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滝口の武士が鎖された殿舎間を繫ぐ馬道の戸を破壊し内部に踏みこむなり黒い塊が膨張して爆散する。
烏の大群である。密集する烏たちが羽音をたてつつ渦を巻き,馬道の戸の毀れ目から飛び去っていく。艶を帯びる無数の羽根の舞うなかに,折り重なって倒れる女房たちに紛れ,後朱雀天皇中宮嫄子の姿を認めた。第二子出産を間近に控える嫄子は事なきを得たものの,両眼を刳り貫かれ或いは喉をさかれた女房2人が落命した。
内裏で死穢が生じたとなれば公事に支障が出るとして事件は内々に処理された。知る者のなき事実はなかったに等しい。
女房たちが集められ,見聞きしたことを他言してはならぬと指示を受ける。
「詳しく調べないのかしら?」
左隣の傍輩がひそひそ声で尋ねる。
「調べるって,何を?」
右隣の傍輩が逆に問う。
「何を――決まってるじゃない。悪者は誰なのかってこと」
「そんなことは周知の事実でしょうが――禎子さまよ,禎子さま――」
禎子とは先々代帝三条天皇皇女であり,その母は藤原道長の娘 妍子である。後朱雀天皇即位によって中宮に立てられるが,のちに道長息頼通の養女であった嫄子が中宮職に座することにより禎子は皇后宮に移るのである。
「嫄子さまのせいで中宮を追われた禎子さまが手を下したに違いないわよ」
「静かにせぬか!」
最前列にいる古参女房が,最後列の私たちを叱りつけた。
静やかな笑い声が響く。
一瞬だけ時がとまり俄に胸が早鐘をうちはじめた――
女房たちが一斉に目をふせ,項垂れて腰を屈める。私も周囲に倣った。
笑い声の主が近づいてくる――こちらに来る?――そばで足をとめた!
「物語の姫君でいらっしゃいますね」
物語を読み漁り仮想世界に耽溺する物狂おしい私のことを人々は「物語の姫君」と呼んでいた。もっとも三十路を過ぎた現在では「姫」を抜かし「物語の君」と称するのが専らである。
「孝標さまは御壮健でしょうか」
「おかげさまで……」
消えいりそうな声でようよう返事する。
「新しい方が入られたと伺っておりましたが,姫君のことでございましたか」
そう言うなりぬっと顔を寄せて耳打ちする。
「光も薫も内裏にはおりませぬ。鬼の住処にお立ちいり召されるな」
濃紫の袍衣に焚き染めた薫香に全器官を浸蝕され,刺激にこらえられぬ眼底から涙がわいた。それを認めて気の毒げな面持ちでわずかに身を遠ざける。
「唐の物語を入手したのです。門外不出ゆえ,いずれまた」
やはり薫物の移香した白い扇をさしだす。
「こちらは大和の最新作です。気になる件をね,書写いたしました。今日のところはこれにて御容赦くださいませ」
扇に文字が縷々書き連ねられている――
「初花ではございませんか,『栄花物語』の」
目があい,慌てて視線を逸らせた。
「さすが物語の姫君だ――さようです。赤染衛門の手による歴史物語です」
扇を徐にとじていく。
「お喜びいただけると思いましたのに,既にお読みとは残念だな……」
「姫君さまの『栄花』を御存じなのは至極当然。かねてより菅原家のみなさまは衛門殿と懇意にされておいででしたもの」
そう言葉を挟んだのは,月の都から舞いおりた天人か,絵巻物から抜けだした主人公かと見紛うほどの美しい女房である。
輝きながら透過する肌に両端のつりあがる唇の紅は色鮮やかに映えて,清爽にして色気のまじる眼差しを注ぐ目は物怖じもせず凛と,時の権力者関白藤原頼通を見据えている。
頼通に伺候する女房の一人に違いないが,妻妾関係を結ぶ女人でもあろうと直感された。同時に突如催された懐かしく慕わしい感興が胸中を仄かにあたたかくするのを覚える。
果たして,闇夜に浮かびあがる一面の藤波のごとき麗人は誰であったのか。過去の何処かで逢っているような気がする……
「私は姫君に何かさしあげたかったのだ」
頼通は不愉快そうな横目を女房へむけた。
「宮仕えを志向されたものの,公の不手際によりお里におさがりいただくのだ。相応の謝礼は日を改めるにしても,私個人の気持ちを形にしてお贈りするのに支障があろうや?」
「さもありなんかし」
女房が口端をくいと動かす。
「まめまめしきものよりは殿の御趣向のほうがよほど宜しゅうございます。いっそ先ほど話題にされた唐の物語とやらをさしあげてはいかが?」
「あれか……あれはいずれまた……」
「門外不出と仰せられますか? つまりは御本自体はお屋敷奥に秘蔵したまま人目に触れぬ状態にあればよいというだけではございませぬか」
「は……」
頼通と女房との視線が絡みあった。
「なるほど……」
頼通が相好を崩す。
「よかろう。それではこうしよう――姫君の警護役をおまえに命じよう。お里にお送りするまで,しかとおそばでお守りせよ」
女房が平伏しつつ頭を少し擡げて笑いかける。純真無垢な笑顔であった。
家族の至福の時を支えた三条の邸宅,その邸宅をとりかこむ鬱蒼たる木立――日中にも夜の世界を幻出する広大で荒々しい木々のありさまは上総より都へのぼる途中に通過した奥山の領域へと繫がっている。闇と賊を恐れながら深山を彷徨う少女の眼界に何処からともなくあらわれた遊女たちが歌い舞いつつ手をさしのべ誘いかける。今宵は語りあかしましょうぞ……
「足柄……足柄なの?」
「卑しき類の者をお忘れにならずあらせられたとは,身に余る光栄でございます」
烏の大群である。密集する烏たちが羽音をたてつつ渦を巻き,馬道の戸の毀れ目から飛び去っていく。艶を帯びる無数の羽根の舞うなかに,折り重なって倒れる女房たちに紛れ,後朱雀天皇中宮嫄子の姿を認めた。第二子出産を間近に控える嫄子は事なきを得たものの,両眼を刳り貫かれ或いは喉をさかれた女房2人が落命した。
内裏で死穢が生じたとなれば公事に支障が出るとして事件は内々に処理された。知る者のなき事実はなかったに等しい。
女房たちが集められ,見聞きしたことを他言してはならぬと指示を受ける。
「詳しく調べないのかしら?」
左隣の傍輩がひそひそ声で尋ねる。
「調べるって,何を?」
右隣の傍輩が逆に問う。
「何を――決まってるじゃない。悪者は誰なのかってこと」
「そんなことは周知の事実でしょうが――禎子さまよ,禎子さま――」
禎子とは先々代帝三条天皇皇女であり,その母は藤原道長の娘 妍子である。後朱雀天皇即位によって中宮に立てられるが,のちに道長息頼通の養女であった嫄子が中宮職に座することにより禎子は皇后宮に移るのである。
「嫄子さまのせいで中宮を追われた禎子さまが手を下したに違いないわよ」
「静かにせぬか!」
最前列にいる古参女房が,最後列の私たちを叱りつけた。
静やかな笑い声が響く。
一瞬だけ時がとまり俄に胸が早鐘をうちはじめた――
女房たちが一斉に目をふせ,項垂れて腰を屈める。私も周囲に倣った。
笑い声の主が近づいてくる――こちらに来る?――そばで足をとめた!
「物語の姫君でいらっしゃいますね」
物語を読み漁り仮想世界に耽溺する物狂おしい私のことを人々は「物語の姫君」と呼んでいた。もっとも三十路を過ぎた現在では「姫」を抜かし「物語の君」と称するのが専らである。
「孝標さまは御壮健でしょうか」
「おかげさまで……」
消えいりそうな声でようよう返事する。
「新しい方が入られたと伺っておりましたが,姫君のことでございましたか」
そう言うなりぬっと顔を寄せて耳打ちする。
「光も薫も内裏にはおりませぬ。鬼の住処にお立ちいり召されるな」
濃紫の袍衣に焚き染めた薫香に全器官を浸蝕され,刺激にこらえられぬ眼底から涙がわいた。それを認めて気の毒げな面持ちでわずかに身を遠ざける。
「唐の物語を入手したのです。門外不出ゆえ,いずれまた」
やはり薫物の移香した白い扇をさしだす。
「こちらは大和の最新作です。気になる件をね,書写いたしました。今日のところはこれにて御容赦くださいませ」
扇に文字が縷々書き連ねられている――
「初花ではございませんか,『栄花物語』の」
目があい,慌てて視線を逸らせた。
「さすが物語の姫君だ――さようです。赤染衛門の手による歴史物語です」
扇を徐にとじていく。
「お喜びいただけると思いましたのに,既にお読みとは残念だな……」
「姫君さまの『栄花』を御存じなのは至極当然。かねてより菅原家のみなさまは衛門殿と懇意にされておいででしたもの」
そう言葉を挟んだのは,月の都から舞いおりた天人か,絵巻物から抜けだした主人公かと見紛うほどの美しい女房である。
輝きながら透過する肌に両端のつりあがる唇の紅は色鮮やかに映えて,清爽にして色気のまじる眼差しを注ぐ目は物怖じもせず凛と,時の権力者関白藤原頼通を見据えている。
頼通に伺候する女房の一人に違いないが,妻妾関係を結ぶ女人でもあろうと直感された。同時に突如催された懐かしく慕わしい感興が胸中を仄かにあたたかくするのを覚える。
果たして,闇夜に浮かびあがる一面の藤波のごとき麗人は誰であったのか。過去の何処かで逢っているような気がする……
「私は姫君に何かさしあげたかったのだ」
頼通は不愉快そうな横目を女房へむけた。
「宮仕えを志向されたものの,公の不手際によりお里におさがりいただくのだ。相応の謝礼は日を改めるにしても,私個人の気持ちを形にしてお贈りするのに支障があろうや?」
「さもありなんかし」
女房が口端をくいと動かす。
「まめまめしきものよりは殿の御趣向のほうがよほど宜しゅうございます。いっそ先ほど話題にされた唐の物語とやらをさしあげてはいかが?」
「あれか……あれはいずれまた……」
「門外不出と仰せられますか? つまりは御本自体はお屋敷奥に秘蔵したまま人目に触れぬ状態にあればよいというだけではございませぬか」
「は……」
頼通と女房との視線が絡みあった。
「なるほど……」
頼通が相好を崩す。
「よかろう。それではこうしよう――姫君の警護役をおまえに命じよう。お里にお送りするまで,しかとおそばでお守りせよ」
女房が平伏しつつ頭を少し擡げて笑いかける。純真無垢な笑顔であった。
家族の至福の時を支えた三条の邸宅,その邸宅をとりかこむ鬱蒼たる木立――日中にも夜の世界を幻出する広大で荒々しい木々のありさまは上総より都へのぼる途中に通過した奥山の領域へと繫がっている。闇と賊を恐れながら深山を彷徨う少女の眼界に何処からともなくあらわれた遊女たちが歌い舞いつつ手をさしのべ誘いかける。今宵は語りあかしましょうぞ……
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