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新しい朝
しおりを挟む抱き上げられたまま、私は静かに息を整えた。
転移の余韻がまだ体の奥に残っている。
子供の体には、やはり少し負荷が強かったらしい。
(油断した)
そう思った時点でもう遅い。
殿下の腕は揺れない。歩調も一定で、私を抱えているという意識すら薄い。
「降ろしますか」
小さくそう尋ねる。
「不要だ。今の状態で歩かせる方が非効率だからな」
理屈は正しい。反論の余地もない。
(本当に、感情で動かない人だ)
けれどその合理性の中に、確かに“私を基準にした判断”が含まれている。
王宮の廊下は王国のそれとは違った。無駄な装飾がなく、広く、静かだ。
通り過ぎる騎士たちは、足を止めない。視線だけを向け、敬礼し、何も言わない。
(この国は、そういう国なんだ)
殿下が足を止める。
「ここだ」
扉が開かれ、室内の空気が流れ込む。
「今日は休め。詳細は明日話す」
「承知しました」
降ろされる直前、殿下の腕がほんのわずかに強まった。
「一つだけ」
低い声。
「君は、人を頼るのが下手すぎる」
言い返そうとして、やめた。
「……自覚はあります」
殿下はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、そのまま私を降ろす。
「では」
それだけ告げて、踵を返した。扉が閉まる。
静寂。
私はしばらく、その場から動けなかった。
(来てしまったな)
ヴァイスハイム王国。氷の王子の国。
けれど、不思議と胸は落ち着いている。
(選んだのは、私だ)
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
逃げるための選択だったはずなのに、今はそれ以上の意味を帯び始めている気がした。それが良いことなのかどうかは、まだ、わからない。
目を覚ますと、知らない天井があった。
昨夜はあまり眠れなかったはずなのに、意識は不思議と冴えている。
――ヴァイスハイム王宮。
そう思い出したところで、リズはゆっくりと身体を起こした。
用意されていた衣装に着替え、髪を整える。手慣れた動きだ。こういうことだけは前の人生の記憶が役に立つ。
支度を終えた頃、控えめなノックが響いた。
「失礼いたします」
返事をするより先に、扉が静かに開く。
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。年の頃は二十前後だろうか。無駄のない所作で一礼する。
「本日より、リズ様の身の回りをお世話いたします。侍女のエマと申します」
声は柔らかいが、よく通る。
この若さで、殿下の信頼を得る人物。
優秀なのだろうというのが一目で分かった。
「リズです。よろしくお願いします」
そう答えると、エマは一瞬だけ目を細めた。笑った、というよりは安心したような表情だ。
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします。お着替えは……もう済ませておいでですね。朝餉の準備まで、少しお時間がございますが……お疲れは残っておりませんか?」
気遣いの言葉は自然で、探るような色はない。
それがかえって胸の奥に引っかかる。
「大丈夫です。これくらいで倒れるほどか弱くはないので」
少しだけ強めに言ってみて、相手の出方を試す。
エマは否定も同意もしなかった。
「そうでございますね」
ただそれだけを静かに返した。
「ですが、殿下も同じことをお考えとは限りません」
淡々とした声。責めるでも、諭すでもない。
事実を述べただけのような口調だった。
「……心配、してくれてるんですか」
「はい。リズ様が思っておられる以上に」
その一言で、ここが同盟国の王宮でありそして自分が第一王子の婚約者なのだと改めて突きつけられる。
「朝餉の後、殿下は政務に出られる予定です。ですが、その前に少しお顔を見に来られるかと」
「そうですか」
気軽に会いに来る距離ではないはずなのに。
それを当然のように告げるエマに、リズはもう一度深く息を吸った。
逃げるために選んだはずの婚約が、いつの間にか「日常」として静かに形を持ちはじめている。
エマはそんなリズの様子を何も言わずに見守っていた。
エマに案内されリズは部屋を出た。静かな廊下の先で一人の騎士が待機している。
「リズ様」
短く名を呼ばれ、騎士は片膝をついた。
「ヴァイスハイム王宮騎士団所属、ルーカスと申します。本日より専属の護衛騎士としてお側に控えます」
堅すぎない、けれど崩れもしない声。
視線はまっすぐで、余計な感情は読み取れない。
「よろしくお願いします」
そう返すと、ルーカスは立ち上がった。
「こちらこそ」
それだけだったが、不思議と安心感があった。
エマが一歩前に出る。
「……久しぶりね」
「変わらないな」
短いやり取り。けれどその間合いは初対面のものではない。リズは二人を見比べて、首をかしげた。
「お二人、知り合いなんですか?」
エマは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに答えた。
「王宮入りした時の同期です」
ルーカスも小さく頷く。
「部署は違いますが、研修の時期は同じでした」
それだけで十分だった。長く言葉を交わさなくても、互いの力量を信頼している関係だと分かる。
「なるほど」
リズは小さく息を吐いた。
(この二人がいるなら、大丈夫かもしれない)
エマは歩き出しながら言う。
「朝餉の席までご案内いたします」
「周囲は私が警戒しますので、何かあればすぐに」
ルーカスの声は淡々としていたが、その一言に迷いはなかった。
「分かりました」
そう答えながら、リズは自分の足取りを確かめる。
守られている。その事実を少しずつ受け入れながら。
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