ただ、きみを愛してる。

栗木 妙

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「ニール、やはり君は子供だ。幾ら賢くとも、まだ世間のあれこれを何も知らない。無知は決して罪ではないが、無知であることを自覚しないことは罪だ。如何なるものであろうと、己の出した言葉には責任が伴う。なぜなら、一度口に出してしまった言葉は、取り消しが出来ないからだ。出してしまった以上は、何人なんぴとたりとも等しくその責を負わねばならない。ゆえに、これから君がすべきは、己の発してしまった言葉の正しき意味を知り、正しき形で認識し直すことだ。でなければ、己が負うべき責も見えてはこない。――わかるだろう?」
 とりあえず肯いてはみたものの……正直、難しくてよくわからなかった。
 ただ、自分の出した言葉の意味を自分は間違って捉えていた、それをご主人様が正そうとしている、ということだけは、ぼんやりとながら受け止めていた。
 しかしながら、そこに続けられた言葉には、思わず耳を疑ってしまう。
「ニール、君は猫が好きか?」
「―――ほえ?」
 ナンノコッチャ? と、咄嗟に頭が真っ白になった。タメるだけタメた挙句、うっかりそんな間抜けな言葉しか出てこなかった。
 なのにご主人様は、相変わらずの様子で、真剣な口調で、なおも言葉を言い募る。
「君は、猫を飼いたいと思うか? 手元に置いて、いつでも可愛がりたいと思うか?」
「は…はい、それは、思います……猫は、好きです、から……」
 わけがわからないながらも、何とか俺はそれを返す。
 実際、猫は好きだし、飼いたいとも思っていることにも違いはない。――ウチが愛玩動物を飼っていないのは、長兄の嫁さんが動物に近寄るとくしゃみが止まらなくなる、という気の毒な理由に加え、長兄夫婦の子供たちがまだ幼いから、ということもある。さすがに、手加減を知らない子供と動物とを、ひとところに置いておくのは大怪我のモトだということくらい、俺でも解るしな。
「ならば、もし君の手元で猫を飼うことが許されたとしよう。君は、どのように猫を可愛がりたい?」
「ええっと……時間が許す限り、撫でてあげます」
「それから?」
「うーんと……美味しいごはんをあげます」
「それだけか?」
「あと……お風呂にいれてあげて、毛を梳いてあげて、可愛い首輪とかも用意してあげて、いつも身綺麗にしてあげて、抱っこして頬ずりして『可愛い』って言ってあげる。『おまえが一番大好きだよ』って言ってあげて、思う存分、甘やかしてあげる。きっと多少のワガママくらいなら大目に見てあげられると思うし」
「そうか……では、そんな君の『可愛がり』を、当の猫が不服とした場合はどうする?」
「え……?」
「反抗してばかりで、撫でる君の手から逃げる、与えられる美味しいごはんに見向きもしない、抱っこする君の手を引っ掻く、ワガママばかりでちっとも君の言いつけを聞かない、――そんな態度を猫が取ったら、君はそれに、どう応える?」
「そんなことになったら……躾する、かな……」
「ほお、躾か。どんなふうに?」
「猫には言葉が通じないから、言うことを聞かなかったらお仕置きして、それはやってはいけないことなんだと身体に教え込む、とかかな? ごはんを粗末にしたらごはんを抜く、とか、引っ掻いたら叩く、とか……そういう罰を、お仕置きにして与えるのが、きっと猫にとってもわかり易いと思う」
「成程。ならばニール、君の与えるその『可愛がり』と『躾』のある生活は、猫にとっての幸せであると云えるか?」
「云ってもいい…と思います。少なくとも俺は、猫に幸せでいて欲しくて、それをするわけだから……」
「では、君の言った『可愛がり』と『躾』、それと同じことを、猫ではなく人間が受けていたら、どう思う?」
「――――!!?」
 思わず息を飲んでいた。咄嗟に何を訊かれたのかが理解できなかった。
「人間、て……!!」
 改めて言葉に出してみたら、知らず知らず、何か冷たいものが背筋を走り抜けていったような…そんな怖気を覚える。
「でも……相手が小さい子供なら、猫にするのと同じようなこと、するでしょう……?」
 無理やり喉から引きずり出した言葉は、我ながらびっくりするほど擦れていた。
 自分は正しいことを言っている、と解る。――なのに、全身を這い回るぞわぞわとした気持ち悪さが、まだ消えてくれない。
「そうだな……年端もいかない子供が相手ならば、君の言うように可愛がりもするな。時には躾として罰を与えることも必要となるだろう」
 俺の言葉を肯定しているはずのご主人様の言葉にさえ、落ち着かない想いしか感じられない。
「であればニール、君は、それが人間であっても、その生活はやはり『幸せ』であると……そう云えるか?」
「多分…そう、なんじゃないの、かなあ? 可愛がるにしても躾するにしても、その相手が幸せになって欲しいと願って、与えているものであるのなら……」
「ならばニール。君は、『幸せでいて』と願って猫を可愛がる時、その全身を余すところなく舐め回してやりたいと思うか?」
「は……? 『舐め』…何……?」
「子猫は親猫に身体を舐められて、ごろごろ喉を鳴らしたりもするだろう? また親猫は、子猫の尻を舐めて排泄を促す、という行為もする。それをやってあげたいとは思わないか?」
「――し、しないよ、やりたいとも思わないよ、そんなこと!」
「何故だ? 舐めてやったら、猫は気持ちいいかもしれないではないか。尻を舐めてやれば、便秘の解消にもなるだろう。それは猫の幸福感に繋がるかもしれないぞ」
「それはそうかなのもしれないけど……でも、舐めるだなんて、気持ち悪い……!」
「猫ではなく、相手が人間の子供ならばどうだ?」
「もっと気持ち悪いよ!」
「では、君にとっての『可愛がり』の中に、“舐める”という行為は含まれないんだな?」
「当たり前だよ! なんで、そんなこと……!」
「そうだな…確かに君の言う通りだ。だが世間には、君が『気持ち悪い』と云うそれを、当然のように『可愛がり』の行為に含む人間もいる。――勿論、人間の子供相手に、だ」
「嘘……!!?」
「これは紛れもない事実だ。それに『躾』に関しても、同じことが云える。世の中には、君の言った『体に教え込む』という行為を、過剰な残虐性をもって暴力的に為す輩も、当然ながら存在しているのだよ。躾と称し与えられた体罰により、命を落としてしまう子供も、残念ながら大勢いる。それこそ数えきれないほどにね」
「…………」
「君が否定する『可愛がり』や『躾』が、あろうことか肯定され当然のように行われている場所なぞ、この世の中のそこかしこにありふれている、ということだよ」
 俺は、何も言えなかった。与えられた『事実』とやらの衝撃が大き過ぎて、もう何も考えられなかった。
「例えばそれを、とある貴族の屋敷で、君が言う『お稚児さん』と呼ばれる見目の良い子供が、受けているとしたらどうだろうか? ――それでも君は、『お貴族サマに引き取られて、何不自由ない暮らしを与えられて、猫可愛がりされている』、とても『幸せ』な生活だ、と……本当に心から、そう思えるか?」
 俺は、力なく首を横に振って応えた。――そうするしか、出来なかった。
「君が言った『お稚児さん』という言葉はね、ニール。君が認識していた良い面を表す一方で、侮蔑の意を示す言葉でもあるのだよ。少なくとも、その子供を買って手元に置いた貴族にとっては、世間体が憚られる言葉であるということも、認識のうちに加えておいたほうがいいだろう。それが何故であるかは、今後おいおい知ってゆけばよい。まだ君は、その知識に見合う年齢ではない。今はそれだけを、肝に銘じておくことだ」
 こくり、と……今度は首を縦に振る。そのまま、落とした顔が上げられなくなった。


「旦那様……俺、あいつに――コルトに、とても酷い言葉を、言ってしまったんだ……」


 言葉にして声にしてみたら……途端、何か苦いものが胃の腑から込み上げてくるような、そんな感じを覚える。少しでも口を開いたらそれが溢れ出してきそうで、咄嗟に唇を噛み締めた。
 コルトの表情から、彼はその言葉を知らなかっただろうことは確実だった。しかし、いずれはそれを知る時が来るだろう。そのとき、あの俺の言葉を思い出してしまったら、確実に傷付くだろう。俺は二度にわたって、コルトの心を傷付けてしまうのだ。それを考えるだに、やるせない、居た堪れない想いで一杯になる。
 そんな俺の頭に、やおら何か温かいものが載せられる。
「…やはり君は賢い子だ、ニール」
 それはご主人様の掌、だった。
「君は今、己の無知を知り、それを恥じた。君にとって、それこそが何よりの学びとなる。これを生かして、君は君の為すべきことをすればいいんだ。そして今後、二度と同じ轍を踏まぬよう、しっかりと心に刻んでおくことも必要だな」
 恐る恐る顔を上げると、相変わらず近い距離からこちらを見つめる、ご主人様の真っ直ぐな瞳に射抜かれる。
 しかし、その視線は柔らかく、口許には微笑みが浮かんでいた。
「だからこそニール、これからの君を信頼して打ち明けたい」
 また更に近くへと顔を寄せて、まさに内緒話でも囁くかのようにして、ご主人様がそれを告げる。
「コルトもまた……これまで、そのような望まぬ『可愛がり』を一方的に受け続けてきた子供、なのだよ」
「――――!!」
「私が彼を引き取ったのは、そのような境遇からコルトを救ってやりたかったからだ。これまでの経験が、コルトの心を閉ざしてしまった。何でもないフリをしているが、コルトは内心、大人と接するのを怖がっている。世の中には、これまで彼に無体を強いてきたような大人ばかりではないのに、それを知ることすら怖れている。それでは、いつまでたっても、彼の心は閉ざされたまま開かれることが無い。だからこそ、おまえがこれまで居た世界は間違った常識で塗り固められていたのだと、きちんとコルトに教えてあげなくてはと思った。まずは同じ年頃の友人を作り、友との触れ合いを通して、人との良き繋がりを知って欲しいと願った。そのようにして、徐々に心を開いていってくれたらいい、と。――それでニール、君をここへ呼んだんだ」
「ごめんなさい……!! 本当に本当に、ごめんなさい……!!」
 謝る言葉しか出てこなかった。自分が何も知らなかったということが、こんなにも誰かを傷付ける刃となってしまうだなんて、これっぽっちすら考えてみたことも無かった。ただただ、もはや取り返しのつかない出してしまった言葉に負う責任を、重く重く、浮かび上がれないほどにとても重く、痛感するしか出来なかった。
「俺、ちゃんとコルトに優しくするから! もう二度と、傷付けるようなことなんて言わないから! あいつが今まで嫌な目に遭ってきた分、これからは俺が、いっぱい楽しい目を見させてやるんだ! 友達なら、そんなの当たり前だもんな!」
「そうか……そうだな、是非そうしてやってくれ」
 頭の上のご主人様の手が、その言葉と共に、俺の髪を優しく撫でる。それが気持ちよくて、でも擽ったくて、へへへと笑いながら俺は首を竦めてみせた。
「ニール。来てくれたのが君で本当に良かった。君のその優しさを、心から有難く思うよ」
「うん、俺、頑張るよ! コルトにも友達だって思ってもらえるように、精一杯、優しくする! だから旦那様も、安心していいからな!」
「ありがとう。ニールになら、安心してコルトを任せられるな」
「任せてよ!」
 そこで、扉の方からノックの音が聞こえてきた。
 俺がそちらを振り向くと同時、かちゃりと音を立てて扉が開き、それを押し開けたコルトが真っ先に顔を覗かせる。
「…ああ、ご苦労だった」
 ご主人様の労いの言葉に笑みを返してからコルトは、そのまま一杯に扉を開く。その開かれた隙間から、茶と菓子を載せたワゴンを押した祖父が入ってきた。
「大変お待たせいたしました。すぐにお茶のご用意をいたしますね」
「待ちかねたぞ、ジーク。――さあ、コルト、ニール、茶会の準備だ。テーブルに菓子を並べてくれ」
 立ち上がったご主人様の手に促されて、俺も部屋の中ほどに備えられた円卓へと向かう。
 途中、駆け寄ってきたコルトに手を取られ、さあさあとばかりにワゴンのもとへと引っ張られた。
 用意された様々な菓子を目にして、知らず知らず頬が緩む。
 続いて、傍らに居るコルトの満面の笑みを見て……ああ可愛いな、と、自然と思えた。
 こいつは俺の新しい友人であると同時に、年下の弟分でもあるのだ。兄ならば、弟を護ってやらなければいけない。傷付けるなんて、もってのほかだ。
 こんなにも可愛い弟を悲しませるような真似なんて、もう絶対にするもんか、と……その時、俺は自らの心に、それを刻み込んだのだ―――。


 それから以降、俺とコルトは常に一緒だった。
 現在に至ってもなお、そして、これからもずっと、いつだって俺たちは一緒にい続けるのだ。――そうであれと願っている。本当に、心から。



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