14 / 16
【描写】ある政治家による演説
しおりを挟む
ラテン語liberは、
「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味であり、
英語のliberalやlibertyの語源となった。
この裏側には、性善説や理性主義がある。
つまり、人という前提を、理性的存在と規定した上で、だから人を自由奔放な状態にすればするほど、より倫理的もしくは道徳的な存在になるハズだ!、と、そう彼らは主張した。
つまり、
権力や権威や法規制など、社会的束縛をもたらすものは、人間の理性をむしろ脅かすものであって、
人の理性を、本当に大切にするならば、人を本来の状態に解放するべきである、と、彼らは主張したのだ。
それが彼らの言う、
人が生まれながらにもつべき『自由』という権利であり、
いわゆる『自然権』と言われるものです。
自然主義というのは、オカルトや宗教や願望などを排し、
自然現象における因果のみを事実とする、ある種のリアリズムであり、科学的態度のことです。
しかしこれを、観念的なものに適応した場合、感じる人それぞれのによって因果が変化する為、実に不確かなものになる。
いわゆるリベラリストが、人間存在を理性的なものと、自然主義的考察と名付けて語るが、
実は単なる印象でしかない。
かつて、人々は、今ほどに自然環境を克服できず、飢えや病に脅かされ、つまり不自由な状態にあった。
その環境がもたらす不自由さを、共同体というものを作り、団結する事によって、ある程度に収束させただけなのだ。
この不自由を収束させた事で出来た隙間こそが、――本物の自由である。
つまり、秩序の裏付けによって、自由が担保されているに、すぎない。
いわゆるエセ・リベラリズム、つまり、社会をまったく考慮しない自由があるとするなら、
それは圧倒的強者以外になく、当然、自然環境さえも超越した存在になった時であって、結局の所、それはもはや人間ではないだろう。
皮肉なことに、いわゆるリベラリストの言い分、
「人が生まれながら自由な存在であり、社会的制約に縛られずに、自由に生きる権利をもつ」
という主張は、
社会に頼らずとも生存でき、かつ自由を謳歌できるだけの力もった者だけが、可能にすぎない。
さて、もう一度、われわれは考えなければならない。
生まれながらの、この赤子は自由なのか?、と。
とは言え、
もし、この赤子が自由に見えるなら、君たちを同じ状態にしてあげよう!
自分ひとりでは、食事も、散歩も、トイレの始末さえも、できない状態に、ね。
そろそろ、気づいただろう?
この赤子は、両親もしくは社会制度によって、保護されているにすぎず、
一人では何もできない、まったく不自由な存在でしかない。
不自由で無力だからこそ、感情的に泣き、言葉なしに乞う。
生まれながらに人は自由なのか? 違う! 断じて違う!
だから社会が、地域が、そして一族と両親が、
赤子らを庇護し、鍛え育てることで、彼らに力を与え、かつ同時に、
「なにが出来て、なにが許されないのか」、そうした自由と不自由を教えるのだ。
つまり、自由の意味を教えるのだ。
人々にとって自由は生来の権利などではない。
人々が守ってきた社会秩序、つまり日々の営みこそが自由の源泉なのだ。
つまり、一部の人々が、自由を奪うものとして秩序を掲げるが、
本来の秩序とは、自由を生むものだ。
平和に倦んだ人々よ!
かつて人々は、自然の脅威から守り合うために社会を作った。
かつて人々は、よそ者からの略奪から身を守るために社会を作った。
そうだ、安全保障だ!
そして、社会が、社会として機能する為に、法を定め、
そして、その法を、社会的暴力によって担保した。
もちろん、
法を厳しくすれば、自由は制限されるだろう。
しかし、より自由を得たいならば、
それはより安全保障が担保された先にしかないものであって、
個々のエゴイズムが優先された先には、
社会の崩壊、混沌、そして無秩序が、待っているだけなのだ。
私は誓おう!
自由を守る為に戦うと。
私は、どこかのエセ平和主義者ではない。
反戦デモをしていれば、平和が守られると信じ込むような愚か者ではない。
我々は、思い出さなければならない。
自然が、我々にけっして甘くない事を!
かつて他民族が、我々を虐殺した事実を!
「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味であり、
英語のliberalやlibertyの語源となった。
この裏側には、性善説や理性主義がある。
つまり、人という前提を、理性的存在と規定した上で、だから人を自由奔放な状態にすればするほど、より倫理的もしくは道徳的な存在になるハズだ!、と、そう彼らは主張した。
つまり、
権力や権威や法規制など、社会的束縛をもたらすものは、人間の理性をむしろ脅かすものであって、
人の理性を、本当に大切にするならば、人を本来の状態に解放するべきである、と、彼らは主張したのだ。
それが彼らの言う、
人が生まれながらにもつべき『自由』という権利であり、
いわゆる『自然権』と言われるものです。
自然主義というのは、オカルトや宗教や願望などを排し、
自然現象における因果のみを事実とする、ある種のリアリズムであり、科学的態度のことです。
しかしこれを、観念的なものに適応した場合、感じる人それぞれのによって因果が変化する為、実に不確かなものになる。
いわゆるリベラリストが、人間存在を理性的なものと、自然主義的考察と名付けて語るが、
実は単なる印象でしかない。
かつて、人々は、今ほどに自然環境を克服できず、飢えや病に脅かされ、つまり不自由な状態にあった。
その環境がもたらす不自由さを、共同体というものを作り、団結する事によって、ある程度に収束させただけなのだ。
この不自由を収束させた事で出来た隙間こそが、――本物の自由である。
つまり、秩序の裏付けによって、自由が担保されているに、すぎない。
いわゆるエセ・リベラリズム、つまり、社会をまったく考慮しない自由があるとするなら、
それは圧倒的強者以外になく、当然、自然環境さえも超越した存在になった時であって、結局の所、それはもはや人間ではないだろう。
皮肉なことに、いわゆるリベラリストの言い分、
「人が生まれながら自由な存在であり、社会的制約に縛られずに、自由に生きる権利をもつ」
という主張は、
社会に頼らずとも生存でき、かつ自由を謳歌できるだけの力もった者だけが、可能にすぎない。
さて、もう一度、われわれは考えなければならない。
生まれながらの、この赤子は自由なのか?、と。
とは言え、
もし、この赤子が自由に見えるなら、君たちを同じ状態にしてあげよう!
自分ひとりでは、食事も、散歩も、トイレの始末さえも、できない状態に、ね。
そろそろ、気づいただろう?
この赤子は、両親もしくは社会制度によって、保護されているにすぎず、
一人では何もできない、まったく不自由な存在でしかない。
不自由で無力だからこそ、感情的に泣き、言葉なしに乞う。
生まれながらに人は自由なのか? 違う! 断じて違う!
だから社会が、地域が、そして一族と両親が、
赤子らを庇護し、鍛え育てることで、彼らに力を与え、かつ同時に、
「なにが出来て、なにが許されないのか」、そうした自由と不自由を教えるのだ。
つまり、自由の意味を教えるのだ。
人々にとって自由は生来の権利などではない。
人々が守ってきた社会秩序、つまり日々の営みこそが自由の源泉なのだ。
つまり、一部の人々が、自由を奪うものとして秩序を掲げるが、
本来の秩序とは、自由を生むものだ。
平和に倦んだ人々よ!
かつて人々は、自然の脅威から守り合うために社会を作った。
かつて人々は、よそ者からの略奪から身を守るために社会を作った。
そうだ、安全保障だ!
そして、社会が、社会として機能する為に、法を定め、
そして、その法を、社会的暴力によって担保した。
もちろん、
法を厳しくすれば、自由は制限されるだろう。
しかし、より自由を得たいならば、
それはより安全保障が担保された先にしかないものであって、
個々のエゴイズムが優先された先には、
社会の崩壊、混沌、そして無秩序が、待っているだけなのだ。
私は誓おう!
自由を守る為に戦うと。
私は、どこかのエセ平和主義者ではない。
反戦デモをしていれば、平和が守られると信じ込むような愚か者ではない。
我々は、思い出さなければならない。
自然が、我々にけっして甘くない事を!
かつて他民族が、我々を虐殺した事実を!
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる