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【弐】
しおりを挟む「ねえねえ、良政? あなたは市に行ったことある?」
行き交う人々の雑踏で賑わう朱雀大路を歩きながら、私は振り返って半歩後ろを歩いていた随従の顔を見上げ、それを訊いた。
真上にほどまで見上げた先から私を見下ろしてくるのは、とんでもなく苦~い虫を噛み潰してしまったかのような渋すぎる表情。
「そりゃ、まあ、一応は……」
「じゃ、まず市を見たいわ。連れてってちょうだい」
困ったような苦り顔が、途端、さらにくーっと顰められた。
「あの…ですが、姫宮さま……」
「――違うでしょ?」
言いかけた言葉を遮るように、ピシッと私は人差し指を突きつける。
「何度も言ってるでしょ? 今の私は『姫宮さま』じゃないの! ただの女房なの! お仕えしている御邸の主人に頼まれてお使いに行くところなの! いい!?」
「……わかりました」
「なら今後は『雪』って呼んでね。敬語もダメよ、誰かに聞かれたら変に思われるでしょ。話す時は普段の通りでお願いね?」
「…………」
返事の代わりに良政は、とてつもなく深~いタメ息をひとつ、返してくれた。
――なんなのよねえ、その態度?
そりゃー、厄介なことに巻き込んでしまって申し訳ないとは思うけど……という殊勝な気持ちは、だが次の彼の言葉を聞いて跡形も無くフッ飛んだ。
「まさか今上の姫宮さまが、このように無鉄砲な跳ねっ返りの阿婆擦れであらせられたとは……」
――つか、仮にも本人を目の前にして……いくら何でも失礼じゃない、その言い草?
*
『私は、女房でもなければ不審者でもない、麗景殿の二の姫なんですっっ!!』
さっき、それを言った途端……振り払われたその手で再び私へ掴みかかろうとしていた彼の動きが止まった。
面食らったように私を見つめ、その瞳を円く瞠る。
そして告げる。まるで呟くように。
『…なに言ってんだ、オマエ?』
あ、これは頭おかしい子だと思われかけてる? と焦った私は、咄嗟に真面目な声と表情を取り繕った。
こんな私でも、母上と乳母の教育のおかげで、猫かぶりはお手のもの。
『そうですね…突然こんなことを言い出したら驚かれるのも無理はないかもしれません。あなたはわたくしの顔など知らないでしょうし、疑われても仕方がありませんわね。でしたら、このまま麗景殿へ突き出してくださって構いませんわ。それでわたくしの身の証も立てられましょう。あくまでもわたくしを滝口に突き出されるとおっしゃるのであれば、それも構いません。今の蔵人頭ならば、わたくしを見知っておりますから。――ですが……』
これぞ母上と乳母の教育の賜物! とばかりのお姫様然とした態度で、私は彼を見つめながら静かに、それを、告げる。
『滝口にてわたくしの身元が知れました暁には、あなたには後からお咎めが下ることになるのではありませんか……?』
穏やかな言葉に含んだのは、言わずもがな。――あたかも気遣いのよーに偽装させた脅し文句っ♪
それが効いたか、しばしの間、彼は硬直して黙りこくった。
私を信じるべきか、信じぬべきか……どうすることが正しいのか、決めあぐねているような表情。
ここでようやく、私の言葉に耳を貸す気になってくれたらしい。
――ま、そりゃそーでしょうともさ。これぞ私の、公の場で身内以外の人間を何度と無く謀ってきた、奈津のお墨付きまでいただくほどのカンペキな猫かぶり、なんだからねっ。
それに、ヘタしたら自分の進退に関わるかもしれない、ともなれば……そりゃ慎重にだってなるわよね、当然。
『わたくしとしても、母上や乳母に余計な心配をかけたくはないのです。この場に居るは、ひとえにわたくしの我儘からのこと。少しでもわたくしの言葉を信じていただけたなら……できればこのまま見逃してはいただけませんか?』
問うた私を見つめ返す視線が揺らいでいる。
そこを私は、“もう一押し!”とばかりに、あくまでもどこまでもしおらしく、たたみかけた。
『さあ、如何いたします?』
『…………』
無言のまま彼は俯き、私から視線を外した。
『「麗景殿の二の姫」と云ったら……当今のご息女たる女二の宮、明子内親王さま……』
『まあ、よくご存じで。ついでに付け加えるなら、東宮の実の姉でもありますわ。何でしたら、そちらへ突き出してみられます?』
独り言めいた彼の呟きを聞き止めて、ダメ押しとばかりに、そんな答えを返した途端。
ハッとしたように彼は顔を上げ、そうかと思うと、いきなり地べたに膝を付いて平伏した。
『知らぬこととはいえ、ご無礼を申し上げました!』
――ィヨッシャーッッ! と拳を握り締めて腹黒さ全開でほくそ笑んだのは、この際ヒミツである。
『お顔を上げてくださいまし。そんなに畏まる必要など無いのですよ、あなたはあなたのお仕事をしたまでなのですから。ご立派なことですわ』
『しかし……』
『それに、今のわたくしは忍んでいる身です。このようなところ、誰にも見られたくはないのです。――わかってくださいますね?』
恐る恐る顔を上げた彼に、『さあ、お立ちあそばして』と、相変わらず姫さま然とした笑みで、微笑みかける。
『いかに地下人だとて、一介の新参女房にまで頭を垂れる必要などありませんでしょう? 他の者に見られたら不審に思われてしまいますわ』
『なれど、姫宮さま……!』
『お願いですから、お立ちあそばして? この通りです』
そこで私が頭を深く下げると、『お…おやめください!』と、はじかれたように慌てて彼は立ち上がった。――まったく、手間取らせやがって。
『申し訳ありません、畏れ多くも姫宮さまに何ということを……!!』
ともあれ、こう互いに立っていれば、たとえ誰に見咎められたとしても立ち話をしているように見えるだろうし、滅多なことでは私だとは気付かれないだろう。
ようやくホッと息を吐き、改めて目の前に立つ武官らしき彼を見上げた。
目の前の彼も、多分に戸惑いを含んだ視線で私を見下ろしている。
そんな彼を安心させるためにも私は、いたずらを企む子供のような表情を作り、笑ってみせた。
『もう、わたくしをどこぞに連れては行きませんの?』
『…大変失礼なことをいたしました。まさか姫宮さまであらせられたとは思いもよらず』
返す彼の表情に、まだ少々強張ってはいたけれど、ようやく微かな笑みが浮かぶ。
良かったわ。そうそう一方的に畏まられてちゃー話し辛いったらありゃしないもの。
『信じていただけましたようで嬉しいですわ。それに、後宮をよく守ってくださっていること、父に代わり御礼を申し上げます。――ええと、あなたの名は……?』
『は……や、あの、その、よ、良政、と……』
『そう、良政。あなたは滝口に勤めていらっしゃるの? それとも近衛府に?』
『あ、いえ、私は、その……姉が後宮におりまして、今日はその姉に用があってここに……』
『では、あなたご自身は宮中にお勤めではありませんの?』
『う、はあ、ええ、まあ……』
なんだかまだ会話がぎこちない。
先ほどまでの畏まりまくった会話よりは幾分かマシかもしれないけど……なんでこのヒト、こんなにドモったりして、自分のことで話し辛そうにするんだろうか? 姫宮相手ってことで緊張でもしてるのかしら?
『でしたら、後ほど姉君を通じて内々に褒美の品など届けさせますわ。姉君は、どちらにお仕えでいらっしゃいますの?』
それを告げた途端、ものっすごい勢いでブンブン首を横に振られてしまった。――ああ、順調にいきかけてた会話がまた振り出しにぃ~……!
『そんな、滅相もございません! そう仰っていただけるお気持ちだけで充分ですから!』
『それではわたくしの気が済みませんわ。大したことは出来ませんけれど、どうかご遠慮なさらずに』
『いけません! そもそも、無礼を働いたのは私の方ですし!』
あくまでも『いただけません!』と言い張るばかりの良政に根負けし、私は軽くタメ息を吐く。
『そうですか…ならば無理強いはいたしませんわ。言葉だけでは足りませんが、改めて御礼を申し上げます。あなたの働きは、必ずや帝の御為となることでしょう。ありがとうございますわ』
そして軽く一礼し、『それでは、わたくしはこれで…』と、さきほど良政に教えてもらった北の御門の方へと向かい、そそくさと歩き出そうとした。
『――まことに僭越ながらお訊き申し上げたいのですが……』
だが、そんな私の背中を、彼の声が追いかけてくる。
『姫宮さまは、供も付けずに一人徒歩にて、どちらへいらっしゃるおつもりで……?』
その問いには、歩き出した私の足も止められた。
『…それも見逃してはいただけませんか?』
『なりません』
振り返りもせずに応えた私の言葉が、一刀両断のもとに切り捨てられる。
『この宮中からお出になられようとされていらっしゃるなら尚のことです。万が一にも御身に何かありましたら、帝や承香殿さまが哀しまれましょう。それが分かっていて尚、姫宮さまお一人で行かせるわけにはまいりません』
『…………』
『あくまでもお忍びで、とのお望みならば……もうお止めいたしませんが、もしお許しをいただけるなら、この良政、護衛にお供つかまつります。私の用向きはもう済んでおりますゆえ、どこへなりともお連れくださいませ』
『…………』
『それも許していただけぬとあらば……誓って誰にも洩らしませぬ、せめて行き先だけでも、お教えおいてはいただけませんか……?』
『…………』
――なん…っつー、面倒くさいのに捕まっちゃったのよアタシっっ……!!
虫垂衣の内側で、眉間に寄ったシワが徐々に徐々に深くなっていくのが、手に取るように分かった。
心配してくれるのは有り難いんだけどさぁ……言っちゃナンだが、そのブ厚い忠義心が面倒くさいったら!
つか、そもそも行き先を聞いてくるくらいだもの。その忠義心からの親切とばかりに、私と別れた後、こっそり承香殿へ命婦にでもご注進しに行きかねないじゃない。そしたらすぐ連れ戻されちゃうでしょーが!
ならば、この場しのぎに目的地を適当にでっち上げ、嘘で言い繕ってしまおうか……?
だが、嘘を告げてここで良政と別れられたとしても、彼が承香殿の母上や乳母に何も言わないでいてくれたとしても……私と出会ったことを他の誰にも漏らさない、という保障は無いのだ。
ヘタしたら私が一人外出を企んだことが宮中中…ひいては京中の噂になってしまう。両親の名誉のためにも、それは避けたい。
なら、このまま護衛にして一緒に連れていけば、同時に彼も宮中から連れ出すことが出来るのだから、私が抜け出したことも当面は漏れずに済む。口止めは、その道中おいおい言い聞かせればいい。そこまでブ厚い忠義心を持ち合わせてくれているくらいなら、皇女であるこの私がガッツリ頼み込めば、肝に銘じてくれることだろう。
また、道中を常に一緒に行動していれば、ひょっとしたら彼の弱みでも見つけられるかもしれないしね。――それが出来れば、彼に敷く箝口令も、よりグッと確実性が増すっていうモノじゃない?
確かに、何があるかも分からない物騒な京で、一人で出かけていくのに不安が全く無いといえば嘘になる。ならば、護衛は居るに越したことは無いかもしれない。せっかくの申し出だし、受けておいたほうがよいだろうか。
打算が思考に織り交じって、どんどん私を悩ませてゆく。
――てか、ここまで悩まなきゃなんないくらいなら、いっそのこと……連れていくべき、なのかもしれない……?
『本当に……誰にも内緒にしてくれますね……?』
肩越しに振り返り、それを呟くように告げると。
背後の良政が、『勿論です』と、大袈裟すぎるほどクソ生真面目な声音でもって、即答を返してくれる。
『天地神明に誓って、秘密は守り通します』
『…いいわ、わかりました』
そこでようやく腹を決めた私は、改めて身体ごと良政に向き直り、彼の瞳を真っ直ぐに見つめ、それを告げた。
『良政、あなたに護衛としての随行を許しますわ。つきましては、わたくしだと誰にも覚られず宮中から脱け出せるよう、御門で上手く計らってくださいませ。――行き先については、その後に』
*
「『雪』は、私のもともとの呼び名なの。…て言っても、今は母上と乳母とその娘くらいしか、もう呼んでくれる人なんていないんだけどね」
賑やかな通りのあちこちに目を奪われながら、私は良政に話しかける。
「私は雪の日に生まれたんですって。だから私も雪は好きよ。特に早朝の、余計な音も無く静謐な雪景色は、心が洗われるようよね。――そう思わない?」
「そうですね……私も、雪の日の静けさは嫌いじゃありません」
「だから何度も言ってるじゃない、その敬語、何とかしなさいよ」
「す…すみません……」
「はい、じゃあ、もう一度やり直し。――良政、あなたは雪は好き?」
「……嫌い、じゃ、ない」
「ま、いいでしょ合格。でも、もうちょっとそのぎこちないのは何とかしてよね。――じゃあ次。あなたのお姉さまって、どんな方?」
「――って、まだ続けますか!?」
「その敬語が出なくなるまで続けますっ! ――それで? あなたのお姉さまは、どちらにお仕えでいらっしゃるの?」
「いい加減にしてくださいよ……ただ単に、姫が話したいってだけでしょう?」
「はい、また『姫』って言ったー! 私は一体、誰、でしたっけー?」
「――雪、どの……」
「そう、私は雪よ。姫じゃないから、女房だから。間違えないでね」
「…………」
そして良政は、またもや深々としたタメ息を吐き出してくれたのだった。
――ホンッット、どこまでも失礼なヤツよねっっ……!!
そんなこんなで……良政ってば、何故だか知らないけど宮中の至る場所に居る警護の者に顔見知りが多くて、その人脈とサリゲナイ機転で、幾つもある御門を無事にやりすごすことができ、念願だった宮中脱出は叶ったよーなワケなんだけど。
行き先を告げた時の良政の顔ったら、本当に見物だったわ~。
聞いた途端『やっぱり戻りましょう!』とか言われて引き返されるのもイヤなので、脱け出した御門から朱雀大路に出るまで一っっ言すら口を開かずに我慢してたもんだから、余計に笑えたったらないわ。
『さて……ここまで来ればもういいでしょう? 約束ですよ、姫宮さま。いい加減、お話しいただけませんか? 一体どちらへ向かわれるつもりでいらっしゃるんです?』
『別にどこでも』
『―――は?』
『行き先なんて、別にどこでもいいのよ。最初っから行くアテなんて無いんだもの』
『あの……おっしゃられている意味が、よく分からないのですが……?』
『強いていうなれば……そうね、京見物がしたいわ』
『――はあ!?』
『ちょうど一人で行くのも淋しいと思ってたのよね。良かったわ、良政が一緒に来てくれて』
『あ…あの、姫宮さま……?』
『約束だものね? どこへなりとも護衛に付いてきてくれるんでしょう? ここまで来れば、もう「戻れ」なんて言わないわよね? 本当に嬉しいわっ♪』
『…………』
『頼りにしてるわよ、良政っ♪』
…で、こうして並んで、一緒に朱雀大路を南へ向けて歩いていることになっている。
「それで? 良政のお姉さまって?」
「…………」
「今、お幾つなの? あなたと幾つ離れてらっしゃるの?」
「…………」
「ヤぁねー今度は黙秘するつもりー? 別に、そんなに頑なに隠そうとしなくたっても……やだ、ひょっとして良政ってシスコンだったりぃー?」
「――違いますッッ!!」
「あ、そうそう、シスコンといえば! 私の弟も、結構それっぽいのよね~? 私がいないと何も出来ない、っていうかー? 実は昔ね、……」
ムスッとしつつも相変わらず何か問いたそうな表情でいる良政を何とかはぐらかしたくて。
市へ辿り着くまでの間、とりとめのないことばかりを私は喋り続けていた。
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