上 下
6 / 9

しおりを挟む
 
 




 内廷から自室へと戻る自分の足取りが、今日に限ってあまりにも重い。
 先ほどアレクと交わした言葉が、頭の中をぐるぐる回る。


『アリーシアの身が心配だ。本人の望む通り、自由な生活を与えてやりたい気持ちはあるが……しかし、この国にいる以上、ティアトリード侯爵から逃れることは出来ないだろう』
『彼女の身の安全を考えると、アリーシアをこの国に置いておくわけにはいかない。だからシャルハ、おまえが彼女を保護してやることは出来ないだろうか』


 アレクの言わんとしていることは、その心情は、充分なほどに理解している。
 だからこそ、自分の為すべきことも、はっきりしている。


 アリーシアを、ティアトリード侯爵を遠ざけるための駒としたのは、他ならぬ自分自身。
 その望みが叶った以上、彼の役目は終わりとなる。
 後は私が、彼との約束を果たすだけ―――。


 だというのに、何故だろう、それを躊躇う自分がいる。
 彼へと向けた己の関心が、いつの間にか心に大きく根を張りすぎていて、彼を手放すことを素直にがえんじられずにいる。
 ――役目を終えたあれに何の価値がある……?
 かつて愛した男の姿が、脳裏を過った。
 彼こそ、この私が愛し側に置くに相応しい、美も才も兼ね備えた、まさしく手に入れる価値のある男だった。彼を得られたならば、公私ともに己の利となることはあれ、損となることなど何一つ無い。だからこそ、彼に溺れ、彼の望むままに、この国一つを引き換えにした。
 ――それほどの価値が、果たしてアリーシアにあるのだろうか……?
 どう贔屓目に見たところで、彼にそれがあるとは思えない。
 なのに何故、そんな彼を手放してしまうことを、こうも自分は躊躇っているのだろう―――。


 いつの間にか自室に辿り着いていた。
 もう習慣となってしまったのか、部屋に入るとそのまま自然と彼のいる控えの間へ足を向けている己に気付き、自嘲する。
 ――良い退屈しのぎになる存在……それだけでしかないはずなのに……。
 扉の前まで辿り着いてから、そこでふと我に返って立ち止まり、軽く頭を振って澱んだ思考を追い出そうと努めた。
 こんなことではいけない、まずはアリーシア当人の意志を確認しなければ始まらないではないか。自分が毅然としていないでどうする。
 己の感情に答えを求めるのは後からでいいと、そう無理矢理のように頭を切り替え、扉へと手を伸ばした。
 ちょうどいい、ついでだからアリーシアを少々つついて、このぐちゃぐちゃした気分をスッキリさせることにしよう。彼の反応はいちいち面白いから、きっと気分も和むはず。…などという、当人が聞いたら間違いなく怒り出しそうなことを考えつつ、扉の持ち手に手をかけた、――そんな時。
「――しっかし、退屈だなー……」
 扉の向こう側からボヤくような声が聞こえてきた。
 間違えようもない、アリーシアの声だ。もう夜も更けたこんな時間に、まだカシムがこの部屋にいるのだろうか、と、少々訝しく思い、音を立てぬようそっと持ち手を回すと、開けた隙間から室内を窺った。この時間にカシムが居るのも怪しいこと限りないが、もしそうではなく、他者が入り込んでいたとなれば大問題だ。
 だが隙間から周囲に視線を配るも、アリーシアの姿以外、部屋の中には誰の影一つも見当たらない。
「別にこっちは本さえ与えてもらえればいいんだけどさー時間を潰すのは得意だし……でも、ここまで何もやらせてもらえないのはなー……至れり尽くせりされちゃってる分、やっぱ気が引けるなあ置いて貰ってる立場としては……」
 続いて聞こえてきたそんなボヤき声で、どうやら独り言だったようだなと、ほっとして警戒を緩めた。
 これから寝るところだったのだろう、そうしながら彼が、夜着にでも着替えるためか、寝台へ向かい着ている服を脱いでいた。
「こんな腫れ物みたいな扱いされるくらいだったら、どこまでも気は進まないけど、あの俺様殿下の小姓でも何でもやってやるのに……」
 それが耳に飛び込んできた途端、どこまでも正直だな、と思わず忍び笑いが洩れる。
「タダで置いていただいているのだし、そんなことでもしなきゃ申し訳ないなあ……」
 なるほど、対価というワケか。やはりこいつは面白い。この世界のどこに、そんな考え方ができる貴族の令嬢なぞいるだろうか。どいつもこいつも、与えられるのが当然だとばかりにふんぞり返って、対価を返そうなんて思考すら持ち併せていないに違いないのに。それも神殿暮らしが長かった所為なのだろうか。
 ――ならば、等価交換といこうじゃないか。
 そっと扉を押し開く。だが、それでもこちらに気付く様子はない。
 そうなると、少々悪戯心が湧いてきて、いつになったら気付くだろうかと、しばしそのまま声をかけずに見ていることにした。これは気付いた時の顔が見ものだ。
 戸口に軽く凭れるように立ち、無防備な背中を眺める。
 その時さらりと衣擦れの音がして、ふいに肌の色が目に飛び込んできた。
 思わず視線が捕らわれる。こちらを向く、その薄い痩せた背中に。
 どくりとした心臓の高鳴りを感じた。
 ほとんど筋肉のついていない、男にしては貧相なばかりの体躯、病的にさえ見える色白の肌……それは到底、己の好みからはかけ離れたものだというのに、何故か劣情を覚えた。
 視線が逸らせない。その場に縫い止められたかのように、身体までが動かない。
 ただもっと見ていたいとだけ思った。その白い華奢な背中を。
 だからなのか、シャツを脱ぎ落としたその手が、寝台の上の夜着に手を伸ばしているのを見止めた途端、思わず声が出てしまった。


「――なんだ、綺麗な肌じゃないか」


 彼が夜着を身に着けることで、その裸体が隠されてしまうのを惜しんでしまったのだ、と……それを、自分でもよく理解していた。
 案の定、こちらに気付いていなかった彼は、一瞬ビクリとしたように身体を強張らせたかと思うと、勢いよく振り返る。
 そう、その驚いた顔が見たかったはずなのに……だが、そんなものはもはや、どうでもよかった。
「…つか、ノックくらいして欲しいんですが」
 即座に冷ややかな視線を投げ付けてくる彼を、つついて反応を見たいという気持ちも、もはやなくなっていた。
 今の自分の中にあるのは、どうすれば彼を、この姿のまま留めておけるか、ただそれだけだった。
「あの、私、着替え中……」
「見ればわかる」
 自分へと歩み寄ってくる私を止めようとしたのだろうか、そんな声を投げかけられるも、含まれた意図に気付かぬふりをする。
 慌てたように、寝台の上の夜着に伸ばされた手を、咄嗟に掴んで止めていた。
「ちょっと、殿下……!」
 その掴んだ手をどかすようにして上に持ち上げると、改めてしげしげと、目の前の身体を眺める。
 ――本当に綺麗な身体だな……。
 この国の民なら誰しも有している象牙色の肌は、これまで陽の光に一度も当たったことが無いのではないかと思えるほどに白く、また傷痕などはおろかシミの一つも無く滑らかで、まさに触れたら吸い付くかのような潤いを湛えていて……か細く落とされた部屋の灯りに映されたそれは、まるで上等の白磁にさえも見える光沢をもって、こちらの視線を魅了し縛り付けてきた。
 ――こんな、痩せすぎて骨が浮いているうえに筋肉の一つもついていない薄っぺらい身体に……これまで興味の一つさえ持ったことなど無かったのにな……。
 この身体を余すところなく味わってみたい、という欲望が、自然に湧き上がってくる。
 まだ男も女も知らないこの綺麗な身体に、自分という雄の証を刻み付けてやりたい。柔らかな肉に爪を立て、噛み痕を残し、仕上げに接吻の花を散らしたら、この白い肌にとても美しく映えることだろう―――。
「だから何なんですか一体……!」
 いい加減、苛々としてきたらしいアリーシアの声が耳に飛び込んできた。その声音には、明らかに不審の色までもが感じられる。
 さすがにやりすぎてしまったようだ。幾ら自分の欲望に従ったまでのこととはいえ、何の説明も無しにここまで不躾にジロジロ舐め回すように見てしまったら、警戒もされようというものか。
 そこで少しだけ我に返り、なんとなく頭の中に用意しておいた言い訳を口に載せてみた。
「…やっぱり、何も無いな」
「は……?」
「いや、アリーシア嬢は、背中だか腹だかに生まれつき大きな痣があると、だから着替えの時は誰にも触らせないと、聞いていたものだから……」
「そんなの方便に決まってんじゃないですか! その痣を見られたくないから、とでも言っておけば、一人で着替える言い訳になるでしょう!」
「まあ、大方そんなとこだろうとは思っていたが、念のため確かめてみようかと」
「『念のため』で予告なく人の着替えの場に乱入しないでください! ホント悪趣味! てか、失礼すぎるんじゃないですか私に対して! 幾ら殿下とはいえ、やっていいことと悪いことくらいあるでしょう人として! もしもそういう痣が本当にあったら失礼では済まない暴挙じゃないですか!」
 捲し立てるように言いながら掴まれた手を力任せに振り解いたアリーシアが、こちらに背を向けたかと思うと、そのままさっさと夜着を身に着けてしまう。
 それを心から残念がっている自分に気付き、ここまで彼の裸体に固執するなんて、いい加減どこかおかしいのではないか、いつの間にか嗜好でも変わっていたのだろうか、と、思わず考え込んでしまった。
 そんな私を、手早く着替えを終えたアリーシアが振り返る。
「そもそも、こんな夜更けに何の用ですか? 私はもう休みますので、とっとと出ていってください」
 ――そこで、例の“対価”を思い出した。
「うん、私も休むよ」
「そうですか、では、おやすみなさいませ殿下」
「ああ、おやすみ」
「――って、なんで私の寝台に入るんですか!」
 言葉を交わしながら目の前の寝台に潜り込もうと掛布を捲り上げたところで、服の裾がぐいっと強く背後に引っ張られ、引き止められる。
 振り返ると、目をまん丸に見開いたアリーシアの驚いた顔。
「殿下の寝室は、ちゃんと別にあるでしょう!」
「無粋なこと言うなよ、アリー。せっかく添い寝してあげようと……」
「いや、頼んでないですし!」
「まあまあ、遠慮するな」
 そこで、おもむろに彼の手を取ると、強い力で引き寄せた。
「や、ちょっと、あのっ、えっ……!?」
 思惑どおりこちらへと倒れこんできた身体を、待ってましたとばかりに受け止めて抱き締めるや、そのまま寝台に横になり、そうしてから改めて捲りあげていた掛布を二人の身体を包むようにしてふわりと掛ける。
「はい、じゃあ、おやすみアリー」
「――ここで『ハイおやすみなさい』って素直に寝られるとでも思ってんですか、このクソ殿下?」
「ひどい言い様だなあ、添い寝も小姓の仕事だよアリー?」
「なんですと……?」
「自分で言っていたじゃないか、『小姓でも何でもやってやる』って」
「………聞いてやがりましたんですか」
「聞いたからには、ゼヒやってもらおうかと」
 せっかく差し出された対価なのだ、これはゼヒとも有効活用させてもらわないと。
 そういえば最近、何くれとごたついていた所為もあり、夜の方もご無沙汰だった。ここでその埋め合わせをしてもらってもいいだろう。――アレクが何か言ってくるかもしれないが、知るものか。対価として自身を差し出してきたのはアリーシアの方だ。私は、それを素直に受け取ったまでのこと。
 ――さあ、どう出るのかな……?
「では、小姓としてのお仕事をさせていただいてもよろしいかと、まずカシム副官におうかがいを立ててきますので、放してくださいませんか?」
 ――そうきたか……。
 確かに、彼の世話をカシムに任せたのは私だし、自分よりもカシムとの接点の方が多いだろうことも解ってはいるが……とはいえ、こういう状況下で相手の口から自分以外の男の名が出てくるというのは、やはり面白くない。ましてや、カシムには頭が上がらない私のことを、そんな我々の力関係を、既に正確に把握しきっているらしきその様子も、極めて面白くないことといったらこのうえもない。
「それはできないな」
 言いながら、身体に掛けた掛布の中を潜るようにして、まず逃げられないようその両手を捕まえ布団の上に押し付けるや覆い被さり、仰向けにした彼の顔を真上から見下ろせる位置まで身体を起こした。
「そんなことしようとしたら……このまま寝台から出られないようにイタズラしちゃうけど? それでもいい?」
 そこまでされても、まだどことなく状況を理解していないような表情をしてこちらを見上げるばかりのアリーシアだったが、殊更ににっこりと微笑んでそれを伝えた途端、弾かれたようにぶんぶんと首を横に振る。
「…なんだ、つまらないな」
 そうは言いつつも、ようやくこの状況を理解してくれたとみえる、そんな彼の様子に、しめたとばかりに思わず笑いが洩れてしまう。
 ――さて、お楽しみはこれからだ。
「もっと抵抗してくれたら、せっかく気持ちいいこと出来るかと期待したのに」
「――何をする気だったんですか?」
「この体勢ですることといったら、一つしかないだろう?」
「私、男ですけど……」
「それは知ってる」
「男同士で、こんな体勢から、一体なにをすると……?」
「さあ……何をしようかな」
 知っていてトボけているのか、それとも何も知らないで訊いているだけなのか……どちらにせよ、この先の反応が楽しみだ。
 我知らず緩んでくる口元を隠すように、おもむろに彼の首筋に顔を寄せると、まずは耳の後ろにかけてべろりと舐め上げてみた。
「ひゃっ……!!?」
「男同士だろうが何だろうが、こんな体勢にもなれば、色々とやりようはある」
 悲鳴を上げて反射的に首を竦める、そんな初心うぶな反応を返してくれた彼の耳元、熱い吐息がかかるくらいすぐ近くまで唇を近付けてから、それを囁く。
「神殿なんていう、男しか居ない場所で生活していたくせに……男同士でこういうこともできるって、知らなかった……?」
「――――!!?」
 見下ろした彼の表情が、何か思い当たるところでもあったのか、途端にぱあっと朱に染まった。
 よしよし、多少なりとも知識はあるようだな。なら話は早い。
「だって、男同士だと子供もできないのに、こんなことしても意味は無い……!」
「何も子供を作るためだけに、人は交合するワケじゃないだろう」
「…まさか、する気なんですか、そんなこと?」
「それをするために、そもそも君はこんなところまで連れてこられたのではなかったのかな?」
「それが嫌だからこそ、私は逃げ出したハズなんですが……」
「違うだろう? 君が逃げ出したのは、あくまで男であることを隠していたからだ。もうそれがバレている私に対して、逃げる理由も無いはずだな」
 そこで、ぐっと言葉に詰まったかのように唇を引き結んだアリーシアだったが……やおら、見下ろす私から視線を逸らし、深々としたタメ息を吐いた。と同時に、強張っていた全身からも力が脱けたのがわかる。
 思わず私も、訝しく思って動きを止めた。
 この反応は予想外だ。もっと、こう、じたばた無駄な足掻きでもしそうだと踏んでいたのに。こちらも、その様を楽しみにしているのに。
「大人しくなったな。とうとう観念したか?」
「そうですね。観念します」
「え……?」
 これまた意外な返答に絶句する。
 観念するも何も、まだ抵抗らしい抵抗もしていないではないか。さっきまでは、あんなに初心な仕草を見せていたくせに……これは一体どういうことだろうか……?
 アリーシアが小さく息を吐き、再びこちらへと視線を戻した。
 あまりにも真っ直ぐに私を見据えて、それを告げる。


「なりゆき上のこととはいえ、結果的には、逃げ出した私をシャルハ殿下は助けてくださったわけですから。その恩を身体で返せと仰られるのであれば、従わないわけにはいきません。こんな貧相な身体で申し訳ありませんが、どうぞお好きになさってください」


 ――ああ……なんだ、そういうことか……。


 その言葉を聞いた途端、すべてが腑に落ちた。
 理解して、同時にスッと熱が冷めた。
 ――そうだった……アリーシアはそういう人間だと、聞いていたはずじゃないか……。
 いつかのアレクの声が、言葉が、耳の奥に甦る。


『いくら偶然のこととはいえ、今回のことでアリーシアは、まがりなりにもおまえに助けられた形になった。その恩があればこそ、どんなに意に副わぬことであれ、おまえを拒むことは出来ないだろう。おまえが軽い気持ちで手を出していると、承知の上だったとしても、何の抵抗もせず受け入れてしまうだろうな』


 言われたその通りのことが、今まさに目の前で起こっている。
 しかも、自らで受け止めたことではなかったか。――対価として自分自身をアリーシアは差し出してきたのだから、と。
 このまま私に抱かれることは、彼にとって、ただ対価を支払うこと以外にほかならないのだ。
 諦めることに慣れきってしまった彼だからこそ……こう淡々と、まさに義務的なまでに、それを為せるのだろう。たとえ内心で私を厭っていたとしても。


 ――だが……ならば、この手の震えは、何だ……?


 彼の手を押さえ付けた両手から伝わる、微かな震え。
 さも当然のこととばかりに平然とした表情でこちらを見上げて私の返答を待っている、その表情と、この震えとが、今の彼の内側にあるだろう矛盾し背反する感情を伝えてくる。
 何が彼の本心であるのか、なんて……そんなもの、問うまでもなく明らかではないか。


 ――なんだ、この可愛いイキモノは……?


 気付いてしまったら、目の前のアリーシアが、まさに獣に捕らえられ捕食される寸前の小動物のようにしか見えなくなった。
 震えながらその時を待つだけの姿が、不憫にもなり……だが同時に、御馳走を目前にした獣の欲求が煽られる。
 この美味しそうな獲物に今すぐ喰らい付きたい、その身体を貪りたい、このか弱いイキモノの生殺与奪を握っているのは、他でもない自分だけなのだから―――。


 ――だめだ、できない……。


 こちらを見上げるその視線を受け止めていること自体が堪え難くなり、おもむろにふいっと視線を逸らすと、そのまま彼の拘束を解き、隣へと寝そべった。
 自身の内側に湧き上がる獰猛で破壊的な捕食衝動は、無理やり理性で抑え込んだ。
 ――だめだ、今ここでアリーシアを抱いてしまったら……、
 何がだめなのか、どうしてだめなのか、何故ここで止まらなけらばならなかったのか……まだ自分でもよくわからない。ただ、己の欲求のまま行動に移すことへの警鐘が、うるさいぐらいに頭の中を掻き回していたから、それに従わざるを得なかったのだ。
 彼のことを、面白い興味深いと思う感情、可愛い愛らしいと思う感情、哀れで不憫だと思う感情、喰らって貪って滅茶苦茶に壊してやりたくなる感情……様々な感情が自分の中をぐるぐる回って一つに混ざり合っているような、混沌。
 何なのか正体のわからないそれが今、大きく湧き上がって膨らんで、自分の中を支配している。
「殿下……?」
 だが、その正体をつきとめようとする考えがまとまる前に、隣りから訝しげな声が飛んでくる。
「――すまなかった」
「え……?」
「我ながら、少し苛々していたようだな。からかいすぎた」
 咄嗟にそれから目を逸らしたくて、動揺している自分を気付かれたくなくて、思い付いた言葉を思い付いた順に、ただ唇に載せた。
「本当に君は、アレクの言う通りだ」
 だからといって何故ここでアレクの言葉が思い出されたのか、口をついて出てしまったのか……結果的に、彼から『手を出すな』と言い付けられた通りにしてしまった、それしか選択肢のない今の自分に、すごく苛々としながら、きょとんとした彼の表情に向かい、仕方なく言葉を続ける。
「君を引き合わせて以来、アリーシアには手を出すなと、事あるごとに、がっしがし釘を刺されてきたんだよ。君は、昔から自分自身を軽く見積もっているから、たとえ意に副わぬことでも早々に諦めてしまう、だから、軽い気持ちで手を出されているとわかっていても何の抵抗もせず受け入れてしまうだろう、ってね。売った恩を笠に着るような真似はするなと、口を酸っぱくして言われまくったよ。――嫌になるくらい、その通りだったな」
「アレクセイ様が、そんなことを……」
 身体を起こしてこちらを見下ろしているアリーシアの表情が、そこではにゃりと柔らかく崩れる。アレクに心配してもらって嬉しいのだと、その表情が雄弁に語る。
「…だから、どうして君は、そこでそう嬉しそうな顔を見せるかな」
 別に今に始まったことでなく、アレクのことを思い浮かべているだろう時の彼は、いつもこんな風だ。――まったくもって気に入らない。
 本当に癪に障る、と、ボヤくように呟くと、途端に彼の表情が困ったように曇った。
 おおかた、何を返したらいいのか迷っているのだろう。別に、そう困らせたくて言ったワケじゃない。
 だから私から、会話の方向を切り替えた。――もともと彼に言わなければならなかったことだ。


「今日、ティアトリード侯爵の処分が下されたよ。つい先刻、私も同席のうえ、国王陛下みずからで本人へと内々にだが通達された」


「え……?」
 あまりに唐突に変わった話題に頭が上手く切り替えられなかったのか、またしてもきょとんとした風な表情で、アリーシアがこちらを見返した。
 それを横目に、なるべく努めて淡々と、言葉を紡ぐ。
「自分の娘の意向さえ顧みず取った貴様のあまりにも自分勝手きわまりない行動が、ここまでの混乱と醜聞を王宮に招いたのだ、と、ものすごく静かに…なのに、これでもかというくらい底冷えするような迫力でもって、陛下がお怒りになってね。しかも、『私の可愛い妹分を、そこまで苦しめて追い詰めたのだから、それなりの覚悟あってのことだろうな?』なんてことまで言われて、更には私にまで『ずいぶん人の顔に泥を塗ってくれたものだ』などと追い討ちまでかけられてしまえば、もう侯爵に反論できる余地なんざ無かっただろうさ。それはそれはアッサリなまでに、諾々と処分を飲んでくれたよ」
「ずいぶんな演技派でいらっしゃるんですね、お二人とも……」
 いかにも、何を返したらいいのか考えあぐねてようやっと捻り出した、という体は見受けられたが、よりにもよって出てきた言葉がそんな相槌かと、やはり面白く思う。
「それくらいはするさ。あのティアトリード侯爵に罪を被せて円満に事を収めるためにはね。――こっちが下手に出たら最後、あの狸にどこまでものらりくらりと言い逃れさせるだけだからな」
 その言葉には、真剣な表情で力一杯同意の頷きを返してくれる。たかがそんな仕草までもが面白くて、話題の狸ジジイを思い出しささくれだってきていた気持ちが、少しだけ和らいだように感じた。
「もともと私にしろアレクにしろ、ティアトリード侯爵には手を焼いていたところだったんだ。あんなのを名門家の当主に据えておくこと自体が、そもそもの問題だな。あの男がデカい顔して周囲を無駄に扇動する所為で、いつも厄介なことになる。今回の私の側妃の件にしたって、そうだ。あの狸が煽らなければ、ああも多くの貴族どもが便乗してくることも無かったはずだし、私もあんな馬鹿らしい条件まで出すことも無かっただろう。――当然、君にとばっちりが行くことだって無かった」
 そこで言葉を切ると、何か物言いたげにこちらを覗き込む瞳にぶつかる。
 しかし彼は何も口を挟むことなく、ただ黙して私の言葉を待っていた。
「今回ヤツに下された処分は、当面の間の王宮・王都への出入り禁止、自領内での謹慎、あと一部所領の没収、この程度でしかなかったけれど……まあ、それでも当面の間は、あの狸を王宮から遠ざけることは出来たのだから上々というべきだろう。だから……」
 そして、自分のすべきことを思い出す。
 まだ躊躇う気持ちを引きずりながら……呟くように、それを告げた。


「君はもう充分に役に立った。だから、私に恩など感じる必要は無い。――あとは、私が君への約束を果たすだけだ」


 言った途端、胃の腑のあたりに、ずっしりとした重みのようなものを感じた。
 こちらを見つめる彼の顔に、ハッとした表情が浮かぶ。
 瞠られた瞳の色に、こちらが何を告げようとしているのかを覚ったらしき色がうかがえた。
「アレクは君を自分の預りにすると定めたよ。君が髪を切り捨ててまでの覚悟で逃げることを望んだのであれば、こちらからはもう捜さない、しかし、今後もし君が見つかった場合は、速やかに自分のもとへと連行しなければならない、王のものに何人たりとも手を出すことなどは許されない、たとえ実父であるティアトリード侯爵であろうと同様、もしもアリーシアを個人的に捜し出して、不当に害したり拘束したり再び手駒にせんと企んだ場合は、今度こそ爵位剥奪も免れないと覚悟せよ、と。それを宣言した。――だから……」
 そこで、おもむろに手を伸ばす。
 自然に手が伸びていた。こちらを見つめる彼の視線を、このまま自分のもとへ引き止めておきたい、とばかりに……その頬の温もりに、指が触れた。


「――もう君は自由の身だアリーシア」


 こちらを穴があくほど見つめてくる彼の視線を受け止めるのが辛い。その嬉しさの見え隠れする驚いた表情を目の当たりにするのさえ苦しい。
 しかし、これが彼の望みだ。そんなもの、痛いくらいに理解している。


「アレクから言われた。ティアトリード侯爵が王都から去ったら、君を王宮から出してやれ、と」
「出られるんですか、私、ここから……」
「約束は約束だからな。それと、もし君に行くあてが無ければ、と相談もされた。――ユリサナで君を保護してやることは出来ないだろうか、と」
「ユリサナに……?」
「やはり、まだティアトリード侯爵の目が生きているうちは、この国に居るのは危険かもしれないからな。少なくともユリサナ本国に居れば、あの狸の力も及びはしない。もし君にその気持ちがあれば、私が責任をもってユリサナ行きを手配しよう。責任を持って、君の身柄も保護する」
「殿下、私は……」
 頬に触れた指を滑らせ、その唇を撫でる。
「――あくまでも、君がそれを望むのであれば、だけど」
 そう指で、言葉で、言いかけた彼の返答を私は奪った。
「少し考えてみるといいよ。――少しだけど……まだ時間はあるから」
 口を噤んだ彼の肩を、伸ばしていたその手で抱き寄せる。
 自分の胸元に囲い込むように抱きしめて、そのぬくもりに命じた。
「とにかく今は眠れ、アリー。ごちゃごちゃ考えるのは、明日になってからでもいいだろう」
「でも殿下……」
「まだごたごた言う気なら、本当に抱くぞ」
「このままじゃ眠れません」
「これくらい譲歩しろよ。もう何もしないから」
 あれこれと言い募ろうとする彼を黙らせるために、殊更にからかうような口調を作ってやる。
 案の定、早々に諦めてくれたものか、言葉が聞こえなくなったと思ったら、タメ息が聞こえてきた。
 よしこれで眠ってくれそうだなと、思ったと同時に聞こえてくる、最後の悪足掻き。
「シャルハ殿下……」
「なんだ?」
「暑いんですけど」
「………聞こえんな」


 何だかんだと文句を言ったわりには、アリーシアが寝付くのは早かった。
 長い睫毛に彩られた寝顔は、灯りの消えた部屋の中、窓から差し込む月の光に影を落とされ、その美しさと相俟って、まるで物言わぬ彫刻のように見える。
 聞こえてくる規則正しく紡がれる寝息だけが、彼が生きている人間であることを証していた。


「――考えたくなかったのは、私の方だ……」


 その綺麗な寝顔に向かい、ぽつりと、呟く。
 わざわざ考える猶予など与えなくとも、彼の返答なんて、もはやわかりきっている。
 猶予が欲しかったのは、自分の方だ。
 それを聞きたくないと思ってしまったのだ。だから咄嗟に先延ばしにした。
 今、ようやくわかった。自分を支配する混沌の正体。彼を手放したくない理由。
「君が差し出してくれた対価は、私の欲しいものじゃない……義務的に差し出される身体なぞ、欲しくは無い……」
 動かぬ彼の手を取り、その甲に口付ける。


「君が欲しいアリーシア。その心ごと、私は、君のすべてが、欲しいんだ―――」



しおりを挟む

処理中です...