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エーヴェルシュタイン家、大混乱
しおりを挟む「――で?」
朝の応接室。
父であるエーヴェルシュタイン男爵、ヴィルヘルムは、こめかみを押さえながら言った。
「お前は、昨夜の夜会で――」
ゆっくり、確認するように。
「同盟国ヴァイスハイム第一王子に、婚約を申し込んだ、と」
「はい」
即答。
「……6歳で?」
「はい」
「……男爵家の三女が?」
「はい」
間。
男爵は、天を仰いだ。
「――誰か、夢だと言ってくれ」
「お父様、現実です」
横で母が静かに告げる。
「今朝方、正式な書状が届きました」
テーブルの上には、重厚な封蝋付きの書簡。
誰が見ても、“本物”だった。
「ヴァイスハイム第一王子リヒト殿下より、婚約予定に関する確認文……」
長女が、震える声で読み上げる。
「……確認?」
「即断ではない、という意味ですわね」
次女が、妙に冷静に補足する。
全員の視線が、末席に座るリズへ集中した。
「……リズ」
父が、恐る恐る尋ねる。
「お前、脅されたのか?」
「いいえ」
「誘拐されたのか?」
「されてません」
「……正気か?」
「正気です」
(多分)
心の中でだけ付け足す。
「理由を聞いていいか」
父の声は真剣だった。
リズは、少しだけ考えてから答えた。
「……生きるためです」
一瞬、空気が止まる。
家族全員が言葉を失う。
「それ以上は?」
母が静かに問う。リズは首を振った。
「今は、言えません」
沈黙。
だが――
「……分かりました」
最初に口を開いたのは、母だった。
「リズがそう言うなら、我が家は、リズの味方です」
「え?」
父が思わず声を上げる。
「いいのか……?」
「ええ」
母は、穏やかに微笑んだ。
「この子、嘘をつく時はもっと分かりやすいもの」
(……鋭い)
背筋が、ひやりとした。
「ただし」
今度は父が前のめりになる。
「王子相手だ。守るためにも家として動かねばならん」
「分かっています」
リズは、小さく頷いた。
(……始まった)
逃げるために選んだ婚約は、いつの間にか、家を巻き込む大事件になっていた。
窓の外では、いつも通りの朝日が差している。
それが、やけに眩しかった。
それは、夜会から二日後のことだった。
エーヴェルシュタイン家の門前に、見慣れぬ紋章を掲げた馬車が止まった。
「――ヴァイスハイム王国第一王子殿下付、側近ノア様がお越しです」
執事の声に、屋敷の空気が一瞬で引き締まる。
応接室には、ヴィルヘルム男爵と夫人、そして末席にリズが座っていた。
(……来た)
扉が開く。黒髪の青年が一礼した。
「初めまして。ヴァイスハイム第一王子殿下に仕える、ノアと申します」
声音は柔らかい。だが、隙は一切ない。
「この度は、突然の申し出により混乱を招き誠に申し訳ありません」
そう言って深く頭を下げた。
(……え)
リズは内心、驚いた。
謝る、のだ。
「顔を上げてください」
ヴィルヘルムが応じる。
「殿下のお考えを、直接聞ける機会を頂けただけで十分です」
ノアは椅子に腰掛け、本題へ入る。
「まず、昨夜会での発言は――正式な婚約ではありません」
前提確認。
「殿下は、リズ嬢の意思を最優先にすると明言されています」
(ほんとに?)
「よって、この話は“保留中”です」
だが。
「同時に」
ノアは、視線をリズへ向けた。
「殿下は、この件を“無かったこと”にするつもりもありません」
空気が、張り詰める。
「第一王子セシル殿下からの干渉、王宮内での憶測、それらからリズ嬢を守るため」
つまり。
「ヴァイスハイムは、エーヴェルシュタイン家の後ろ盾となります」
「……!」
夫人が息を呑む。
ヴィルヘルムは、一瞬だけ目を閉じた。
「見返りは?」
率直な問い。
ノアは即答した。
「ありません」
「……」
「正確に言えば」
言い直す。
「今は、です」
静かな、しかし重い言葉。
「殿下は、リズ嬢自身を見極めたいと考えています」
(……見極める)
小さな背中に、大国の視線が向けられている。
「強制はいたしません」
ノアは、最後にそう付け加えた。
「拒否される場合でも、我々は本国へ戻ります」
「ただし」
一拍。
「その後の安全までは保証できません」
沈黙。
重すぎる現実が応接室に落ちた。
ヴィルヘルムは、ゆっくりと口を開く。
「リズ」
父の声。
「お前は、どうしたい?」
全員の視線が、小さな少女に集まった。
(また、選択)
逃げ続けるだけでは生き残れない。
リズは、ノアを見上げて言った。
「――殿下に、お伝えください」
小さく、けれどはっきりと。
「私は選ばれる側でいるつもりはありません、と」
その場にほんの一拍の沈黙が落ちる。
ノアは、言葉を失ったようにリズを見た。
六歳の少女から出るには、あまりにも覚悟がはっきりしすぎていたからだ。
(殿下)
内心でそう呼ぶ。
(この方は守る“対象”ではなく、並んで歩く“存在”だ)
ノアは静かに一礼する。
「確かに、そのままお伝えします」
扉が閉まる瞬間まで、彼の表情は引き締まったままだった。
――そしてこの一言が、後にヴァイスハイム第一王子の判断を、さらに確かなものにするのだった。
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