こころのみちしるべ

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現世編

019.『彼が今日自殺をする理由』11

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 由衣は真琴の知る限り学校を休んだことがなかった。真琴は由衣の休みに不安を覚え、彼女にチャットアプリで連絡をとってみたが既読はつかなかった。真琴は自分が嫌われてしまったのではないかと不安になった。しかし何よりそれが真琴の母と由衣の父の集団自殺の日のちょうど一年後の翌日にあたる日であることが真琴の胸をざわつかせた。夜になっても既読はつかなかった。真琴はしかし考え過ぎだと自身に言い聞かせてそれ以上の詮索をやめようとしたが、不安は消えずその晩はほとんど眠ることができなかった。
 翌日も由衣は学校に来なかった。担任からは「体調不良」との説明があった。真琴はそのときはまだ担任の言うことを信じていた。二日も学校を休むくらいなのだからよほどの体調不良なのだろうと思った。そうであればアプリのチャットに既読がつかないのも納得がいく。その晩も真琴は彼女にチャットを送ってみた。しかしやはり既読はつかなかった。真琴は二日連続でチャットを読む余裕もない体調不良とはどのようなものだろうかと考えた。風邪ならスマートフォンに目を通すくらいのことはできそうだし、寝込む以外にすることがなければなおさらそうしそうなものだ。しかしもしスマートフォンも見られないほどの体調不良なのだとしたら、それは非常に重篤なものではないかと考えられ、その仮説は真琴の胸をざわつかせた。彼はもし翌日も由衣が体調不良で欠席したら、担任に詳細を聞くか、あるいは由衣の親戚の家を訪ねてみようと心に決めた。このときの真琴の胸の底には彼女が自分を嫌いになったために彼女が自分のチャットを無視し、自分のいる教室に現れなくなったのではないかという不安が渦巻いていた。
 翌日の朝には急遽全校集会が行われた。由衣はその日も登校して来ていなかった。真琴は嫌な予感がした。全校集会では学年主任が壇上に上がってマイクに向かった。彼は「吉原由衣が行方不明になった」ことを淡々と告げた。体育館は不安と動揺の声でどよめいた。真琴は頭が真っ白になり、全身の感覚を失った。彼は日常のすべてやこれまでの出来事のすべてが一瞬にして意味を失うような感覚を味わった。学年主任からは事件性が懸念されるため、不要な外出を控えること、また吉原由衣と親しかった生徒には個別に教師が事情を尋ねる可能性があること、下校時にもできるだけ一人にならないようにすること、この事件に関して報道関係者が月見が丘で取材を行う可能性があるがそれに一切応じないことなどが注意事項として伝達された。
 二日前から担任から告げられていた「体調不良」は詭弁だった。実際には三日前の夜、つまり真琴の母と由衣の父が自殺をしたちょうど一年後にあたる日に由衣は親戚の家に帰らず、捜索願が出されていた。悠樹と杏奈は抜け殻のようになった真琴を案じて視線を向けたが、真琴はそれに気付くことさえできずにいた。
 真琴はその集会のあとすぐに担任の教師に呼び出された。彼は事件の捜査状況を担任から聞いた。最後に目撃された場所から彼女が月見が原の樹海に入ったことが推定され、重点的に捜索が行われたが発見には至っていないとのことだった。目的地周辺に遺留品がないこと、事件の目撃情報がないことから、拉致や誘拐などの事件の可能性は低いとされていた。由衣が自ら樹海に入ったとして、その動機に関しては様々な憶測が飛び交ったが、父親の命日と重なることから父親を失った悲しみによる後追い自殺という見方が非常に強いとのことだった。それを聞いている間も真琴はそれが何かの間違いか誰かの嘘なのではないかと思いたかったが、それが嘘の類ではないことを担任の口調が何度も物語っていたため、真琴の心はそのたび重苦しく沈んだ。担任は一通り事件に関する事実を真琴に告げた上で、真琴に「事件について何か知らないか」と尋ねた。「たとえば由衣の周りでここ数日不審ことがなかったか、あるいは由衣が何か悩んでいる様子はなかったか」など。真琴は自分が彼女の心の支えになれなかった現実を突き付けられているような気がして、消えてしまいたい気持ちに駆られた。彼は自分への呆れも込めて「わかりません」と答えた。話が終わって小部屋を出て教室に向かう真琴は肩を落としとぼとぼと歩いた。冬の冷たい空気の中で誰もいない廊下に響く彼の足音は一際虚しかった。
 教室に戻った彼はしかし頭の片隅の冷静な箇所で彼女の失踪の原因が自分ではないことを理解してはいた。同時に彼女の失踪を食い止めるだけの心の支えに自分がなれていなかった無力さに呆れた。また同時に彼女のことをわかっているつもりになっていた自惚れを自嘲した。つまり、自分は無力で無知で、とんでもない思い上がりだったのだ。
 次に彼が考えたのは「自分はこれからどうするべきか」だった。由衣にとって心の障害でも支えでも何でもなかった自分はこの件にどう関わればいい。何をすればいい。自分が今から何をしたところで、彼女の役に立つこともないだろう。だったらせめて、責任を取りたい。あんなに近くにいて、あんなにたくさんの言葉を交わしたのに、何もしてあげられなかった責任を、命を懸けてでも果たしたい。このときの真琴の胸中には、母を救えなかったときの悔しさが去来していた。その数分後に真琴は教師にトイレに行きたいと告げた。真琴は教室を出るとそのまま戻らなかった。彼はその足で樹海へ向かった。
「必ず見つける。必ず助ける。由衣、待っててくれ」
 そう呟いた彼は心に誓った。「命を懸けてでも由衣を助ける」と。



 樹海の入口の前にはウサギ教の総本山の白い建物があった。ウサギ教に対する世間の風当たりが強くなっていたため、彼らの活動規模は大幅に縮小されており、その建物に出入りする者の姿はなかった。人の出入りのないその大きな白い建物は人の出入りのあった頃に比べてさらに無機質に感じられた。屹立するその白い巨大な箱を見上げた真琴はうそ寒いものを感じはしたが、不思議とそこが母が命を落とした場所であることにより傷が疼くことはなかった。真琴が樹海の遊歩道の入口に辿り着いた時点ですでに日は傾きかけていた。暗い口を開けて待ち構える森に、真琴は鋭い覚悟の目を据えて歩を進めて行った。
 常緑樹からなる森は十一月だというのに青々と茂り日が差し込まず、そこに一歩踏み込んだとたんに空気はひんやりと冷たくなった。真琴は上着を椅子にかけたままシャツだけで来てしまったことを後悔した。しかしかえってそれが森を歩けば体が温まるし由衣の捜索が捗るという前向きな気持ちを働かせて真琴の足を前に押し進めた。
 真琴はしばらくそのままハイキングコースや散歩コースとして利用される広い平らな遊歩道を進み続けた。途中狐が祀られた小さな社を横目に見た真琴はそこを行き過ぎた辺りでその胸中に疑問が湧くのを感じた。それは歩けば歩くほど大きくなった。樹海に入った由衣はどこへ向かったのだろうか。そもそも由衣はなぜ樹海に入ったのだろうか。由衣が樹海に入ったのは集団自殺の事件があったちょうど一年後だ。由衣は何をしに樹海に入ったのだろうか。
 真琴の脳裏に最初に浮かんだのは由衣が自殺をしに樹海へ来たという推測だった。彼はそれを必死で否定しようとしたが、否定しきれるものではなかった。樹海では首吊りや餓死、凍死による自殺者があとを絶たない。孤独と不安を訴える由衣からのチャットアプリの文言が不意に思い出されて重く感じられた。
 次に真琴の脳裏に浮かんだのは由衣が精神的に追い詰められ、父の影を追い求めて樹海に入り、そのまま迷子になってしまったというものだ。真琴にはその確率も十分にあると考えられた。
 人間が水分も摂らずに生きられるのは三日が限界だという。由衣が森に入ってすでに間もなく七十二時間になる。真琴は焦りを覚えた。
 いずれが正解であるにせよ、由衣が進んだのは遊歩道ではない。おそらく遊歩道を外れて森深くへと歩を進めたはずだ。真琴は左に広がる手つかずの樹海の姿に目をやった。彼はその先に由衣が歩を進めて行く様を想像してみた。絶望に苛まれ、悄然と肩を落とし、自らの命を擲って深い森に彷徨い込む由衣の後ろ姿。真琴はそれをうまく想像することができなかった。真琴は益体のない思考に蓋をした。とにかく信じるしかない。信じたくもないが、この先に由衣がいると仮定して自分にできることをするしかない。彼は遊歩道を離れ、木の根や石ばかりで平らな部分のない地面に歩を進めた。歩くたびに段差が足腰に疲労をもたらし、遊歩道を歩いていたときのそれに比べて進む速度は格段に落ちた。白い息が顔にまとわりつき、それが寒さと疲労を嫌でも再認識させた。
 少し歩くと霧が濃くなった。また、幹の隙間から夕日が差し込むようになった。
 真琴の脳裏にはこの広大な樹海のどこかに由衣がいるとして、自身が彼女を発見できる可能性はどれほどあるかという問いがよぎった。そんなことは考えるな、とにかく歩け、と命じる熱い感情が萌芽したが、それでも冷静な頭の片隅がその問いについて考えずにはいられなかった。おそらく途方もない奇跡が起きない限りは彼女に行き当たることはできないだろう。このまま宛もなく歩き続けたところで由衣だけでなく自分までも遭難してしまう確率の方が圧倒的に高いだろう。
 真琴はそれに気付いてなお歩くことをやめることができなかった。由衣が失踪した原因は俺だ。いや、原因は他にあるのだろうが、彼女を救えなかったのは俺だ。救えたはずなのに救わなかった。守れなかった。彼女の失踪の原因が俺でないにしても、彼女の失踪の責任は俺にある。命を懸けてでも由衣を見つけ出す。小夜を守れず、母を守れず、由衣を守れず、そのうえ由衣を見つけることもできないとすれば、俺に何の価値がある? 空虚な穴の開いた心にそう問うた真琴は、自身がすでに自身の命に頓着する心を失っていることに気付いた。
 真琴の胸中には自責の念が湧き、それが彼に寒さも疲労も忘れて歩き続けさせた。
 日が落ちると森は月明かりの支配するほの暗い世界になった。ほとんど先の見えない起伏と障害物だらけの空間を真琴は手探りで進んだ。そこへ疲労も加わって歩くペースは格段に落ちていた。真琴は途中コンビニエンスストアに寄るなどして懐中電灯を買って来なかったことを後悔した。
 ふと、もう元の遊歩道には戻れないという考えが浮かんだ。樹海を遠くまででたらめに歩いて来た。もうこうなってしまってはすでに自分も立派な遭難者のうちの一人だ。真琴は歩を止めた。
 吐く息は濃く白く、それが宵闇に紛れて消えた。それを目の端に見ながら真琴は自身の約十五年間の人生について考えた。父を失い、小夜を失い、母を失い、由衣を失い、間もなく自身をも失う。それは自身にとってもっとも相応しい幕切れのような気がした。彼は自嘲した。なんと哀れで皮肉なことだろう。
 そんなことを思いつつ、しかし由衣を助けたい気持ちの萎えることのない真琴は再びゆっくりと樹海の奥へ向けて歩き出した。
「たすけて」
 かすかにそう聞こえた気がした。若い女性の声だ。真琴は歩を止め顔を上げた。何だ今のは。どこかに誰かがいるのか?
「たすけて」
 再び声がした。聞き間違いではない。今度は方角も距離も掴んだ。若い女性が助けを求めている。ただ、由衣の声には聞こえない。真琴はその方角に歩を進めた。
「たすけて」
「待ってろ! 今助けてやる!」
 真琴は急いだ。助けを求める人物が今どういう状態に陥っているのかわからない。とにかく確認して、できることをしよう。
「たすけて」
「待ってろ! もうすぐそっちへ行くからな!」
 声は確実に近づいていた。真琴はさらに進む足に力を込めた。
「たすけて」
 違和感を覚えたのは五度目にその声を聞いたときだった。声はすぐ近くからした。手を伸ばせば届きそうなほど近く。だがどこかに誰かがいる気配はない。辺りを見回し月明かりに目を凝らしながら真琴は叫んだ。
「おいどこだ! 助けに来たぞ!」
 動けなくなった誰かが木の幹に背を預けて助けを求めているのだろうか。あるいは地面に倒れているのだろうか。真琴は周囲の木の幹を回り込みながら確認し、地面の暗がりに横たわる影がないかと目を凝らした。しかしやはり人の姿はない。
「たすけて」
 六度目のそれが聞こえたとき、真琴はぴたりと動くのをやめて目を見開いた。それはすぐ耳元で聞こえたのだ。念のため辺りに首を振り向けるが人の姿も気配もない。何だ、何が起きている…? 愕然とする思考を巡らせながら真琴は呟いた。
「誰だお前…。どうやって俺に話し掛けている…?」
 答えはない。急いで歩いて来た真琴は肩で息をし、そのたびに白い息が細かく口からこぼれ出た。
 こぼれる息の白さが目についた。すぐに夜の闇に紛れて消えるはずのそれがいつまでも消えない。月明かりが濃くなったように感じる。もう朝が来たのかとさえ思うがそんなはずはない。だが森が明るい。木の幹も、地面の石も、木の根も、苔も、白く明るい。
「たすけて」
 七度目のそれは自身の体の内から聞こえたような気がした。何だこれは。俺の体はどうなってしまったんだ。そう考えた真琴が自身の両手に目をやるとそれは白く光っていた。森だけでなく不気味なほどに自身の手さえ明るい。いや、明るいを通り越してまぶしくさえある。
 真琴は今一度周囲を見渡して自身の体を見た。手だけではない、体じゅうが明るい。その段に及んでふと真琴は周囲の森を照らしている光源がほかならぬ自身の体であることに気付いた。体が白くまばゆく光っている。何だこれは。
 再び自身の両手を見た真琴はその先の地面が透けて見えることに気付いた。にわかには信じがたい現象を目の前にして、しかし真琴は頭の片隅で自身が「消えていっている」ことを知覚していた。寒さを感じる感覚が薄れるのと同時に、疲労感も薄れる。かすかに聞こえていた虫の声も葉の擦れ合う音も遠のき、地面を踏みしめる足の感覚もなく、まるで自身が宙に浮いているように感じられる。真琴は恐怖にたじろいだ。だが一方でその陶然とした感覚を受け入れる自分がいることにも気が付いた。
 自分が消える。自分がなくなる。自分が終わる。誰も救えずに。
 再び自身の体に目をやるとそれは先ほどより質感を失っていた。
 これが何の現象によるものなのかはわからない。だが自身の最期に相応しい幕切れだという自嘲が心を埋め尽くす。抗っても意味がないという諦観がそれに相乗する。
 やがて視界がぼやける。光も体の透明度もうまく把握できない。もううまく出せない声で真琴は呟いた。
「由衣、ごめん…」
 真琴の体は光に飲まれて消えた。樹海は嘘のように再び月明かりのほの暗さに支配された。
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