた声で説明し、ソファの隅から何かを掴むと朔に手渡す。
広げてみると、柔らかな生地のゆったりしたシャツだった。
シルクのパジャマのような雰囲気がある。
促され、渋々着替える。
長く水に浸かっていたわけではないが、スニーカーには水が滲みていて足先は既に冷たくなっていたし、シャツがはだけたのもそのままで青年がかけてくれた上衣がなければ冷えきっていただろう。
「その上からこれを」
朔が着替えたことを確認して、青年は大判の布を手渡す。ストールに似たそれを羽織れということらしい。
「お前、名は?」
スニーカーと靴下を床に置くと、柔らかい布で朔の足を丁寧に拭いながら、問いかけた。
布越しに大きな手を感じ、びくりと足が震える。
自分で出来るから、と告げようとするが、顔を上げた青年と目が合い言葉に詰まってしまう。
スカイブルーの眼は、逃げを許さない強さを孕んでいて。
―――やっぱり苦手だ。
「名が、知りたい」
「一条、朔」
再度問われ、仕方なく答える。
「イチジョウサク、か。良い名だ。よくぞ我がシェーラベルクへ来てくれた」
慈しむような温かな笑顔を浮かべる青年から、朔は思わず眼を逸らす。そんなことを気にする様子もなく、青年は立ち上がると向かいのソファへ優雅に腰かけた。
「私の名はリヒト・ハイデル-フィーネ・シェーラベルク。このシェーラベルク王国を統べる王位に就いている。先ほどの者は、ファイレンと言う我が国の大神官だ。そのファイレンが今朝、神託を受けた。異世の彼人が顕れる、と」
語りだした青年、この国の王と名乗ったリヒトの話を、朔は黙って聞くことしか出来なかった。
「……この世界には長く伝えられてきた伝説がある。『混沌満ちて滅失始む。異世より神池へ顕現せし彼人、変革を齎す。共に喫した彼人、王と契を結びて此に絆す』簡単に言うと、異世の彼人――異世界より顕れた者と食を共にすれば、それが契約となりその者を繋ぎ止めておける、ということだ。その、異世の彼人が顕れると、そう神託を受け、神池に行ってみるとお前がいた。明らかにこの世界の者ではないお前が。わかるか?」
何故か、僅かに瞳を翳らせた王は問う。
朔は静かに頷いた。
「異世界……?俺がその、異世界より顕れた者ってこと…?」
自らに言い聞かせるように朔は呟く。
俄には信じがたい。
夢でもあの世でもなく。
異世界に来たなど。
有り得ないと思う一方、納得している自分もいた。
見知ったものとあまりに掛け離れた光景、夕暮れだったはずなのに闇に落ちた夜空。
自分を襲った不運からの突然の解離。
それも違う世界へ来てしまったのなら、説明がつく。
だが、そんなことが本当に起こり得るのだろうか。
困惑に揺れる朔をリヒトの声が引き戻す。
「そう。ここはお前の世界とは違うだろう。どうやって来たかは、私達にはわからないが…ただ、お前が異世の彼人であることは間違いない」
王の言葉は確信に満ちている。
どうあれ、朔がここにいるのは事実で、現実のようだ。
全てが壮大な計略か、はたまた自分が作り出した夢だと言う可能性もあるが、それは低いだろうな、と朔は思う。
「まぁどっちにしろ……死んだわけじゃないんだな」
朔は、ふ、と自嘲気味の笑みを溢す。
もしかしたらここが三途の川かもしれない、と期待していた自分が馬鹿馬鹿しくなる。
―――死んだんじゃないなら夢だろうが現実だろうが一緒だ
そう結論づけて、朔はずっと抱えていた疑問を聞くともなしに口にした。
「そういえば、急に言葉がわかるようになったんだけどあれはなんだったんだ…?最初は確かにわからなかったのに、あの池を出る頃には話が出来て…」
あの池で、ファイレンという少年に出会ったときは何を言われているのか分らなかった。
もちろん、リヒトが近づいてきたときもそうだった。
だが、そのすぐ後には二人の言葉はわかるようになっていた。
「言葉が突然わかるようになった?わからなかったのか?…ならばあの時は……そうか……」
驚き固まったリヒトだがすぐに表情を戻し、考えを巡らせると何かに気づく。
そのまま考え込むように腕を組み、黙り込んでしまう。
数十秒か、数分か。声を掛けるのを躊躇い、ただじっと待っていた朔はリヒトの顔が悲しげに歪んだ気がした。
だが、顔を上げたリヒトは不遜とも言える自信に溢れた表情だった。
「私とお前の契約は成立した。これで、お前はもう私のものだ。言っただろう、異世界より顕れた者と食を共にすれば、この世界に繋いでおけると。その伝説に則って、お前をここに繋ぎ私のものとした。言葉が通じるようになったのはその証だ」
リヒトの説明は、酷く身勝手なものだった。態度もどこか傲慢で高圧的にさえ感じる。
突然の変化に戸惑いつつも、朔は言い返すのを忘れない。
「なにそれ、繋いだとか契約が成立したとか、俺はあんたのものじゃないんだけど。それに何も食べてない。契約なんてできるはずない」
「私がお前に口付けた時、お前の唾液を飲んだ。そしてお前にも私のものを飲ませただろう。あれが契約だ」
敵意を露にする朔を気に留めることもなく、不遜な笑みでリヒトは告げた。
先ほどの失態を持ち出され、朔の顔に血が上る。
深い口付けと喉を過ぎる熱い感覚。
思い出したくない熱が甦り、それを振り払うように睨み付けた。
「正式な儀式ではない故、どうなるかと思ったが成功した。イチジョウサク、お前は私のものだ」
そんな朔の視線を正面から受け、王はあくまで尊大に言い切る。
「そんなっ」
「そんなやり方は如何かと思いますよ」
勝手な話はないだろう、と言いかけた朔の言葉を、おっとりとした優しい声が遮った。
振り返ると、ドアを開けて男が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべるその男は、薄緑のローブを纏い、栗色の髪をハーフアップに結っている。
「アーレイ」
王の呼び掛けに優雅に一礼すると、朔が座るソファに近づき、膝をついた。
目線がちょうど、同じ高さになる。
「ご挨拶が遅れました、異世の彼人様。お初にお目にかかります。このシェーラベルク王国にて宰相を務めております、アーレイ・ティーダと申します。 …御気分は悪くございませんか?」
綺麗な顔に優しい笑顔でゆったりと語り掛けるその姿は、王とはまた違った美しさで目を惹く。
宰相であるということはこの国の王に次ぐぐらいの地位だからよほど偉い筈だが、そこに高圧的な態度は無い。
「一条朔、です。大丈夫、気分が悪いとかはないです」
物腰の柔らかさとその雰囲気につられて、丁寧に返事をする。大丈夫、との返事に安心してか、アーレイは朔ににっこりと頷いた。
「イチジョウサク様ですね。陛下に代わりまして先程の非礼をお詫び申し上げます。ですが、陛下の軽挙により契約が成立したこと、我がシェーラベルクと繋がりが芽生えたことは事実のようです……。さぞ困惑されておいででしょうが、暫くは我がシェーラベルクに御滞在頂きたく存じます。陛下のものなどではなく、あくまで我が国の御客人として、心安くお過ごし頂けるよう力を尽くします。ご理解頂けませんか?」
主君の行動を軽挙と評し窘めるような視線を送るアーレイに、リヒトは眉間に皺を寄せて黙りこくっている。そんなリヒトを一瞥して肩を竦めると、朔にはにこやかな笑顔で問い掛ける。
「…わかった」
考えたのはほんの一拍。
それが本当なら戻れないものを騒いだって無駄な話だし、たとえ嘘でもあの世界に戻りたいとは思えない。朔に選択肢はないのだ。
「あとはアーレイに任せる。部屋に案内してやれ」
黙って成り行きを見守っていたリヒトは、それだけ言うと立ち上がり、部屋の奥に消えていく。あっさりとした去り際に、朔は拍子抜けする。
自分のものだなんだと暴論を振りまいていたから、このまま何かされるのではと若干の警戒があった。
「大丈夫ですよ。あれでも普段の陛下は、とても思慮深いお方ですから。さて、夜も遅いですし、そろそろお休みください。ご案内は明日に致しましょう。お部屋は用意してございます」
朔の胸の内を読み取ったようにそう告げると、アーレイも立ち上がる。
自由に使っていいからと案内されたのは二間続きの豪華な部屋だった。
間は床まである長い暖簾のような布で仕切られている。
奥には天蓋付のベッド、手前は洋風の応接用ソファセットが置いてある。
「エナ、と申します。何かございましたら、いつでも遠慮なくお申し付けくださいね」
「…よろしく」
人好きのする笑顔を向けて挨拶をするのは、朔の世話をする侍従だと紹介された。
エナと名乗ったその侍従は、輝くような金髪の美少年だった。
朔とよく似たその髪色に気をとられていると、エナは優雅に腰を折って礼をとる。
「では、ごゆっくりお休みくださいませ」
エナの挨拶にアーレイも微笑みを重ね、二人は部屋を出ていく。
天蓋付の広いベッドにそっと腰掛ける。ふんわりと優しく沈むその感触で、とても上質なものだとわかる。
寮の小さなベッドとは大違いだ。
そのまま後ろに倒れこんで、眼を閉じるとゆっくりと眠りに沈んでいく。
―――――――――――――――――――――――
この世界には、今、戦争が起きているらしい。
そう聞いたところで朔自身には何の実感もないし、ここに滞在して約一週間、何の影響もない。
「まだ、我が国に戦火は及んでおりませんから」
アーレイが言っていたように、それはまだ遠い地で起きていることのようだ。
朔はただ、用意された豪華な部屋と、やたらと広い王宮と、似ているけれどどこか違う料理と、そんなものに囲まれてひどく穏やかに過ごしていた。
最上級の客人という扱いらしい。何をするにもエナが世話をしてくれて付き添ってくれて、今のところ不自由はない。
シェーラベルクは「華の国」だそうだ。草花の栽培・加工に長けているのはもちろん、民が華のように色とりどりで美しいから、というのも理由だ。
確かに、今まで朔が出会った人々は皆、髪の色も眼の色もさまざまで、そして、美しかった。
その所為か、朔の見た目は珍しくもないようで奇異の目で見られることも無ければ、欲望をぶつけられることも無かった。
気が抜けるほど、緩やかな日々だ。
「行こう」
食堂を出ていくリヒトとその側近たちを見送って、朔も立ち上がる。
エナに声をかけて向かう先は王宮内にある鍛練のための広場だ。
この世界にも弓はあり、訓練の無い時間に引かせてもらっている。
形は若干異なるが、弓を引き、的を射るには十分だ。
集中出来る時間があればいい。
朝起きて朝食をとると、広い王宮の中庭を散歩し、リヒトや高官たちと昼食をとって午後からは弓を引く。ほどよく疲れ始めたらアーレイの部屋へ行ってこの世界の話を聞く。
それがこの世界での朔の新しい日常だ。
あれから毎日、必ずリヒトと顔を合わせてはいるものの、会話らしい会話はしていない。
食事の席では専ら高官たちと話をしているし、それ以外の時間は忙しいらしく姿もろくに見かけない。
――――もっと高慢な感じかと思ってたけどそうでもないんだよな。
高官たちと楽しそうに会話するリヒトを思い出す。
意外だった。笑顔で気さくに話をしている姿が。
あの時の身勝手な態度とは大違いだ。いや、出会ったときは確かにもっと柔らかい雰囲気だった、そこまで思い出して朔は考えるのをやめた。
時折、油断しているとあの空色の瞳と目が合ってしまうことはあったが、それ以外は会話も無ければ交流もない。
私のものだと断言した割には、朔に無関心すぎる気がする。
――――いや、だからって何かされても困るけど。そもそも男同士だし。仮にも国王がそんなことするわけないよな。冷静になって気付いたんだろ。
ふっと一つ息を吐いて思考を切ると、朔は正面の的を見据える。
「なかなか見事なもんじゃねぇか」
黙々と弓を引く朔を離れたところから見守っていたエナに声がかかる。
「ロイエン様!」
大柄で屈強な男は、慌てて礼をとるエナに構わんよ、とひらひら手を振る。
「一度見てみたかったんでな。それに……っと。すまんな、邪魔したか」
エナの声に気付いたのか、朔が手を止めて近づいてくる。
「いえ、別に」
ロイエンと呼ばれた男はこの国の軍を統括する将軍だ。
この広場が空いているときは使っていいと許可をくれた人でもあり、朔とは一度顔を合わせている。
「使いますか?」
「いやいや、そうじゃねぇんだ。むしろ続けてくれ。ちょっとな……」
早々と片付けを始めた朔を制し、ちらりと後ろを振り返る。
視線の先にはロイエンが入ってきた扉。
つられて朔も扉の方を見ると、静かに開いたその先に。
「…っなんで」
リヒトがいた。
少し前まで考えていた人が現れて動揺してしまう。
側近も護衛もつれずにリヒトは一人で、真っ直ぐに朔たちのいる方へ向かってくる。
「俺、今日はもう終わりに」
「サク」
ロイエンに早口で伝え、片づけを再開しようとする朔を低く通る声が遮った。
思わず、手が止まる。
「続けてくれ。見たい」
ロイエンと並んだリヒトはひどく真面目な表情で言う。
「と、いうわけでな。まぁいつもみたいにやってみてくれねぇか。ただ、見たいだけだ」
横でへらりと笑いながらロイエンも重ねる。
その真意を測りかねて朔は少し躊躇うが、嫌だと拒否したところで無駄なんだろうと悟り、すぐに準備を始めた。
視線を感じる気がして落ち着かない。
手早く準備を終わらせ、
「じゃあ」
それだけ言って的の前に戻る。
一つ、二つ、三つ。
深呼吸をして整える。
大丈夫だ。
僅かな高揚と集中。
体に馴染んだ射法を一つずつ丁寧になぞる。
正しく射れば的中する。
放った矢は、ストン、と的に刺さる。
「…まだ、見ますか?」
一礼して、的の前から離れた朔は、ロイエンたちに声をかける。
「……おい」
「サク様……」
何故かロイエンだけでなく、エナまでが驚いた表情で朔を見つめている。
「来い」
「うわっ…」
ロイエンの横から、言葉よりも早くリヒトの手が伸びてきた。
強い力で朔の手を引き、歩き出す。
突然の事で踏ん張る余裕もなく、弓を取り落したままリヒトに引き摺られるように進む。
「ちょっ…急になにっ…待てって!」
朔の抗議も無視して、ロイエンもエナも置き去りにして、広場を出る。
どこへ向かっているのか、何がしたいのか、全然わからない。
だから、苦手なんだ。
転ばないように何とかついていきながら、朔はため息をつく。
強く掴まれた腕が痛い。
バンッ
荒々しくどこかの扉を開けて部屋に入ると、振り返り朔を見つめる。
綺麗な澄んだ青空の色は何故か不安気に揺れていた。
視線を逸らそうとした瞬間、
「っ…!」
口付けられていた。
―――また……っ!
強い力で腰を抱えられ、逃げることも出来ない。
「やめ…っ!っん…っ」
抵抗の言葉は奪い取られる。
どんどん深くなっていく口付けは、朔の舌を絡め取って。
駄目だ。
何も、考えられない。
「…んっ…はぁ…んっ」
甘い痺れだけが頭を侵す。
「サク…」
長い長いキスの後。
どこか切羽詰まったリヒトの声。
抱き締められる。
「お前は私のものだ」
聞こえてきたその言葉が、脳内でじわじわと形を結ぶ。
靄が晴れるように思考が明瞭になってくる。
言われた言葉を反芻して。
パシッ
咄嗟にリヒトの頬を平手で打っていた。
「それなんなんだよ!」
わからない。
「俺はものじゃない!あんたのものだとか、誰かのものだとか!そんなのじゃない!欲求を満たしたいだけの玩具にすんな!……ほんと、最悪……」
無意識に涙がこみ上げてくるが、絶対に泣きたくなくて歯をくいしばる。
何かあるだろう。弁解とか、言い訳とか、謝罪とか。
黙ってこちらを見据えたままのリヒトは表情がない。
何を考えているのか、わからない。
堪えきれず、朔は部屋を飛び出した。
――ああもう最悪だ。
頭の中がぐちゃぐちゃで苦しい。
腹が立つのか悔しいのか悲しいのか、絡み合った感情が渦を巻く。
しばらくひた走って、リヒトが追いかけてきていないことに気づくと朔は走るのを止めた。
切れた息を整えていると、少し頭が冷静になる。
一方的な劣情をぶつけられて、腹が立つ。
力で敵わず、されるがままだったことが悔しい。
でも、それだけじゃなくて悲しいとか苦しいとか。
だけど、だからってどうしたら良かったんだ。
泣いたって喚いたってあのままリヒトに怒鳴り続けたって何も変わらないしわからないんだ。
「……もういい」
溜め息とともに、吐き出す。
いつだってそうだ。
どうにもならないことばかりで。
何をしても無駄なんだ。
ああでも、あんなに怒鳴って引っぱたいて飛び出すなんてガキみたいなことをしたのは久しぶりだ。
あても無く歩きながら、先ほどの醜態を思い出すといっそ笑えてくる。
馬鹿みたいだ。
違う世界で、誰にも知られていないところでなら、自由になれるかもしれないなんて無駄な期待をしてしまった。
結局何も変わらない。
「あー」
行き止まりに突き当たり、ふと辺りを見回す。
ここはどこだ。
柱も壁も朔の行動範囲にあるものと少し違う。
古びているというか、手入れがされていないというか。
外には出ていないので王宮内のはずだが、やけに人気もない。
「だよな」
慣れない場所を何も考えずに走ったのだから迷うのは当然だ。
引き返すにも朔には戻る道がわからない。
たとえわかったとしても、飛び出した手前、リヒトと顔を合わせたくはない。
「どうしようかなぁ」
「どうしたいのですか?」
漏れた呟きに後ろから問い掛けが返ってきて、朔は驚き振り向く。
儚い。
誰もいなかったはずのそこには、今にも消えてしまいそうなぐらい儚い、線の細い綺麗な女性がいた。
朔より少し上ぐらいだろうか。
小首を傾げて微笑む様子はまるで可憐な妖精だ。
「サク様は、どうしたいのですか?」
重ねて問う。
「どうしたい、とか」
朔は咄嗟に思いつかない。
「無いのですか?本当に?元の世界へ帰りたいこのまま陛下の御傍にいたい、もしくは――――この世界の違う国で一から始めたい。サク様は自由に好きな道を選べるのですよ」
ふわり。
飛ぶように一歩、近づいてくる。
ひらり。
裾が空気を孕んで膨らむ。
「好きな道…?でも、俺は、契約で…」
「ここに繋がれた?本当に?いいえ、違います。貴方は自由なのです。伝説などあくまで伝説。それはただの迷信も同じ。何の力もありません。貴方は、元の世界にもこの国にも囚われているわけではないのです。この世界にはここ以外にもたくさん国はあります。好きな道を選んで良いのですよ。さあ、どうしたいのです?」
くるり。
ダンスのように優雅に回る。
ふわり。
また、裾が踊る。
「違う国…に、行ってみたい」
自然に、言葉が口をついて出た。
囚われているわけではないと、契約など迷信にすぎないと言われたことが朔の頭を支配する。
この国以外にも世界はあると気付いた朔は、外に出たくてたまらなくなった。
もしかしたら、自分に合うのは他の国かもしれない。
そんな考えで一杯になる。
「それは素敵なことです。広い視野を持ってこそ、世界が見えるというもの。私がお手伝いいたしますわ」
微笑んだ妖精は、木の葉がはらりと落ちるように腰を折って一礼する。
「私の名は、ティリア・ルーザント。この国ではシェーラベルク家に次ぐ爵位を賜っているルーザント家の娘ですわ。私の馬車を使えば、他国へも安全に渡れます。ご安心下さいね」
細い手で朔の腕を取り歩き出すその足は思った以上に速い。
いや、迷いがないからそう感じるのか。
どこをどう歩いているのか朔にはわからないまま、軽い足取りでティリアは進む。
気付けば王宮の外にいて、華美な装飾の施された馬車に乗せられていた。
いつからか酷くぼんやりとしていて、瞼が重い。
――――俺……
―――――――――――――――――――
笑い声が聞こえる。
すごく厭な感じの。
ああ、俺はこれを知ってる。
人を蔑む笑い方だ。
嗤っていた。
―浮気の子だってさ。全然似てないもんな。
違う。
嗤っていた。
―その綺麗な顔で誑し込んだって?なら、俺の相手もしてくれるよな。
違う!
嗤っていた。
―黙って座っててくれるだけでいいんだよ。君は人形と同じなんだから。
「違う!!」
叫んで目覚める。
朔は速い鼓動を抑えようと深く呼吸をして、濃密なムスクに似た香りに咽る。同時に体には違和感。
動けない。手足を何かに拘束されている。
それにこの異物感は。
「おぉっと、お目覚めかぁ。こりゃ役得だぁな…っと」
「うぁ…っ」
下半身の、それも内部への刺激に思わず声が出る。
嘲りを含んだ笑い声がする。
頭を上げると、大きく開いて固定された足の間に、浅黒い男の姿がある。
下着も何もかも取り払われた自分の姿と後孔の異物感に、朔は血の気が引く。
「お前、なに…っ」
「あぁ心配すんなよぉ。残念だけど、俺のじゃねぇから。お前の飼い主様のために拡げてやってんだ」
「っ…!」
ニヤついた笑みを浮かべながら男が手元を動かすと、朔の内部に刺激が走る。
固い何かに内壁を圧迫され、溢れそうになる声をギリギリで抑える。
痛みはほとんどなく、体の中に燻る熱が苦しい。
望まない快感が無理矢理引き出されそうな感覚。
充満する濃い匂いに嫌悪が増す。
明らかに平常ではない自分の体に、朔は恐怖を覚えた。
「無駄口を叩くな」
地を這うような低い声。
上の方から聞こえたそれに、頭を動かすと視界の端に黒いものが過った。
朔の拘束されたベッドから少し離れたところに、真っ黒なローブをまとった男が立っている。顔には黒いマスク。
「シェーラベルクの彼人よ」
黒い男は近寄りマスクから覗く黒い眼で朔を見据えると、人差し指で朔の頬をなぞる。
「ぁっ」
ドクンと脈打つ。
合わせるようにまた内部を掻き回され、朔はまた、声を溢す。
熱い。触れられたところが熱い。
急に中心部が熱を持ち出したのを感じる。
「媚薬の効きがいいな。お前は我らが貰い受けた。これから我が主君の元で契りを交わし、変革の象徴となってもらう」
「なん、だよ…それ……」
黒い男の言葉は全てが理解の範疇を越えていたし、後孔の刺激は続いたままで、朔はただ、それだけを口にするのが精一杯だった。
体の火照りは引かないどころか、下腹部に溜まった熱が頭をもたげ始めているのがわかる。
声を出したくなくて、朔は強く、歯を食い縛る。
息をする度に入ってくる濃厚な甘ったるい香りも苦しさを助長する。
気持ち悪い。気持ち悪い。なのに、体が反応しているのが悔しい。
厭な笑い声がする。
それからどれくらい経ったのか。
「ぅ…んっ」
気持ち悪い。
異物感に嫌悪を感じつつも、漏れる声の甘さに朔は眉間に皺を寄せる。
朔は、後孔に奇妙に曲がった形の器具が挿入されたまま、放置されていた。
僅かな動きでも敏感なところを刺激されるのか、時折、朔の腰が怪しく揺れた。
残っている僅かな理性では拒否しているが、媚薬に侵された体は快感を求めて動いてしまう。だが、完全に勃ちあがった雄は、その緩やかな刺激だけでは達くことが出来ず、もどかしい焦燥感が募る。
男達はどこかに消えたが依然として拘束されたままなので、自分自身で触れることも出来ない。
「はっ……ぁ……」
朔はこの拘束を早く解放して欲しい思いと共に、今誰かが来ればはしたなく懇願してしまいそうな怖さも感じていた。
早く達きたい。
この熱を解放したい。
時間が経つほどに理性は崩れていく。
「っむ、り……ぁっ」
もっと強い刺激が欲しい。
朔がまた腰を揺らした時、音を立てて扉が開いた。
荒々しい足音の後ろに遠くざわめきが聞こえる。
「こんなに早く辿り着くとはな……やはり先に連れていくべきであったか」
忌々しげに舌打ちをした黒い男は、朔に目をやるとはっと息を飲む。
「これは……。辛そうだが、達かせてやろうか」
口の端をニヤリと歪ませて徐に近づく。朔の目は情欲に満ちて求めるものを雄弁に物語っていた。だが、言葉にするのは未だ抵抗があるようで、唇を噛みしめ堪えている。
色素の薄い肌が淡く色づき、グレーの瞳が潤むその様子は男の劣情をさらに煽る。
「あまり、時間はないが…」
「離れろ。首を落とすぞ」
静かな、それでいて殺気に満ちた声が男の動きを止めた。
「これはこれは、ハイデル=フィーネ陛下。このようなところでお目にかかれるとは恐悦至極に存じます」
ゆっくりと振り返り、開け放たれた扉を背に剣を構えて立つリヒトに向かい合う。
「それにしても…随分と物騒なご様子ですな」
両手を軽く上げて戦う意思のないことを示すが、リヒトの双眸は殺気立ったままだ。
「セイラッド。貴様、サクに何をした」
剣を突きつけられるように距離を詰められ、男―セイラッドは一歩引く。じわじわと追いつめられるように後退し、背が壁に付いた頃には、リヒトは朔を守るように立っていた。
「どうやら誤解されているようだ。私は何も、しておりませんよ。人買いに攫われ、調教されかけている哀れな少年を解放しようとしたまでのこと。確たる証拠も無しに疑われては誠に心外ですな。それとも、ここで私を手打ちになさいますか?それ即ち、我が国への宣戦布告となりますがね」
「陛下!」
流暢に語るセイラッドを遮るように、声が響く。息を切らして駆けつけてきたアーレイは、リヒトに向かって力なく首を横に振る。
「駄目です。何も…」
アーレイの言葉に舌打ちし、リヒトは渋々剣を下す。その様子を勝ち誇った笑みで見遣ると悠然と部屋を出ていく。
「では、私は失礼するとしよう。ああそうだ。その少年、性質の悪い媚薬を使われているようですな。早く後ろを慰めてやると良い」
去り際に残した言葉は二人の神経を逆撫でする。剣の柄を握りしめて抑えるリヒトの耳に、朔の荒い息遣いが聞こえてきた。隣に立つアーレイの表情が消える。
「出ていてくれないか。私が出るまでこの部屋に誰も近づけないように」
「しかし」
「アーレイ」
有無を言わせぬ強い口調に、アーレイは一礼して部屋を辞す。扉が閉まるのを確認してから、リヒトは剣を床に放り出し、朔の囚われているベッドに体重をかけた。
「サク」
「…あっ…はや、く…」
軋むベッドの揺れに、高い声が漏れる。潤んだ灰色の眼はリヒトを見ているようで見ていない。
「私が、解放してやるからな」
どこか苦しそうに小さく呟くと、朔の後孔に挿入されている器具をゆっくりと抜き去る。
「あぁっ…やぁっ…」
強い刺激に一際甘い声が漏れる。
「ぁ…っきたい…イ…かせてっ…」
理性が焼切れたのか腰を揺らして懇願してくる朔に、リヒトの欲望が募る。先走りを溢す朔の雄に手を伸ばし扱いてやると、快感に震える声を上げて呆気なく果てた。
だが、またすぐに勃ち上がったそれを触ってほしくて朔は自らリヒトの手に擦り付ける。
「やっ…まだ、もっと…っ」
もはや自分が何を言っているのかしているのかもわかっていないのだろう。淫らに腰を動かして言葉でも強請る。
セイラッドが残した台詞が蘇る。性質の悪い媚薬。それだけで大体の想像はついていた。今の反応で確信に変わる。
前だけを扱いたところで満足は得られないのだ。後ろを突いてやらねば媚薬の熱が消えることはないのだろう。
「サク」
きっと全てが終われば今の状況は朔の記憶には残らない。薬が効いて理性も飛び意識もあいまいなこの状態のことは、忘れてしまう。そう、言い聞かせるとリヒトは朔の後ろの窄まりに手を伸ばした。
「ぁんっ…あっ…やぁ」
潤滑剤と器具で慣らされていた所為か、そこはリヒトの指をあっさりと受け入れた。熱く蠢く中をさらに解して一度抜く。自らの服の前を緩めると、朔の痴態に煽られ張りつめていた雄をそこに宛がった。熱い塊に朔の体がビクリと震える。
「サク、大丈夫だ。すぐに楽になる」
耳元で優しく囁きあやすようにキスを落とすと、気持ち良さそうに息を吐く。そんな朔を愛おしく見つめて唇を重ねると誘うように口が開く。舌を入れ咥内を深く味わう。口付けに気を取られている隙に、ゆっくりと怒張を突き入れた。
「んんっ…ぁっぁあん…っ」
さすがに簡単には入らないが追いつめるように腰を進めると、リヒトのものを奥まで飲み込む。朔の喘ぎもすぐに甘いものへと変わった。緩やかに動かし、敏感な反応を示すポイントを見つけ責め立てる。
「ぁっ…やだぁっそこ…っ…ふぁっ…」
快感に生理的な涙を流しながら、朔も腰を動かす。リヒトもいいところを突いてやりながら、絡みつくような朔の中の動きに自らの絶頂が近いのを感じていた。
荒い息遣いと甘い嬌声が重なる。
「もう…っ…やっ…ぁんっ…ぁああっ」
強い締め付けと艶やかな声。朔の吐き出した白濁がリヒトの腹にかかる。ほぼ同時に、リヒトも朔の中に熱い放埓を放つ。
熱を放って弛緩した朔は、まだ涙に潤んだ瞳をゆっくり閉じて、そのまま意識を失った。
リヒトは眦に溜まった涙をそっと拭って口付けると、優しく呟く。
「サク…忘れてしまえばいい」
―――――――――――――
「ん……」
瞼を開けると見たことのある天井が見えた。
鮮やかな色彩の天使達の刺繍。
やたらと豪華な天涯。
ここは。
「王宮……?」
「目が覚めたか」
低く響く声。
「あんた……なんで」
朔は体を起こすと、やけに節々が痛むことに気付く。特に下半身は鉛のように重い。
ベッドのすぐ横にリヒトがいた。この部屋にはなかったはずのソファに腰掛け、書類に目を通している。
「熱は下がったようだな」
書類を無造作に置くと朔のベッドに腰掛け、額に手を伸ばす。
優しく微かに甘い、いつもの香りがした。
触れた掌が冷たくて気持ちいい。
――いや違うそうじゃなくて。熱を出していたのか、俺は。
「突然倒れたかと思えば、高熱で意識不明。そのまま三日も意識が戻らず、皆、心配していた」
高熱、意識不明。覚えのない言葉たちに朔は戸惑う。
――そんな馬鹿な。だって俺はここを、この国を出て旅を。
黒い男が。
チラリと過る黒い影。
――なんだ?
「俺は、俺はここを出たはずで……」
「夢でも見たのだろう。お前はずっとここにいた。随分と魘されていたが」
朔を見詰めるリヒトの瞳は揺るがない。澄んだ青の視線に、だんだんと朔の自信が揺らぐ。
「夢、なのか……?」
確かに考えれば都合が良すぎたかもしれない。妖精みたいなあの女性に出会って、何もかも手配してくれてあっさり王宮を出て、なんて簡単すぎる。
思い返してあまりにも曖昧な記憶に、朔自身も夢を見ていた気分に陥る。
「そう、悪い夢だ。まだしばらくはおとなしく寝ていた方がいい。今、薬師を呼んでくる」
リヒトは朔の頭をふわっと撫でると、部屋を出ていった。
入れ違いにエナが入ってきて、痛いところはないか水は飲めるか汗を拭いてやろうかと世話を焼き始めた。エナに聞いても返事は同じで弓を引いた後、突然倒れた朔は高熱で寝込んでしまったと言う。
「サク。気がついたのですね」
薬師と共にアーレイがやって来た。
「心配かけたみたいで、ごめん…」
「そんなことは気にしなくていいのですよ。サクが元気になってくれれば何よりです」
心から嬉しそうに微笑むアーレイに聞いても、もちろん答えは同じ。
また、黒い影。
だがどうしてもあの黒い男が気にかかる。あの男に何かを言われたところで途切れた記憶。そのあとに何かあった気がするのだが。苦しいほどの熱と、安心する温もり。
これは一体何だ。
「サク?」
考えこんでしまう朔をアーレイが心配そうに覗き込む。
「ああ、大丈夫。これ、飲んだらいいの?」
薬師の差し出す薬湯を、ゆっくりと飲み干す。苦い味と癖のある漢方に似た香りが鼻に抜ける。決して美味しくはないが、薬というから当然だろう。
―――苦いけど、まぁ嫌いじゃないな。あの匂いに比べればマシだ。
そこまで考えて何かに引っかかる。
―――あの匂いってどれだ?
甘ったるい香りが鼻について、気持ち悪いほどだった。なのに、体には熱が溜まって。
苦しくて。
「セイラッド……?」
ふと脳裡に蘇った言葉にアーレイが凍り付く。ザッと音がしそうなほど一瞬で血の気が失せたのがわかる。
―――これか。セイラッド。セイラッドってなんだ。
「サク、もう休んだ方がいいですよ。病み上がりに無理はいけません」
思考を巡らせるのを邪魔するように、アーレイは朔の手からカップを取り上げた。意図せず、声に焦りが滲んでいる。
「ねぇ、セイラッドって何…………あの、男……か?」
問い掛けた朔の中で、答えを待たずに繋がる。
黒い男。遠くで黒い男に呼び掛けるリヒトの声が残っている。
「そうだ。やっぱり夢じゃないんだな。あれは……」
「エナ、キール、下がりなさい。私が呼ぶまで誰も入らぬように」
朔の言葉を遮って、アーレイは薬師とエナを下がらせた。二人が静かに去るのを見届けて、朔に向き直る。いつもの優しい笑顔は無い。代わりに悲しそうな辛そうな苦笑を浮かべている。
「サク、それは夢の話だと、どうしても思えませんか?」
どうか夢だと思っていてほしいとアーレイの目は語っている。でも、無理だった。この記憶は夢なんかじゃないと、朔はそう確信をもってしまった。
「思えない。ここを出たことも、知らない部屋で目覚めたことも覚えてる。セイラッドとか言う男のこととか、その後のことは覚えてないんだけど……でも、夢じゃないよ。何があったんだ?リヒトもアーレイも隠してることは何なんだよ」
誰にも知られずにここを出たはずなのにまたここにいるということは、リヒトに連れ戻されたということだ。
あの、繋がれた部屋から。
そしてそれは、アーレイも知っているはずだ。
「サクにとっては、忘れていた方が良いことだと思います。出来るなら、知らせたくない」
「それでも。俺は知りたい」
言い淀むアーレイに一歩も引かず食い下がると、深くため息をついて、漸く話し出す。
「…セイラッドは隣国、トライスの軍を率いる将軍です。サクの覚えている黒い男がそうですね。そしてトライスは、異世の彼人であるサクを手中に収めようと狙っていました」
「俺を……。どうして」
「変革を齎すからです。世界を変える力を持つとされる異世の彼人、サクを手に入れ、トライス国王と繋がりを持たせることでトライスはシェーラベルクも他の国も全て、征服出来ると考えているのでしょう」
「そんな、そんな力なんて俺にはない」
アーレイの言葉に朔は馬鹿馬鹿しい、とさえ思う。
そんなの無理に決まってる。そんな力なんてない。
ただの学生で、何もわからずにここにやってきて、ただ日々を過ごしていただけで。
戦争なんて遠い国の話で。
だが、と思う。もしかして、リヒトもそうなのか?リヒトもアーレイもその変革とやらを期待して、朔をここに繋いだというのだろうか。
―――だから、リヒトは俺を自分のものだなんて。
「サク。違います。それだけは絶対に」
朔の考えていることがわかったのか、アーレイは強い口調で否定する。
「陛下も私も、貴方の力を利用するなどとは考えていません。そもそも陛下と朔の契約自体、勘違いで……。いえ、とりあえず、セイラッドの話ですね」
アーレイの言い掛けたことも気にはなったが、朔が口を挟む間もなく、話を続けられる。
「トライスが、サクを狙っているのは事実です。あの日、王宮から出たサクをセイラッドは人買いを利用してまんまと拐かし、あの部屋に捕らえたのでしょう。そして、あの部屋で、サクに媚薬を使い意識を飛ばした……」
悔しそうに語るアーレイは、途端に言葉を濁す。
媚薬を使われた。
―――あんなにも熱くて苦しくかったのはそれでなのか。
内側に疼く熱を思い出し、嫌悪に眉をひそめる。
だが、それなら。
「媚薬……って……どうやったら効果が切れるんだ……?」
嫌な予感と共に、朔の脳内を荒い息が過る。
―――これは、誰のものだ。
手も足も動かなかった。そんな状態で、どうやって解放されたんだ。
アーレイは答えない。
「俺、ヤられた……?」
知らず、朔の声が震える。
未だ残る下半身の怠さはそのせいなのかと思い至る。
リヒトやアーレイが隠そうとしていたこと。
目の前が暗くなる。
「……意識が混濁している貴方を抱くことは、陛下にとっても苦渋の選択でした。あれ以上放って置くことは出来ませんでしたし、他の誰かにさせたくもなかったのです。だから、あのままサクが忘れてくれていればと」
「ん?え、待って。待った。陛下って……リヒト……?」
待て。まてまてまて。
思いもよらぬ言葉に朔の思考が急速に廻りだす。
「そう、ですが……フィーネ陛下自らがサクの」
『サク…』突然、リヒトの掠れた声が頭に響く。ドキンと胸が高鳴る。
―――待て、なんだこれ。え、俺、リヒトにヤられたのか?!
暗転しそうだった視界が安堵に開ける。
―――いやまて。安心してどうするんだ。リヒトでも駄目だろう。あいつに……あいつに抱かれた?!
信じたくない思いと裏腹に、欲情した空色の瞳や朔の名を呼ぶ低い声、細くて長い指の感触を次々に思い出す。
大丈夫だ、と言われた気がする。優しくキスをされた気がする。
記憶の中の朔は、確かに熱くて温かくて安心していた。
「アーレイ、待って。あの、ほんとにリヒトに……?他の、その、人買いとかセイラッドとかには……?」
混乱する頭を抑えつつ、念のため確認する。
「陛下のお話では、他の誰にも穢された様子はなかった、と……そこは安心して良いですよ」
朔はますます複雑な気分に陥った。
「そっか……でもさ、それなら、別に隠さなくても良かったんじゃないの?」
朔としてはある意味一番知りたくなかったかもしれないが。ただ、アーレイやリヒトが隠す必要はない気がする。
―――だってほら、人助けみたいなものだろう。
「サクが傷付くだろうから、と陛下は仰っていましたよ。好きでもない男に意識の無いときに抱かれたなどと知っては、と」
チクリと胸が痛む。
―――好きでもない男、ね。そっちはどうなんだよ。自分を嫌っている男を媚薬から解放するためとはいえ、抱くなんて。
「陛下を嫌いになりましたか…?」
もともと、好きじゃなかった。嫌いだったんだ。そう言いたいのに言ってしまえば何かが終わる気がして、朔は言葉が出ない。
黙り込んでしまった朔を、アーレイの優しい瞳が覗き込む。
「一度、陛下とゆっくりお話されては如何ですか?私から陛下には、この件について何もお伝えしません。サクが話したければ話せばいいし、夢の話にしておきたければそれでもいいと思っています」
いつだってアーレイは優しい。ここにきた最初から、アーレイは朔を気遣ってくれる。それと同時に、リヒトのことも大事に想っているのが伝わってくる。だから朔は、頷くしかなかった。
リヒトと話なんて、何を言えばいいのかわからないけど、アーレイに言われると断れない。
「ああ、そうだ。一つどうしてもわからないことがあるんですが聞いてもいいですか?」
すっかりいつもの柔らかな雰囲気を取り戻したアーレイは立ち上がりながら、ふと首を傾げる。
「何?」
「サクはどうやって王宮を出たのです?城壁を出るときには既に一人で王家の馬車に乗っていたと警護兵の情報がありました。ただ、その馬車をどのように調達したのか、どうしてサクが外に出るよう仕向けたのか。王宮から城壁までの間にサクを見かけた者が一人もいない。王宮にまだ慣れていないサクには難しいと思うのですが。話してくださいますか?」
一頻り疑問を並べ立てるアーレイの声を聞きながら、朔が思い出していたのは、あの女性のことだった。ティリア・ルーザント。あの人に出会った時、それこそが夢のような曖昧な雰囲気だった。
―――そういえば、あの人はどうなったんだ。それにあの時、自分の馬車って言ってた……なのに、王家の馬車だって?どういうことだ。
「あの時、女の人に会ったんだ。その人が、他の国へ渡る手配をしてくれるって、馬車も用意してくれた。あの馬車は、自分の家のものだって。ティリア・ルーザントって名乗ってたけど……その人はどうなったんだ……?俺、馬車に乗せられた辺りはどうしても思い出せなくて……」
あの朧気な雰囲気を思い出しながら、ありのままをアーレイに説明する。あんなに穏やかで純粋そうな人が自分を売ろうとしたなんて考えたくない。
「なるほど……。ありがとうございます。その方については少し調べてみます。サクはあまり気にせず、とにかく今は、ゆっくり休んでください」
ニコリと笑顔を向け部屋を出ていこうとするアーレイを、朔は直前で呼び止める。
「あっねぇ、アーレイちょっと……」
―――――――――――――――――――――――
「エナ、この花……っ何してるんだよっ!?」
備え付けられた浴室から出て寝室に戻った朔は、そこにリヒトの後ろ姿を見つけて狼狽える。
エナに名前を聞こうと浴室から持ってきた花も驚いた拍子に取り落としてしまう。
振り返ったリヒトはリヒトで、何故か動揺しているように見えた。
「お前…なんて恰好で…」
リヒトの言葉に、朔は自分が今、薄布一枚の姿だと気付く。ガウンのような作りではあるが、文字通り薄い布一枚。下手すると透けて見える。
「みるなよっ」
慌てて衣装部屋に飛び込むと手近な上下を身に着ける。なんでこんな時にエナはいないんだ。心の中でエナに八つ当たりしつつ部屋に戻ると、ソファに腰かけたリヒトが朔の落とした花を手にしていた。
「その花…なんて名前?」
リヒトの向かいに腰を下ろす。心の準備が出来る前に遭遇してしまって、動揺が隠せない。とりあえず何か、とエナに聞くつもりだったことを尋ねてみた。
エナがいつも浴室に飾ってくれている花。4枚の花弁はオレンジ色のグラデーションになっていて、仄かな優しい薫りがする。可愛くて、朔はこの花が好きだった。
「シェーラと言う。私の一番好きな花なんだ」
一瞬、心臓が跳ねる。
そっと顔を寄せて花の香りを慈しむようなリヒトを見ていると、鼓動が早くなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
どうしてこんなに意識してしまうんだ。あの部屋でのことを思い出したからか、アーレイからいろいろ聞きすぎたせいか。やっぱり忘れていたほうが良かったかもしれない。
アーレイと話をした後、それが引鉄になったように朔は一連の出来事をほぼすべて思い出していた。あの部屋で繋がれていたこと、セイラッドが来るまで、来た後、リヒトが来た時。
媚薬の所為とはいえ、自分の醜態を思い出すと羞恥で自害したくなる。
「この国の、そして王都の名の由来となった花だ。守護の力を持つ。香水や栞にして身に付けるとあらゆる厄災から守り導いてくれる。私の香水もシェーラで作られている」
ああ、いつもの香りはこの花から作られていたのか、と納得する。
「あーもう……ほんっと馬鹿……」
深く息を吐き出し悪態をついた朔を、リヒトが怪訝そうな顔で窺う。
意を決して朔は話し出す。
「あのさ…まず。俺は全部思い出した。人買いに捕まってたこともセイラッドのことも……あんたが……助けてくれたことも」
朔の言葉にリヒトは驚きを隠せない様子だが、何か言われる前に話を続ける。
「それから。契約のことも聞いた。あの池で、あんたは言葉が通じてないことに気付かず、俺が受け入れたと思って契約したって」
「お前、それ」
口をはさむリヒトを徹底的に無視して、朔はさらに続ける。
「まだある。鍛錬場の辺りでまた俺にキスしたのは、あのとき俺の姿が消えかかっていたからだって。このままだと俺が元の世界に世界に戻ってしまうと思ってつなぎ止めるために慌ててああしたって」
リヒトは全て知られていると悟ったのか、もう止めようとはせず黙って朔の言葉を聞く。
「そもそも俺をここにつなぎ止めたのも、顕れた時の俺の姿で……襲われたことを察したからなんだろ。ここなら、大丈夫だからって。全部アーレイから聞いた」
「言わずにいようと思っていたが、上手くいかないものだな。それで?」
ソファに深く沈み、朔が話し終えるのを待って困ったように笑いながら、促す。
「それで……結局あんたは俺のこと、どう思ってるの……?可哀想だったから庇護してあげた珍獣かなんか?それとも装飾品みたいなモノ?」
「そう、思うか?」
「わかんないから聞いてるんだろ」
問い掛ける朔の目は不安気に揺れている。
アーレイから全てを聞いた後も、結局わからなかったのはリヒトの気持ちだ。
いや、薄々気づいてはいるが、それが正しいのかどうかが分からない。
―――それに、もしそうだったとして、俺はどうなんだ?どう思ってるんだろう。
自分自身の気持ちにすら答えが出ないまま、それでも聞いてしまった自分の狡さに少しだけ、苦しくなる。
「そうだな…。ただのモノに執着などしない。可哀想なだけで誰彼かまわず助けようとはしない。況してや無理矢理契約したりなどしない。好きでもないものを助けるために、抱いたりなどしない……。サク、お前を愛しく思っているよ。出会ったときからずっと」
青く綺麗な澄んだ瞳が優しく細められる。
リヒトの真っ直ぐな想いに朔の顔が、体の内側が、熱くなる。
青空のように澄んだこの綺麗な眼が怖かった。
自分の弱さも見透かされているようで。
だからずっと、逃げていたんだ。
リヒトの想いに気付くことから。
たぶんそれは、朔が想像していたよりもずっと深くて。
「暴力の対象にされて世界に失望し諦観しながらも、お前は強くあろうとしていた。その、強さを湛えた瞳があまりに美しくて吸い込まれそうで囚われてしまった。私のことはどう思っても良い。ただここで、お前が何の心配もなく穏やかに過ごしているのを見ていたかった」
他人からの恋情など不愉快でしかなかったはずなのに、不思議と嫌悪はない。
恥ずかしくなるほどに甘い言葉が朔の胸に溶ける。
「サクの姿が消えかかったあのとき、自分はモノじゃない、欲望を満たしたいだけの玩具にするなと言われて、的確過ぎて言葉もなかった。お前の気持ちも、言葉も聞かず、これはただの自己満足だと教えられた」
「…ちゃんと、好きだって言えば良かったじゃん」
そうすれば、朔だってあんなに感情的にならずに済んだ。
――…言って欲しかったのか?俺…。
気付いたそれがやけにしっくりと心になじむ。
あの時のもやもやと渦巻くものはこれだったのかと知る。
「言えるわけないだろう。あんなタイミングで言ったところで上滑りする薄い言葉にしかならない。……だが、そうだな。それでも言えば良かった。お前を引き留めて何か少しでも伝えていれば、あんな目に合わせることもなかったのに。…サクには辛い思いをさせてしまった」
空色が曇る。
「別に……辛い思いなんてしてない。あんたが助けてくれたから……俺は…大丈夫」
翳った色が勿体なくて、大丈夫だと伝えたくて、溢した言葉は紛れもない本心だ。
その呟きで何に気付いたのか、リヒトはすっと立ち上がると朔の隣に移動する。
触れるほど傍に寄り添い、そっと問い掛けた。
「……そういえば、まだ聞いていなかったか。サクは私をどう思っているんだ?」
突然近くなった距離に、朔の体温が上がる。
頬に朱が差す。
嫌いではない。
嫌じゃない。
それだけじゃなくて。
「傲慢な王か、厄介な契約主か?」
言葉にするのを躊躇う朔に、リヒトは重ねて問う。
「俺がそんな風に思ってると思うんだ…?」
寂し気に聞こえたリヒトの声にそう返して、隣を見上げると。
「サク。わからないから聞いているんだろう?」
嬉しそうな笑顔を顔中に広げていた。
「…言わない!」
頬を一層朱くして勢いよく立ち上がりかけた朔は、すかさず腰に手を回され引き戻される。
抗議しようと顔をあげた途端、降ってきた口付けに反論は奪われた。
「一条くーん」
向けられた瞳には明らかな劣情の色が含まれていて、一条朔(いちじょうさく)は嫌悪に眉を顰める。
高校の敷地内に設えられた弓道場を出て、同じ敷地にある寮へと帰る道で男が待ち構えていた。
「なぁ、オレにもヤらせてくんねぇ?一回でいいから」
ニヤついた男は制服の色から見て、高等部の三年生。
一つ上だ。
中高一貫全寮制の名門男子校が聞いて呆れるな、と品のない笑みを浮かべる上級生に朔は思う。
名家の子息が集まっているそうだが、実態はこの程度だ。
むしろ、学園の敷地内は治外法権のようなもので、大抵のことは教師たちも黙認してしまう。関わりたくない、というのが本音かもしれないが。
軽蔑を隠そうともせず男を睨むと、朔はそのまま歩き去ろうとする。
「そんな簡単に逃がすと思ってんの?」
腕を掴まれて引き戻される。
「離せよ」
言ったところで離すはずもないとわかってはいるが、一応口にする。案の定離す様子がないのを確認すると、朔は一つ、ため息を吐く。
素早く相手の腕を捻りあげると足を払って地面に倒す。
「いってぇ!くそっ!おいっ」
叫ぶ相手の腕を抑えたまま、その背を膝で抑えて動けないように力を入れる。
「もう俺に近寄っ…!」
警告しようとした朔は、誰かに背中を思いきり蹴られて体制を崩す。
―――しまった…っ
立て直すより早く、首元を掴まれ地面に引き倒される。
仰向けにされた腹の上には、先ほどとは別の男。
どうにか抜け出そうと力を込めるが、男はバランスを崩す気配もない。
がっしりした体格に強く腹部を圧迫されると苦しさに抵抗もままならない。周囲を見回すといつからいたのか複数の男たちが取り巻いている。
全て高等部の三年生ばかりだ。
浮かべた笑みはやはりどれも品がない。
「最低だな…」
最大限の侮蔑を込めて睨みつけるが、男たちの笑いは広がるばかりだ。
「大人しくしてた方が可愛かったんだけどなぁ」
「お前らおせぇよ」
「つーか、簡単に倒されてるお前が馬鹿なんだろ」
「可愛い顔してんなら可愛く啼いてるだけでいいのによ」
見下ろす上級生の目に情欲がちらつき、朔は吐き気さえしてくる。
「とりあえず一回ずつな」
腹の上の男が言うと、周りの男たちはそれぞれ腕や足を抑え込む。朔が動けないのを確認すると力任せにシャツを引き裂く。ボタンが幾つか弾け飛ぶ。
込み上げる恐怖と嫌悪で震えそうになるのを、ぐっと拳を握って耐える。
―――さすがにもう無理、かな…
体格的にも人数的にも圧倒的に不利だ。
僅かばかりの抵抗をしたところで好転するとは思えない。
どうせ飽きればすぐに終わる。
朔は投げ遣りな思考で感情を抑え込む。
外気に触れた肌寒さの所為か嫌悪の所為か、肌が粟立つ。
リィ―――― ン
グッと歯を食いしばった朔は、鈴の音が聞こえた気がして視線を動かす。
高く清らかな心地好い音色。
『来い』
声がする。
ベルトが引き抜かれる。
『こちらに』
空が
光に染まる。
視界が眩む。
強い力で空に引き寄せられた気がした。
最後に聞こえたのは、男たちの困惑の声。
こうして劣情をぶつけられることは初めてではなかった。
それは生まれもったこの容姿の所為か、また別の何かなのか。
陽に当たればキラキラと輝く金髪、透けるような白い肌、吸い込まれそうな大きいグレーの瞳。
母から唯一受け継いだ北欧の血を色濃く残す愛らしい顔立ちの美少年。
ただでさえ人目を引くその姿に加え、朔には匂い立つような色気があった。
それは時に憧憬や敬愛だけでなく、劣情をも喚起するらしく。
さきほどのように知りもしない相手から一方的な感情をぶつけられることが間々あった。
だから朔自身はこの外見も、そんな自分に惹かれる人達も、反対に嫌悪を露にする人達も、全てが疎ましかった。
こんなもの、欲しくなどなかったのに。
こんなものを持って生まれたせいで。
バシャンッ
激しい水音と手足に絡みつく冷やりとした感覚。
慌てて目を開ければ、視界に広がるのは透き通った水面だった。
水深は浅く、四つん這いで両手両足を底に付いた朔の肘までしかない。
正方形の真っ白な石が敷き詰められた水底には塵一つ見当たらない。
自らの状況も居場所もわからず、混乱したまま辺りを見回すと、朔がいるここは四角く人工的に整備された池のようなものだとわかる。
見慣れた学園の風景ではない。
男たちの姿もない。
ゆるゆると体を起こして立ち上がると、はだけた制服から水が滴り落ちた。何処にも違和感や痛みはないが、濡れた体が冷たい。
池の周りには、湖底と同じく真っ白な石材で幾本もの円柱が等間隔で聳え立ち、その奥には眩しいほどの白い壁が四辺を囲む。
朔の正面にある柱の奥には、白い世界には異質な黒い扉が見えた。
そのまま視線を上に滑らせると、柱と壁で支えられた白い天井は目が眩むほど高くドーム状に丸くなっていた。
さながら、ヨーロッパの観光名所にある神殿のようだ。
「どこだ、ここ…どうなった…?」
少し前とは何もかもが違う。違いすぎる。
そもそもこんな白亜の建物は高校の敷地内には無い。いや、高校の敷地内どころか朔の生活圏内には思い当らなかった。
「夢か…?」
現実に耐えかねて、おかしくでもなったのだろうか。意識を失って夢を見ているとか。それとも、ショックのあまり死んでしまったとか。
いや、いっそ死にゆく途中であればいいと思う。例えば、あの黒い扉の向こうがあの世だとか。
バンッ
朔が視線を向けた途端、大きな音を立てて黒い扉が開く。
勢いそのままに池の縁まで駆けてきたのは、小柄な少年だった。
池の中に朔の姿を認めると、大きな眼を驚愕に染めて何かを言う。
聞いたことのない言葉だった。
短い赤毛を元気良く跳ねさせたその姿は、小動物のようで愛らしい。
少年がまた言葉を発するが、朔には理解できない。
日本語ではない、英語でもない、知っているどの言葉にも似ていない気がする。
言葉だけではない、その服装もまた、朔には見たことがないものだ。
少年の踝まである白いワンピースは腰のところで刺繍の入った金色の帯が締められている。ゆったりとした袖は肘の少し先まで。そこから伸びた細い手首には左右それぞれに一つずつの腕輪が光る。
「俺、死んだの?」
少年に向けて問いかけると、朔が声を発したことでさらに驚いたのか、ビクッと肩を揺らして踵を返す。今しがた入ってきたばかりの扉へ戻ると、少年が手を掛ける前に扉は外側へ開かれた。
現れたのは、美しい青年。
思わず息を呑んだ。
オレンジがかった栗色の長い髪を高い位置で一つに束ね、精悍な顔立ちの凛々しい青年は静かに進む。
少年が即座に脇に控え、頭を垂れているところからも身分の高さが窺えるが、それ以上に纏う空気が高貴だった。人の上に立つように作られた、そんな印象さえ受ける。
着ている服も華やかだ。高い襟に刺繍が施されたシャツの上に光沢のある黒の上下。スーツに似ているが、金糸の細かい刺繍で豪華に飾られている。
―――なんだこれ…
人も服も言葉も場所も、自分の知っているものとは掛け離れている。
まるで空想の世界のように。
青年は池の畔まで歩んでくると、一瞬立ち止まり少し考えたようだが、すぐに池の中へと歩を進める。豪奢な衣装と足元が濡れるのも構わず、朔の元まで歩く。
その動きに気付いたのか、控えていた少年が頭を上げると、慌てた様子で何かを訴えている。青年の背中へ頻りに声を掛けているが、いっそ清々しいほど無視されている。
近すぎるほど目の前までやってきた青年は、切れ長でくっきりとした二重の眼を少し見下ろす角度で、朔に向けた。
視線が絡む。
青い瞳。
晴れた空のように澄んだ青が、朔を射る。
視線を外せない。
綺麗だ、と思う。
自分のくすんだグレーとは正反対で。
とても、苦手だ。
「―――――」
長い睫毛が瞬いて、何かを告げる。
やはり言葉も意味もわからない。
しかし、その優しく低い声音に呪縛から解かれたように、朔は俯いた。
ふっ、と暖かな感覚がする。
青年が自らの上着で朔を包んでいた。
仄かに、甘やかな香り。
「―――、――――?」
「あの、俺…」
何かを問われた気がするが、言葉が分からない。どう伝えたものかと返す言葉に惑い青年を見上げると、やはりその青い瞳は澄んでいて。
「…っ!?」
気を取られた一瞬の内に、口付けられていた。いつの間にか頭と腰を抱えこまれて動けない。
「んっ…!…待っ…」
唇が離れたほんの一瞬、抗議するために開いた朔の口内に今度は暖かくぬるりとしたものが押し入る。
歯列の裏をなぞられ口蓋を舐められると、嫌悪はなく、くすぐったい痺れるような感覚が襲ってくる。もはや抵抗もままならず、舌を絡め取られ青年の思うまま深く貪られると靄がかかったみたいに思考が停止していく。
「っは…ぁっ…ん」
重ねられる唇が角度を変える合間に息をすると、知らず声が漏れる。一頻り翻弄した青年は、差し込んだ舌から唾液を流し込むと、素直に飲み込んだ朔を見て漸く唇を離した。
優しく微笑み、朔の頬を撫でる。
青年のシャツを握り締める朔に気付いているのか、腰に回した片腕は力強いままだ。
「上手だ」
甘く響くバリトンで囁かれ、朔ははっと我に返った。
掴んでいたシャツを離し、青年を突き飛ばして距離を取る。
「っ…………」
驚く相手を睨みつけて口を開くが、吸い込んだ息は言葉にならない。視線を落とし朔は小さく呟いた。
「最悪…」
足元の湖面は、余韻を引くように波打っている。
さきほどまで曖昧だったこの状況が、青年の熱で一気に現実味を帯びる。
「フィーネ陛下。お気が済まれたのであれば、お早くお戻りくださいませ。幾ら陛下であれども、神事以外で長く神池を侵されれば神の御不興を買いまする」
まだ声変わりもしていない幼い声が響く。
二人を見守っていた少年が恭しく片膝をつき、進言している。
「わかっている」
軽く一声返すと、少年に気を取られていた朔を素早い動きで抱き上げた。
青年の豪華な上着ごと、朔は横抱きにされる。
「っ!……何するんだ」
暴れたのはほんの一瞬。
ため息をつくと感情の無い声で訊ねる。
「もう何もしない。大丈夫だ。場所を変えて話をしよう。そのままでは冷えきってしまう」
穏やかに答えると青年は扉へと歩き出す。
確かに、青年の上着が暖かいとはいえ、はだけたシャツ一枚で濡れたままの朔はじわじわと体が冷えてきていたが。
「そうじゃない。なんで抱えられなくちゃいけないんだ。自分で歩ける」
「この方が速い」
即答され、朔は言い返すのを止めた。
何を言っても無駄な気がした。
突然視界が暗転する。
青年が明けた黒い扉の先は闇だった。
言いようのない不安に駆られ、朔は思わず青年の服を握りしめていた。
「大丈夫。直に目が慣れる」
優しい声と甘い香りが降ってくる。
言葉通り、じっと目を凝らすと暗闇は薄れ、辺りの輪郭が浮かび上がってきた。
黒い扉の先、青年が進むここは回廊のようだ。
朔の手から力が抜ける。
淡い光を灯す燭台も等間隔で設置されていて、目が慣れてくるとそれほど暗くはないことがわかる。
あの池のあった白い部屋が明るすぎただけなのだ。
柱の合間から見える空は夜だ。月が、出ている。
悔しいほど安定した腕に抱かれて回廊を進む中で、朔はふと気付いた。
言葉がわかる。言葉が通じる。
つい先ほどまでは、彼らが何を言っているのか朔には全く理解できなかった。
なのに。
会話が出来ている。彼らの言葉が理解できる。
―――なんなんだこれ……
困惑する朔を余所に、そのまま10分程も進んだだろうか。
着いた先は庭の見える回廊を抜け、石造りの建物内にある広いがシンプルな一室だった。
入ってすぐの応接用と思われるソファに、そっと優しく下ろされた。
青年は濡れたブーツの様な編み上げ靴を脱ぎ捨てながら、赤毛の少年に呼び掛ける。
「ファイレン、アーレイを呼んでくれるか」
ファイレンと呼ばれた少年が、静かに部屋を辞するのを見送って、朔に向き直った。
ソファの足元に膝をつくと、朔の濡れたスニーカーに手を掛け、紐を解く。
「……っ」
「濡れたところを拭うだけだ。それ以上は触れない。冷えたままでは体に良くないだろう。今はこれしかないが、上も替えた方がいい」
咄嗟に足を引いた朔を宥めるように落ち着いた声で説明し、ソファの隅から何かを掴むと朔に手渡す。
広げてみると、柔らかな生地のゆったりしたシャツだった。
シルクのパジャマのような雰囲気がある。
促され、渋々着替える。
長く水に浸かっていたわけではないが、スニーカーには水が滲みていて足先は既に冷たくなっていたし、シャツがはだけたのもそのままで青年がかけてくれた上衣がなければ冷えきっていただろう。
「その上からこれを」
朔が着替えたことを確認して、青年は大判の布を手渡す。ストールに似たそれを羽織れということらしい。
「お前、名は?」
スニーカーと靴下を床に置くと、柔らかい布で朔の足を丁寧に拭いながら、問いかけた。
布越しに大きな手を感じ、びくりと足が震える。
自分で出来るから、と告げようとするが、顔を上げた青年と目が合い言葉に詰まってしまう。
スカイブルーの眼は、逃げを許さない強さを孕んでいて。
―――やっぱり苦手だ。
「名が、知りたい」
「一条、朔」
再度問われ、仕方なく答える。
「イチジョウサク、か。良い名だ。よくぞ我がシェーラベルクへ来てくれた」
慈しむような温かな笑顔を浮かべる青年から、朔は思わず眼を逸らす。そんなことを気にする様子もなく、青年は立ち上がると向かいのソファへ優雅に腰かけた。
「私の名はリヒト・ハイデル-フィーネ・シェーラベルク。このシェーラベルク王国を統べる王位に就いている。先ほどの者は、ファイレンと言う我が国の大神官だ。そのファイレンが今朝、神託を受けた。異世の彼人が顕れる、と」
語りだした青年、この国の王と名乗ったリヒトの話を、朔は黙って聞くことしか出来なかった。
「……この世界には長く伝えられてきた伝説がある。『混沌満ちて滅失始む。異世より神池へ顕現せし彼人、変革を齎す。共に喫した彼人、王と契を結びて此に絆す』簡単に言うと、異世の彼人――異世界より顕れた者と食を共にすれば、それが契約となりその者を繋ぎ止めておける、ということだ。その、異世の彼人が顕れると、そう神託を受け、神池に行ってみるとお前がいた。明らかにこの世界の者ではないお前が。わかるか?」
何故か、僅かに瞳を翳らせた王は問う。
朔は静かに頷いた。
「異世界……?俺がその、異世界より顕れた者ってこと…?」
自らに言い聞かせるように朔は呟く。
俄には信じがたい。
夢でもあの世でもなく。
異世界に来たなど。
有り得ないと思う一方、納得している自分もいた。
見知ったものとあまりに掛け離れた光景、夕暮れだったはずなのに闇に落ちた夜空。
自分を襲った不運からの突然の解離。
それも違う世界へ来てしまったのなら、説明がつく。
だが、そんなことが本当に起こり得るのだろうか。
困惑に揺れる朔をリヒトの声が引き戻す。
「そう。ここはお前の世界とは違うだろう。どうやって来たかは、私達にはわからないが…ただ、お前が異世の彼人であることは間違いない」
王の言葉は確信に満ちている。
どうあれ、朔がここにいるのは事実で、現実のようだ。
全てが壮大な計略か、はたまた自分が作り出した夢だと言う可能性もあるが、それは低いだろうな、と朔は思う。
「まぁどっちにしろ……死んだわけじゃないんだな」
朔は、ふ、と自嘲気味の笑みを溢す。
もしかしたらここが三途の川かもしれない、と期待していた自分が馬鹿馬鹿しくなる。
―――死んだんじゃないなら夢だろうが現実だろうが一緒だ
そう結論づけて、朔はずっと抱えていた疑問を聞くともなしに口にした。
「そういえば、急に言葉がわかるようになったんだけどあれはなんだったんだ…?最初は確かにわからなかったのに、あの池を出る頃には話が出来て…」
あの池で、ファイレンという少年に出会ったときは何を言われているのか分らなかった。
もちろん、リヒトが近づいてきたときもそうだった。
だが、そのすぐ後には二人の言葉はわかるようになっていた。
「言葉が突然わかるようになった?わからなかったのか?…ならばあの時は……そうか……」
驚き固まったリヒトだがすぐに表情を戻し、考えを巡らせると何かに気づく。
そのまま考え込むように腕を組み、黙り込んでしまう。
数十秒か、数分か。声を掛けるのを躊躇い、ただじっと待っていた朔はリヒトの顔が悲しげに歪んだ気がした。
だが、顔を上げたリヒトは不遜とも言える自信に溢れた表情だった。
「私とお前の契約は成立した。これで、お前はもう私のものだ。言っただろう、異世界より顕れた者と食を共にすれば、この世界に繋いでおけると。その伝説に則って、お前をここに繋ぎ私のものとした。言葉が通じるようになったのはその証だ」
リヒトの説明は、酷く身勝手なものだった。態度もどこか傲慢で高圧的にさえ感じる。
突然の変化に戸惑いつつも、朔は言い返すのを忘れない。
「なにそれ、繋いだとか契約が成立したとか、俺はあんたのものじゃないんだけど。それに何も食べてない。契約なんてできるはずない」
「私がお前に口付けた時、お前の唾液を飲んだ。そしてお前にも私のものを飲ませただろう。あれが契約だ」
敵意を露にする朔を気に留めることもなく、不遜な笑みでリヒトは告げた。
先ほどの失態を持ち出され、朔の顔に血が上る。
深い口付けと喉を過ぎる熱い感覚。
思い出したくない熱が甦り、それを振り払うように睨み付けた。
「正式な儀式ではない故、どうなるかと思ったが成功した。イチジョウサク、お前は私のものだ」
そんな朔の視線を正面から受け、王はあくまで尊大に言い切る。
「そんなっ」
「そんなやり方は如何かと思いますよ」
勝手な話はないだろう、と言いかけた朔の言葉を、おっとりとした優しい声が遮った。
振り返ると、ドアを開けて男が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべるその男は、薄緑のローブを纏い、栗色の髪をハーフアップに結っている。
「アーレイ」
王の呼び掛けに優雅に一礼すると、朔が座るソファに近づき、膝をついた。
目線がちょうど、同じ高さになる。
「ご挨拶が遅れました、異世の彼人様。お初にお目にかかります。このシェーラベルク王国にて宰相を務めております、アーレイ・ティーダと申します。 …御気分は悪くございませんか?」
綺麗な顔に優しい笑顔でゆったりと語り掛けるその姿は、王とはまた違った美しさで目を惹く。
宰相であるということはこの国の王に次ぐぐらいの地位だからよほど偉い筈だが、そこに高圧的な態度は無い。
「一条朔、です。大丈夫、気分が悪いとかはないです」
物腰の柔らかさとその雰囲気につられて、丁寧に返事をする。大丈夫、との返事に安心してか、アーレイは朔ににっこりと頷いた。
「イチジョウサク様ですね。陛下に代わりまして先程の非礼をお詫び申し上げます。ですが、陛下の軽挙により契約が成立したこと、我がシェーラベルクと繋がりが芽生えたことは事実のようです……。さぞ困惑されておいででしょうが、暫くは我がシェーラベルクに御滞在頂きたく存じます。陛下のものなどではなく、あくまで我が国の御客人として、心安くお過ごし頂けるよう力を尽くします。ご理解頂けませんか?」
主君の行動を軽挙と評し窘めるような視線を送るアーレイに、リヒトは眉間に皺を寄せて黙りこくっている。そんなリヒトを一瞥して肩を竦めると、朔にはにこやかな笑顔で問い掛ける。
「…わかった」
考えたのはほんの一拍。
それが本当なら戻れないものを騒いだって無駄な話だし、たとえ嘘でもあの世界に戻りたいとは思えない。朔に選択肢はないのだ。
「あとはアーレイに任せる。部屋に案内してやれ」
黙って成り行きを見守っていたリヒトは、それだけ言うと立ち上がり、部屋の奥に消えていく。あっさりとした去り際に、朔は拍子抜けする。
自分のものだなんだと暴論を振りまいていたから、このまま何かされるのではと若干の警戒があった。
「大丈夫ですよ。あれでも普段の陛下は、とても思慮深いお方ですから。さて、夜も遅いですし、そろそろお休みください。ご案内は明日に致しましょう。お部屋は用意してございます」
朔の胸の内を読み取ったようにそう告げると、アーレイも立ち上がる。
自由に使っていいからと案内されたのは二間続きの豪華な部屋だった。
間は床まである長い暖簾のような布で仕切られている。
奥には天蓋付のベッド、手前は洋風の応接用ソファセットが置いてある。
「エナ、と申します。何かございましたら、いつでも遠慮なくお申し付けくださいね」
「…よろしく」
人好きのする笑顔を向けて挨拶をするのは、朔の世話をする侍従だと紹介された。
エナと名乗ったその侍従は、輝くような金髪の美少年だった。
朔とよく似たその髪色に気をとられていると、エナは優雅に腰を折って礼をとる。
「では、ごゆっくりお休みくださいませ」
エナの挨拶にアーレイも微笑みを重ね、二人は部屋を出ていく。
天蓋付の広いベッドにそっと腰掛ける。ふんわりと優しく沈むその感触で、とても上質なものだとわかる。
寮の小さなベッドとは大違いだ。
そのまま後ろに倒れこんで、眼を閉じるとゆっくりと眠りに沈んでいく。
―――――――――――――――――――――――
この世界には、今、戦争が起きているらしい。
そう聞いたところで朔自身には何の実感もないし、ここに滞在して約一週間、何の影響もない。
「まだ、我が国に戦火は及んでおりませんから」
アーレイが言っていたように、それはまだ遠い地で起きていることのようだ。
朔はただ、用意された豪華な部屋と、やたらと広い王宮と、似ているけれどどこか違う料理と、そんなものに囲まれてひどく穏やかに過ごしていた。
最上級の客人という扱いらしい。何をするにもエナが世話をしてくれて付き添ってくれて、今のところ不自由はない。
シェーラベルクは「華の国」だそうだ。草花の栽培・加工に長けているのはもちろん、民が華のように色とりどりで美しいから、というのも理由だ。
確かに、今まで朔が出会った人々は皆、髪の色も眼の色もさまざまで、そして、美しかった。
その所為か、朔の見た目は珍しくもないようで奇異の目で見られることも無ければ、欲望をぶつけられることも無かった。
気が抜けるほど、緩やかな日々だ。
「行こう」
食堂を出ていくリヒトとその側近たちを見送って、朔も立ち上がる。
エナに声をかけて向かう先は王宮内にある鍛練のための広場だ。
この世界にも弓はあり、訓練の無い時間に引かせてもらっている。
形は若干異なるが、弓を引き、的を射るには十分だ。
集中出来る時間があればいい。
朝起きて朝食をとると、広い王宮の中庭を散歩し、リヒトや高官たちと昼食をとって午後からは弓を引く。ほどよく疲れ始めたらアーレイの部屋へ行ってこの世界の話を聞く。
それがこの世界での朔の新しい日常だ。
あれから毎日、必ずリヒトと顔を合わせてはいるものの、会話らしい会話はしていない。
食事の席では専ら高官たちと話をしているし、それ以外の時間は忙しいらしく姿もろくに見かけない。
――――もっと高慢な感じかと思ってたけどそうでもないんだよな。
高官たちと楽しそうに会話するリヒトを思い出す。
意外だった。笑顔で気さくに話をしている姿が。
あの時の身勝手な態度とは大違いだ。いや、出会ったときは確かにもっと柔らかい雰囲気だった、そこまで思い出して朔は考えるのをやめた。
時折、油断しているとあの空色の瞳と目が合ってしまうことはあったが、それ以外は会話も無ければ交流もない。
私のものだと断言した割には、朔に無関心すぎる気がする。
――――いや、だからって何かされても困るけど。そもそも男同士だし。仮にも国王がそんなことするわけないよな。冷静になって気付いたんだろ。
ふっと一つ息を吐いて思考を切ると、朔は正面の的を見据える。
「なかなか見事なもんじゃねぇか」
黙々と弓を引く朔を離れたところから見守っていたエナに声がかかる。
「ロイエン様!」
大柄で屈強な男は、慌てて礼をとるエナに構わんよ、とひらひら手を振る。
「一度見てみたかったんでな。それに……っと。すまんな、邪魔したか」
エナの声に気付いたのか、朔が手を止めて近づいてくる。
「いえ、別に」
ロイエンと呼ばれた男はこの国の軍を統括する将軍だ。
この広場が空いているときは使っていいと許可をくれた人でもあり、朔とは一度顔を合わせている。
「使いますか?」
「いやいや、そうじゃねぇんだ。むしろ続けてくれ。ちょっとな……」
早々と片付けを始めた朔を制し、ちらりと後ろを振り返る。
視線の先にはロイエンが入ってきた扉。
つられて朔も扉の方を見ると、静かに開いたその先に。
「…っなんで」
リヒトがいた。
少し前まで考えていた人が現れて動揺してしまう。
側近も護衛もつれずにリヒトは一人で、真っ直ぐに朔たちのいる方へ向かってくる。
「俺、今日はもう終わりに」
「サク」
ロイエンに早口で伝え、片づけを再開しようとする朔を低く通る声が遮った。
思わず、手が止まる。
「続けてくれ。見たい」
ロイエンと並んだリヒトはひどく真面目な表情で言う。
「と、いうわけでな。まぁいつもみたいにやってみてくれねぇか。ただ、見たいだけだ」
横でへらりと笑いながらロイエンも重ねる。
その真意を測りかねて朔は少し躊躇うが、嫌だと拒否したところで無駄なんだろうと悟り、すぐに準備を始めた。
視線を感じる気がして落ち着かない。
手早く準備を終わらせ、
「じゃあ」
それだけ言って的の前に戻る。
一つ、二つ、三つ。
深呼吸をして整える。
大丈夫だ。
僅かな高揚と集中。
体に馴染んだ射法を一つずつ丁寧になぞる。
正しく射れば的中する。
放った矢は、ストン、と的に刺さる。
「…まだ、見ますか?」
一礼して、的の前から離れた朔は、ロイエンたちに声をかける。
「……おい」
「サク様……」
何故かロイエンだけでなく、エナまでが驚いた表情で朔を見つめている。
「来い」
「うわっ…」
ロイエンの横から、言葉よりも早くリヒトの手が伸びてきた。
強い力で朔の手を引き、歩き出す。
突然の事で踏ん張る余裕もなく、弓を取り落したままリヒトに引き摺られるように進む。
「ちょっ…急になにっ…待てって!」
朔の抗議も無視して、ロイエンもエナも置き去りにして、広場を出る。
どこへ向かっているのか、何がしたいのか、全然わからない。
だから、苦手なんだ。
転ばないように何とかついていきながら、朔はため息をつく。
強く掴まれた腕が痛い。
バンッ
荒々しくどこかの扉を開けて部屋に入ると、振り返り朔を見つめる。
綺麗な澄んだ青空の色は何故か不安気に揺れていた。
視線を逸らそうとした瞬間、
「っ…!」
口付けられていた。
―――また……っ!
強い力で腰を抱えられ、逃げることも出来ない。
「やめ…っ!っん…っ」
抵抗の言葉は奪い取られる。
どんどん深くなっていく口付けは、朔の舌を絡め取って。
駄目だ。
何も、考えられない。
「…んっ…はぁ…んっ」
甘い痺れだけが頭を侵す。
「サク…」
長い長いキスの後。
どこか切羽詰まったリヒトの声。
抱き締められる。
「お前は私のものだ」
聞こえてきたその言葉が、脳内でじわじわと形を結ぶ。
靄が晴れるように思考が明瞭になってくる。
言われた言葉を反芻して。
パシッ
咄嗟にリヒトの頬を平手で打っていた。
「それなんなんだよ!」
わからない。
「俺はものじゃない!あんたのものだとか、誰かのものだとか!そんなのじゃない!欲求を満たしたいだけの玩具にすんな!……ほんと、最悪……」
無意識に涙がこみ上げてくるが、絶対に泣きたくなくて歯をくいしばる。
何かあるだろう。弁解とか、言い訳とか、謝罪とか。
黙ってこちらを見据えたままのリヒトは表情がない。
何を考えているのか、わからない。
堪えきれず、朔は部屋を飛び出した。
――ああもう最悪だ。
頭の中がぐちゃぐちゃで苦しい。
腹が立つのか悔しいのか悲しいのか、絡み合った感情が渦を巻く。
しばらくひた走って、リヒトが追いかけてきていないことに気づくと朔は走るのを止めた。
切れた息を整えていると、少し頭が冷静になる。
一方的な劣情をぶつけられて、腹が立つ。
力で敵わず、されるがままだったことが悔しい。
でも、それだけじゃなくて悲しいとか苦しいとか。
だけど、だからってどうしたら良かったんだ。
泣いたって喚いたってあのままリヒトに怒鳴り続けたって何も変わらないしわからないんだ。
「……もういい」
溜め息とともに、吐き出す。
いつだってそうだ。
どうにもならないことばかりで。
何をしても無駄なんだ。
ああでも、あんなに怒鳴って引っぱたいて飛び出すなんてガキみたいなことをしたのは久しぶりだ。
あても無く歩きながら、先ほどの醜態を思い出すといっそ笑えてくる。
馬鹿みたいだ。
違う世界で、誰にも知られていないところでなら、自由になれるかもしれないなんて無駄な期待をしてしまった。
結局何も変わらない。
「あー」
行き止まりに突き当たり、ふと辺りを見回す。
ここはどこだ。
柱も壁も朔の行動範囲にあるものと少し違う。
古びているというか、手入れがされていないというか。
外には出ていないので王宮内のはずだが、やけに人気もない。
「だよな」
慣れない場所を何も考えずに走ったのだから迷うのは当然だ。
引き返すにも朔には戻る道がわからない。
たとえわかったとしても、飛び出した手前、リヒトと顔を合わせたくはない。
「どうしようかなぁ」
「どうしたいのですか?」
漏れた呟きに後ろから問い掛けが返ってきて、朔は驚き振り向く。
儚い。
誰もいなかったはずのそこには、今にも消えてしまいそうなぐらい儚い、線の細い綺麗な女性がいた。
朔より少し上ぐらいだろうか。
小首を傾げて微笑む様子はまるで可憐な妖精だ。
「サク様は、どうしたいのですか?」
重ねて問う。
「どうしたい、とか」
朔は咄嗟に思いつかない。
「無いのですか?本当に?元の世界へ帰りたいこのまま陛下の御傍にいたい、もしくは――――この世界の違う国で一から始めたい。サク様は自由に好きな道を選べるのですよ」
ふわり。
飛ぶように一歩、近づいてくる。
ひらり。
裾が空気を孕んで膨らむ。
「好きな道…?でも、俺は、契約で…」
「ここに繋がれた?本当に?いいえ、違います。貴方は自由なのです。伝説などあくまで伝説。それはただの迷信も同じ。何の力もありません。貴方は、元の世界にもこの国にも囚われているわけではないのです。この世界にはここ以外にもたくさん国はあります。好きな道を選んで良いのですよ。さあ、どうしたいのです?」
くるり。
ダンスのように優雅に回る。
ふわり。
また、裾が踊る。
「違う国…に、行ってみたい」
自然に、言葉が口をついて出た。
囚われているわけではないと、契約など迷信にすぎないと言われたことが朔の頭を支配する。
この国以外にも世界はあると気付いた朔は、外に出たくてたまらなくなった。
もしかしたら、自分に合うのは他の国かもしれない。
そんな考えで一杯になる。
「それは素敵なことです。広い視野を持ってこそ、世界が見えるというもの。私がお手伝いいたしますわ」
微笑んだ妖精は、木の葉がはらりと落ちるように腰を折って一礼する。
「私の名は、ティリア・ルーザント。この国ではシェーラベルク家に次ぐ爵位を賜っているルーザント家の娘ですわ。私の馬車を使えば、他国へも安全に渡れます。ご安心下さいね」
細い手で朔の腕を取り歩き出すその足は思った以上に速い。
いや、迷いがないからそう感じるのか。
どこをどう歩いているのか朔にはわからないまま、軽い足取りでティリアは進む。
気付けば王宮の外にいて、華美な装飾の施された馬車に乗せられていた。
いつからか酷くぼんやりとしていて、瞼が重い。
――――俺……
―――――――――――――――――――
笑い声が聞こえる。
すごく厭な感じの。
ああ、俺はこれを知ってる。
人を蔑む笑い方だ。
嗤っていた。
―浮気の子だってさ。全然似てないもんな。
違う。
嗤っていた。
―その綺麗な顔で誑し込んだって?なら、俺の相手もしてくれるよな。
違う!
嗤っていた。
―黙って座っててくれるだけでいいんだよ。君は人形と同じなんだから。
「違う!!」
叫んで目覚める。
朔は速い鼓動を抑えようと深く呼吸をして、濃密なムスクに似た香りに咽る。同時に体には違和感。
動けない。手足を何かに拘束されている。
それにこの異物感は。
「おぉっと、お目覚めかぁ。こりゃ役得だぁな…っと」
「うぁ…っ」
下半身の、それも内部への刺激に思わず声が出る。
嘲りを含んだ笑い声がする。
頭を上げると、大きく開いて固定された足の間に、浅黒い男の姿がある。
下着も何もかも取り払われた自分の姿と後孔の異物感に、朔は血の気が引く。
「お前、なに…っ」
「あぁ心配すんなよぉ。残念だけど、俺のじゃねぇから。お前の飼い主様のために拡げてやってんだ」
「っ…!」
ニヤついた笑みを浮かべながら男が手元を動かすと、朔の内部に刺激が走る。
固い何かに内壁を圧迫され、溢れそうになる声をギリギリで抑える。
痛みはほとんどなく、体の中に燻る熱が苦しい。
望まない快感が無理矢理引き出されそうな感覚。
充満する濃い匂いに嫌悪が増す。
明らかに平常ではない自分の体に、朔は恐怖を覚えた。
「無駄口を叩くな」
地を這うような低い声。
上の方から聞こえたそれに、頭を動かすと視界の端に黒いものが過った。
朔の拘束されたベッドから少し離れたところに、真っ黒なローブをまとった男が立っている。顔には黒いマスク。
「シェーラベルクの彼人よ」
黒い男は近寄りマスクから覗く黒い眼で朔を見据えると、人差し指で朔の頬をなぞる。
「ぁっ」
ドクンと脈打つ。
合わせるようにまた内部を掻き回され、朔はまた、声を溢す。
熱い。触れられたところが熱い。
急に中心部が熱を持ち出したのを感じる。
「媚薬の効きがいいな。お前は我らが貰い受けた。これから我が主君の元で契りを交わし、変革の象徴となってもらう」
「なん、だよ…それ……」
黒い男の言葉は全てが理解の範疇を越えていたし、後孔の刺激は続いたままで、朔はただ、それだけを口にするのが精一杯だった。
体の火照りは引かないどころか、下腹部に溜まった熱が頭をもたげ始めているのがわかる。
声を出したくなくて、朔は強く、歯を食い縛る。
息をする度に入ってくる濃厚な甘ったるい香りも苦しさを助長する。
気持ち悪い。気持ち悪い。なのに、体が反応しているのが悔しい。
厭な笑い声がする。
それからどれくらい経ったのか。
「ぅ…んっ」
気持ち悪い。
異物感に嫌悪を感じつつも、漏れる声の甘さに朔は眉間に皺を寄せる。
朔は、後孔に奇妙に曲がった形の器具が挿入されたまま、放置されていた。
僅かな動きでも敏感なところを刺激されるのか、時折、朔の腰が怪しく揺れた。
残っている僅かな理性では拒否しているが、媚薬に侵された体は快感を求めて動いてしまう。だが、完全に勃ちあがった雄は、その緩やかな刺激だけでは達くことが出来ず、もどかしい焦燥感が募る。
男達はどこかに消えたが依然として拘束されたままなので、自分自身で触れることも出来ない。
「はっ……ぁ……」
朔はこの拘束を早く解放して欲しい思いと共に、今誰かが来ればはしたなく懇願してしまいそうな怖さも感じていた。
早く達きたい。
この熱を解放したい。
時間が経つほどに理性は崩れていく。
「っむ、り……ぁっ」
もっと強い刺激が欲しい。
朔がまた腰を揺らした時、音を立てて扉が開いた。
荒々しい足音の後ろに遠くざわめきが聞こえる。
「こんなに早く辿り着くとはな……やはり先に連れていくべきであったか」
忌々しげに舌打ちをした黒い男は、朔に目をやるとはっと息を飲む。
「これは……。辛そうだが、達かせてやろうか」
口の端をニヤリと歪ませて徐に近づく。朔の目は情欲に満ちて求めるものを雄弁に物語っていた。だが、言葉にするのは未だ抵抗があるようで、唇を噛みしめ堪えている。
色素の薄い肌が淡く色づき、グレーの瞳が潤むその様子は男の劣情をさらに煽る。
「あまり、時間はないが…」
「離れろ。首を落とすぞ」
静かな、それでいて殺気に満ちた声が男の動きを止めた。
「これはこれは、ハイデル=フィーネ陛下。このようなところでお目にかかれるとは恐悦至極に存じます」
ゆっくりと振り返り、開け放たれた扉を背に剣を構えて立つリヒトに向かい合う。
「それにしても…随分と物騒なご様子ですな」
両手を軽く上げて戦う意思のないことを示すが、リヒトの双眸は殺気立ったままだ。
「セイラッド。貴様、サクに何をした」
剣を突きつけられるように距離を詰められ、男―セイラッドは一歩引く。じわじわと追いつめられるように後退し、背が壁に付いた頃には、リヒトは朔を守るように立っていた。
「どうやら誤解されているようだ。私は何も、しておりませんよ。人買いに攫われ、調教されかけている哀れな少年を解放しようとしたまでのこと。確たる証拠も無しに疑われては誠に心外ですな。それとも、ここで私を手打ちになさいますか?それ即ち、我が国への宣戦布告となりますがね」
「陛下!」
流暢に語るセイラッドを遮るように、声が響く。息を切らして駆けつけてきたアーレイは、リヒトに向かって力なく首を横に振る。
「駄目です。何も…」
アーレイの言葉に舌打ちし、リヒトは渋々剣を下す。その様子を勝ち誇った笑みで見遣ると悠然と部屋を出ていく。
「では、私は失礼するとしよう。ああそうだ。その少年、性質の悪い媚薬を使われているようですな。早く後ろを慰めてやると良い」
去り際に残した言葉は二人の神経を逆撫でする。剣の柄を握りしめて抑えるリヒトの耳に、朔の荒い息遣いが聞こえてきた。隣に立つアーレイの表情が消える。
「出ていてくれないか。私が出るまでこの部屋に誰も近づけないように」
「しかし」
「アーレイ」
有無を言わせぬ強い口調に、アーレイは一礼して部屋を辞す。扉が閉まるのを確認してから、リヒトは剣を床に放り出し、朔の囚われているベッドに体重をかけた。
「サク」
「…あっ…はや、く…」
軋むベッドの揺れに、高い声が漏れる。潤んだ灰色の眼はリヒトを見ているようで見ていない。
「私が、解放してやるからな」
どこか苦しそうに小さく呟くと、朔の後孔に挿入されている器具をゆっくりと抜き去る。
「あぁっ…やぁっ…」
強い刺激に一際甘い声が漏れる。
「ぁ…っきたい…イ…かせてっ…」
理性が焼切れたのか腰を揺らして懇願してくる朔に、リヒトの欲望が募る。先走りを溢す朔の雄に手を伸ばし扱いてやると、快感に震える声を上げて呆気なく果てた。
だが、またすぐに勃ち上がったそれを触ってほしくて朔は自らリヒトの手に擦り付ける。
「やっ…まだ、もっと…っ」
もはや自分が何を言っているのかしているのかもわかっていないのだろう。淫らに腰を動かして言葉でも強請る。
セイラッドが残した台詞が蘇る。性質の悪い媚薬。それだけで大体の想像はついていた。今の反応で確信に変わる。
前だけを扱いたところで満足は得られないのだ。後ろを突いてやらねば媚薬の熱が消えることはないのだろう。
「サク」
きっと全てが終われば今の状況は朔の記憶には残らない。薬が効いて理性も飛び意識もあいまいなこの状態のことは、忘れてしまう。そう、言い聞かせるとリヒトは朔の後ろの窄まりに手を伸ばした。
「ぁんっ…あっ…やぁ」
潤滑剤と器具で慣らされていた所為か、そこはリヒトの指をあっさりと受け入れた。熱く蠢く中をさらに解して一度抜く。自らの服の前を緩めると、朔の痴態に煽られ張りつめていた雄をそこに宛がった。熱い塊に朔の体がビクリと震える。
「サク、大丈夫だ。すぐに楽になる」
耳元で優しく囁きあやすようにキスを落とすと、気持ち良さそうに息を吐く。そんな朔を愛おしく見つめて唇を重ねると誘うように口が開く。舌を入れ咥内を深く味わう。口付けに気を取られている隙に、ゆっくりと怒張を突き入れた。
「んんっ…ぁっぁあん…っ」
さすがに簡単には入らないが追いつめるように腰を進めると、リヒトのものを奥まで飲み込む。朔の喘ぎもすぐに甘いものへと変わった。緩やかに動かし、敏感な反応を示すポイントを見つけ責め立てる。
「ぁっ…やだぁっそこ…っ…ふぁっ…」
快感に生理的な涙を流しながら、朔も腰を動かす。リヒトもいいところを突いてやりながら、絡みつくような朔の中の動きに自らの絶頂が近いのを感じていた。
荒い息遣いと甘い嬌声が重なる。
「もう…っ…やっ…ぁんっ…ぁああっ」
強い締め付けと艶やかな声。朔の吐き出した白濁がリヒトの腹にかかる。ほぼ同時に、リヒトも朔の中に熱い放埓を放つ。
熱を放って弛緩した朔は、まだ涙に潤んだ瞳をゆっくり閉じて、そのまま意識を失った。
リヒトは眦に溜まった涙をそっと拭って口付けると、優しく呟く。
「サク…忘れてしまえばいい」
―――――――――――――
「ん……」
瞼を開けると見たことのある天井が見えた。
鮮やかな色彩の天使達の刺繍。
やたらと豪華な天涯。
ここは。
「王宮……?」
「目が覚めたか」
低く響く声。
「あんた……なんで」
朔は体を起こすと、やけに節々が痛むことに気付く。特に下半身は鉛のように重い。
ベッドのすぐ横にリヒトがいた。この部屋にはなかったはずのソファに腰掛け、書類に目を通している。
「熱は下がったようだな」
書類を無造作に置くと朔のベッドに腰掛け、額に手を伸ばす。
優しく微かに甘い、いつもの香りがした。
触れた掌が冷たくて気持ちいい。
――いや違うそうじゃなくて。熱を出していたのか、俺は。
「突然倒れたかと思えば、高熱で意識不明。そのまま三日も意識が戻らず、皆、心配していた」
高熱、意識不明。覚えのない言葉たちに朔は戸惑う。
――そんな馬鹿な。だって俺はここを、この国を出て旅を。
黒い男が。
チラリと過る黒い影。
――なんだ?
「俺は、俺はここを出たはずで……」
「夢でも見たのだろう。お前はずっとここにいた。随分と魘されていたが」
朔を見詰めるリヒトの瞳は揺るがない。澄んだ青の視線に、だんだんと朔の自信が揺らぐ。
「夢、なのか……?」
確かに考えれば都合が良すぎたかもしれない。妖精みたいなあの女性に出会って、何もかも手配してくれてあっさり王宮を出て、なんて簡単すぎる。
思い返してあまりにも曖昧な記憶に、朔自身も夢を見ていた気分に陥る。
「そう、悪い夢だ。まだしばらくはおとなしく寝ていた方がいい。今、薬師を呼んでくる」
リヒトは朔の頭をふわっと撫でると、部屋を出ていった。
入れ違いにエナが入ってきて、痛いところはないか水は飲めるか汗を拭いてやろうかと世話を焼き始めた。エナに聞いても返事は同じで弓を引いた後、突然倒れた朔は高熱で寝込んでしまったと言う。
「サク。気がついたのですね」
薬師と共にアーレイがやって来た。
「心配かけたみたいで、ごめん…」
「そんなことは気にしなくていいのですよ。サクが元気になってくれれば何よりです」
心から嬉しそうに微笑むアーレイに聞いても、もちろん答えは同じ。
また、黒い影。
だがどうしてもあの黒い男が気にかかる。あの男に何かを言われたところで途切れた記憶。そのあとに何かあった気がするのだが。苦しいほどの熱と、安心する温もり。
これは一体何だ。
「サク?」
考えこんでしまう朔をアーレイが心配そうに覗き込む。
「ああ、大丈夫。これ、飲んだらいいの?」
薬師の差し出す薬湯を、ゆっくりと飲み干す。苦い味と癖のある漢方に似た香りが鼻に抜ける。決して美味しくはないが、薬というから当然だろう。
―――苦いけど、まぁ嫌いじゃないな。あの匂いに比べればマシだ。
そこまで考えて何かに引っかかる。
―――あの匂いってどれだ?
甘ったるい香りが鼻について、気持ち悪いほどだった。なのに、体には熱が溜まって。
苦しくて。
「セイラッド……?」
ふと脳裡に蘇った言葉にアーレイが凍り付く。ザッと音がしそうなほど一瞬で血の気が失せたのがわかる。
―――これか。セイラッド。セイラッドってなんだ。
「サク、もう休んだ方がいいですよ。病み上がりに無理はいけません」
思考を巡らせるのを邪魔するように、アーレイは朔の手からカップを取り上げた。意図せず、声に焦りが滲んでいる。
「ねぇ、セイラッドって何…………あの、男……か?」
問い掛けた朔の中で、答えを待たずに繋がる。
黒い男。遠くで黒い男に呼び掛けるリヒトの声が残っている。
「そうだ。やっぱり夢じゃないんだな。あれは……」
「エナ、キール、下がりなさい。私が呼ぶまで誰も入らぬように」
朔の言葉を遮って、アーレイは薬師とエナを下がらせた。二人が静かに去るのを見届けて、朔に向き直る。いつもの優しい笑顔は無い。代わりに悲しそうな辛そうな苦笑を浮かべている。
「サク、それは夢の話だと、どうしても思えませんか?」
どうか夢だと思っていてほしいとアーレイの目は語っている。でも、無理だった。この記憶は夢なんかじゃないと、朔はそう確信をもってしまった。
「思えない。ここを出たことも、知らない部屋で目覚めたことも覚えてる。セイラッドとか言う男のこととか、その後のことは覚えてないんだけど……でも、夢じゃないよ。何があったんだ?リヒトもアーレイも隠してることは何なんだよ」
誰にも知られずにここを出たはずなのにまたここにいるということは、リヒトに連れ戻されたということだ。
あの、繋がれた部屋から。
そしてそれは、アーレイも知っているはずだ。
「サクにとっては、忘れていた方が良いことだと思います。出来るなら、知らせたくない」
「それでも。俺は知りたい」
言い淀むアーレイに一歩も引かず食い下がると、深くため息をついて、漸く話し出す。
「…セイラッドは隣国、トライスの軍を率いる将軍です。サクの覚えている黒い男がそうですね。そしてトライスは、異世の彼人であるサクを手中に収めようと狙っていました」
「俺を……。どうして」
「変革を齎すからです。世界を変える力を持つとされる異世の彼人、サクを手に入れ、トライス国王と繋がりを持たせることでトライスはシェーラベルクも他の国も全て、征服出来ると考えているのでしょう」
「そんな、そんな力なんて俺にはない」
アーレイの言葉に朔は馬鹿馬鹿しい、とさえ思う。
そんなの無理に決まってる。そんな力なんてない。
ただの学生で、何もわからずにここにやってきて、ただ日々を過ごしていただけで。
戦争なんて遠い国の話で。
だが、と思う。もしかして、リヒトもそうなのか?リヒトもアーレイもその変革とやらを期待して、朔をここに繋いだというのだろうか。
―――だから、リヒトは俺を自分のものだなんて。
「サク。違います。それだけは絶対に」
朔の考えていることがわかったのか、アーレイは強い口調で否定する。
「陛下も私も、貴方の力を利用するなどとは考えていません。そもそも陛下と朔の契約自体、勘違いで……。いえ、とりあえず、セイラッドの話ですね」
アーレイの言い掛けたことも気にはなったが、朔が口を挟む間もなく、話を続けられる。
「トライスが、サクを狙っているのは事実です。あの日、王宮から出たサクをセイラッドは人買いを利用してまんまと拐かし、あの部屋に捕らえたのでしょう。そして、あの部屋で、サクに媚薬を使い意識を飛ばした……」
悔しそうに語るアーレイは、途端に言葉を濁す。
媚薬を使われた。
―――あんなにも熱くて苦しくかったのはそれでなのか。
内側に疼く熱を思い出し、嫌悪に眉をひそめる。
だが、それなら。
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嫌な予感と共に、朔の脳内を荒い息が過る。
―――これは、誰のものだ。
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アーレイは答えない。
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知らず、朔の声が震える。
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リヒトやアーレイが隠そうとしていたこと。
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―――待て、なんだこれ。え、俺、リヒトにヤられたのか?!
暗転しそうだった視界が安堵に開ける。
―――いやまて。安心してどうするんだ。リヒトでも駄目だろう。あいつに……あいつに抱かれた?!
信じたくない思いと裏腹に、欲情した空色の瞳や朔の名を呼ぶ低い声、細くて長い指の感触を次々に思い出す。
大丈夫だ、と言われた気がする。優しくキスをされた気がする。
記憶の中の朔は、確かに熱くて温かくて安心していた。
「アーレイ、待って。あの、ほんとにリヒトに……?他の、その、人買いとかセイラッドとかには……?」
混乱する頭を抑えつつ、念のため確認する。
「陛下のお話では、他の誰にも穢された様子はなかった、と……そこは安心して良いですよ」
朔はますます複雑な気分に陥った。
「そっか……でもさ、それなら、別に隠さなくても良かったんじゃないの?」
朔としてはある意味一番知りたくなかったかもしれないが。ただ、アーレイやリヒトが隠す必要はない気がする。
―――だってほら、人助けみたいなものだろう。
「サクが傷付くだろうから、と陛下は仰っていましたよ。好きでもない男に意識の無いときに抱かれたなどと知っては、と」
チクリと胸が痛む。
―――好きでもない男、ね。そっちはどうなんだよ。自分を嫌っている男を媚薬から解放するためとはいえ、抱くなんて。
「陛下を嫌いになりましたか…?」
もともと、好きじゃなかった。嫌いだったんだ。そう言いたいのに言ってしまえば何かが終わる気がして、朔は言葉が出ない。
黙り込んでしまった朔を、アーレイの優しい瞳が覗き込む。
「一度、陛下とゆっくりお話されては如何ですか?私から陛下には、この件について何もお伝えしません。サクが話したければ話せばいいし、夢の話にしておきたければそれでもいいと思っています」
いつだってアーレイは優しい。ここにきた最初から、アーレイは朔を気遣ってくれる。それと同時に、リヒトのことも大事に想っているのが伝わってくる。だから朔は、頷くしかなかった。
リヒトと話なんて、何を言えばいいのかわからないけど、アーレイに言われると断れない。
「ああ、そうだ。一つどうしてもわからないことがあるんですが聞いてもいいですか?」
すっかりいつもの柔らかな雰囲気を取り戻したアーレイは立ち上がりながら、ふと首を傾げる。
「何?」
「サクはどうやって王宮を出たのです?城壁を出るときには既に一人で王家の馬車に乗っていたと警護兵の情報がありました。ただ、その馬車をどのように調達したのか、どうしてサクが外に出るよう仕向けたのか。王宮から城壁までの間にサクを見かけた者が一人もいない。王宮にまだ慣れていないサクには難しいと思うのですが。話してくださいますか?」
一頻り疑問を並べ立てるアーレイの声を聞きながら、朔が思い出していたのは、あの女性のことだった。ティリア・ルーザント。あの人に出会った時、それこそが夢のような曖昧な雰囲気だった。
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「なるほど……。ありがとうございます。その方については少し調べてみます。サクはあまり気にせず、とにかく今は、ゆっくり休んでください」
ニコリと笑顔を向け部屋を出ていこうとするアーレイを、朔は直前で呼び止める。
「あっねぇ、アーレイちょっと……」
―――――――――――――――――――――――
「エナ、この花……っ何してるんだよっ!?」
備え付けられた浴室から出て寝室に戻った朔は、そこにリヒトの後ろ姿を見つけて狼狽える。
エナに名前を聞こうと浴室から持ってきた花も驚いた拍子に取り落としてしまう。
振り返ったリヒトはリヒトで、何故か動揺しているように見えた。
「お前…なんて恰好で…」
リヒトの言葉に、朔は自分が今、薄布一枚の姿だと気付く。ガウンのような作りではあるが、文字通り薄い布一枚。下手すると透けて見える。
「みるなよっ」
慌てて衣装部屋に飛び込むと手近な上下を身に着ける。なんでこんな時にエナはいないんだ。心の中でエナに八つ当たりしつつ部屋に戻ると、ソファに腰かけたリヒトが朔の落とした花を手にしていた。
「その花…なんて名前?」
リヒトの向かいに腰を下ろす。心の準備が出来る前に遭遇してしまって、動揺が隠せない。とりあえず何か、とエナに聞くつもりだったことを尋ねてみた。
エナがいつも浴室に飾ってくれている花。4枚の花弁はオレンジ色のグラデーションになっていて、仄かな優しい薫りがする。可愛くて、朔はこの花が好きだった。
「シェーラと言う。私の一番好きな花なんだ」
一瞬、心臓が跳ねる。
そっと顔を寄せて花の香りを慈しむようなリヒトを見ていると、鼓動が早くなる。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
どうしてこんなに意識してしまうんだ。あの部屋でのことを思い出したからか、アーレイからいろいろ聞きすぎたせいか。やっぱり忘れていたほうが良かったかもしれない。
アーレイと話をした後、それが引鉄になったように朔は一連の出来事をほぼすべて思い出していた。あの部屋で繋がれていたこと、セイラッドが来るまで、来た後、リヒトが来た時。
媚薬の所為とはいえ、自分の醜態を思い出すと羞恥で自害したくなる。
「この国の、そして王都の名の由来となった花だ。守護の力を持つ。香水や栞にして身に付けるとあらゆる厄災から守り導いてくれる。私の香水もシェーラで作られている」
ああ、いつもの香りはこの花から作られていたのか、と納得する。
「あーもう……ほんっと馬鹿……」
深く息を吐き出し悪態をついた朔を、リヒトが怪訝そうな顔で窺う。
意を決して朔は話し出す。
「あのさ…まず。俺は全部思い出した。人買いに捕まってたこともセイラッドのことも……あんたが……助けてくれたことも」
朔の言葉にリヒトは驚きを隠せない様子だが、何か言われる前に話を続ける。
「それから。契約のことも聞いた。あの池で、あんたは言葉が通じてないことに気付かず、俺が受け入れたと思って契約したって」
「お前、それ」
口をはさむリヒトを徹底的に無視して、朔はさらに続ける。
「まだある。鍛錬場の辺りでまた俺にキスしたのは、あのとき俺の姿が消えかかっていたからだって。このままだと俺が元の世界に世界に戻ってしまうと思ってつなぎ止めるために慌ててああしたって」
リヒトは全て知られていると悟ったのか、もう止めようとはせず黙って朔の言葉を聞く。
「そもそも俺をここにつなぎ止めたのも、顕れた時の俺の姿で……襲われたことを察したからなんだろ。ここなら、大丈夫だからって。全部アーレイから聞いた」
「言わずにいようと思っていたが、上手くいかないものだな。それで?」
ソファに深く沈み、朔が話し終えるのを待って困ったように笑いながら、促す。
「それで……結局あんたは俺のこと、どう思ってるの……?可哀想だったから庇護してあげた珍獣かなんか?それとも装飾品みたいなモノ?」
「そう、思うか?」
「わかんないから聞いてるんだろ」
問い掛ける朔の目は不安気に揺れている。
アーレイから全てを聞いた後も、結局わからなかったのはリヒトの気持ちだ。
いや、薄々気づいてはいるが、それが正しいのかどうかが分からない。
―――それに、もしそうだったとして、俺はどうなんだ?どう思ってるんだろう。
自分自身の気持ちにすら答えが出ないまま、それでも聞いてしまった自分の狡さに少しだけ、苦しくなる。
「そうだな…。ただのモノに執着などしない。可哀想なだけで誰彼かまわず助けようとはしない。況してや無理矢理契約したりなどしない。好きでもないものを助けるために、抱いたりなどしない……。サク、お前を愛しく思っているよ。出会ったときからずっと」
青く綺麗な澄んだ瞳が優しく細められる。
リヒトの真っ直ぐな想いに朔の顔が、体の内側が、熱くなる。
青空のように澄んだこの綺麗な眼が怖かった。
自分の弱さも見透かされているようで。
だからずっと、逃げていたんだ。
リヒトの想いに気付くことから。
たぶんそれは、朔が想像していたよりもずっと深くて。
「暴力の対象にされて世界に失望し諦観しながらも、お前は強くあろうとしていた。その、強さを湛えた瞳があまりに美しくて吸い込まれそうで囚われてしまった。私のことはどう思っても良い。ただここで、お前が何の心配もなく穏やかに過ごしているのを見ていたかった」
他人からの恋情など不愉快でしかなかったはずなのに、不思議と嫌悪はない。
恥ずかしくなるほどに甘い言葉が朔の胸に溶ける。
「サクの姿が消えかかったあのとき、自分はモノじゃない、欲望を満たしたいだけの玩具にするなと言われて、的確過ぎて言葉もなかった。お前の気持ちも、言葉も聞かず、これはただの自己満足だと教えられた」
「…ちゃんと、好きだって言えば良かったじゃん」
そうすれば、朔だってあんなに感情的にならずに済んだ。
――…言って欲しかったのか?俺…。
気付いたそれがやけにしっくりと心になじむ。
あの時のもやもやと渦巻くものはこれだったのかと知る。
「言えるわけないだろう。あんなタイミングで言ったところで上滑りする薄い言葉にしかならない。……だが、そうだな。それでも言えば良かった。お前を引き留めて何か少しでも伝えていれば、あんな目に合わせることもなかったのに。…サクには辛い思いをさせてしまった」
空色が曇る。
「別に……辛い思いなんてしてない。あんたが助けてくれたから……俺は…大丈夫」
翳った色が勿体なくて、大丈夫だと伝えたくて、溢した言葉は紛れもない本心だ。
その呟きで何に気付いたのか、リヒトはすっと立ち上がると朔の隣に移動する。
触れるほど傍に寄り添い、そっと問い掛けた。
「……そういえば、まだ聞いていなかったか。サクは私をどう思っているんだ?」
突然近くなった距離に、朔の体温が上がる。
頬に朱が差す。
嫌いではない。
嫌じゃない。
それだけじゃなくて。
「傲慢な王か、厄介な契約主か?」
言葉にするのを躊躇う朔に、リヒトは重ねて問う。
「俺がそんな風に思ってると思うんだ…?」
寂し気に聞こえたリヒトの声にそう返して、隣を見上げると。
「サク。わからないから聞いているんだろう?」
嬉しそうな笑顔を顔中に広げていた。
「…言わない!」
頬を一層朱くして勢いよく立ち上がりかけた朔は、すかさず腰に手を回され引き戻される。
抗議しようと顔をあげた途端、降ってきた口付けに反論は奪われた。
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「あのね、デュオニーソスは連れて行けないの」
何度目かの呼び出しの時、アディニーは僕にそう言った。
「殿下は、今はデュオニーソスに会いたくないって」
そんな・・・昔はあんなに優しかったのに・・・。
僕、殿下に嫌われちゃったの?
実は粘着系殿下×健気系貴族子息のファンタジーBLです。
婚約破棄を提案したら優しかった婚約者に手篭めにされました
多崎リクト
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ケイは物心着く前からユキと婚約していたが、優しくて綺麗で人気者のユキと平凡な自分では釣り合わないのではないかとずっと考えていた。
ついに婚約破棄を申し出たところ、ユキに手篭めにされてしまう。
ケイはまだ、ユキがどれだけ自分に執着しているのか知らなかった。
攻め
ユキ(23)
会社員。綺麗で性格も良くて完璧だと崇められていた人。ファンクラブも存在するらしい。
受け
ケイ(18)
高校生。平凡でユキと自分は釣り合わないとずっと気にしていた。ユキのことが大好き。
pixiv、ムーンライトノベルズにも掲載中
【8話完結】強制力に負けて死に戻ったら、幼馴染の様子がおかしいのですが、バグですか?
キノア9g
BL
目が覚めたら、大好きだったRPGの世界に転生していた。
知識チートでなんとか死亡フラグを回避した……はずだったのに、あっさり死んで、気づけば一年前に逆戻り。
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「お前、ちょっと俺に執着しすぎじゃない……?」
幼馴染が、なんかおかしい。妙に優しいし、距離が近いし、俺の行動にやたら詳しい。
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これは、運命を変えようと足掻く俺と、俺だけを見つめ続ける幼馴染の、ちょっと(だいぶ?)危険な異世界BL。
全8話。
お兄ちゃんができた!!
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ある日お兄ちゃんができた悠は、そのかっこよさに胸を撃ち抜かれた。
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律のお兄ちゃんな甘さに逃げたり、逃げられなかったりするあまあま義兄弟ラブコメ♡
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ヤンデレ一途兄 律×人見知り純粋弟 悠の純愛ヤンデレラブ。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
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憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
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