彩りの月

高端麻羽

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~春朧~

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季節はとどまる事を知らずに流れゆく。
十夜が寺に身を寄せて五年目の春、境内の周囲に自生している桜の木々も淡い薄紅色の花が咲き誇っていた。
舞い落ちる花びらを掃除する手を止め、十夜は桜の木を見上げて思う。
美しく、優しく、そして見事だと。

「十夜さまは、花がお好きなんですね」
ふいにかけられた小僧の言葉に、十夜は振り向いた。
「…そういうわけではないが」
「そうですよ。いつも季節の花が咲くたびにうっとりと眺めていらっしゃる。お気づきではないのですか?」
「…………」
今更ながら、十夜は己を顧みる。
花が好きなどと、まるで婦女子のようで恥ずかしいが、確かに言われてみればそうかも知れない。

夏には朝顔、秋には桔梗、冬には寒椿、そして春には桜と、山では季節ごとの花が咲く。
それらの清楚で美しい姿を目にすると、何かとても懐かしい、いとおしい気持ちになるのだ。
記憶には無い誰かを追い求めているかのように。

「…それより、何か急用か?」
虚しい思考を切捨て、十夜は小僧に問いかける。
思い出したように、小僧は告げた。
「和尚様がお呼びです」

十夜は村長に招かれたという住職に、道中の供を言いつかった。
村はずれの街道沿いにある桜並木も、ちょうど満開。住職はしばらく花見でもしていろと告げ、一人 村長屋敷に入ってゆく。
いつもなら軒先か庭で時間を潰すのが常だが、今日ばかりは住職の言に従い、桜並木の散策に出た。

はらはらと涙のように花びらが降る。
潔くも美しい、儚い命を惜しむかのように。
見惚れながら歩を進めていた十夜は、ふと足を止めた。

一本の桜の木の下に、一人の女性が佇んでいる。
年齢は十夜とあまり変わらないだろう。今まで一度も見た事が無く、雰囲気からも村の住人ではないと察せられる。
漆黒の小袖に桜色のショールをまとった、長い髪の美しい女だった。
(……?)
白い頬には、花の雫とみまごう涙。
その様子が妙に心にかかり、十夜は女に歩み寄った。
「……どうなさいました」
女はますます悲しそうに涙を流し、十夜の視線から逃れるように目を逸らす。
「あの…」
「……母が」
二度目の問いかけをする前に、女は口を開いた。
涙に震えてはいるけれど、涼やかで綺麗な声だった。
「母が……亡くなったのです」
十夜には家族の記憶は無いが、何年も寺で過ごしているから、身内を亡くした遺族の悲しみの深さは推し量れる。
「そうですか……ご愁傷様です」
住職に倣った仕草で掌を合わせ、祈るように目を閉じる。
僧侶ではないけれど、せめて故人の冥福を祈るべく。
「……突然倒れて、あまりにも早く逝ってしまわれました。親孝行してさしあげる事もできずに…」
「貴女はとても悲しんでいる。それだけでも母君への孝行でしょう」
十夜の言葉に、女は再び はらはらと涙をこぼした。
「母より前に……弟を失くしています」
言うともなしに女は言葉を続ける。
こういう時は、誰かに話す事で心が軽くなるのかも知れないと考え、十夜は耳を傾けた。
「私は…弟も助けられませんでした。何一つ真実を知らず、母の苦悩もわかってあげられなかった…。もっと早く気づいていたら、せめて……最期に一目だけでも…」
「自分を責めてはいけない」
無意識に、十夜は女の肩に手を回した。
「貴女は何も悪くない。そのように己を責めては、亡き母上が悲しまれるだけだ」
言いながら、まるで我が事のように胸が締め付けられる。
ともすれば自分まで泣いてしまいそうで、ぐっと涙腺を堪えた。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい…」
自然に抱きしめた十夜の腕の中で、女は謝罪を繰り返す。
もはや届かぬ相手へ、必死に伝えるように。

十夜は不可思議な感情を自覚する。
このせつなさは何だろう?
とても懐かしいような気がした。
まるで、ずっと以前からこの女性を大切に思っていたかのように。

「ごめんなさい…… ……とう……」
嗚咽に消えた語尾に、ふと思考を戻される。

 ───今、自分の名前を呼ばれた?
しかしその疑問はすぐに解消する。
寺預かりとなって五年、今や この狭小な村内で十夜の事を知らぬ者などいない。誰かが茶飲み話の種にでもしたのなら、よそ者である彼女が知っていても不思議は無い。
十夜の胸にすがったまま、女は暫し泣いていた。

やがて村長屋敷の方角から住職の呼び声が聞こえ始める。
「…ごめんなさい」
何度目とも知れぬ謝罪の言葉と共に、女は身を離す。
どちらからともなく、互いの顔を見つめあった。
「母君は貴女の中に在る。貴女を慈しみ育んだ母上の事を忘れず、これからも強く生きてゆかれると良い」
「……ええ」
女は迷いの無い口調で返答した。
「では、達者で」
「と―― ……」
踵を返した十夜の背に、思わず飛び出した声がかけられる。
「何か?」
「…いいえ」
しかし振り向いた十夜に、女は悲しげに口をつぐむ。
そしてゆっくりと頭を下げた。

遠ざかる後姿を、追いかけたい衝動にかられる。
それを必死で堪えながら、女はまた涙を流した。
亡き母を偲ぶ為ではなく、救えなかった弟の為に。


「十夜、懐に何を持っておる?」
「え?」
寺への帰路、住職に指摘されて十夜は初めて気づいた。
着物の袷の隙間に、簪のような物が挟まっている。
「和尚を待っている時に、母君を亡くされたという女性と話をしました。…あの方の持ち物でしょうか」
ならば返さねばと考えるが、日没も近いし、今から引き返しても会える可能性は低い。
困惑する十夜に、住職は穏やかな口調で言った。
「預かっておきなさい」
「ですが…」
「袖すり合うも他生の縁じゃ。御仏のお導きがあれば、お返しできる時も来よう」
「……わかりました」


寺に戻った後、十夜は改めて簪を検分した。
細い先端は鋭く尖り、保護する為のカバーも無い。
女性とは、こんな装飾品を髪に付けるものなのだろうかと不思議に思う。
それは身を飾るというより、むしろ―――
(針のようだ)
縫い物に使う物よりは長いけれど。
それが率直な印象だった。

出会った女性の姿を脳裏に思い描く。
まとっていたショールと同じ、淡く優しい色のイメージで、まるで桜の花精のようだと思う。
できることなら、もう一度会いたい。涙ではなく、笑顔を見せて欲しい。

 ――― もしかしたら、あの女性に恋をしたのだろうか?

そんな思考に苦笑する。自分はどこの誰とも知れない身の上なのに。
そう考えた瞬間、十夜は彼女の名を聞いていない事に気がついた。
否、聞かなかったのだ。
初対面にも関わらず、なぜか既に知っているような気がして。
どうして、そんな勘違いをしたのかわからない。
だけど出会えて嬉しかった事は事実。

手の中の簪を握り締める。
これは彼女に繋がる唯一の手掛かり。
大切に保管して、再会を願う事にしよう。

そう誓った。

桜の下で出会った、桜の花のような女性。
それはまるで春光が見せた幻の如く遠く、そして儚い兆しだった。
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