彩りの月

高端麻羽

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~霜降~

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季節は巡り、再び秋が来た。
山寺は標高の所為か、人里よりも冷え込みが厳しい。
その日、十夜は住職に依頼され、小僧達と共に冬支度を開始した。


今年は秋の収穫も豊作で、自然の恵みはそのまま寺の食卓を飾る。
秋晴れの天日に布団や半纏を干し、防寒衣を揃えてゆく。
広い境内の一角で焚き火をしながらの作業は、どこか娯楽にも似た楽しさで、年少の小僧たちも嬉しそうだ。
片付け終わる頃には、焚き火の中の栗や芋も食べ頃になっているだろう。
蔵から出した大きな古い火鉢を運びながら、十夜ははしゃぎまわる小僧たちの喜ぶ顔を思い、微笑する。

だが次の瞬間、小僧の一人が悲鳴を上げた。
次いで聞こえたのは、境内を囲う柵が壊れる音。
「!!」
一頭の大きな猪が、こちらに向かって突進していた。
驚いた小僧たちは逃げ惑い、転び、助けを求める。
「十夜さまあ!!」
「伏せろっ!」
反射的に、体が動いた。
いや、すべてが無意識だった。

どすんと大きな音を立てて、猪が倒れる。
「……!?」
恐る恐る顔を上げた小僧たちよりも、一番驚いたのは十夜だった。
猪の脳天には、火箸が突き刺さっている。
それは十夜が、抱えていた火鉢の中から咄嗟に掴んで放ったものだった。
火箸は寸分たがわず急所に命中し、猪は一撃で絶命している。
「…………」
十夜は呆然と立ち尽くす。
偶然とか、運が良かったとかでは済まされない何かを感じずにはいられない。
わずかでもコントロールを誤ったら、傍にいた小僧を傷つけていたかも知れないのに、そんな危惧は少しも無かった。
火箸を投げようなどと、考えた事もなかったのに。
あの一瞬、自分が自分ではなくなったような気がした。

――― いや、もしかしたら本来の自分に戻ったのかも知れない。
記憶に無い過去の己は、そんな物騒な人間だったのだろうか。

その事実に戦慄する。
だが同時に、自分の中で何かが目覚めた気配があった。


「小僧を助ける為とはいえ、境内で殺生に及んだ事は反省せねばならんぞ」
「承知しております」
住職の諫言を受け、十夜は本堂に正座する。
僧侶でなくても、寺で生活している以上、郷に入っては郷に従うのが筋だから。
「和尚殿」
「何じゃな」
十夜は、心にかかっている不安を口にした。
「……私は、人や動物に対して平然と刃物を投げるような人間だったのでしょうか」
少なくとも、無意識に急所を狙えるほど慣れていた事は否定できない。
だとしたら、それこそ仏に許しを乞わねば。
困惑して俯く十夜に、住職は静かな目を向ける。
そして、穏やかな口調で告げた。
「……むしろ鍼灸師として修業していたと考える方が、御主には似合いじゃな」
「鍼灸師…ですか?」
「礼儀作法が身についている御主の事じゃ。仮に武術の鍛錬を積んだのであっても、少なくとも人を傷つける目的ではあるまい」
住職の言葉に、十夜は救われたような気持ちになる。
「では、私は鍼灸の心得があったのでしょうか」
「それは儂には判断できぬ」
十夜は少しだけ落胆した。
もし自分が特別な技術を学んでいたのなら、身元を知る手掛かりになるかも知れないのに。
せめて人を傷つける為ではなく、人を守る為に得たものであって欲しいと願う。

 ――― ……を、守る為に。

(……!?)
瞬間、十夜の胸が締め付けられた。
何だろう。今、何かを思い出しかけた気がする。
しかし、不意の頭痛が思考を遮った。
「どうした」
「……いえ、少し頭痛が」
それは以前から、時折起こる症状。
医師からは心因性の無害なものだと診断されているが、この痛みが記憶の復活を邪魔しているような気がしていた。
こめかみを押さえる十夜に、住職は無言で合掌する。
「すべては、御仏の遣わされた試練じゃ」


住職が立ち去った後も、十夜は正座を崩さず黙考する。
自分は何者か。なぜ過去も家族も忘れて此処にいるのか。
堂々巡りの思考はいつもの事だ。
月を眺めて心を落ち着けたかったが、窓を閉じた本堂からは外が見えない。
闇夜を照らす月は、きっと以前の自分をも見下ろしていた。
唯一、失われた己を知る存在。
その気高く美しい輝きに、愛しささえ感じている。


月に焦がれる思いを堪え、十夜は目を閉じた。


続く
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