こころのみちしるべ

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アーケルシア編

025.『闇』2

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 その数日後、リヒトはアストラの私邸へと向かった。訪れることはアストラにもマリアにも知らせていなかったが、事前に連絡のない突然の訪問を咎めるアストラではないことを知ってのことだった。
 リヒトは先日以来彼の私邸を訪れることを楽しみにしていた。そこはやや簡素で人気のなさ過ぎるきらいはあったが、召使たちの管理がよく行き届き、美しい草花で満ち、広すぎず狭すぎず、人の落ち着く最適な広さを有した空間だった。そこではゆったりと時が流れているように感じられた。
 しかしリヒトはその日楽しんでばかりいられないわけがあった。彼はアストラに頼まなくてはならないことがあったのだ。そしておそらくその交渉はきっと難しいものになるだろう。リヒトはそう考えると、彼の私邸に行くのが楽しみであると同時に気が重たくもあった。
 アストラの私邸に着くなりリヒトはマリアに出くわした。彼女は驚き一瞬口を両手で覆ったが、すぐにプロ然として賓客であるリヒトをアストラの書斎に案内した。
 部屋に入るとアストラはリヒトを快く迎えてくれた。彼は読んでいた本にしおりをはさみ、それを脇のテーブルに置いた。
「よう、来たか」
「ご無沙汰しております」
 リヒトは恭しく頭を下げた。
「楽にしてくれ」
 そう言ってアストラはリヒトに椅子を勧めてくれた。
「マリア、リヒト殿にお茶を」
 アストラは二人の関係を知りながらふざけてわざとらしくマリアにそう言いつけた。マリアはそれに応えるように笑ってお辞儀をした。彼女が部屋を出るときリヒトと彼女は互いに一瞥し笑顔を交わした。マリアが出て行くとアストラは他愛もない話を切り出した。
「最近小説ばかり読んでる」
「本当に本がお好きなんですね」
 アストラはちょっと驚いた顔をした。
「そうでもないさ」
 逆にリヒトが虚を衝かれた。彼は部屋の中を見渡して言った。
「これだけの書物をおもちなのですから、好きに違いありません。それにいつ来ても本を読んでいらっしゃる」
 先日ケーニッヒとタルカスとともにここを訪れた際にもアストラは書を手に持っていた。
「いやいや、これは前の住人が残した書物だよ。この部屋は前の住人の書斎をそのまま自分の部屋として多少改装したものなんだ」
 リヒトは先代騎士王が城をもっていないことにも驚いたが、それに加えてこの小さな私邸すらも自身のために建てたものではなく人の物を譲り受けたと聞いてさらに驚いた。
「アストラ殿が建てられたものではないのですか?」
「いや亡くなった貴族の私邸を譲り受けたものだよ」
 リヒトは無欲な騎士王をあらためて面白い人だと感じたが、すぐに彼の話が逸れてしまったことに気付いてそれを元に戻した。
「最近はどのような本を読んでいらっしゃるんですか?」
「ああ、これはルクレティウスの小説だよ」
 そう言ってアストラは自慢げにそれを見せてくれた。リヒトはさらに驚かされた。
「そんなものがアーケルシアで流通してるんですか!?」
 驚くリヒトとは対照的にアストラは平然と答えた。
「いや流通はしてない。フラマリオンで売ってたものを闇商人が仕入れて流してくれたものだ。この部屋にある本はほとんどが先代の住人のものだが、これは俺が貧民街で買った」
 リヒトは王が貧民街を出歩くと聞いて驚いた。リヒトは彼の人柄を知っていたため、だんだんと遠慮なしにものを聞くことができるようになっていた。
「敵国の図書を読むことに抵抗はないのですか?」
 やや不躾な質問ではあったが、アストラはやはりまったく気にしなかった。
「いや全然。文化に国境も戦争も関係ねえよ」
 アストラの言葉はまさしく正論だったが、彼にアーケルシア騎士王だった頃の面影を見ることができないリヒトは今日の交渉が難しいものになるという予感をさらに強めて心の中で小さく嘆息した。アストラはぽつりと付け加えた。
「戦争なんてさっさと終わればいいんだ」
 リヒトは唖然とした。
「あなたなら終わらせられたでしょう?」
 アストラは自嘲気味に笑った。
「これは商人が商人のために始めた戦争だ。俺に止める力はねえよ」
 リヒトは商人の意見に振り回される国を憂うとともに、椅子に座り毎日多くの時間を読書に費やす目の前の男に悲哀を感じた。そうこうしているうちにマリアがお茶を持って来た。マリアはまずアストラが飲んでいた冷めたお茶を新しいものに替え、続いてリヒトにお茶を注いだ。それを一口飲んだリヒトは家で飲むお茶と違うのでどこの原産の茶葉なのか聞いてみたくなったが、きっとアストラは「闇商人から仕入れたロイシュネリア産の茶だぜ、うまいだろ?」などと平然と言いかねないなと思ってやめた。
 マリアがお茶を注ぎ終わって部屋を辞すと、アストラはカップを片手に立って窓辺に行き、窓の外の中庭を見た。彼はリヒトに背中を向けたままこう切り出した。
「で、今日はどうしたんだ?」
 少し声のトーンが神妙なものになっていた。リヒトはアストラの背中を見た。声音からアストラが単刀直入な話を求めていることを悟ったリヒトは腹を括ってそれに従うことにした。
「騎士団に戻ってください」
 アストラはそれを聞いてもまったく驚きもせずにお茶をすすっていた。彼はお茶の味をしっかり楽しんでから冗談交じりに尋ねた。
「どうした? ケーニッヒが頼りないか?」
 リヒトはケーニッヒに関して思うところを素直に言おうか迷ったが一旦否定することにした。
「いえ、そんなことは」
「それならルクレティウスとの戦いが不安か?」
 リヒトは少し迷ったが、そこは素直に認めることにした。
「ええ、まあそうです」
 リヒトはアストラの反応を恐れたが、意外にも彼はリヒトを肯定した。
「まあ、そうだろうな」
 リヒトはアストラの言葉を待った。アストラは振り返って机の天板に腰を預けた。
「今のアーケルシア騎士団じゃルクレティウスには勝てない。それどころかフラマリオンの奪還も厳しいだろうな」
「あなたのお力が必要です」
 アストラはふっと笑った。
「いや、俺がいても同じだよ。アーケルシアが勝てない理由はそこじゃない」
 リヒトはアストラの考えに興味をもった。
「ではアーケルシア騎士団に足りないものは何とお考えで?」
 アストラはしかし答えを簡単にはくれなかった。
「先にリヒト、お前の考えを教えてくれ」
 リヒトは顎に手を当てて下を向いた。リヒトをじっと見ながらアストラは楽しそうに答えを待った。リヒトは修練場を見た日のことを思い出した。その日感じた直感をそのまま口にした。
「騎士の堕落です」
 アストラは目を閉じて深く頷いた。
「その通り。わかってるじゃねえか」
 彼は少し表情を険しくした。
「つまり組織としての体制を変えなきゃだめだ。そして同時に国としての体制も」
「どう変えるべきとお考えですか?」
「体制を変えるにはまず騎士を一般的な職分とすべきだ。騎士イコール金持ち、騎士イコールエリートじゃ騎士になれただけで堕落しちまう」
 リヒトは小さく何度も頷いた。たしかに修練場を訪れた際に見た騎士たちにはそのような堕落が感じられた。
「しかしこの国の経済を牛耳ってるのは商人だ。貴族じゃねえし宗教家でも騎士団でもねえ。で、商人がまともに商売するには騎士団の保護が必要だから奴らは騎士団に金を払う。そんで騎士団は金持ちになるしそのせいで騎士はのぼせ上がる。他方ルクレティウスは経済が腐ってねえから騎士が一般的な仕事として認知されてる。だからルクレティウスの騎士は国民のために真面目に働いてる」
 リヒトはアーケルシアの腐敗の根幹と、それを正すにはどれだけの努力と働きかけが必要かを知り気が遠くなった。それを見透かしたようにアストラは笑った。
「な? 気が遠くなるだろ?」
 リヒトもまた笑った。
「ええ、まあ…」
「もう一つ気の遠くなるような話がある」
 リヒトは唇を引き結んでアストラの言葉を待った。
「商人が経済を牛耳ってるって言ったがこの国には闇商人ってのもいる。普通は流通させちゃいけねえようなもんを売り捌いてる連中だ。で、商人は騎士団を用心棒にしてるが闇商人は何を用心棒にしてると思う?」
 リヒトは答えにピンときた。
「虎狼会」
 アストラは深く頷いた。
「まあ、虎狼会だけじゃねえが一番デケえのは虎狼会だな。つまり犯罪組織だ。でヤツらはこの国に居場所を占めてるし、ヤツらがいるせいで国の腐敗は止まらねえ。騎士団が堕落してる原因にはルクレティウスだけじゃなく虎狼会をはじめとする犯罪組織とも戦わなきゃいけねえっていう前途多難な状況がある。騎士団の連中は全員頭のどこかで並の努力と工夫じゃこの国はもうまともな国には戻らねえことに気付いてる」
 リヒトは気を落としたが同時に話の流れはアストラを説得するのに好都合であるようにも思えた。
「であればこそ、あなたの力が必要です」
 アストラは首を横に振った。
「言っただろ。俺がいたところで何も変わらねえ」
「そんなことは——
「あるさ、現に変わらなかったんだ」
 リヒトは口をつぐんだ。何も返す言葉が見つからなかった。アストラは遠い目をしていた。
「一人で戦ってた気分さ。ずっとな」
「…」
「レオとの…、ルクレティウスの大将との一騎打ちは最高に楽しかったな…」
 そう独りごちてアストラは笑った。リヒトは意を決して伺った。
「それで…騎士団をお辞めになったのですか?」
 アストラは少し驚いたが、しかしすぐに神妙な顔になって言った。
「いや、それが理由ってわけじゃねえんだけどな…」
 リヒトは聞かねばならなかった。
「ではどうして…?」
 アストラは少しだけ逡巡した。
「いや、それは答えられねえんだ」
 リヒトはアストラがそれを言えない事情について考えてみたが理由はまったくわからなかった。彼が語ろうとしない以上仕方がないのでリヒトは話頭を転じることにした。
「では、どうすればこの国は変わりますか? せめてお知恵だけでもお貸しください」
 アストラはリヒトを見た。それは自身の無力を知る哀れな先輩からその重責を背負わされた哀れな後輩に向けられた哀れみの目だった。アストラはカップを机に置き、一つ息をついてから言った。
「さっきも言ったが中から騎士団を変えようとしたって無駄だ。この国の体制が腐ってる以上そっちから変えなきゃ騎士団は変わらねえ」
 リヒトは騎士団を変える方法について自分なりに考えてみた。しかし良い方法は簡単には見つからなさそうだった。
「一つだけ方法はある」
 リヒトは驚きとともにその答えを待った。
「まあ正確に言や『一つしかない』と言うべきか」
 リヒトは一刻も早くそれを知りたくなった。
「教えてください!」
「虎狼会を潰せ」
 リヒトは意外な答えに唖然とした。
「虎狼会を潰せば闇商人の力が下がる。そうすれば闇商人と虎狼会が得た富を騎士団が接収できる。そうすればもはや騎士団は商人の傀儡ではなくなる」
 リヒトはそれを想像した。たしかにその理屈は成り立つような気がした。
「そしたら傭兵をもっと広く雇え。傭兵は騎士団連中と違って士気が高いし腕が立つ。お前がいい例だ。彼らに戦果によっては騎士団に正式に加入させること、さらに戦果を上げれば騎士団の要職に就かせることを約束するんだ」
 リヒトはそれによって騎士団が変わっていく様をはっきりと想像できた。
「そしたらフラマリオン奪還が視野に入る。もしフラマリオンを奪還できれば商人の発言力はさらに下がる。領土奪還によりアーケルシアの国力も高まり、軍備をさらに増強すればルクレティウス打倒が視野に入る」
 リヒトはその筋書きに感服した。だが同時にまだ肝心な部分が明瞭ではないことに気付いていた。リヒトはそれを確かめなければなかなかった。
「騎士団は長らく虎狼会に手を焼いてきました。今の騎士団に虎狼会が倒せますか?」
 アストラは目を閉じて首を横に振った。
「いや、無理だろうな」
 リヒトは唖然とした。まずもって根本が成り立たないとは。アストラは言い足した。
「まあ正確に言えば可能だとは思う。だが騎士団が虎狼会に手を焼いてきたのには相応の理由がある。ヤツらには潤沢な資金がある。それに騎士団が長らく蔑ろにしてきた貧民街の住人を味方につけてるから人員も豊富だ。騎士団が富裕層の代表なら虎狼会は貧民の代表。つまり国を二分して争い合ってる状況なんだ。手を焼いて当然だ。まあそれだけなら何とかなるが、問題はルクレティウスの存在だ。騎士団が虎狼会と全面戦争を始めればその隙を黙って見てるルクレティウスじゃない。必ず攻め込んで来る。それに虎狼会は中央だけじゃなく貧民街や各地に拠点をもってて神出鬼没だ。ヤツらとやり合えば必ず消耗戦になる。そんな状態じゃルクレティウスの侵攻を止めることはできない」
 リヒトは眉を顰めた。
「ではどうすれば虎狼会に勝てますか?」
 アストラは口の端を吊り上げた。
「虎狼会はカリスマ的な首領が立て、周辺の組織を吸収してたった数年で超巨大に膨れ上がった組織だ」
 リヒトは命題の答えに気付いた。
「巨大な組織をつなぎとめる楔を引っこ抜いてやりゃ組織は瓦解する」
「つまり、首領を討つ」
「ああ。そのためには奇襲討伐のための少数精鋭の作戦班が要る」
 リヒトは思案した。
「となると、そのための人員を確保できるかどうかですね…」
「そこはお前の手腕次第だな。当時の俺はそこまで手が回らなかった。理由は言えねえが騎士を辞めたくなっちまったんだ。今の騎士団は実力主義じゃねえ。ただの腐敗した沽券の飾りもんみてえな連中が幅を利かせてる。ケーニッヒがいい例だ。だが中には強えヤツがどこか下の方に紛れこんでるはずだ。そいつを見つけて何とか手なずけろ。あるいはいっそ騎士団以外から探すのもアリかもな」
 リヒトは目を眇めた。
「それはどういう…?」
「まあ傭兵を抜擢してみるとかな。傭兵上がりのお前なら何か宛があるかもしれない」
「なるほど」
 リヒトは考えてみたが、傭兵団にいた頃の同僚に奇襲作戦に向く人材は思いつかなかった。それよりもリヒトはもう一つだけアストラに確かめたいことがあった。
「私は虎狼会の首領に勝てますか?」
 アストラは笑った。
「お前の実力を知らないが、多分勝てる」
 だがすぐに彼の目は険しくなった。
「だが気をつけろ。ヤツは悪知恵が利く。相応の手練れを手駒として配しているはずだ。簡単な戦いにはならない」
「はい」
 アストラはそこまで話すとふと肩をすくめて自嘲した。
「まあ、いろいろ今の騎士団の悪口を言っちまったが、誰より腐ってたのは俺だってことだな。奴らは少なくとも騎士団にいる。俺は騎士団ごと辞めちまってこんなとこで本なんか読んでんだからよ」
 リヒトはそんなアストラを見て彼にこれ以上重ねて『騎士団に戻ってください』と言うのはやめようと思った。リヒトはお茶にほとんど手を付けていないことに気付いた。彼はそれをもう一口飲んだ。豊かな香りのする美味しい紅茶だった。
 不意に正面の視界がぱっと明るくなってリヒトは顔を上げた。そこには部屋から見渡せる一面の中庭があった。中庭は光がよく差し込むように南側に遮蔽物がないように設計されており、雲の切れ間から日が差すと非常に明るかった。そこはよく手入れされ、花が活けてあった。木が並び、草が生え、すべてが調和しているように見えた。それらの花や草木は幾何学的に配置されているわけではなく、複雑な位置関係をもっていたが、そのバランスの妙こそがその庭の美しさを作っているように見えた。リヒトはそれに目を奪われた。先ほども先日もアストラの言葉に耳を傾けることに注力するあまり、その美しさに気付かなかった。
「綺麗だろ?」
 アストラが声を掛けてきたことでリヒトは我に返った。
「ええ、素敵な庭です。花がお好きなのですか?」
「いや、そうでもない」
 アストラはあっさりとそう答えた。リヒトは少し訝しそうにした。
「…?」
「これは貧民街で花屋を営んでた女に手入れをしてもらったんだ」
 リヒトはアストラが本を買いに貧民街を訪れたと言っていたことを思い出した。
「貧民街に行かれたのは公務ですか?」
 アストラは笑って平然と答えた。
「いや、散歩だよ」
 リヒトは唖然とした。たしかに貧民街は遠いが無理をすれば歩いて行ける距離にある。光とともに常に影があるように、中央の市街とスラムは密接不可分の関係にある。
「貧民街にはよく行くよ。楽しいし騎士王になる前もよく行ってた。地下格闘技場もあるし、エッチなお店もあるし、見世物小屋もある」
 リヒトは反応に困った。「多趣味なんですね」と言おうか迷ったがそれさえ憚られてやめた。アストラはそこで少し遠い目をした。
「そこで女と出会ったんだ」
 彼は庭の方を見ているようでもあり、その情景とともに思い出す遠い記憶を見ているようでもあった。
「彼女は小さな屋台で花を売ってた。貧民街ではずいぶんといろんな店を見つけたけど、思えば花屋を見つけたのはそれが初めてだったよ。中央ですら花屋はほとんど見ない」
 リヒトはアーケルシアの貧民街で花を売っている女性を想像したがうまくいかなかった。
「色は浅黒く、痩せていて、きびきびと動いてよく働いた。花の手入れをするときも、客と接するときも、通行人と話すときも、そして客も通行人もいない雨の日でさえ彼女は笑顔だった」
 そこでアストラは肩をすくめて笑った。
「ただ貧民街じゃ犯罪も多いし女が一人じゃ危ないだろ? さすがに見るに見かねて声を掛けたんだ」
 リヒトはアストラがその女性とその後どうなったのかに興味をもった。
「何て声を掛けたんですか?」
「とにかく危ないから中央で花を売ってくれって頼んだんだよ」
「そしたらどうなりました?」
「断られたよ」
 リヒトは少しだけ目を眇めた。
「何でも貧民街で売るから意味があるんだそうだ。彼女は言った。『自分は貧民街の出身で、この街を彩りたくて花を売っています。中央に花を売りに行くこともありますが、今日は貧民街で売る日と決めているんです』」
 リヒトは心を打たれた。本当に気丈な人だなと思った。その女性に入れ込むアストラの姿が目に浮かんだ。
「でもやっぱりさすがに放っておけなくてな…」
「それはそうでしょう」
「で、よく見ると彼女の屋台の品ぞろえは豊富で花だけじゃなくて草や木の苗も売ってたんだ。よくよく話を聞くと木は果物を育てる苗なんだそうだ。草は香りを添えてくれて空気も綺麗にしてくれるハーブの一種なんだそうだ。花だけが美しいわけじゃない。草木があるから花が映えるんです。彼女はそう教えてくれた」
 その女性の話をするアストラは嬉しそうだった。
「そこでピンときたんだ。この子に俺の庭師になってもらおうって」
 リヒトの顔に笑みが灯った。
「最初は断られたよ。やっぱり貧民街で花を売りたいらしい。でも身分も何もかも明かした上で、それ相応の額を払うことも伝えて、その金で貧民街を豊かにできるんじゃないかって説得したんだ。そしたら承諾してくれたよ。期間限定で庭を整えるって」
 リヒトにはアストラが一流のナンパ師の才能を備えているように思えてきた。
「これは彼女が作ってくれた庭だよ」
 アストラはそう言ってあらためて目を細めて庭を見た。リヒトも同じようにした。
「それから彼女にはこの邸に泊まり込みで働いてもらった。服は一着しかもってないと言ったので何着か買い与えた。痩せてたので食事も与えた。彼女は断ったが、給与の一部だと言って説得した。風呂も水浴びで済ませてたと言うので毎晩湯を張った風呂に入れてやった。彼女は戸惑いながらも感謝してくれたよ」
 リヒトは話を聞いていて嬉しくなった。
「驚いたのは彼女のプロ根性だよ。彼女は俺が起きるより早く庭仕事を始めてるんだ。俺も前の持ち主も庭には疎かったから荒れ放題だった。ほとんど原野といっていいくらいに。それを丁寧に彼女は整えていったよ。女性なのに汗をかくのも汚れるのもいとわなかった。虫も平気で、蚊に刺されても気にしなかった。彼女は何時間働いても疲れたそぶりを見せなくて、本当に朝から晩まで働いてたよ。彼女がこの邸にいた期間中は彼女を太らせてやるつもりで本当に彼女にはうまいものを食べさせた。お菓子を買って来ては休憩を与えて話し相手をさせた。しかし彼女は食べてエネルギーを得れば得るほどそれを作業に使っちまうから結局少しも太らなかった」
 アストラはそこで一つ息をつき、寂しそうな顔をした。
「庭は見違えるほどに美しくなった。彼女は庭が出来上がると約束通り邸を出て行った。引き留めたがまったく聞かなかった。ただ深々とお礼をして笑って出てったよ。だから俺は花も草も木も別に好きじゃない。ただ彼女と彼女の心根と彼女の仕事ぶりが好きなんだ」
「名は何とおっしゃるんですか?」
 アストラはリヒトの方を向いて笑った。
「オリビア。俺が知る限り最高の花屋であり庭師だ」
 話が一段落しお茶を飲み終えるとリヒトは立った。結局アストラを騎士団に引き戻すことは叶わなかったが、先輩から有意義なアドバイスをいただけたリヒトは深く礼を述べた。部屋の出口まで歩を進めたリヒトをアストラが引き留めた。
「ちょっと待て」
 リヒトは不思議そうにアストラを見た。彼は書棚に向かい、その端にある古びた本を一冊抜き取った。それは黒い装丁をした小さい本だった。彼はそれを手に取ると少し難しい顔をしてじっと掌中のそれに目を落としていた。彼はその顔を上げてリヒトに近づいて来てその本をリヒトに手渡した。リヒトはそれを受け取り、タイトルの書かれていないその表紙に目を眇めてからアストラを見た。
「それは『禁書』だ」
 リヒトは目を見開いた。禁書とはこの世界の秘密と歴史が書かれているという伝説的な書物だ。実在するかどうかさえ不確かな伝承の遺物。
「それはある方からいただいた本だ。アーケルシアというこの世界を統べるほどの大国の王にこそこの本を託したいとその方は俺にその本を譲ってくれた。俺が騎士王を辞めた理由もそれを読んだことが原因だったりする。何かに行き詰まったときに読め。お前が何かを判断する一助になるかも知れない」
 リヒトは本を持つ手に急に重みを感じた。まだ唖然とするリヒトにアストラは言った。
「時間がなければ特に聖剣に関する章だけでも読んでみろ。虎狼会の首領ゼロアは聖剣に興味をもっている。何かヤツの弱みを握れるかもしれない」
 アストラを見上げたリヒトはまだ返す言葉を見つけられずにいた。リヒトは手の中にある本の厚みも重さも、雑に扱えば綻んでしまいそうな年季の入った装丁も持て余して愕然としていた。



 リヒトが帰るとアストラは再び籐椅子に腰掛けて書を読み耽った。彼は夜になって少し肌寒くなるとひざ掛けと肩掛けをして燭台に灯りを点けてそれを続けた。マリアは何度もお茶を注ぎに来てくれた。茶菓子を添えるのも忘れなかった。彼は本を読み耽るあまり食事を抜かすことがあったが、茶菓子がその代わりになった。アストラは小説の一節に好きな言葉があると、それをテーブルに置いた手帳に書き留める癖があった。手帳にはそんな彼のメモがびっしりと並んでいた。メモするときは羽根ペンを使った。彼は気分によってペンを使い分けられるようデスクに複数のつけペンを置いていた。中庭を眺めながら本を読み、マリアの淹れたお茶を飲み、気に入ったフレーズを見つければそれを手帳に書き留める。それはアストラの今の生活の唯一の楽しみであり彼は一日のほとんどの時間をそれに費やした。アストラが読んでいた本は分厚く、味のある装丁をしていた。それは先刻リヒトが訪問した際に読んでいたルクレティウス人の書いた小説だった。彼は分厚く美しい装丁の施された本が好きだった。前の住人もそうだったらしく、この部屋にはそのような本が一年や二年では読み終わらないほどあった。彼は紅茶を一口飲み、それをソーサーにゆっくりと戻すとページをめくった。
 不意にランプの火がゆらり、とゆらめいた。窓を閉め切っているため風はなかった。またマリアがお茶を注ぎ足すタイミングにしては早すぎた。何よりゆらめき方は鋭く、ゆらめいたのはほんの一瞬だった。アストラはそれを横目で見て何気なくぽつりと呟いた。
「賊か…」
 開いた扉の向こうから一人の黒衣を纏った小柄な男が姿を現した。薄暗い空虚な瞳をもつ男だった。彼はその視線をアストラに据えて静かに佇んでいた。
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