ただ、きみを愛してる。

栗木 妙

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 その日は、養護院への慰問に向かうこととなっていた。
 かつて俺とコルトが世話になっていたそこは、マルナラで唯一の貴重な養護施設だ。通常、孤児などを保護し育成する施設は、神殿に付随する救済院の管轄で設けられているものなのだが、マルナラにはそれが無かった。おそらく、そう距離も離れていない隣町に同施設が在るためなのだろう。
 ゆえに、マルナラに在るそれは、神殿の管轄ではなく、この街の住民有志が出資し運営されているものである。
 そのため、現実問題として、その運営資金は極めて乏しいと言わざるを得ない。マルナラの住民の援助は当然ながらあるものの、それだけではどうしても足が出てしまうのだ。
 結果、貴族からの寄付金に頼るほか無い。
 幸いに…と云うべきか、マルナラはユリサナ帝国との交易拠点という繁華街の一面を持つ一方で、そこを逸れれば素晴らしい景勝地としても名高く、貴族向けの保養地として名を馳せている。この地に別荘を所有している貴族も少なくはない。寄付を頼みに行く宛てなら、幾らでもあった。
 しかし、それでも……往々にして運営危機は訪れるもので。
 昔――当家のご主人様がカンザリアに移住してきた当初のことになるが、何たら云う貴族の策略により土地を巻き上げられそうになっており、あわや廃業の一歩手前、というところにまで陥っていたらしい。
 身寄りのない子供の養育が目的であれば、隣町に在るそれで事足りる。しかし我が国では、どんな田舎であろうと大抵、そういった施設は庶民の子供たちの学校代わりとなっているものだ。我が国が近隣諸国と比べて高い識字率を誇っているのは、そのような慣習のおかげか、地域ぐるみで子供らの学びを支援しようという気風が全国的に高い為、と云っても過言ではないだろう。
 マルナラ唯一のそれが失われる、ということは、必然的に、近隣の子供たちの学びの場が失われる、ということに等しい。子供たちのみならず周辺住民にとって、それはまさに大問題であった。
 それを助け、この街で唯一の子供たちの学び舎を守ったのが、レイノルド様だったのだという。
 俺は当時まだ十やそこらの子供だったから、まるっきり蚊帳の外に置かれていて事の次第も顛末も詳しく理解できてはいなかったし、今となってはよく憶えてすらいない。だが、その縁があったからこそ、件の養護院とレイノルド様との間に誼が出来、ゆえに俺とコルトもそこへ通わせてもらえる運びとなったことは確かだ。
 以来、義理堅いレイノルド様は、養護院への定期的な寄付を続けており、その存続に尽力し続けていらっしゃる。
 俺が月に一度、慰問と称しこの養護院へと足を運んでいるのは、レイノルド様の名代として、なのである。


 用意してきた土産を子供たちに配り、その子供たちと軽く遊びに興じたりもし、院長にレイノルド様より預かった寄付金と物資の目録を渡しつつ近況の報告などを受け取り、また少しの雑談なども交わし、院内で男手が必要なところがあれば手伝いをし……そういった、いつもと同じあれこれを全てこなして一区切りが付いたところで、俺は養護院を辞した。
 今日の島外での予定は、これで終いだ。あとは港へ向かい、カンザリア島へと戻るのみである。
 ああ肩の荷が下りた、とばかりに、港方面へと歩きながら俺は、あくまでも見苦しくならない程度にではあるが、服のタイと襟元を緩めた。


 幼い頃を過ごした懐かしい思い出の場所、気心も知れた気さくな顔ぶれ、はちきれんばかりの子供たちの笑顔、――この養護院は、俺にとっての安らぎであるはずだった。
 だが反面、思い出したくもないことを思い出させる、そんな場所でもあることは否めない。
 それがゆえに、月に一度、こうして必要以上の緊張をも強いられてしまう―――。


 ようやく息が吐けたと安堵する俺の真横を、背後から走ってきた馬車が、思いのほか静かに通り過ぎてゆく――と思ったら、すぐ行く手で路肩に寄り、ひっそりと停められた。
 ――車体に掲げられたその家紋には、間違いなく、見覚えがある。
 吐き出せたはずの息が詰まる。心臓が嫌な音を立てる。
 だが俺は、努めて平常心を装い、何事でもないような表情を取り繕って、そのまま歩調を変えずに馬車へと近付いていった。――逃げることなど出来ないと、そんなもの最初から解っている。


「…お帰りかしら、執事さん」


 停められた馬車の真横へと差し掛かると、開けられていた窓から、そんな声が投げかけられた。
 その場で足を止めた俺は、その開かれている窓の向こうに覗く人影へと向かい、略式の礼を取ってみせた。


「――これはブレンダン男爵夫人、ご機嫌うるわしゅう」


 ブレンダン男爵夫人の名は、このマルナラ界隈では、わりと有名である。
 男爵夫人、などと呼ばれてはいるものの、しかし夫である男爵当人は、とっくの昔に他界している。彼女は遺された未亡人だ。
 夫である男爵は生前、事業を通じ莫大な財を成した人物であったらしい。自分の死後、一人になった妻が生活に困らないようにと、資産の大半を彼女に相続させるように遺言をしたのだとか。
 そこで男爵夫人は、その相続した遺産の一部を使い、このマルナラの別荘地の一角に屋敷を構えて移住することにしたのだった。悠々自適の一人暮らし、というものを、せっかくだから景色の良い街で、思う存分、満喫してみたかったらしい。
 そのような経緯をもって、この街に腰を落ち着けた男爵夫人は、以降、貴族女性の嗜みとしての福祉活動に精を出すようになった。福祉関連の施設への寄付金を惜しまず、積極的に慰問にも行き、援助物資の購入を通じて商店にも惜しげも無く金を落としてくれる上客となる。
 当然の如く、そこに関わる人々からは、彼女は貴族女性の鑑だ人格者だと褒め称えられていた。
 その一方では、しかし良くない噂もあった。
 おそらくは、彼女の持つ若さと美貌に対する嫉妬もあったのだろう。
 彼女の住む屋敷に不特定多数の男が出入りしている、男娼を屋敷で囲っている、等といった、性に奔放な女性という印象を植え付ける噂が、後を絶たなかった。
 もともと、先に亡くなった老齢の男爵の、彼女は後妻だった。そのことも、美貌と閨の手管で資産家の男爵に取り入り、遺産を独り占めできるように画策した、などという噂になって、まことしやかに広められていた。
 そんな噂の数々の、何が真実なのか、何が嘘なのか、それは当人でないとわからない。
 少なくとも俺は、たかだか噂の真偽になんて興味すら無かったし、それを明らかにしたいとも思っていなかった。なぜなら所詮は他人事なのだ、他人が誰に何をどう言われていようが、自分に累の及ばないことならばどうでもいい、言いたいヤツが好き勝手に言っていればいい、程度のこととしか思えない。
 ゆえに、いかにブレンダン男爵夫人がマルナラの噂の渦中に居ようとも、俺が自らそれに飛び込もうとするなんて、絶対にあるはずも無かった。
 それなのに……おそらく俺だけしか知らないであろう彼女の“真実”を握ってしまった。決して望んだワケでもないというのに―――。


「お久しぶりね。――どうぞ、お乗りあそばして。お送りするわ」
 仕方なく、礼を言って馬車へ乗り込む。
 二人乗りの小ぶりな車内は、並んで座る俺たちの距離を、ほとんど無にしていた。
 彼女が御者に行き先を告げて、ゆっくりと馬車が動き出す。
 がたごととした揺れに身を任せているような素振りで、ほとんど無い二人の間の距離がぴったりと詰められる。その豊満な乳房が、俺の身体に押し付けられた。そして車輪の回る音に紛れさせるかのようにして、密やかに俺の耳元近くから、その囁きを落とす。
「…会いたかったわ、ニール」
 ――俺は会いたくなんてなかったけどな、これっぽっちも。
 だが、そんな想いなどおくびにも出さずに俺は、近い距離から彼女を見下ろし、ただ冷やかに微笑んでみせた。
 そして、鮮やかな紅のべったりとした感触を、そのまま甘んじて自分の唇で受け入れた。


『―――お友達想いのあなただもの、そんなことしないわよね?』


 ブレンダン男爵夫人との関係も、遡れば、かれこれ十年近く前からになる。
 俺がコルトと共に、件の養護院へと通っていた頃だ。
 彼女は、その頃から既にマルナラに住んでいて、積極的に福祉施設への寄付や慰問に精を出し、一部の評判に違わぬ活動を見せていた。
 もちろん、マルナラ唯一の養護院に対しても例外ではなく。
 だから俺たちは、そこで出会った。十一歳の頃だったかと記憶している。


 当時の俺は、養護院で過ごす時間を、ガイたち同世代の友人と共に、もっぱら外遊びに興じていた。
 そして、当時から大人しくて控えめだったコルトは、外ではっちゃける俺たちを傍からにこにこ眺めているか、でなければ、屋内で年下の子供たちに囲まれていることが多かった。
 その日のコルトは、庭の端っこに置かれたベンチに座り、俺たちが騒いでいる横で、一人静かに本を読んでいた。
 晴れてはいても、まだまだ風が冷たい季節のこと。万が一コルトが風邪をひいたりしてはいけないと、彼の上着を取ってきて、ついでに膝掛けもあるなら借りてこようと、仲間の輪から一人抜け出した俺は屋内へと足を運んだ。
 俺と彼女は、そこで出会ったのだ。


『…あなた、とても背が高いのね』
 ふいに、背後からそんな声が投げかけられた。
 寝具などの収納部屋の一角で。そこに在ると教えられ、コルトのための膝掛け毛布を探している最中のことだった。
 全く人気ひとけの無かったそこで唐突に聞こえてきた声に驚き、びくっと振り返った俺の視界、鮮やかな色のドレスが映える。
 見るからに上等だとわかるそれは、慎ましい平民なら、決して普段着になど出来る筈もないだろうもの。
 ――慰問に来た、どっかの貴族のご婦人か……?
『失礼ですが、どなたですか? ここには何もありませんよ。迷ったのでしたら、院長のもとへご案内します』
『まあ、しっかりしてるのね』
 かちゃりと、そこで小さく音が響いた。――扉を背に立つ彼女が、後ろ手に掛け金を掛けたのだと覚った。
『あんた、何を……!』
『迷ってなんかいないわよ。だって、あなたを追いかけてきたんですもの』
『なんだって……?』
 思わず目を瞠った俺のもとに、こつこつとした靴音を床に響かせながら、彼女がゆっくりと歩み寄ってくる。
 知らず知らず、俺もその場から後退りしていた。しかし、すぐ背中が壁にぶつかる。
 それ以上の逃げ場を失くした俺へと向かい、一歩一歩、確実に彼女は近付いてきた。
 俺の目の前、手を伸ばせば届く距離まで来ても一向に足を止めず……そのまま真正面から互いの身体がぶつかり、ようやくそこで、足音は止まった。
『…本当に、あなた背が高いわ』
 年齢のわりには長身だと言われている俺でも、踵の高い靴を履いている彼女の背丈には、まだ及ばなかった。それでも、目線の高さは、ほぼ同じだった。
 そんな近すぎる距離から視線を絡めながら、彼女がにっこりと微笑む。
『ねえ? 私たち、もっと仲良くなりましょう』
 俺の胸のあたりに載せられていた彼女の掌が、するりと動き、俺の首筋をめがけて撫で上げる。――瞬間、得体のしれない気持ち悪さに鳥肌が立った。
『――どういうつもりですか』
 頬に触れてくるその手を握り込み、引き剥がして、俺はそれを問う。
 だが彼女は、また更に身体を押し付けてきた。俺の上で潰された彼女の乳房が、大きく開かれている胸元で膨らみを増し、どこまでも淫靡な形を成しては、こちらの視界の中へ強引なまでに映り込んでくる。
『そんな怖いカオしないで。私はただ、あなたと仲良くなりたいだけよ』
『俺は、あんたと仲良くする気は無いけど』
『悲しいわ……じゃあ、この施設に来るのは、今日で最後になってしまうかしら』
『――――!!』
 明らかに、それは脅しだった。――この養護院への寄付金も慰問も今日で打ち切るが、それでいいか? と、言外に問い掛けられていることを理解した。
 咄嗟に、唇を噛み締める。
 この養護院の窮状は、子供ながらに俺も理解していた。レイノルド様の働きにより救われたとはいえ、閉鎖寸前にまで追い込まれていた痛手からは、完全に回復したとは未だ言い難い現状。あらゆる方面に寄付と援助を頼み込み、何とか運営を軌道に乗せようとしている只中にあった。今は、どんなに少額だったとしても、入ってくる金が必要な時だろう。
 ――それを解ってるうえで、そんなこと言ってるのかこの女……!?
 卑怯な脅しに、みすみす屈するような真似なんてしたくはない。しかし俺には、この養護院に居る身近な大人たちの苦労が、努力が、近くから見えていた。自分には関係ないことだと、即座に撥ね付けてしまうことが憚られた。
 そんな俺の内心の逡巡を見透かしたのだろうか。その女は尚も言葉を続ける。――俺の弱みを的確に抉るかのようにして。
『あまりに悲しいから……ひょっとしたら私、あなたの大切なお友達にも、慰めてちょうだい、って、泣き付いてしまうかもしれないわ』
『何……!?』
 そして彼女は、俺から視線を外した。視線の先には小さな窓があり、今は換気のために開け放たれている。
 その向こう側に見える光景に気付くと同時、思わず息を飲み込んでいた。


『あの子、とても可愛いわよね。――あなたが大事にしようとする気持ち、わかる気がするわ』


 窓の向こうに見えたのは……相変わらずベンチで読書に熱中している、コルトの姿、で―――!!


 瞬時にして脳味噌が沸騰した。
 考える前に身体が動き、俺は目の前の女へと掴み掛かっていた。その細い首を掴んで背後の壁へと叩き付ける。
 ――コルトに、何をする気だ……!!
 視線だけで人を殺せるなら、きっとこの時、俺はこの女を殺していただろう。
 だが、それだけしか出来なかった。
 射殺すほどの視線を、苦しそうに呻いた目の前の女へと注ぎながら……でも、掴み掛かったその手にそれ以上の力を籠めることは、どうしても出来なかった。
 沸騰し煮え滾る脳味噌で、なのに何故か冷静な思考が、今にも暴走しようとする俺の手を止めていた。


 ――俺が今、この女を拒んでしまったら……!!


 この養護院は、一体どうなる? ――せっかく新たな居場所を見つけられたと思っていたのに。ここでならコルトも、大人に怯えず自然体で人に囲まれて居られる。絶対に失ってはならない。
 そんなコルトに対して、この女は何をしようというんだ? どんな目に遭わせるつもりだ? ――コルトの負った古傷を尚も抉るつもりであれば許さない……そんなこと絶対に、させてたまるものか……!!
 ぎりぎりと音が鳴るほどに奥歯を噛み締める。
 しかし、どんなに逡巡しようとも……このときの俺に取れる道は、一つしか無かった。


『私たち……きっと、もっと、仲良くなれるわ―――』


 そう言った女が浮かべた、どこまでも妖艶な微笑を。
 俺には、ただ眼前に在るそれをひたすらに睨み付けていることだけしか、取れる手段など無かった。それを拒もうとする意志すらもまた、もはや俺の中から消え失せていた。
 肌蹴させられた衣服が絡み付く全身を、余すところなく這い回る、その女の手を、指を、唇を、ただただ黙って受け入れ……そのようにして無理やりに高められた俺の欲は、導かれるままに女の内側で弾けさせられた。


『また二人で仲良く遊びましょうね。まさか、嫌だなんて言わないでしょう? ――だって、お友達想いのあなただもの、そんなことしないわよね?』


 ――この日に見た白昼の悪夢を、このさき俺は絶対に忘れないだろう。
 たとえどんなに忘れたくとも。どんなに忘れたいと願っても。


 港に着いた馬車が、音を立てて停まった。
 と同時に、唇からねっとりとした感触が消える。
 すかさず俺は、手の甲で自分の唇を拭った。――鮮やかな紅の残骸が、手の甲に移る。
「今夜、待ってるわ。――いつもの場所で」
「…行けたら行きます」
「あなたはいつも、そればっかりね」
 それには何を返すことも無く、扉を開けて馬車を降りる。
 扉を閉める間際、改めてここまで乗せてもらった礼を告げてから、去る馬車を見送ることもせず踵を返した。
 速足で歩く俺の背後、遠ざかってゆく車輪の音が聞こえてくる。
「…何をやってんだろうな、俺」
 我知らず歩みを止めて呟いていたそれは、賑やかな雑踏の喧騒に紛れ、融けて消えた。


 今夜――そういえば今日だった。
 半月に一度の、彼女との約束の夜。


 養護院の運営は、資金難も乗り越え、現状は上手く回っているようだ。
 コルトも、もはやそこに通うことは無い。
 既に正式にレイノルド様の養子となっているコルトは、二十歳を目途にして、まずは子爵位を受け継ぐ予定で話が進んでいる。サイラーク家の跡取りとなるべく、島内で日々勉学と鍛錬に励み、貴族として――民草の上に立つ者として必要な知識を、いま得られるだけ蓄えているところだ。
 もともと対人恐怖症の気質があり引っ込み思案だったこともあって、島の外へと出ることさえめっきり少なくなった、そんな彼に、もはや女との接点は何も無い。
 あの女に縛られる理由は、もう何も無くなった。
 だというのに……俺は未だ、あの女に縛られている。
 もはや必要も無い関係を、惰性のままにのんべんだらりと続けている。
 それが、半月に一度の約束だった。
 月に二度、決まった曜日の、決まった時間、そして決まった場末の安宿の一室で。
 思い出したように会いに出かけては、冷めた身体を重ねる。
 そこに、愛なんてこれっぽっちのカケラすら無いくせに。それに似た何かすらも無いくせに。
 何より俺は、未だに女の名すら知らない、女の何をも知ろうともしていない、というのに―――。


「…ホントに何をやってんだろうな、俺は」


 再びそんな呟きを洩らしてから……ようやく俺は歩き出した。
 早く島へ戻らなければ。今日の夜間の外出のために、済ませておかなければならないことが多々ある。なにせ、いつだって仕事は山積みなのだから―――。



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