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第四章 孤高の王は男装姫の真実を知る
第二十八話 お前の名は
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炎だ。冷たい海に落ちたはずの体が、なぜか温かい。
パチパチと爆ぜる音に目を開くと、隣に座った燦が久遠の顔を覗き込んでいた。
「……え? えっ?」
「久遠、目を覚ましたか」
「僕、まだ生きてますか?」
体を起こそうとしたが、止められた。体の上には燦の白い袍が掛けられている。
(波に流されて、砂浜に打ち上げられたのかな?)
十六夜の祖父ともみ合いになり、ぬかるんだ地面に足を滑らせ、海に落ちたところまでは覚えている。凍えるような水の冷たさと泳ぎにくい婚礼衣装のせいで、絶対に助からない――そう思ったのだが……生きている。この光景が夢でなければ。
しかも、ずぶ濡れになったはずが不思議と寒くない。足元のほうを見ると、そこには火が焚かれていた。先ほどのパチパチという音は、焚火の音だったのか。
「もしかして炎武の才……こういう使い方もあるのですね。助けてくださってありがとうございます」
「ああ。才のおかげで凍え死にせずに済んだ。崖がちょうど風よけになってくれたのも、運が良かったな」
燦の視線を追って辺りを見回すと、確かにこの砂浜は左右に崖が張り出していて、風が通らない。見上げると、崖の上ではまだ風があるようで、木々が左右に激しく揺れていた。
「燦様は、僕をどうやって見つけてくださったのですか?」
「俺もお前を追って海に飛び込んだ」
「……えっ!? あの高さから?」
燦が頷く。一国の王ともあろう御方が、久遠を助けるために海に飛び込むなんて。
どうして、と理解できずにいたが、燦は余裕の笑みで応えた。
王と后が同時に海に落ちたことになる。五主家の皆は今頃、花緒が落ちたのだと勘違いして、大騒ぎをしているのではないだろうか。
燦も花緒もいなくなれば、綺羅の政情は再びがらっと変わる。
想像もしたくないことだが、次は燦の弟である霖の後見を巡って諍いが起こるのだろう。
つい、ため息が出た。
「やはり、僕が花緒様と入れ替わっておいて正解でした。もしも海に落ちたのが花緒様だったら……お腹の御子が危なかったかも」
「花緒だろうがお前だろうが、危ない目に遭わされたことには変わりない。十六夜にはそれ相応の償いをしてもらわねば。それにしても、十六夜の宝物を花緒が持っているはずがないのに、なぜ十六夜は花緒に拘るのだろう」
「……あっ、そうだ! 燦様、今の言葉で思い出しました!」
久遠はその場に飛び起きる。
崖で足を滑らせる直前、祖父は言った。久遠が首から提げた石は、月影の石――月主・十六夜家の宝物であると。
首飾りを取り出すために、体に掛けられた燦の袍に手を掛ける。
すると、燦がその手を握って止めた。
「そのままでいろ」
「なぜです? 燦様の袍です。いつまでもお借りしているわけには」
「いいから。そんなことより、一つお前に確かめたいことがある」
「確かめたいこと……なんでしょうか」
月影の石のことを伝えようと思ったのに、と、久遠は面喰う。
「……久遠。お前は、宝物殿が焼き落ちる場面を夢に見たと言ったな」
「はい。祖父に腕を掴まれた時、祖父の記憶が僕の頭になだれ込んできたのです。その時に、燃える建物を見ました」
「幼い頃のお前自身も、その場にいたのか?」
「……え?」
久遠の心の臓が跳ねる。
祖父の夢見をした時、確かに久遠は気が付いた。
蔵に閉じ込められ、男装を強いられた少女――十六夜一葉が、自分の正体であることに。
だが、それは祖父が一葉のことを「蔵に閉じ込める」と言ったから気が付いたことである。久遠自身が、過去の記憶を取り戻したわけではない。
「僕もその場に……いたのかもしれません、分かりません」
久遠は言葉を濁す。
「あの時、香宵姫とともに、一葉という少女を見たと言っただろう?」
「はい……」
「その子が、久遠ではないのか?」
燦は久遠をまっすぐに見た。
「燦……様? なぜそう思われるのですか。一葉というのは女の子で、でも僕は」
「女だろう?」
「……っ」
言葉が出てこない。久遠は瞬きもできないほど固まって、ただ燦を見つめる。
燦は答えず、ふいっと顔を逸らした。
(なぜ、僕が女だと気付いて……)
燦には自分の本当の姿を伝えていない。普段から着替えを見られないように十分気を付けていたし、燦が久遠の性別を疑うような素振りも一度もなかった。
だとしたら……? 久遠はふと、自分の格好を見下ろす。
燦の袍をめくって中を覗くと、元々身に着けていた衣装が乱れていた。
祖父に襟を引っ張られ、更に海に投げ出され、しどけない姿となったところを燦に見られたのだろう。
だから久遠のことを、女だと気付いたのだ。
恥ずかしさのあまり、久遠は自分の膝にぎゅっと顔を埋めた。
(まさか……どこまで見られただろう。豪華な婚礼衣装だから油断して、いつもの晒を巻いていなかったから……)
もう一度、袍を捲って中を見る。駄目だ、やはり完全に見られたはずだ。
「……これまで、燦様を騙していて申し訳ありません」
「いや。何か事情があるんだろう? 俺のほうこそすまなかった」
「なぜ謝るんですか? 僕が悪いのに!」
「お前が女だとは知らず、毎晩俺の隣に寝かせて夢見をさせた。嫌だっただろう?」
「嫌なんかじゃ……ありません……」
そう。嫌ではなかったのだ。どう答えたらいいか分からない。
もしも久遠が燦のことを嫌っていたなら、夢見のために手を繋ぐのも、同じ寝台で並んで眠るのも、苦痛だったはずだ。でも、実際はそうではなかった。
燦のことは、嫌いではないのだ。むしろ――。
「燦様。僕は幼い頃、蔵に閉じ込められていたとお伝えしましたよね? その時に祖父から男物の覡服を渡され、これからは男として生きよと命じられました。そうすれば、蔵から出してやると」
「そうか……それでずっと……」
「蔵から出て、陽の光の下に行きたい。頭の中はそればかりでした。おかしいですよね? 僕には蔵に閉じ込められる前の記憶はなかった。でも今ならこう考えると思います。きっと僕にも、陽の光の下で生きていた時があったのだと」
久遠は、首に提げた月影の石を外し、握り締めた。
「お前の本当の名は、十六夜一葉だな?」
「覚えていません」
思い出したい。
だが、久遠の頭の中には相変わらず靄がかかっていて、思い出せない。
「燦様。祖父はこの石を見て、月主の宝物だと言いました。僕はこれを母の形見だと思っていました。母のことなんて何一つ覚えていないのに」
「香宵姫の霧中の才で記憶が消えているんだ。そしてその霧中の才の力を打ち消すことができるのは……和暮の威風の才」
久遠と燦は顔を見合わせ、頷き合う。
まだ諦めてはいけない。
祖父は月主の宝物を取り返すために花緒を狙った。しかし、宝物を持っているのは花緒ではなく久遠。だから祖父は、もう花緒を狙うことはないだろう。
祖父が次に考えることは何か。久遠は考えを巡らす。
十六夜の願いは、主家の地位を取り戻すこと。
それには月主の宝物と五主家の同意、そして天からの赦しが不可欠だ。
天の怒りによって主家を追われた十六夜が、天からの赦しを得られるわけがない。
綺羅ノ王に嫁ぐことのできる唯一の娘を失い、同時に月主の宝物を失い。
その上、天からの赦しも得られないとなれば、祖父の考えの至るところは容易に想像がつく。
(もう一度、火輪剣を奪おうとするだろう――)
パチパチと爆ぜる音に目を開くと、隣に座った燦が久遠の顔を覗き込んでいた。
「……え? えっ?」
「久遠、目を覚ましたか」
「僕、まだ生きてますか?」
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十六夜の祖父ともみ合いになり、ぬかるんだ地面に足を滑らせ、海に落ちたところまでは覚えている。凍えるような水の冷たさと泳ぎにくい婚礼衣装のせいで、絶対に助からない――そう思ったのだが……生きている。この光景が夢でなければ。
しかも、ずぶ濡れになったはずが不思議と寒くない。足元のほうを見ると、そこには火が焚かれていた。先ほどのパチパチという音は、焚火の音だったのか。
「もしかして炎武の才……こういう使い方もあるのですね。助けてくださってありがとうございます」
「ああ。才のおかげで凍え死にせずに済んだ。崖がちょうど風よけになってくれたのも、運が良かったな」
燦の視線を追って辺りを見回すと、確かにこの砂浜は左右に崖が張り出していて、風が通らない。見上げると、崖の上ではまだ風があるようで、木々が左右に激しく揺れていた。
「燦様は、僕をどうやって見つけてくださったのですか?」
「俺もお前を追って海に飛び込んだ」
「……えっ!? あの高さから?」
燦が頷く。一国の王ともあろう御方が、久遠を助けるために海に飛び込むなんて。
どうして、と理解できずにいたが、燦は余裕の笑みで応えた。
王と后が同時に海に落ちたことになる。五主家の皆は今頃、花緒が落ちたのだと勘違いして、大騒ぎをしているのではないだろうか。
燦も花緒もいなくなれば、綺羅の政情は再びがらっと変わる。
想像もしたくないことだが、次は燦の弟である霖の後見を巡って諍いが起こるのだろう。
つい、ため息が出た。
「やはり、僕が花緒様と入れ替わっておいて正解でした。もしも海に落ちたのが花緒様だったら……お腹の御子が危なかったかも」
「花緒だろうがお前だろうが、危ない目に遭わされたことには変わりない。十六夜にはそれ相応の償いをしてもらわねば。それにしても、十六夜の宝物を花緒が持っているはずがないのに、なぜ十六夜は花緒に拘るのだろう」
「……あっ、そうだ! 燦様、今の言葉で思い出しました!」
久遠はその場に飛び起きる。
崖で足を滑らせる直前、祖父は言った。久遠が首から提げた石は、月影の石――月主・十六夜家の宝物であると。
首飾りを取り出すために、体に掛けられた燦の袍に手を掛ける。
すると、燦がその手を握って止めた。
「そのままでいろ」
「なぜです? 燦様の袍です。いつまでもお借りしているわけには」
「いいから。そんなことより、一つお前に確かめたいことがある」
「確かめたいこと……なんでしょうか」
月影の石のことを伝えようと思ったのに、と、久遠は面喰う。
「……久遠。お前は、宝物殿が焼き落ちる場面を夢に見たと言ったな」
「はい。祖父に腕を掴まれた時、祖父の記憶が僕の頭になだれ込んできたのです。その時に、燃える建物を見ました」
「幼い頃のお前自身も、その場にいたのか?」
「……え?」
久遠の心の臓が跳ねる。
祖父の夢見をした時、確かに久遠は気が付いた。
蔵に閉じ込められ、男装を強いられた少女――十六夜一葉が、自分の正体であることに。
だが、それは祖父が一葉のことを「蔵に閉じ込める」と言ったから気が付いたことである。久遠自身が、過去の記憶を取り戻したわけではない。
「僕もその場に……いたのかもしれません、分かりません」
久遠は言葉を濁す。
「あの時、香宵姫とともに、一葉という少女を見たと言っただろう?」
「はい……」
「その子が、久遠ではないのか?」
燦は久遠をまっすぐに見た。
「燦……様? なぜそう思われるのですか。一葉というのは女の子で、でも僕は」
「女だろう?」
「……っ」
言葉が出てこない。久遠は瞬きもできないほど固まって、ただ燦を見つめる。
燦は答えず、ふいっと顔を逸らした。
(なぜ、僕が女だと気付いて……)
燦には自分の本当の姿を伝えていない。普段から着替えを見られないように十分気を付けていたし、燦が久遠の性別を疑うような素振りも一度もなかった。
だとしたら……? 久遠はふと、自分の格好を見下ろす。
燦の袍をめくって中を覗くと、元々身に着けていた衣装が乱れていた。
祖父に襟を引っ張られ、更に海に投げ出され、しどけない姿となったところを燦に見られたのだろう。
だから久遠のことを、女だと気付いたのだ。
恥ずかしさのあまり、久遠は自分の膝にぎゅっと顔を埋めた。
(まさか……どこまで見られただろう。豪華な婚礼衣装だから油断して、いつもの晒を巻いていなかったから……)
もう一度、袍を捲って中を見る。駄目だ、やはり完全に見られたはずだ。
「……これまで、燦様を騙していて申し訳ありません」
「いや。何か事情があるんだろう? 俺のほうこそすまなかった」
「なぜ謝るんですか? 僕が悪いのに!」
「お前が女だとは知らず、毎晩俺の隣に寝かせて夢見をさせた。嫌だっただろう?」
「嫌なんかじゃ……ありません……」
そう。嫌ではなかったのだ。どう答えたらいいか分からない。
もしも久遠が燦のことを嫌っていたなら、夢見のために手を繋ぐのも、同じ寝台で並んで眠るのも、苦痛だったはずだ。でも、実際はそうではなかった。
燦のことは、嫌いではないのだ。むしろ――。
「燦様。僕は幼い頃、蔵に閉じ込められていたとお伝えしましたよね? その時に祖父から男物の覡服を渡され、これからは男として生きよと命じられました。そうすれば、蔵から出してやると」
「そうか……それでずっと……」
「蔵から出て、陽の光の下に行きたい。頭の中はそればかりでした。おかしいですよね? 僕には蔵に閉じ込められる前の記憶はなかった。でも今ならこう考えると思います。きっと僕にも、陽の光の下で生きていた時があったのだと」
久遠は、首に提げた月影の石を外し、握り締めた。
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「覚えていません」
思い出したい。
だが、久遠の頭の中には相変わらず靄がかかっていて、思い出せない。
「燦様。祖父はこの石を見て、月主の宝物だと言いました。僕はこれを母の形見だと思っていました。母のことなんて何一つ覚えていないのに」
「香宵姫の霧中の才で記憶が消えているんだ。そしてその霧中の才の力を打ち消すことができるのは……和暮の威風の才」
久遠と燦は顔を見合わせ、頷き合う。
まだ諦めてはいけない。
祖父は月主の宝物を取り返すために花緒を狙った。しかし、宝物を持っているのは花緒ではなく久遠。だから祖父は、もう花緒を狙うことはないだろう。
祖父が次に考えることは何か。久遠は考えを巡らす。
十六夜の願いは、主家の地位を取り戻すこと。
それには月主の宝物と五主家の同意、そして天からの赦しが不可欠だ。
天の怒りによって主家を追われた十六夜が、天からの赦しを得られるわけがない。
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