ドクター

高端麻羽

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ドクター

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「ただいま…」
深夜に玄関から聞こえた声は、ひどく力が無い。
昨日の昼、勤務先の病院から緊急招集を受けて飛び出して以来の帰宅である。
「お帰りなさい」
「起きてたのか」
出迎えた私に、彼は笑いかけた。
だがその表情にも精彩が無く、単に疲労しているだけではないと、今までの経験で直感する。
「…何か食べる?」
「後でいい。先にシャワー浴びるから」
カバンを受け取り、バスルームへ向かう彼を見送って、キッチンで飲み物を用意した。
いつもはコーヒーを沸かすのだが、今夜はあえて酒を選ぶ。
彼は仕事の愚痴を一切こぼさないが、たまにこんなふうにわかりやすく態度に出る事がある。
それは彼の中だけで対処できなかったゆえだろう。
妻である私でなくても、大方の察しはついた。


「先に寝てていいんだぜ」
「付き合いたいのよ」
普段より時間をかけてシャワーから出て来た夫の隣に座り、私もグラスワインを取り出した。
彼は苦笑しながら、出されていたブランデーを飲み始める。
しばし無言で二人はグラスを傾けていたが、見抜かれている事は一目瞭然で、降参したように彼は口を開いた。
「……昨日、呼ばれてっただろ」
「…ええ?」
「入院患者だったんだけど、急変してな…」
「…ええ」
平静を装ってはいるが、その口調は みるみる内に沈んでゆく。
「………がんばったけど、ダメだった」
「…そう…」
テーブルに置いたグラスの中の液体を見つめるように、更に俯いた。
医師は患者を助ける一方で、力が及ばない場合もある。
救急外来に勤務して以来、何度経験していても、その都度苦しんでいるようだった。
医者がそんな有様では身がもたないだろうと思うが、それは彼の優しさゆえだから仕方ないのかも知れない。
私は彼を抱き寄せ、静かに告げる。

「……医者は神ではないのよ」

たとえ世界有数の名医だとしても、助かる命と助けられない命がある。
それは彼にもわかっているはずなのだが。

「……助けてやりたかった。まだ7歳だったのによ…」
妻の胸にすがるように頭を寄せて、夫は呟いた。
どんな患者でも命の尊さは同じだけれど、年端もゆかぬ子供が亡くなるのは、本当に辛い。
夢も希望もあったはず。
生への渇望もあった。
病に蝕まれても必死で戦い続け、未来を勝ち取ろうとがんばっていたのに。
「オレもまだまだ、足りないなあ……」
「……あなたは充分よくやったわ。お疲れさま」
少し湿った黒い髪を撫ぜながら慰労する。
夫は最善を尽くしたのだ。その事実だけを誇りに思おう。
医学は日々進歩しているから、次に同じ病気の子供と出会ったら、その時こそは治せるかも知れない。
いや、治してみせよう。
そんな明日を信じて、医師は白衣をまとうのだ。

「医者が奥さんに癒されてりゃ、世話ないよな…」
「……妻としては及第?」

『妻としては』と言ったのには理由があった。
以前、私は子供を流産している。
常に月経周期が不安定だった為、妊娠の事実に気づかず多忙な仕事を続けていたせいで、胎児は初期に流れてしまった。
病院で初めてそれを知った時、衝撃に打ちのめされ、また自責に苛まれて、ひどく落ち込んだ。
事態を聞いて駆けつけた彼に何度も謝り、女として失格だと自己嫌悪に陥った。
そんな私を支え、慰め、立ち直らせてくれたのは、やはり彼である。
以来、私は仕事を辞め、望まれるまま彼の妻となり今に至る。

「お前はオレの、最高のホームドクターだよ」
寄り添う細い身体を抱きしめて、彼は言った。
守りたいもの、慈しみたいもの、大切なもの。すべてはこの腕の中に存在している。

「命は廻り、転生し、再びどこかに生まれて来る……そんな教えの宗教があったな」
輪廻転生も、神の存在も、ずっと信じてはいなかった。
だけど今、それは真実であると思いたい。

「ねえ、あなた」
「ん…?」
「今、言うべきかどうか迷ったけど、やはり言っておきたいわ」
私はやわらかな笑顔で夫を見つめた。

「……私、子供ができたのよ」

失われてしまった命がある。
新たに芽生えた命がある。
命が廻り、転生し、再びどこかに生まれて来るのなら。

「本当か…!」
しばし目を真ん丸くしていた夫は歓喜の声を上げた。
それから妻の腹部に顔を寄せ、愛しげに擦り寄せる。
「今度こそ、無事に産んであげたい…」
「大丈夫、無事に生まれて来るさ。……オレが守るからな」

包むように抱きしめる夫を抱き返しながら、私は微笑した。

そう、きっと大丈夫。
今度は、世界一の名医が傍にいるのだから。

「生まれて来るまで、よろしくお願いね。ドクター」
「任せとけ!」


今日 消えてしまった命の灯も、いつか新たな命となって、この世に還って来るのかも知れない。


 ――― それは、新たな希望の日々の始まり。
       
   
 END
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