こころのみちしるべ

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アーケルシア編

023.『トラウマ』2

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 午後になるとケーニッヒとタルカスとリヒトは馬車に乗った。先代騎士王の邸へ向かうためだ。馬車の中でリヒトはケーニッヒになぜ騎士王はその職を辞したのか尋ねてみたくなった。それはこの国にとって、とりわけ騎士団に関わるリヒトたちにとって重要な事項であるにも関わらず明かされていなかった。次代騎士王の補佐となった自身にならそれを聞く権利はありそうに思えた。しかしやや野暮に思えてやめた。
 リヒトは車窓から遠くに黒く厳めしい王城を見た。それはおそらくこの国でもっとも大きく堅牢な石造りの建物だった。王が住まう城。その内部はどのような構造をしているのだろうかと心をはせたリヒトだったが、彼は間もなく異変に気付いた。馬車はその王城に近づくどころか、遠ざかっていたのだ。さすがにリヒトは疑問を呈した。
「王城に向かうのではないのですか?」
 ケーニッヒは一度驚きをその顔に見せたが、ふっと笑って何の気なしに否定した。
「いやいや、先代騎士王は王城ではなくお邸にお住まいになられておる」
 リヒトは呆然とそれを聞いた。それはリヒトの疑問の半分を解決していたが、もう半分を解決してはいなかった。王が邸にお住まいで王城に住んでおらず、我々の目的地が王城ではなくお邸であることはわかった。では王城には誰が住んでいるのだ?
 馬車は今朝リヒトが中央の騎士団庁舎に向かうのとは異なる道を進んだ。しかしそこでも街道にフラマリオンのような活気が見られることはなかった。
「どうだ、整然とした街並みであろう? このあたりはずっと俺が担当していたからな」
 ケーニッヒは誇らしげにそう言った。
「そうですね…」
 リヒトはぼんやりとそう答えた。タルカスは馬車の中でも一言も発しなかった。



 ケーニッヒとリヒトとタルカスを乗せた馬車はやがて北区にある一軒の邸の前へ着いた。そこはむしろ中央の騎士団庁舎や王城よりも同じ北区のリヒトの邸の方が近い場所だったが、リヒトはその邸を見るのは初めてだった。たしかにそれは歴史を感じる邸ではあったが、周りと比べると多少広い程度の印象しか受けず、元騎士王が住まうには質素な造りをしていた。ただ、周囲に咲き乱れる花々は美しかった。慣れたケーニッヒは特に遠慮もなさそうにすたすたとその中へ入って行った。タルカスとリヒトもそれに続いた。
 邸の中は花に彩られた庭とは対照的に殺風景だった。装飾はある。調度品はある。だが物が少ない。また、ほとんど人がおらず、出迎えさえなかった。ムーングロウ一の人口密度を誇ったフラマリオン出身であり、その君主たる神楽の邸に居住したリヒトにはそれが一際不気味に感じられた。
 邸に入ったケーニッヒとそれに続くリヒトとタルカスは正面の広い廊下ではなくすぐ右手の細い廊下を進み、やがて小さなドアの前で足を止めた。ケーニッヒはドアを二度ノックした。そして返事もないままそれを開けた。先代騎士王に謁見する前に誰か知人に会う用事でもあったのだろうかとリヒトは考えた。
 部屋の奥には一人の男が椅子に腰掛けていたが、それより先にリヒトはその脇に佇む一人の女性に目がいった。それはマリアだった。二人は目が合ったが、お互い執務中の身であるため、すぐに目をそらし会話は控えた。しかしマリアが傍にいるとなるとこの男はもしや…。
「騎士王、参上仕りました」
 ケーニッヒのその言葉にリヒトは耳を疑った。奥の椅子に腰掛ける男はマリアよりも簡素な身なりをしていた。だがよく見ればたしかに恵まれた体躯をもち、心身の強靭さを感じさせる男だった。リヒトも傭兵として前線で何度もその名と噂を耳にした。万軍に値する武勇をもち、知恵に長ける騎士王アストラ。彼は手にしていた書を脇のテーブルに置き、顔だけこちらに振り向けた。
「ケーニッヒか、よく来たな」
 ケーニッヒは初対面の際にリヒトに向けたような柔和な笑顔をアストラに向けた。
「お元気そうで何よりですな。こちらは本日より私の補佐にあたりますリヒトと申します」
 アストラは少し驚いた様子を見せた。
「そなたがリヒトか。噂はかねがね聞き及んでいた。傭兵団に万軍に値する猛者がいると」
 リヒトは恐縮し会釈した。
「もったいなきお言葉です」
 ケーニッヒはマリアの姿をしげしげと眺めて先代騎士王に伺った。
「時に、このご令嬢は…」
「ああ、新しい侍女のマリアだ」
 マリアはケーニッヒに向かって深くお辞儀をした。
「マリアと申します」
 ケーニッヒはそれを見て何か感じ入ったようだった。
「ああ、そうでしたか…」
 マリアを見つめたままケーニッヒはアストラに伺った。
「最近雇われたのですかな?」
「ああ、フラマリオンから落ちのびてしばらく別の貴族の邸で働いていたそうだ。そこの貴族が没落したそうで代わりに雇った」
 ケーニッヒはなおもマリアを見たまま何度も頷いた。
「おお、そうでしたか」
 ケーニッヒはマリアに向けてさわやかな笑顔を作って言った。
「奇遇ですな、こちらのリヒトも同じ境遇だそうですぞ」
 急にリヒトの名前が出てマリアは一瞬戸惑いを見せた。いっそ打ち明けようかとも思ったが彼女は他人のふりをすることを決め込んだ。
「左様でございますか」
 ケーニッヒはにっこり笑うとマリアに自己紹介した。
「私はアーケルシア騎士団副団長のケーニッヒです。よろしく」
 そう言って彼は握手の手を差し出した。マリアは遠慮がちにそこに両手を添えて会釈した。
「ケーニッヒ様、どうぞよろしくお願いいたします」
 ケーニッヒはさらにマリアに問うた。
「住まうところはどうされているかな? フラマリオン出身ではなかなか大変であろう」
「お気遣いありがとうございます。どうにか良いところが見つかりまして、何とかやっております」
 ケーニッヒは急に神妙な顔をして言った。
「実は儂の邸宅の部屋に空きがあってな、もし今の住まいに不便を感じておいでなら、引き移ってはいかがかな?」
 マリアは戸惑いながら遠慮した。
「いえ、もったいなく存じます」
 しかしケーニッヒはさらに踏み込んだ。
「遠慮することはない、生活も儂が面倒を見よう」
 ややためらいつつもマリアは言った。
「同居人も…おりますゆえ…」
 ケーニッヒは少しうろたえた。
「なんと…それは…ご友人かな…?」
「…ええ、まあ…」
「部屋の空きは残念ながら一つしかなくてな…。どうだ、お一人だけでも。もう一方は空きが出来次第面倒を見よう」
「もったいのうございます」
 ケーニッヒは粘った。
「遠慮するでない」
 マリアは迷ったが、リヒトとケーニッヒの関係を気遣ってリヒトの名は出さないことにした。
「一緒に落ちのびた者ですので、置いては行けません」
「ではこうしよう、その者の面倒も儂が見る。部屋は一つしかないが、金には多少の余裕がある」
「そんな…」
 見かねたアストラが笑いながらそこへ助け舟を出した。
「俺もそう言ったんだけどな。大切な同居人がおるそうな。たしか名前はリヒトと言ったかな。フラマリオンからともに落ちのびたそうだ」
 ケーニッヒは驚いてにわかにリヒトを振り返って見た。リヒトは少しだけばつが悪そうにした。ケーニッヒは再びマリアを見た。彼女は顔を赤くしてうつむいていた。うろたえるケーニッヒを見ていられなくなったのか、アストラが本題に入ることを促した。
「それよりケーニッヒ、今日は何しに来た」
 ケーニッヒはそう問われて慌てた。
「いやそうでした」
 用件を思い出したケーニッヒは急にかしこまった。
「いや騎士王お忘れですか! 私の騎士王の拝命ですよ!」
 アストラは何の気なしに答えた。
「ああそうだった。騎士王を決めねばな」
 アストラの話がそれ以上続かないのでケーニッヒは仕方なく相づちを打った。
「いやまったくですな」
 アストラはケーニッヒに尋ねた。
「時にケーニッヒ。お前はアーケルシアの敵は何だと心得る」
 問答が始まったことにも質問の内容にも驚いたケーニッヒは少し戸惑いながら答えた。
「それはもちろん…ルクレティウスです。国内の犯罪組織やビュルクの独立の動き、ロイシュネリアの動向も気になりますが、ムーングロウでアーケルシアに対抗しうるのはルクレティウスの他にありません。かの国を滅ぼせばアーケルシアの、ひいてはムーングロウの安寧は約束されましょう」
 アストラは賛否を示さずに問いを重ねた。
「では騎士団をどのように運営する」
 ケーニッヒはやはり戸惑いながら答えた。
「それは…アトラス殿の育てた規律と強壮さを基盤に据え、兵にはさらなる修練を課し、ルクレティウスを圧倒するほどの勢力に育てます」
 アストラは相づちさえ打たなかった。視線をリヒトに転じた彼の次の言葉はその場の誰もが予想だにしなかったものだった。
「ではそなたはどう考える、リヒトよ」
 ケーニッヒもマリアも驚いて同時にリヒトを見た。少し驚いたリヒトは、しかしアストラへの不敬を犯さぬよう、素早く考えを巡らせた。ケーニッヒへの問いの一つ目はアーケルシアの敵は何かであった。「敵」という言葉からリヒトが連想するものは一つしかなかった。
「オーガです」
 リヒトは繰り返した。
「アーケルシアの、いえ、人類の敵はオーガです」
 アストラは目を眇め、座ったまま体の向きを真っ直ぐリヒトに据え直した。
「そうか。ではそなたがアーケルシアの騎士王なら騎士団をどうする」
 二人の問答を唖然とした表情で見守るケーニッヒをよそにリヒトは素早く考えを巡らせた。しかしいかなる答えも出てこなかった。正確には選択肢はいくつか浮かんだが、どれも的を射ていないような気がした。フラマリオン独立。ルクレティウス打倒。国内の治安維持。
「それは…」
 アストラがその思索を打ち切った。
「良い。それでいい」
 それを聞いてケーニッヒは満足そうに笑った。
「さすがのリヒトにも少し早すぎる質問だったようですな。彼には私の補佐として傭兵の指揮を任せるつもりです。そこで経験を積めば自身の中の答えにも自ずと辿り着きましょうぞ」
 アストラはそれには取り合わずに言った。
「団長の任命は改めて書面にて言い渡す。庁舎にて待たれよ」
 ケーニッヒは再び唖然とした。
「本日拝命の儀を執り行うのでは…」
「ケーニッヒ。功を焦るな」
「…はい、しかし、団長不在の期間は我らアーケルシアの隙として見られます。ルクレティウスと国内の犯罪組織に増長の機会を与えるようなもの。一刻も早くアーケルシア騎士団の健在を内外にアピールすべきではございませんか?」
「いいよ、そんなの」
 あっさりと切り捨てられてケーニッヒは言葉を失った。アストラはケーニッヒを見て尋ねた。
「ケーニッヒ、アーケルシアという国は何のためにある?」
 ケーニッヒは慎重に、しかし語気を強めて答えた。
「それはもちろん、このムーングロウを統べるリーダーとして立つためにある国です」
 アストラは同じ質問をマリアにした。
「マリア、アーケルシアは何のためにある」
 マリアは唖然としつつも小さく口を開いた。
「そんな、答える立場にございません」
 アストラはリヒトを見て笑った。その目は「答えてみろ」と言っていた。リヒトにとって「国」として最初に思い浮かぶのはやはりフラマリオンだった。彼はフラマリオンが何のためにあるのか考えた。その答えはすぐに出た。
「その土地に住まう人々の心の拠り所であり、団結の象徴。それが国です」
 アストラは口の端を吊り上げて頷いた。
「そうだ」
 ケーニッヒは呆然としていた。
「だからな、ほんとは国の名前も城の大きさもどうでもいいんだよ」
 しばらくの沈黙ののち、アストラは言い足した。
「ただまあリーダーの器は大事だ。人がついていきたくなるリーダーの方がいいに決まってるからな。俺は自分で自分がその器だとは思わねえよ」
 アストラは自嘲気味に笑ってケーニッヒを見た。
「それにな」
 アストラは少しだけ神妙な顔をした。
「リーダーってのは楽なことばかりじゃない」
 彼は少し遠くを見た。話を続ける者はもう誰もいなかった。タルカスは結局一言も発しなかった。
 三人がアストラのもとを辞すとマリアは三人を馬車まで見送って深くお辞儀をした。



 翌日の午後、騎士団庁舎の副団長室で事件は起きた。部下から書簡を手渡されたケーニッヒは封書の裏の差出人を見て歓喜を顔中に漲らせた。差出人は先代騎士王アストラだった。普段書簡を開ける際には必ず執務席につく彼だが、そのときばかりは立ったまま机の上のペーパーナイフを鷲掴みにした。彼は先代騎士王からの頂き物を粗末にしてはならないという自戒の心と、早く自身が待ち望んでいた言葉をその目に入れたいと希求する心とに板挟みにされ、ペーパーナイフでそれを開く彼の手は大きく震えた。タルカスはいつも通りの平板な目でその所作を見ていた。
 中身を取り出し開いたケーニッヒの手の震えはぴたりと止んだ。代わりに彼は困惑に肩を震わせた。彼は見開いた目でたった数行しか書かれていないその書面を何度も読み直した。しかしそこに書かれている文言が変わることはなかった。彼は驚きと怒りの声を絞り出した。
「…何だこれは…!」
 彼の顔はにわかに紅潮し、そこには狂気じみた怒りの皺が刻まれた。彼は書簡を丸めて机に投げつけ、椅子を蹴り飛ばした。このときばかりはタルカスですらやや身じろぎした。
「何だこれは!!! ふざけんな!!!」
 ケーニッヒは肩で息をし、困惑する頭を自身が取るべき次善の策に巡らせた。ふと彼は目を見開いたまま笑った。そこには書簡の内容に対する呆れも込められていたが、同時にそれは思考の中で頭をもたげた恐ろしい企みの成就する様を思い浮かべての笑いでもあった。タルカスはやや怪訝そうな目をケーニッヒの顔に注いでいた。ケーニッヒは声を上げて笑い、それは次第に哄笑へと変わった。
「ははははははははははははは」
 傾き始めた陽が彼の笑いの皺を克明に浮き立たせていた。



 その日非番だったマリアは夕食の支度をしていた。リヒトの身の回りの世話をしながらできる仕事を探した結果辿り着いたのが貴族の世話係という今の仕事であり、雇用主が貴族から先代騎士王に変わった今も、いやむしろ先代騎士王に変わって以降さらに彼女には勤務日と勤務時間の選択の自由が大いに認められていた。一日中読書に耽っている王の世話は実のところほとんどやることがなかった。仕事の日は夕食が簡素なものになりがちだが、非番の日は少し手の込んだ料理を作るのが彼女の習慣だった。その日はスープとキッシュ、それに魚のソテーを準備していた。準備はすでに七割ほど完了していた。
 彼女は不意に何かの気配に気付いて左を見た。そこには居間から庭への出入り口があったが、いつの間にかそこは開け放たれており、その戸口には男が立っていた。彼女は恐怖に体をこわばらせた。
 最初にマリアが目を奪われたのは男の目だった。男はマリアをじっと見ていた。その目には好意も敵意もなく、それは感情の見えない平らな目だった。次にマリアは男の身なりを見た。男は恰幅が良く、甲冑を着込んでいた。彼女は彼の姿に見覚えがあるのを思い出した。ケーニッヒとリヒトとともに先代騎士王アストラの邸に来て一言も発せずに帰って行った無口な騎士だった。
 マリアは毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じた。彼女はこれが安全な状況であることを願った。この騎士の男は何か街の巡回中に職務上の理由があってこの邸に寄ったのではないだろうか。あるいはリヒトに用事があってここを訪れたのではないだろうか。そのいずれもが間違いであることを、しかし如実に物語るものこそが男の平らな目と、男が音もなく静かに現れたという事実だった。
「あの…何か…」
 マリアが平静を装いながらそう口を開くと同時に男は真っ直ぐにマリアに向かって来た。マリアは身を固くし一歩後ずさったが、その直後に男はマリアを床に組み伏せた。マリアは小さく悲鳴を上げたが、それは郊外の広い庭をもつ邸のキッチンの隅で上がったものであり、誰の耳にも届かなかった。男は甲冑を着込んだ大きな体でそのままマリアの華奢な体に覆いかぶさったため、胸を圧迫されたマリアはそれ以上声を発することができなかった。男はマリアの耳元に口を寄せると双眸と同じく平坦な声で言った。
「悪いな。これも命令だ」
 男はにわかに腰から何かを抜き取った。マリアの顔のすぐ右で何かが白く閃いた。彼女は目の端でそれを見て血の気を失った。それはよく手入れされてまぶしく輝くダガーだった。
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