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忘れて
しおりを挟む~前回までのあらすじ~
順調に天外山脈を下るボクらだったが、途中で大雨に遭い、一時停止を余儀なくなされる。唐突にぽっかりとできた自由時間、雨を利用して水浴びをすることになった。
***
大粒の雨が森の枝葉を叩く音がひっきりなしに聞こえていた。
その不規則なようでどこか規則的に聞こえる雨音を時折乱すのは、上の方で溜まった水が重さに耐えきれないで落ちてくる乱雑な水音。
どう歩いたって濡れないではいられないくらいの大雨だ。
重くなった服を天幕の中にかけたロープにひっかけて、ボクとシノ様は雨の下に出た。
イチセは少し行った先に雨がよく当たる場所があると教えてくれた。
行ってみるとそこには一本の大きな木が倒れていた。
空にぽっかりと開いた穴は、おそらく元はその木が占めていた場所なのだろう。
今はそこから光が差し込み、次にそこに聳えるために足元からはまだ細い若木が背を伸ばしている。
シノ様はイチセの石鹸を髪につけて泡立てた。
根元から毛先まで丁寧にもみ洗いして、余った泡を身体に擦り付けた。
首許、腕、わきの下、控えめな胸と、股下、太もも、膝の裏、ふくらはぎ、くるぶし、足の裏から指の間まで。
ボクはその光景を食い入るように見ている自分に気が付いて、慌ててシノ様の真似をして身体を洗い始めた。
シノ様の身体はボクの細くて貧相な体つきと違って、優しい曲線を描いて、柔らかそうで、魅力的だった。
触れたくなる身体、というか。
たぶん、ボクのえこひいきなんかじゃないと思う。
だってアズマも言ってたし、身体で払うならシノ様の方がいいって。
……あの野郎、シノ様に下衆な視線を向けやがって!
それに比べてボクときたらどうだ。
昔より背は伸びたけどシノ様の首のあたりまでしかないし、そんなに肉付きも良くなくて、カクカクして抱き心地は悪そうだ。
ボクももうちょっと大人になれば、シノ様みたいな身体になれるのかな。
だとしたら、早く大人になりたいな。
十分に身体に泡を擦り付けた後で土砂降りのシャワーを浴びた。
流れていく泡と一緒に身体から余計なものが抜け落ちていくみたいな感覚。
少し呼吸をしやすくなるような気がする。
雨はシュベットに稀に降るものとは全然違って、温かくて心地が良かった。
シノ様は雨の中で何度も髪を絞って石鹸のぬめりを落としている。
髪が長いと大変だなぁ、とか思っていたら、あんたももうちょっと落としなさい、と頭をがしっと掴まれた。
シノ様の手が少し乱暴にボクの頭を揉んだ。
「うわっ、止めて!」
「抵抗するな、この」
頭をゆすぶられてバランスを崩しそうになる。
ボクは咄嗟にシノ様のくびれのあたりを両手でつかんでしまった。
シノ様は急に変な声を上げて身体をよじらせた。
ボクは慌ててシノ様を支えようとしたけれど、バランスを崩した者同士、支え合えるはずもない。
気づくとボクとシノ様は、ぬかるみの中に二人して倒れ込んでいた。
ぎゅえ~っ、痛い!
落ち葉と枯れ枝だらけの地面はちくちくして、二人して声にならない悲鳴を上げる。
しばらく痛みに悶えた後に視線が合って、シノ様はこらえきれないとばかりにくっくっと笑い出した。
「なにすんの、えっち」
「え、えっ……!
し、シノ様が急に掴んでくるからいけないんじゃないですか!」
ボクが頬を膨らませて見せるのも含めて面白かったらしく、シノ様は身体を少し屈めるようにして笑っている。
一方のボクは、シノ様が笑いに身体を震わせるたびに少し覗いた胸の先端までぷるぷると震えているのに気づいて、笑うどころの騒ぎじゃなかった。
息が詰まる。
胸の鼓動が早くなって、身体中にぐるぐるとすごい勢いで血が巡っていく。
欲しいものは早く手に入れておかなくちゃならないと、死にかけるたびに思うその言葉を思い出した。
気がついたら口に出ていた。
「あの、シノ様」
「なあに?」
「キスしてもいいですか」
「えっ」
シノ様は呆気にとられた顔をした。
まあ、そうだろう。
流れも雰囲気もなしに何を言ってるんだ、ボクは。
でも、シノ様は嫌な顔をしなかった。
「……いいわよ」
えっ……、いいの?なんで?
ボクが混乱する間にも、シノ様は肘を立てて身体を浮かせた。
ボクはシノ様の髪に付いた落ち葉をさらりと払って、覆いかぶさるようにして、ゆっくりとシノ様に顔を近づけていく。
シノ様は挑戦的な目でボクを睨んでいた。
……いや、睨んでるんじゃなくて、たぶん照れ隠しだ。
だってその目はちょっとだけ熱っぽくて、潤んでる。
唇が届いた。
ふわりとした感覚がボクの胸を打つ。
その感触に、少しだけ泣いてしまいそうになった。
しばらくシノ様に冷たくされていたのにあんまり急に近づきすぎて、心がびっくりしてしまったに違いない。
よかった、仲直りできた、なんて、ボクは心の片隅で呑気なことを思っていた。
シノ様がどんな思いでいいと頷いたのか、ボクはちっとも考えてもみなかった。
シノ様が軽く唇を開いた。
その隙間から少しだけ顔を覗かせた舌がちろとボクの唇をなめる。
その未知の感覚は全く予想外で、ボクは驚いてしまって飛び退くように顔を離した。
「なっ……」
「なによ」
遠ざかったボクをシノ様がまた睨んでいる。
「何でなめたの?」
「悪い?」
完全に不貞腐れた声だった。
「悪くは……、ないです」
「……そうね。あなたは奴隷なんだから、ご主人様の慰み者になったって文句は言えないわよね」
そのとげとげしい言葉に、何かに急き立てられるように急ぎ過ぎていた気持ちが鎮まった。
ああ、またシノ様の悪い癖が出てるなぁ、と思った。
シノ様は時々、こうして強い言葉を使ってボクを突き放そうとする。
「ボクをどうにかしてシノ様が心慰められるなら、いかようにもしてください。
でも、ボクがそう思うのはあなたの奴隷だからじゃありません」
ボクは少し迷った。この先の言葉を言うべきかどうか。
ボクはシノ様が好きだ。
でも、きっとシノ様はそうじゃない。
そういうのじゃない別の感情で、ボクのことを必要としているのだと思う。
ボクはシノ様と身体を重ねたいと思ってる。
ボクは奴隷で何も持っていないし、何もできない。
家も家族もないし、子どもだって作ってあげられない。
そんなボクにはあんまりにも過ぎた気持ちだと分かっているけれど、仕方ないじゃないか、そんな風に願ってしまったんだから。
シノ様はそれと分かって、ボクにいいよって言ってくれている気がする。
それなら甘えればいい。
きっと今、ボクがシノ様にもっとわがままを言っても、シノ様は受け入れてくれるだろう。
自分が多少我慢をすることになっても、ボクのしたいことを受け入れてくれる。
好きだと言ってシノ様の身体をまさぐって、きっとまだ誰にも触らせたことのない場所に指を沈み込ませても、睨みつけるくらいで許してくれるだろう。
でも、それで本当にいいのかな。
ボクとシノ様は、そんなことをしても今のままでいられるんだろうか。
「……あんたが別人になっちゃった時、怖かったわ」
ボクがじっと黙っていると、シノ様はゆっくりと身体を起き上がらせて言った。
「イザナから、わたしがアスミって人の生まれ変わりだって聞いた時にはもっと怖かった。
わたしもあんたがイザナになったみたいに、ある日突然誰か別の人に代わってしまうことがあるのかもって思ったら。
わたしはわたしだって、師匠と暮らしだす前の記憶がなくても、師匠に突然おいて行かれても、確かなものはここにあるって、信じてたのに、それさえも不確かなものでしかないなら、わたしは何を信じていればいいの?」
シノ様がボクの腕を掴んで乱暴に引き寄せた。
ボクの背中でシノ様の腕が交差する。
シノ様は震えていた。
「あんただって、わたしの耳に優しいことばっか囁いて、知らない内にいなくなっちゃうくせに」
「……いなくなりませんよ」
知らない内にのどがカラカラに渇いていた。ボクは唾を飲み込んでからようやく答えた。
「嘘つき。
今回だって、知らない内にいなくなったじゃない。
誰よ、あのイザナって奴。前世のあんたとか言って、物腰は柔らかいし、いろんなこと知ってて頼りになって、優しいし、嫌なこと言わない。
あんたとは大違い!」
「あ、はは……。それは、すみませんね」
思わず顔が引きつった。
ちょっとちょっと、嫌だなぁ、他の男と比較するなんて……。
ボクは冗談交じりに笑ったけれど、シノ様は思いつめたみたいな声を崩さなかった。
「イザナに言われて助けに行った時、あんたを見てわたし、初め、もう死んでるんだと思ったわ。
たぶんあんた、自分じゃよく分かってないんでしょうけどね、ボロきれみたいに穴だらけで、あんな有様で生きてるだなんて信じられなかったわ。
間に合わなかった、って思った。
あんたはわたしの知らないところで無様に死にさらして、この子を守ってあげるんだって決めてたのに、わたしはむざむざ死なせてしまったんだと思った。
どうしてもっと早く助けに行ってあげられなかったんだろうって、自分を責めた。
あんたがイザナに成り代わられてる間、大丈夫だから任せておけってあの人が言うのを信じて、わたしは何もしないでいたわ。
そのことを後悔した。
やっぱり自分の大切なものは自分で守らなくちゃいけなかったんだって、そう思った。
それなのに……」
シノ様はお仕置きみたいにボクの身体を締め付けた。
「何であんたはぴんしゃんしてんのよ!」
痛てててて。
すみません、割と平気そうにしててすみません!
「帰って来てからのあんた、変よ。
わたしをこれだけ心配させたくせに、急にやる気出して言うことが、アマミヤ宗家に殴り込み?
なに勝手に話進めてんの。
わたしは一度だって、あんたに助けてくれなんて頼んでない!
そんなことよりわたしは、あんたが帰って来たことをもっと喜びたかった。
そんな当たり前みたいな顔して隣にいられても、困る。
アズマもイチセも、あれを見てないからだと思うけど、あっさり流しちゃってさ。
わたしの心配とか、悲しい気持ちとか、後悔とか諦めとか、そういう気持ちは一体、どうすればいいわけ?
わたしだけ、置いてけぼりにしないでよ!」
「……それに何、わたしがあんたのものって。
聞いてないんだけど。勝手にひとを賭け事の材料にしないで。
わたしはイツツバなんて聞いたこともない呪物と違う。
わたしは……っ。
ふざけないでよ!
あんたも、師匠も、アマミヤも。
ひとを物扱いして、勝手に取り合わないで。
それにわたしは、アスミとかいう女でもない。
わたしはわたしなんだから。
他の誰でも、どんなものとも違うの!」
「でも……。
でもどうせ、誰かのものになんなきゃいけないなら、あんたがいいって思ったの。
あんたは、チビだしガキだし女だし、わたしの好みとは全然違う。
わたしが好きなのはね、師匠みたいな大人の男の人よ。
頼りがいがあって、落ち着いてて、ちょっと抜けたとこもあるけど、そこも可愛くて、身長もわたしより高くなくちゃ嫌だし、抱きしめた時に包まれるみたいな、そういう安心感も欲しい。
あんたは……、全部足りないけど。
でもわたしの隣にいてくれて、気遣ってくれて、わたしのことを助けようって頑張ってくれてるの、分かるから。
あんたはわたしにとっては妹みたいな感じだけど、あんたがイツツバとかじゃなくわたしのことを求めてくれてるから。
どうせもう口づけはされちゃったし、あんたになら身体くらい好きにさせてあげてよかった。
好きなだけ触らせてあげるし、触ってだってあげる。
あんまりどぎつい要求にはこたえてあげられないかもしれないけど、あんたを引き留められるならって思ったの。
なのに……」
シノ様は淡々と紡ぐ言葉を切って、ふらりとボクから身体を離した。
ボクを見るシノ様の目は弱弱しく、いつもの自信ありげで断固とした光はそこにない。すでに傷つき、これからまた傷つけられることを恐れる人の目がそこにあった。
ボクは何か言わなきゃと思った。
なのに何も言葉が出てこない。
そんなボクに失望しきったのか、それとも別のもの思いのためか、シノ様は自嘲的に唇を歪めた。
「ごめん、忘れて」
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