こころのみちしるべ

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フラマリオン編

005.『彷徨い歩く』1

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 風もない穏やかな日和の中で山深い緑の森は茫漠と広がっていた。森を歩くのに相応しいものとはほど遠い白いワンピースに白いサンダルという格好の彼女は虚ろな目でそこを歩いていた。彼女はそこがどこなのかわかっていなかった。さらに自身が誰なのかもわかっていなかった。助けを求めて人里を目指して歩いていた彼女は、しかし何の宛もなく自身の直感のままに森を彷徨い歩くほかなかった。彼女は幾度となく足を滑らせ転んだ。そのたびに膝やくるぶしにいくつもの擦り傷や切り傷をつくり、彼女の白い肌と白いワンピースは泥や草で派手に汚れた。
 もう何時間も歩いた末に、彼女は偶然にも細い沢と思しき地形を見つけることができた。上からではよく見えないが、彼女はその底に水が流れていることを願った。彼女は沢への急な坂を危険もいとわず降りて行った。坂を下りる途中で水の流れる音が聞こえてきて彼女は歓喜した。余りにも急な斜面だったため、彼女はバランスをとるために膝をつき両手をついて這うように沢へ下った。疲れていた彼女は体ごとその浅い沢へと入った。そこを流れる水は冷たく、よく澄んでいた。沢に両手と両膝を付いた彼女は上流の方を見た。上流をこうして下から見ると水はそれが無尽蔵であるかのごとくこんこんと流れ続けていた。彼女は安心すると同時に今までの心細さから解放され、全身の力が抜ける感覚を味わった。彼女はもう一度つかのま水面を見つめたあと、流れる水を両手で掬った。彼女は吸い込まれるようにそれに口を付けようとした。
 しかし彼女はそこでぴたりと動きを止めた。水は瞬く間に指の隙間からこぼれて水面に返った。彼女は自分がどうして水に口を付けなかったのか不思議だった。しかし同時に彼女は自身の内から何か名状しがたい感情が込み上げてきたのをはっきりと自覚していた。これは何だろう。彼女はそれを確かめるために水をもう一度掬った。水はたしかに冷たく、美しく澄んでいておいしそうだった。彼女はそれを一息に口にもっていこうとした。しかし彼女はそれに口を付ける寸前で力を失ったように腕をだらりと膝に落としてしまった。水は彼女の膝とワンピースの裾を濡らして沢に返った。彼女は唇を震わせた。眉根を寄せて彼女は嗚咽した。涙が泥で汚れた頬を伝い落ちた。彼女はうなだれてため息を吐き出すように言った。
「もういやだ…」
 彼女は自身の膝に覆いかぶさるようにうずくまり、振り絞るように叫んだ。
「もう嫌だ!」
 彼女は沢の水を両手で叩いた。
「いやだいやだいやだいやだいやだ!」
 彼女はひたすらに嘆き、声を上げて泣いた。
「生きたくない!」
 彼女は叫び続けた。
「もう生きたくない生きたくないよぉおおおおおおおお!」
 彼女は叫びすぎて咳込んだ。やがてそれが収まると彼女は呻いた。
「ぅぅぅぅぅ…」
 彼女の髪は乱れていた。汗とも涙とも沢の水ともつかないものが彼女の全身を濡らしていた。
 叫び疲れた彼女はしばらく呆然と虚空に視線を泳がせたのち、もう一度だけ眼下を流れる水を見た。すると再び彼女は悲しみと惨めさからくる涙を静かにこぼした。水はひたすら冷たかった。脚はずっと冷たい水につかっていたため、すでに感覚を失いつつあった。彼女はそのまま自分が冷たくなって死んでしまえば良いと思った。
 疲れ果てて何もかもどうでもよくなった彼女はもう一度周辺の景色をぼんやりと見た。そこにはただ美しい山の景色が広がっていた。深緑の木々は揺れ、鳥は羽ばたき、雲は薄く高い空の上でまばらにちぎれながらそれでも平気な顔をして浮かんでいた。近くで草が風にそよぐ音がし、彼女はそこに目を落とした。草の上には虫が這っていた。彼は何を目指していたのか、そこにしがみついて草が風になびいてもただじっとそれに耐えていた。そうやって景色を眺めているうちに不思議と彼女の内の焦燥や葛藤はすっかり消えてしまっていた。彼女はもう一度足元を流れる水を見た。なぜかそれはもう恐ろしいものに見えなかった。彼女はそれを三度掬い上げ、そっと口を近づけた。ずずっ。彼女はそれをすすった。水には重みと味があり、うまかった。それは彼女の体に染みわたり、潤いを与えた。彼女は再び嗚咽を漏らした。彼女はそれから貪るように水を飲んだ。ときに咽せながら彼女は必死になって体と心の渇きを満たした。
 しばらくそうしていると彼女には歩く気力が湧いてきた。口を袖で拭った彼女は立ち上がった。まだ空は明るかった。今必死になって歩けばどこかに辿り着けそうな気がした。どこでもいい。どこか人のいるところへ。
 彼女は歩いた。彼女はひたすら本能の赴くままに足を前に進めた。急な上り坂も必死になって石を掴み、這うように進んだ。彼女は息を切らした。ぜえ、ぜえ、とそれははっきりと聞こえる荒い息だった。彼女は一心不乱にどこかに自分の体を運んだ。必ずどこかに辿り着ける、と彼女は自身に言い聞かせた。
 彼女は実のところ人里から離れた方に向かって歩いていた。しかし何の因果か、彼女は人里からぽつりと離れたところに何者かが拓いた小さな土地に偶然辿り着いた。
 人里ではないが、人工的に切り拓かれたとわかる場所に出て彼女は歓喜と安堵が自身の内から込み上げてくるのを感じた。誰かがいるかも知れない。その土地の草はまだ低かった。誰かが刈ってから時間が経っていない証拠だ。少なくとも少し前に誰かがここに来たはずだ。彼女は周囲を見渡した。するとそこに何かを視認した。山の斜面と同化して先ほど見渡したときには気付かなかったが、それはたしかに人が手で作った道具小屋か祠のような木製の小さな建物だった。彼女はそこに人がいる可能性を願った。彼女は血豆が潰れて痛む足を引きずってそこを目指した。彼女は息を切らした。
「お願い…」
「お願い!」
 彼女はもう枯れたはずのどこから湧いてくるかわからない涙をこぼした。
「お願い…!」
 小屋に見えたそれは近づくとやはり祠か道具小屋と思しき小さな建物だった。その中から人の気配がしないことは、中を開ける前から感じ取れ、それは彼女をひどく落胆させた。しかし一縷の望みに賭けて彼女はその扉を薄く開いた。開ける前には気付かなかったが、引き戸には錠がかけてあったらしく、それは彼女が戸を開けると金具が朽ちていたためぽろりと外れて落ちた。
「すみません」と声を掛けたが、やはり中から返事はなかった。彼女は人が一人入れるくらい細く戸を開けた。彼女は見知らぬ人の建物に勝手に入ることにためらいを覚えたが、助かるためにはやむを得なかった。彼女は体をそこに滑り込ませた。「すみません」ともう一度声を掛けたがやはり返事はなかった。祠の中に入るとそこは外から見るよりさらに小さかった。そこには物がほとんどなく、やはり人はいなかった。ただ奥に小さな棚があった。彼女は恐る恐るそこに近づき、棚の戸を開けてみた。するとそこには布のかぶせてある皿があった。布をどけてみると、その下からは見たこともない赤い果実がいくつか姿を現した。
 彼女は驚き歓喜したがそれをどうするべきか迷った。人の祠に勝手に入って、しかも人の食べ物を勝手に盗むことはやはり憚られた。それに見たこともない果物ともあれば、それが自身の体に何をもたらすか知れない。しかし耐えかねるほどの空腹感が彼女を襲っていることは事実だったし、それは皿に盛られて戸棚にある以上安全な食べ物であるように思えた。
 彼女はしばらく躊躇したのち、それを食べることにした。彼女の心には先ほど沢で水を飲むのをためらったときとまったく逆の感情が芽生えていた。
「生きたい」
 彼女はためらいがちに、しかし大胆にそれを口元に持っていき、かぶりついた。身は柔らかく、よく熟して甘かった。最初は気付かなかったが、それはもぎたての果実ではなくそれを干して乾燥させたものだった。
「おいしい」と彼女は素直にそう感じたが、彼女がそう口にするより先に彼女の内面には大きな変化が生じた。彼女はそれに戸惑った。それはその場の景色が一瞬にして変転するような感覚だった。あるいは彼女がどこかまったく別の場所に一瞬にして移動するような感覚だった。彼女は戸惑って周囲を見渡した。しかしその場所はやはり同じ祠の中だった。彼女はぽつりと独りごちた。
「何これ…」
 脳裏をよぎる光景に呆然としながら彼女はさらに呟いた。
「あたし…」
 するといきなり後ろから声がした。
「誰だ!」
 彼女は体をびくりと震わせて振り向いた。小屋の戸口に長い金髪の青年の姿があった。彼は警戒と怒りの目を彼女に向けていた。彼女は戸惑いと驚きで言葉が出てこなかった。男は怒気を孕む声で尋ねた。
「ここで何をしている」
 彼女は口をぱくぱくさせた。
「あの…」
 彼女が手にする果実を見た男は驚くとともに彼女を咎めた。
「それを食ったのか!」
 彼女は泣きそうになった。彼女にできることは言い訳と謝罪だけだったが、彼女は反射的に後者を選んだ。
「ごめんなさい!」
 彼女の様子をあらためて仔細に見た男は彼女の手足が泥で汚れ、擦り傷、切り傷だらけであることに気付き、唖然とした。
「山の中を歩いてきたのか…?」
 彼女はようやく言い訳をした。
「ずっと、歩いて来て、お腹が減ってて…、ごめんなさい」
 男は嘆息した。
「遭難者がどうしてこんなところに…」
 彼女は強くかぶりを振った。
「わからないんです…」
「つまり、迷い人か…」
 彼女はうつむいて涙をこぼした。男はため息交じりに言った。
「俺はオルフェ。君、名前は?」
 その問いにびくりと体を震わせた彼女は恐る恐るオルフェと名乗った男を見て口を開いた。
「あ、あたしは…。レオナ! レオナです!」
「レオナか。わかった」
 オルフェは少し思い詰めた表情を浮かべた。レオナと名乗った女はそれを見て不安になった。やがてオルフェは重そうに口を開いた。
「レオナ、君を保護する。俺の知り合いに女の狩人がいる。彼女は優しいし信用できる。君の面倒をきっと見てくれるだろう。だがレオナ、一つだけ約束してくれ」
 レオナはオルフェが何を言い出すのかと不安げに見つめた。オルフェの声は低く硬くなった。
「今日ここで見たことはすべて忘れてくれ。この祠のことも。その果物のことも。いいかい?」
 レオナは大きく何度も頷いた。
「わかりました」
 それを聞くとオルフェは安心したように笑った。
「よかった。不躾な歓迎ですまなかった。ようこそビュルクへ」
 オルフェはそう言って彼女に一歩近づくと握手の手を差し出した。レオナは戸惑いながらそれを取った。
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