涯(はて)の楽園

栗木 妙

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Ⅱ章.バーディッツ伯爵領 ─レイノルド・サイラーク─

【2】_14

 
 




 王を祝うために我が国を訪れていた各国の賓客たちは、その突然の崩御で、帰国のタイミングを失った。
 そして、そのほとんどが葬儀に参列することになり、更には新王の戴冠式まで滞在し続けることとなった。
 シャルハも、その中の一人だ。
 賓客たちは王宮内の迎賓館に部屋を与えられていたが、あの彼のことだ、堅苦しいばかりの王宮に留まるより、住み慣れたユリサナ大使館へ居を移すことを選ぶだろう確信があった。
 しかし、つい先日、待望の戴冠式も済み、賓客たちは徐々に帰宅の途につき始めている。
 鳩に付けたその書簡が、正しくシャルハの手に届いてくれるか、それは一種の“賭け”だった。


 ――つまり私は、その“賭け”に勝ってしまった、ということか。


 もう後戻りは出来ない。先に進むしかない。
 徐々にこちらへ近付いてくるシャルハを、私は笑みと共に迎え入れた。
「初めてだな、君が手紙をくれたのは」
 私の前に立ったシャルハが、こちらを見下ろして微笑む。
「会えてよかった」
 おもむろに私の頬をかすめるようにして手を伸ばすと、背中に流していた長い髪の一房を梳くようにして、優しく握るように掴む。
 それに、ゆっくりと自分の唇を寄せた。


 もう何度も見慣れた、その彼の仕草。
 最初は、何も知らなかった。知らぬまま受け入れていた。
 シャルハも、私が何も知らないと思ってしているのだろう。
 長い髪に口付ける。――それが、ユリサナでは当たり前である求愛のしるしだと知ったのは、いつのことだったか……。
 その意味を知っても、私は彼を受け入れた。
 私は何も知らぬと思わせたまま、シャルハを自分のもとに繋ぎ止める。


 ――彼の気持ちを、利用するために。


「私は、カンザリア要塞島に総督として赴任することになった」
 告げた私を見つめたシャルハの瞳が、驚いたように見開かれた。
「着任すれば、解任されるまで島から出ることは出来なくなる。そうなる前に、シャルハ、おまえとゆっくり話をしたかった」
 葡萄酒を満たした杯を傾けながら、しばしシャルハの返答を待つ。
 今は、彼を部屋に招き入れ、二人きり、向かい合って杯を交わしていた。
 シャルハに付き従ってきた従者は、ジークに対応を任せた。予め、こちらから呼ばない限り、この部屋には誰も近寄らせないように伝えてある。
 マルナラには三日間滞在し、その後、私だけがカンザリアに渡る予定だ。ジークは王都に戻ってもらい、私の留守の間の屋敷や領地の管理など、当主としての雑事すべてを任せることになっている。
 まだ目の前の杯には手を触れず、シャルハが唸るように「そうか」と低く呟いた。
「あのクセ者陛下め、随分非道な真似をしてくれるじゃないか」
 この国の者ではないとはいえ、シャルハもカンザリア総督職が体のいい左遷先であることを知っていたとみえる。
「あんな島に飛ばされる何を、レイがしたというんだ」
 苛々としたように卓上を小刻みに叩く彼の指を眺めながら、「もう決まったことだ」と、あくまでも静かに私は応えた。
「その命を受け入れたからこそ、私は今、ここに居る」
「この国に来ても、もう君に会えないなんて……よりにもよって、私の国から最も近い場所に居るというのに……!」
 こんなの納得がいかない、と、握られた拳が音を立てて卓上に叩き付けられる。
 おもむろに私は、椅子から立ち上がっていた。
 そのまま、苛々と座る彼の傍らへと、歩みを進める。
 こちらを向いた彼の眼前に立ち、見上げてきたその瞳を見下ろして、叩き付けられたまま卓上にある拳の上に、そっと自分の片手を添えた。
「私のために怒ってくれる、その気持ちはとても嬉しいと思う」
「レイ……?」
「しかし、今はそんなことどうでもいい。そんな話がしたくて、おまえを呼んだわけじゃない」
 言いながら、もう片方の手を、座るシャルハの肩に載せ、そこに軽く体重をかけるようにして腰を屈める。
 視線を合わせたまま、少しずつ顔を近付ける。――まるで、これからキスでもするように。
 だが、触れ合えぬ距離を保ったまま、私は動きを止めた。
 訝しげな声で再び私を呼びかけたシャルハの声を、遮るようにして私は、その言葉を口にした。
「昔、おまえがくれた言葉……それはまだ、有効か?」
「え……?」
「おまえの手を取れば、私の望みを叶えてくれる、と……私を愛していると言った、その気持ちは、まだおまえの中にあるか?」
「レイ、それは……!」
 言いかけたシャルハを見止めて、咄嗟に私は身体を起こした。
 彼に触れていた両手を放し、一歩、後ろへ退いて少しだけ距離を取る。
 そうしながら、出しかけた彼の言葉を塞ぐようにして、更に言葉を続けた。
「でも残念ながら、私はカンザリアへ行かなければならない身だ、国に帰るおまえに付いていくことは出来ない。――それに……知っているだろう? 私の心は全て、亡き陛下に捧げてしまった。気持ちをあげることも出来ない。おまえのくれる想いに報いてやることが出来ない」
「レイ……」
「私が、おまえにあげられるものといったら……もう、この身体だけだ」
 そこで一旦言葉を切ると、おもむろに手を伸ばし、卓上のシャルハの杯を手に取った。
 口許に運び、その中身を一口だけ含む。
 ――必要なのは、少しだけ……そう、ほんの少しだけでいい。
 それを、シャルハの唇へ口移しに流し込んだ。
 驚いたように咄嗟に引かれた頭を、こちらから逆に引き寄せて、そのまま彼の口内に舌を這わせる。
 シャルハの喉が鳴り、流し込まれた液体が嚥下されたのがわかった。
 少しの間だけ、舌同士が触れ合う感触を楽しむ。
 しかし、彼の舌がそれに応えようと、逆に私を絡め取ろうとしてくるのが、わかったと同時、身を引いて唇を離していた。
 とても近い距離から彼の男らしい美貌を見下ろし、そして告げる。
「おまえが、まだ私を愛していると、私の望みを叶えてくれると、言ってくれるのなら……こんな薄汚れた身体で申し訳ないが、それくらい幾らでもくれてやる」
「…………」
「ああ、あと、これがあるか……」
 頬にかかる髪の一筋に気付き、指を絡める。
「そういえばシャルハ、おまえは私の髪が好きだったよな。いつも触っては口付けていた」
 おもむろに流していた髪を一つに括るや、忍ばせていた懐剣を取り出して、根元からバッサリ切り落とした。
「何をっ……!」
 止めようとしたのか伸ばされたシャルハの手が、間に合わず、行き場を失くしたように空で止まる。
「何をやっているんだ、レイ……!」
 呆然としたように、洩れる言葉。
「貴族のくせに、髪を切るなど……!」
 シャルハの言う通り。――この国では、長い髪こそ貴族の象徴だった。
 背中まで長く伸ばされた髪を、首から上の高い位置で結い上げるのが女性、男性は、首から下の位置で結うか、結わずに流すのが普通だった。
 いずれにせよ、長い髪が見苦しくならない程度には行き届いた手入れを常に出来るという、つまりは財力の象徴であったのだ。
「そんなもの……王宮を追われた今の私には、もはや不要のものだ。カンザリアでは、貴族である証など、何の意味も持たない」
 カンザリアは要塞島、そこに居るのは軍人ばかりだ。短髪が当たり前であるその場所で、わざわざ長髪でいる必要もないだろう。
 握り締めた髪を、取り出した懐紙に挟み込むと、そして卓上に置いた。――シャルハの前に。
「ならば、せめてこの髪だけでも、おまえと共に連れて行ってくれればいい。共に行くことの叶わない私の代わりに」
 こんなにも髪をばっさり切り落とす貴族など、国中どこを探しても他にいないだろう。――それほどの覚悟なのだと、伝わってくれたらよいのだけれど。
 そして言外に、おまえの求愛には応えることが出来ないのだ、と……シャルハにとって、それを残酷なまでに伝えられたに等しかったかもしれない。
 よほどの衝撃だったとみえて、目を瞠ったまま何も言わない彼の唇に、そっと軽いキスを落とす。
「今の私では……もう、そんな気には、なれないか……?」
 無言でこちらを見つめてくるだけのシャルハに、そう言って私は曖昧に微笑みかけた。


 ――それならそれで仕方ない。
 気持ちの裏側では、こんなこと上手くいきっこないと、もう半分以上諦めている部分があった。
 こんなにも利己的であさましい自分なぞ、撥ねつけてほしいという想いもあった。
 形振り構わず、シャルハを利用してまでも、自身の望みを叶えたい、という欲望は何よりも強く在るけれど……実際に彼を目の前にしたら、その気持ちさえ隠れてしまうくらいには、私のシャルハに対する好意は大きかったらしい。
 彼の出方次第で、自分の身の振り方を決めるつもりでいた。
 ――これも、いわば“賭け”だったのだ。


「まさかレイに誘惑される日がくるとは、思いもしなかったな……」
 ゆっくりとシャルハが口を開いた。
「お互い、学生の頃とは変わってしまったな」
「昔の私の方がよかったか?」
「そうだな……あの頃の君は、決して誰に媚びることもなく、そして絶対に折れなかった。どこまでも気高くて、美しくて……そんな君だから惹かれた」
「そうか……今の私とは、まさに正反対だ」
 ――私は“賭け”に負けたのか。
 なのに、どことなくホッとした気分にもなって、「では仕方ない」と、彼の身体から自分を離そうとした。
 少しだけ力を籠めて、彼の肩に置いた両手を支えに身体を起こそうとして、
「え……?」
 途端、その身体ごと引き戻された。
 がっしりとした彼の腕が私の身体を抱き寄せた――と認識した途端、唇が奪われた。
 すかさずシャルハの舌が入り込み、深く熱く、私の口内を嬲る。そのあまりの激しさに息苦しくさえなる。
「あ、シャルハ、やめっ、んっ……!」
 思わず逃れようとしたが、彼の唇が執拗に追いかけてきては放さない。
 息苦しさと同時にもたらされる、あまりの気持ちのよさに、だんだんと私の抗う力が弱くなる。頭がボーッとしてくるようで、何も考えられなくなりそうだ。
 ――やばい……ひょっとして、効いてきたか……?
 先ほど自らで口に含んだ、シャルハの杯に注がれていた酒。
 それが注がれる前、空の杯の中に予め、ほんの僅かな一滴だけ忍ばせておいたのだ。――媚薬を。
 シャルハをその気にさせるために、少しでも可能性は高めておいたほうがいいと考えて、念のために打っておいた布石だった。
 口に含んだだけの私でさえこうなっているのだから、飲んだシャルハがどうなっているかは、推して知るべしか。
 ――しかし、こんなに早く効いてくるなんて……!
 ちょっとした計算外だ、と思ったと同時、唇が離れた。
 いつの間にか私は、シャルハの膝の上に乗せられていた。どうやら自分で立っていられなくなっていたらしい。
 すぐ近くで見つめ合って、互いに荒い息を吐く。
「愛してる、レイ」
 熱に浮かされたような瞳で、ふいにシャルハが囁いた。
「昔の面影がなくなっても、今がどんな君であっても、レイはレイであることには変わらない。私はレイ自身を愛しているんだ。君がどんなに変わろうと、その気持ちだけは変わらない」
「シャルハ……」
「君がくれる誘惑なら、喜んで受け入れよう。――身体だけでも充分だ。望みを叶えてやることくらい、訳は無い」
 唐突に、ふわっと身体が浮き上がる。
 シャルハが私の身体を抱いたまま立ち上がっていた。そのまま迷いも無い足取りで寝台へと運ばれる。
 柔らかな布団の上に身を投げ出されるや、すかさずシャルハの身体が覆い被さってきた。
「ちょっと待て、シャルハ……!」
「だめだ、待てない」
 押し止めようと伸ばした手が、掴まれて寝台の上に押し付けられる。
「もう待てない。ずっと君が欲しかった」
「だから、シャルハ……!」
「こうやって……君の綺麗な肌に触れたかった」
 服の裾を割って、彼の手が肌の上へと侵入してくる。
 薬の所為でか、もたらされる少しの刺激でも身体が反応してしまう。気持ちよくて、このまま流されてしまいそうだ。
 せわしなく私の上で動き回る彼の手が、服を脱がすのも待てないとばかりのもどかしさをもって、やがて既に固くなっていたそれに到達した。
「ほらレイ、君だってもう……」
 言いながら、そこに自分のそれを押し付けてくる。
 当然のことながら、シャルハのそこも固く大きく膨らんでいた。
 布地ごしに互いのものを擦り合わされて、その気持ちよさともどかしさで、思わず喉の奥から快感の喘ぎが洩れる。
「すぐに、もっと気持ちよくしてあげるから」
 そして彼の手が私のベルトの留め具にかかったところで、快感に浸りかけていた頭がハッと我に返り、咄嗟にその手を掴んでいた。
「だめだ、シャルハ!」
 掴むと同時に、すかさず腰を引いて身を起こす。
 近くから彼を睨むように見つめて、更に私は言い募る。
「まだ、だめだ。そんな口約束だけでは、この身体はあげられない」
「レイ……」
「それに身体を繋いだら、もう後戻りは出来ないぞ。それが、私とおまえとの“契約”になるのだから。たとえおまえが嫌だと言っても、もう拒否権は無い。どんな無理を押し通してでも、こちらの望みを叶えてもらう」
「――じゃあ、どうすればいい?」
 キスが出来そうなほどに更に顔を近付けて、シャルハは言った。
「どうすれば君は、私の言葉を信じて、私を受け入れてくれるんだ?」
「では、名に誓え」
 告げたと同時、シャルハが絶句して目を瞠った。
 それを見止めた上で、更に私は言葉を継ぐ。
「おまえの真の名にかけて、それを誓って欲しい」


 ユリサナの皇族は、決して余人に真名を明かしてはならない。――それは常識であり、絶対の掟だった。
 真名を知られるということは、相手に隷属するにも等しいことだからだと、かつてシャルハが教えてくれた。
 だから皇族は、真名を秘し、字名だけを名乗る。
『シャルハ』の名も、彼の字名だ。
 彼の真名を知るのは、名付けた両親のみ。
 真名を明かし、その名にかける誓いは、つまり肉親との繋がりほどに強く抗えない制約となるに等しい。
 本来なら、それは彼の迎えるべき正妻となる女性へ、永遠の愛と共に捧げられるものだろうに……それを今、私は彼に強いているのだ。
 それほどまでに絶対的に、聞いたからには確実に叶えて貰わなければならない望み。
 そのリスクを、そして覚悟を、彼にも背負って貰わなければならない。


「――レイ……君は一体、何を企んでいるんだ……?」
 鬼気迫るかの如き私の真剣な表情に、ようやく徒事ではないと覚ってくれたらしい、少しだけ眉根を寄せてシャルハが訊いた。
「そうまでして叶えたい君の望みとやらは、一体、何だ……?」
「私の望み、それは―――」
 まるで内緒話を語るかのように、シャルハの耳元で、それを囁く。
 途端、弾かれたように彼は私を振り返った。
「本気か……?」
「ああ、いたって本気だ。それ以上の望みなど、他に無い」
 どことなく呆然としたように私を見つめたまま、シャルハが黙り込んだ。
 私を見ているようで、実はどこも見ていないだろうことがわかる。そうしながら、頭の中で考えているに違いない。――私の申し出を飲むか否か、どちらに己の利があるか。
 彼を見つめたまま、私も黙って返答を待つ。
 しかし、一向に聞こえてこないそれに、痺れを切らして思わず、ふっと軽く笑みが洩れた。
「――馬鹿なことを言っていると、自分でもわかってるんだ……」
 視線を伏せて呟く。
「こんな汚れた私ごときの身体では、到底釣り合わない大それた望みだということも、わかってる……」
 ただ、それでもシャルハに縋るしかなかったのだ。
 彼を利用することこそが最も早道である、――と。
「おまえが諾と言わなければ、私の望みなど、ここで潰えるだけのもの。――いいんだぞシャルハ、断っても。今ならば、まだ引き返せる」
「…………」
「そうか……愚問だったな、そんなこと」
 迷いが生まれた時点で、もう答えなどわかりきっていたことだ。
 私に、それだけの価値など無い。
 彼にとって――彼が受け継ぐべきユリサナ帝国にとって。
 最初から、わかりきっていたことだ。
「見苦しい真似をして、すまなかった」
 言って、そのまま身体の向きを変えて、寝台から降りようとした。
 その身体を、ふいにシャルハが引き倒した。
「え……?」
「――勝手に一人で自己完結するな、レイ」
 仰向けになった視界いっぱいに、私を覗き込むように見下ろした、どことなく怒ったようなシャルハの顔が映る。
「さっきから言っているだろう。――君の望みなら叶えてやる、と」
「でも、シャルハ……!」
「迷いはない。ただ、考えていただけだ。それを成す方法を」
「え……?」
「名にかけてまで誓っておきながら、やっぱり出来ませんでした、では意味が無い。だから考えていた、勝算を」
「そんな……本当にいいのか、シャルハ? 今ならまだ……」
「何度も同じことを言わせるな。――君の望みなら何だって叶える。その力が、私にはあるのだから」
 そして、彼の指が短くなった私の髪を梳くと、いつものように口付けられた。
「髪まで切って差し出してくれた、その覚悟ごと私は君を奪う。君が差し出せるもの、その全てを奪うよ。どんなに嫌だと言われてもね。――それが、君の負うべき代償だ」
 見下ろす彼が、その言葉をゆっくりと紡ぐ。どこまでも真剣な瞳で。


「我、アサルバート・ウマル・ユリサナの名にかけて、ここに誓おう。――レイノルド、君の望みは私が必ず叶えてみせる」



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