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【断章】―現在、それから― [2]
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それから――あの襲撃のあった夜から、そろそろ半月ほどが経つだろうか。
負った怪我のため一時は寝付いていたニールも、歩けるようになり、仕事にも復帰することが叶い、医者も舌を巻くほどに順調な回復ぶりを見せている。
このほど無事に、縫った傷の抜糸も済ませた。
それでも、さすがに激しい運動をすれば、まだ鈍く痛みが走ることもあるようだが……鍛錬などは控えて、普段の生活をゆったり送るぶんには、何ら差し障りも無いと言い得るだろう。
予め、死ぬほどの怪我ではない、と聞いてはいても……やはり、ニールが目を覚ますまでは、不安で不安で仕方なかった。
周囲から、過保護だ心配性だ等と笑われてしまうほどに、僕は眠るニールの傍から離れることは出来なかった。
一昼夜ののち一旦は目を覚ましてくれたものの、傷の所為で発熱し、やはり昏々と眠り続けることとなり、意識は戻っても高熱に浮かされて朦朧としていて……そんな状態が、だいたい三日ほど、続いただろうか。
ようやっと熱も下がって目覚めたニールが、どこかスッキリした表情で寝台の上に起き上がって食事をしている姿を目にした時、そこで初めて心の底からの安堵を覚えた。
ホッとしたあまりに知らず知らず涙まで流してしまっていた、そんな僕の有様を目の当たりにし驚いたのか、ぎょっとした表情を浮かべてニールが『どうしたんだ? 何があった?』と、おろおろしたようにこちらを覗き込んでくる。
律儀にも膝の上に乗せていた食器類を寝台脇の棚の上に退けてから、こちらへと恐る恐る伸ばされてきた手を。
すかさず捕らえるや、自分の方へと引き寄せ……そのまま彼の唇を奪った。
『―――好き……!』
めいっぱい円く瞠られた彼の瞳を、今度はこちらから覗き込んで、それを告げる。
『僕は、ニールのことが好きだよ。ずっと、ずっと、好きだった。だから、これから先も、ずっと君と一緒にいたい、から……!』
これまで告げることすら出来ずにいた秘めた想いが、ここへきて一気に溢れ出してきたようだった。考えるよりも先に、唇から言葉が溢れ出てくる。
『もう僕を護るために無茶とかしないで。僕のために、ってしてくれる気持ちは嬉しいよ、けど、そのために命を危うくするような真似までは、絶対にして欲しくなんかないよ。もう僕は、ニールが傍に居てくれなきゃ生きていけないんだから。僕のため、っていうなら、何があっても生きて。生きて一緒に居てくれなきゃやだよ。僕の傍から、勝手に離れていかないで』
『コルト……』
『お願いだから……! 僕を一人にしないで……! 僕一人だけを残して逝かないで……!』
気が付けば、縋り付くように彼へと抱き付いている自分がいた。まるで、自分を見て欲しい、愛して欲しい、そう懇願する気持ちを母親に纏わり付くことで示す子供のようだと、我ながら思う。
そんな僕の身体が、ふいに全身ふわりとしたぬくもりの中に包み込まれた――ように感じられた。
『…馬鹿だな』
耳もとから聞こえてくる、ニールの低くて心地好い声。
彼に抱き付いた自分の身体が、逆に彼の方から優しく抱き寄せられたのだ、と……そのとき、わかった。
『俺が、おまえを一人にする筈ないだろ』
『だって……』
『心配かけたことは謝るよ。今回のコレは、俺の浅慮が招いた自業自得だ、そこは反省する。これからは、ちゃんと自分の分をわきまえて行動するし、身の丈に合わない無茶もしない。もう金輪際おまえを泣かせるような真似はしない、って、今ここで約束するよ。――でも、な……』
そこで、ふいに抱き寄せてくる手に力が籠もる。
『でもコルト、おまえのそれはきっと、勘違いだ―――』
背中に触れている手と、そして彼の発した言葉の端から、微かな震えが伝わってくる。
『そう思い込んでいるだけで……おまえはもう、俺の助けなんか無くても、一人で立派に、生きていけるだろ』
途端、自分の耳を疑った。一瞬にして、目の前が真っ暗になったような気さえした。
――いま僕は……僕の気持ちを、ほかでもないニールに、否定、された……?
でも……ならば、この身体に伝わってくる震えは何だろう? 震える彼の言葉は、一体なぜだというんだろう?
『俺もおまえが好きだよ、コルト。何よりもおまえが一番大事だ。おまえのためなら何だってしてやりたい。おまえとずっと一緒に居たい。いつも隣にいておまえの助けとなりたい。――けど、それは……俺の勝手な依存じみた想いでしかなくて。自分をそれらしく保つために、おまえに依存して、おまえからも依存されるように仕向けてきた、そういう卑怯者なんだよ所詮俺は。そんな想いは結局、一人で立とうとするおまえの足枷になってしまうだけだ。俺自身がおまえの足を引っ張ることになるのなら、俺は自分が許せない、おまえの傍にいる俺なぞ、排除しなければいけない』
『ニール……』
『俺は、おまえの隣に立つに、相応しくない……!』
『…………』
彼の言葉を耳もとで聞きながら、僕はただ絶句しているしか出来なかった。
なのに、聞いているうちに……知らず知らず、頬の筋肉が緩んでいくのがわかる。気付いても、どうしてもそれは止められない。
――だって……こんなの、全身全霊で僕のことを『好き』なんだ、って、言ってくれてるのと同じじゃないか……!
ニールが、どうしてそこまで自分を卑下してしまうのか、そこに至った思考までは、わからないけど。
僕にとって、もはやそんなこと関係ない。
彼が僕に依存してしまうから、僕も彼へと依存するように仕向けた? ――それの何がいけないと云うのか。それほどまでに、僕を自分のもとに繋ぎ止めておきたかった、っていうことだろう? そんな束縛なら、むしろ願ったり叶ったりじゃないか。愛する人の可愛い甘えを赦せないほど、僕は狭量では無いつもりだ。依存だろうが何だろうが、そんなもの、まるっと受け入れて然るべきだろう。
彼の想いが、独り立ちする僕の足枷となる、って? ――それも大きな勘違いでしかない。彼の言う通り、声を出せるようになった今、形ばかり“独り立ち”をするというだけなら、きっと自分一人でも出来ることだと思う。でも、隣に彼が居ないのに、そうしたところで僕に何の得がある? 僕がご主人様の跡取りとなることを選んだのは、そこに僕の理想とする姿があったからだ。ご主人様のような、困っている誰かに手を差し伸べられる、そして、愛し愛されるという美しい感情を持ち続けていられる、そういう姿を目指したゆえのことだ。であれば、僕の傍にニールが居てくれないことには、お話にもならないではないか。彼こそ、僕の“理想”の一部なのだ。足枷になるどころか、彼に愛されるため、という大義名分が無い限り、それこそ僕が理想を追い求めて生きていく意味も無い。
そんな、彼の勘違いを……一つ一つ正してあげよう、という気にすら、今はなれなかった。
ニールの気持ちがちゃんと僕へと向いている、ということだけがハッキリすれば、彼が思い悩んでいることなんて、正直どうでもよかったのだ。
これから僕がやるべきことは、もう決まってる。
今度は僕が、彼が自分のもとから離れられないように仕掛けていく番だ。
『――ねえ、ニール』
呼び掛けながら、縋り付くように彼の首へと回していた両腕をゆっくりと解き、そのまま彼を抱くように、その背中へと回す。
僕に呼ばれて少しだけ強張らせた彼の身体を解きほぐすように、その掌で、優しく背中を撫で摩った。
そうしながら……どことなく重々しく響くような口調を作り、その耳もとへと囁く。
『僕、聞いてたんだ―――』
『え……?』
『気を失った君が夜中に運び込まれてきた、その翌朝のことだよ』
『――――!!?』
心当たりがあるのだろう、途端びくりと大きく、その身体が震えた。
『トゥーリ様から言われて外してたけど……やっぱり君のことが気掛かりで、話が終わるまで、部屋の外で待っていたんだ。そしたら突然、君が叫んでいるような声が聞こえてきて……びっくりして、慌てて部屋に駆け込んでしまったんだけど、君を支えてたトゥーリ様から、身振りで「来るな」って止められて。結局、僕は何も出来ずに立ち尽くしているしかなかった。でも君は、僕が部屋に入ってきたことにも、気付いていないようだった。相変わらず叫び続けていて……何を言っているのかまでは聞き取れなかったけど、やがて叫び疲れたのか、くたっと糸が切れたように崩れ落ちて……支えていたトゥーリ様が、君を寝台に寝かせた。その時、君は譫言のように呟いてた。意識を失って眠りに落ちるまで、何度も何度も「ごめん」って、誰かに謝ってた。「ごめん、サヴィー」「何もしてあげられなくて、ごめん」「俺がコルトを好きになったから悪いんだ」って……そんな言葉が、聞こえた―――』
ニールは、淡々と語られる僕の言葉に対し、何の反応も返してくれることは無かった。その身体を固く強張らせたまま、ただ黙ってじっと聞いているだけだった。
『そのときの僕の気持ち、君にわかる? 君のことを心配しながらも……でも同時に、歓喜に打ち震えてもいたんだよ。僕は、ずっと君のことを想ってきた。でも君は、執事学校を卒業して島に戻ってきて以来、僕に対してどことなく余所余所しくなってしまったよね。僕を優しく甘やかしてくれるところは何も変わっていなかったけど、“それ以上”のところに踏み込もうとしても、どこかスッと線を引かれてしまうような感触を覚えてた。だから少しだけ淋しくなったよ。僕が君を想っているほど、僕は君に好かれていないんじゃないか、って……僕の境遇が“可哀相”だったから、ただの義務で優しくしてくれていただけなんじゃないか、って……そんなところに思い当たってしまったら、自分の気持ちを君に打ち明けることも出来なくなった。それでも、君のことだけは、どうしても諦めきれなくて、どうしたって諦めたくなくて……! 君の気持ちを探りながら、何とかして振り向いてもらおうと必死だった。だからこそ、こうやって思いもよらぬところで君の気持ちを知ることができて、本当に本当に、嬉しかったんだ―――』
そして、おもむろに僕は、回していた腕を緩め、彼から身体を離した。
改めて真正面から彼へと向き合う。
俯き、僕から視線を外そうとしていたニールの顔を、その頬に手を添えて、ゆっくりと自分の方へと向けさせて。
どことなくおどおどとした風に僕を見つめた、その瞳を覗き込むように、それを訊く。
『ニールは、僕のこと好きで居てくれてるんだよね?』
返事を促すように笑みを見せれば、おずおずとながら、彼も深く頷いてくれた。
再び首が持ち上げられる、その瞬間を狙って、僕は彼の口付けを奪う。
『僕もね、ニールのことが好き。大好きなんだ。――これ以上のこともしたい、って、思っちゃうくらいに』
途端、ぱあっと頬を染めて恥じらうニールの姿に、『可愛い』と、衝動的に再び口付けてしまった。
『こんなキスだけじゃ足りないくらいに……君と繋がりたいって思ってる。――ニールは、どう?』
少し上目遣いを作って、まさに強請るように問い掛けた。
自分がこうやって“おねだり”をすれば彼が断れないであろうことは、これまで一緒に過ごしてきた時間の中で、充分にわかっている。
『ニールも……僕と、そういうことしたい、好きだから繋がりたい、って、思ってくれてる……?』
彼の表情に、まるで返答の言葉を探すかのような表情が浮かび、と同時に、躊躇いの色も差し込まれた。
何か返答しようとしたのか、開かれた唇が、しかし言葉を発さぬまま閉じられてしまう。
『言って欲しいな、ニール……君にとって僕は、何を打ち明けるにも値しない、そんなにも頼りない存在なのかな……』
『…………』
無言のまま、やおら唇を引き結ぶ。
そして覚悟を決めたように、ゆっくりと彼は口を開いた。
『俺は……コルトとじゃなきゃ、「これ以上」のことはしたくない。俺の方こそ、コルトと繋がりたい、って想いを、ずっと抱え込んできたんだ』
『ニール、じゃあ……!』
『でも、その前に俺は、俺自身の口から、コルトにちゃんと、話しておかなきゃならないことがある―――』
そして彼は話してくれた。――自分が抱えてきた“秘密”の全てを。それと、あまり多くは語ってはくれなかったものの、あのとき彼が譫言のように呼んでいた『サヴィー』との関係についても。
おかげで、やっと理解できた気がした。
彼が、どうしてそんなにも僕を遠ざけようとしていたのか。また、何故そこまで自分を卑下しなければならなかったのか。
かつての僕が抱えていた、それと異なるようでいて同じものを、彼も抱えてしまっていたからだ。
僕は、ご主人様とアクス騎士が居てくれたから、二人のおかげで抱え込んだ重荷を徐々に軽くしていくことが出来た。
でもニールは、その重荷を誰にも打ち明けることが出来なかった。だから今に至るまで、重荷を重荷のまま抱え込み続け、軽くすることも、ましてや誰かに肩代わりしてもらうことも、出来ないままここまで来てしまったのか―――。
『――俺は、幼いおまえを蹂躙した男たちと同じには、なりたくなかった……なのに、そいつらと同じことをしたいと願っている自分がいて、どうしても消し去れなくて……でも、コルトの傍に居たくて……!』
彼の葛藤は、よくわかる。僕にも覚えが無いわけじゃない。
しかし、彼は僕に劣情を抱きながら、その負ってしまった心の傷から誰を抱くことも出来ないと思い込んで、その傷を負わせた原因と身体を重ねることを選んでしまった。――愛などといった感情は伴っていなかったものの、ただ欲のために惰性で関係を続けていた、そこに抱えてしまった後ろめたさが尚更、彼が自分自身へと向ける卑屈さを助長してしまったのかもしれない。
『コルトには見抜かれている、って分かったから、折をみて全部ちゃんと打ち明けようと思ってた。けど、話したことでおまえに軽蔑されるかもしれないと思うと怖くて、なかなか心が決められなくて……』
『――もういいよ、ニール』
そこで僕は、おもむろに話し続けていた震える声を遮った。
『もう、わかったから。ちゃんと、わかったから。君の、気持ち、考えていたこと、全部―――』
やわらかく…どこまでも努めて優しく手を拡げて、抱き締める両腕の中に彼の身体を囲う。
『君が心に抱え続けてしまった荷物は、これからは僕も一緒に抱えていくから。だから、もう何も心配しないでいいよ』
『コルト……』
『たとえニールが、どんな傷を抱えていようとも。僕がニールを愛している、ってことに何も変わりは無いんだから。――だから君にも、改めてちゃんと言って欲しいな』
『え……?』
そこで再び、不意打ちのように彼の唇へとキスを落とした。
『僕と、「これ以上」のことがしたい、って……君の口から、ちゃんと、聞きたい』
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