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【描写】ある政治家による演説
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ラテン語liberは、
「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味であり、
英語のliberalやlibertyの語源となった。
この裏側には、性善説や理性主義がある。
つまり、人という前提を、理性的存在と規定した上で、だから人を自由奔放な状態にすればするほど、より倫理的もしくは道徳的な存在になるハズだ!、と、そう彼らは主張した。
つまり、
権力や権威や法規制など、社会的束縛をもたらすものは、人間の理性をむしろ脅かすものであって、
人の理性を、本当に大切にするならば、人を本来の状態に解放するべきである、と、彼らは主張したのだ。
それが彼らの言う、
人が生まれながらにもつべき『自由』という権利であり、
いわゆる『自然権』と言われるものです。
自然主義というのは、オカルトや宗教や願望などを排し、
自然現象における因果のみを事実とする、ある種のリアリズムであり、科学的態度のことです。
しかしこれを、観念的なものに適応した場合、感じる人それぞれのによって因果が変化する為、実に不確かなものになる。
いわゆるリベラリストが、人間存在を理性的なものと、自然主義的考察と名付けて語るが、
実は単なる印象でしかない。
かつて、人々は、今ほどに自然環境を克服できず、飢えや病に脅かされ、つまり不自由な状態にあった。
その環境がもたらす不自由さを、共同体というものを作り、団結する事によって、ある程度に収束させただけなのだ。
この不自由を収束させた事で出来た隙間こそが、――本物の自由である。
つまり、秩序の裏付けによって、自由が担保されているに、すぎない。
いわゆるエセ・リベラリズム、つまり、社会をまったく考慮しない自由があるとするなら、
それは圧倒的強者以外になく、当然、自然環境さえも超越した存在になった時であって、結局の所、それはもはや人間ではないだろう。
皮肉なことに、いわゆるリベラリストの言い分、
「人が生まれながら自由な存在であり、社会的制約に縛られずに、自由に生きる権利をもつ」
という主張は、
社会に頼らずとも生存でき、かつ自由を謳歌できるだけの力もった者だけが、可能にすぎない。
さて、もう一度、われわれは考えなければならない。
生まれながらの、この赤子は自由なのか?、と。
とは言え、
もし、この赤子が自由に見えるなら、君たちを同じ状態にしてあげよう!
自分ひとりでは、食事も、散歩も、トイレの始末さえも、できない状態に、ね。
そろそろ、気づいただろう?
この赤子は、両親もしくは社会制度によって、保護されているにすぎず、
一人では何もできない、まったく不自由な存在でしかない。
不自由で無力だからこそ、感情的に泣き、言葉なしに乞う。
生まれながらに人は自由なのか? 違う! 断じて違う!
だから社会が、地域が、そして一族と両親が、
赤子らを庇護し、鍛え育てることで、彼らに力を与え、かつ同時に、
「なにが出来て、なにが許されないのか」、そうした自由と不自由を教えるのだ。
つまり、自由の意味を教えるのだ。
人々にとって自由は生来の権利などではない。
人々が守ってきた社会秩序、つまり日々の営みこそが自由の源泉なのだ。
つまり、一部の人々が、自由を奪うものとして秩序を掲げるが、
本来の秩序とは、自由を生むものだ。
平和に倦んだ人々よ!
かつて人々は、自然の脅威から守り合うために社会を作った。
かつて人々は、よそ者からの略奪から身を守るために社会を作った。
そうだ、安全保障だ!
そして、社会が、社会として機能する為に、法を定め、
そして、その法を、社会的暴力によって担保した。
もちろん、
法を厳しくすれば、自由は制限されるだろう。
しかし、より自由を得たいならば、
それはより安全保障が担保された先にしかないものであって、
個々のエゴイズムが優先された先には、
社会の崩壊、混沌、そして無秩序が、待っているだけなのだ。
私は誓おう!
自由を守る為に戦うと。
私は、どこかのエセ平和主義者ではない。
反戦デモをしていれば、平和が守られると信じ込むような愚か者ではない。
我々は、思い出さなければならない。
自然が、我々にけっして甘くない事を!
かつて他民族が、我々を虐殺した事実を!
「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味であり、
英語のliberalやlibertyの語源となった。
この裏側には、性善説や理性主義がある。
つまり、人という前提を、理性的存在と規定した上で、だから人を自由奔放な状態にすればするほど、より倫理的もしくは道徳的な存在になるハズだ!、と、そう彼らは主張した。
つまり、
権力や権威や法規制など、社会的束縛をもたらすものは、人間の理性をむしろ脅かすものであって、
人の理性を、本当に大切にするならば、人を本来の状態に解放するべきである、と、彼らは主張したのだ。
それが彼らの言う、
人が生まれながらにもつべき『自由』という権利であり、
いわゆる『自然権』と言われるものです。
自然主義というのは、オカルトや宗教や願望などを排し、
自然現象における因果のみを事実とする、ある種のリアリズムであり、科学的態度のことです。
しかしこれを、観念的なものに適応した場合、感じる人それぞれのによって因果が変化する為、実に不確かなものになる。
いわゆるリベラリストが、人間存在を理性的なものと、自然主義的考察と名付けて語るが、
実は単なる印象でしかない。
かつて、人々は、今ほどに自然環境を克服できず、飢えや病に脅かされ、つまり不自由な状態にあった。
その環境がもたらす不自由さを、共同体というものを作り、団結する事によって、ある程度に収束させただけなのだ。
この不自由を収束させた事で出来た隙間こそが、――本物の自由である。
つまり、秩序の裏付けによって、自由が担保されているに、すぎない。
いわゆるエセ・リベラリズム、つまり、社会をまったく考慮しない自由があるとするなら、
それは圧倒的強者以外になく、当然、自然環境さえも超越した存在になった時であって、結局の所、それはもはや人間ではないだろう。
皮肉なことに、いわゆるリベラリストの言い分、
「人が生まれながら自由な存在であり、社会的制約に縛られずに、自由に生きる権利をもつ」
という主張は、
社会に頼らずとも生存でき、かつ自由を謳歌できるだけの力もった者だけが、可能にすぎない。
さて、もう一度、われわれは考えなければならない。
生まれながらの、この赤子は自由なのか?、と。
とは言え、
もし、この赤子が自由に見えるなら、君たちを同じ状態にしてあげよう!
自分ひとりでは、食事も、散歩も、トイレの始末さえも、できない状態に、ね。
そろそろ、気づいただろう?
この赤子は、両親もしくは社会制度によって、保護されているにすぎず、
一人では何もできない、まったく不自由な存在でしかない。
不自由で無力だからこそ、感情的に泣き、言葉なしに乞う。
生まれながらに人は自由なのか? 違う! 断じて違う!
だから社会が、地域が、そして一族と両親が、
赤子らを庇護し、鍛え育てることで、彼らに力を与え、かつ同時に、
「なにが出来て、なにが許されないのか」、そうした自由と不自由を教えるのだ。
つまり、自由の意味を教えるのだ。
人々にとって自由は生来の権利などではない。
人々が守ってきた社会秩序、つまり日々の営みこそが自由の源泉なのだ。
つまり、一部の人々が、自由を奪うものとして秩序を掲げるが、
本来の秩序とは、自由を生むものだ。
平和に倦んだ人々よ!
かつて人々は、自然の脅威から守り合うために社会を作った。
かつて人々は、よそ者からの略奪から身を守るために社会を作った。
そうだ、安全保障だ!
そして、社会が、社会として機能する為に、法を定め、
そして、その法を、社会的暴力によって担保した。
もちろん、
法を厳しくすれば、自由は制限されるだろう。
しかし、より自由を得たいならば、
それはより安全保障が担保された先にしかないものであって、
個々のエゴイズムが優先された先には、
社会の崩壊、混沌、そして無秩序が、待っているだけなのだ。
私は誓おう!
自由を守る為に戦うと。
私は、どこかのエセ平和主義者ではない。
反戦デモをしていれば、平和が守られると信じ込むような愚か者ではない。
我々は、思い出さなければならない。
自然が、我々にけっして甘くない事を!
かつて他民族が、我々を虐殺した事実を!
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