彩りの月

高端麻羽

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~空雫~

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長いまつげが震え、ゆっくりと瞳が開かれる。
「気が付きましたか?」
驚かさぬよう、極力静かな口調で十夜は声をかけたが、途端に女性は虚ろだった目を見開き飛び起きた。
「駄目です、いきなり起き上がっては――― 」
冬夜とうやっ!!」
気遣う言葉を遮るように叫び、女性は十夜にすがりつく。
門前で抱きつかれた時は、もしかすると道に迷い、人の姿を目にして安心した為かも知れないと思っていた。
しかし、女性は明らかに彼を認識した上で抱きついている。
「あ……あの」
「冬夜、冬夜!会いたかった、冬夜……!!」
胸に顔を押し付けながら、女性は慟哭まじりに呼びかけた。
(……とうや…?)
それは数年来の呼び名と似て非なる名前。
誰かと間違えているのだろうか。
――― それとも。

ふと視線を感じ、十夜は周りを見る。
背後では控えていた小僧たちが、呆然と目を丸くして二人の様子を見つめていた。
幼い修行僧たちに、この光景は少々刺激が過ぎよう。
「お前たちは修行に戻れ。私は、ちょっとこの人と話があるから」
小僧たちは十夜の言葉に従い、後を気にしつつも部屋を出る。
その間も、女性は十夜に抱きついたまま離れようとしなかった。


「…大丈夫ですよ。ここは俗世の及ばぬ山寺です。何も心配は要りません」
女性を落ち着かせるべく、十夜は穏やかに告げる。
そして同時に自分自身の動揺も抑えながら、問いかけた。
「――― 貴方は、どなたですか?」
瞬間、女性の肩がビクリと揺れる。
「なぜ私を“冬夜”と呼ぶのです。もしや、私の事を知っているのですか?」
女性はゆっくりと十夜を見上げた。
涙に濡れた瞳に至近距離で注視され、改めて胸が高鳴る。
だが彼女の美しい顔には、悲痛な表情が浮かんでいた。
「…憶えて…いないの?……本当に、私の事も…?」
不意に、押しつぶされるような罪悪感が十夜を襲った。
何かとても申し訳ない事をしている気になる。
けれど、憶えていないものは仕方ない。
「……私は記憶喪失なのです」
十夜は正直に真実を答えた。
「六年前、記憶を失って山門に倒れていた所を、この寺の住職に助けられました」
女性は再び顔を伏せ、ポロポロと涙を流し始めた。
十夜の胸が締め付けられる。
男たるもの婦女子を泣かせるのは最低の愚行と認識しているが、目の前の女性が涙する姿には ひどく心が痛んだ。

「――― 十夜さま」
その時、部屋の外から遠慮がちに小僧が声をかけた。
村へ呼びに行った医師が到着したらしい。
しかし当の女性は診察を受ける事をひどく嫌がり、医師との対面さえ拒絶する。
怪我など無い、病気でもない、意識を失ったのはただの疲労だと頑なに言い張る為、強引に診せる事もできない。
やむなく医師には当面 生命に別状は無さそうだからと詫びて帰ってもらう。
人格者として名高い住職に、わけありの人物が救いを求めて訪ねてくる事は時折あるので医師も深く追求せずに寺を後にした。


「……“十夜とおや”というのは?」
少しは落ち着いたらしく、襦袢の上に丹前を羽織ながら、女性は問いかける。
「私の名です。住職がつけて下さった呼び名ですが」
「名前も……忘れてしまったのね…」
悲しげにうなだれる女性に、十夜の罪悪感が深くなる。
「……ごめんなさい…」
俯いたまま女性は細い声で謝った。
「こんな事になってしまって…… 何もかも、私の所為だわ…」
その言葉に、十夜は確信する。
この女性は、『十夜』と呼ばれ始める以前の、本来の自分を知っているのだと。
十夜は思わず女性の肩を掴み、問いつめた。
「貴方は私を御存知なのですね?」
女性も十夜の目を見つめ、深く頷く。
「……知っています。貴方の事なら、子供の頃から…とてもよく……」
「ならば教えて下さい。――― 私は一体何者なのです?どこで生まれ、どのように育ち、どんな理由があって記憶を失ったのか、ずっと知りたかったのです」
十夜の切実な言葉に、女性は改めて正座し居ずまいを正す。
その仕草は優雅で、所作の端々が礼節に満ちていた。
着ていた振袖といい、きっと由緒正しい名家の姫君に違いない。
おそらく、自分のような者とは住む世界さえも違う。
(――― !?)
そう考えた瞬間、鈍い痛みが頭を貫く。
慣れた頭痛だったが、眉を顰めつつ十夜は平静を装った。
今は長年望み続けていた瞬間なのだ、頭痛ごときに邪魔をさせはしない。

「貴方の名前は…“冬夜とうや”。おぼろ…冬夜です」
(おぼろ…とうや…)
初めて知る己の本名を、十夜―――もとい、冬夜は心の中で反芻する。
「…私は、彩華あやか燦月さんげつ彩華…」

その名を聞いた途端、今までにない激痛が脳内を走った。

――― 燦々と輝く月、四季を彩る華。雅で美しい自然の名前。
心臓を掴まれたように胸が苦しい。
憶えていないはずの感情が全身を駆け巡り、背筋が震える。
脳細胞が破壊されるような痛みに意識が眩んだが、それでも冬夜は彩華の語る言葉に耳を傾け続けた。
        
続く
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