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8 我が儘――愛ゆえに恐ろしき
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蔀戸の軋むたびに兄が寝返りをうつ。
豪雨である。それを切り裂く烈風も時折ふきつける。
「いっそ起きていたらどう?」
横たわる兄が溜め息を漏らす。来訪者はまだそこにいるのである。
また蔀戸が鳴る。御簾が揺れ,蒸れた風が肌を撫でた。
「戸を補修しておけばよかったな……」
寝返りをうちなおし,両眼を閉じたまま,ついた片肘の手で側頭を支える。
「どうして,こうもキシキシと――一睡もさせないつもりか。せめて風がやんでくれればよいのに。誰かの忍びこむ足音も,紛れて聞きとれやしない」
「御応対申しあげなくて宜しいかしら」
「大丈夫さ」
「本当に?」
「本当だ,殿ではないし」
「殿ではない?」
「うん,考えてみろ――こちらが無反応なのを黙ってひきさがるような御性分でもあるまい。疾うに遠慮なく入っておいでだろうよ」
「外にいるのが殿ではないなら,いらしているのは誰?」
返答はない……
内裏焼亡の夜が脳裏に蘇った。局の戸が幾度も揺さぶられるが,外を確かめると誰もいない。そうしたことが続いたのち祐子内親王の訪問を受けたのである――
「まあ大変!」
慌てて立ちあがる。
「内親王でもない」
薄目をあけて座れと促す。
「内親王なら,そうだと告げる。待っていないで,すぐにでもおまえの名を呼ぶさ」
「それもそうね――でも,あのときと似た状態ね……」
「うん,あのときと同じだ。戸をあけてみても訪う者はいない……いや,いるのさ。身を潜めて何処からか見ている……俺が動けば,後を追い一緒についてくる……」
眉間に皺を刻み,一つ頷いた。
「噓ではないのだ。あれは俺を追ってきた。俺の見た黒装束は――」
「頼成さまか,因幡の黒兎だわ」
「黒兎だな。背筋が湾曲していなかった――」
兄が目をあけた。
私は視線を右往左往させてしまう。
「おまえ,まさか……」
「勝手に聞こえてきたのよ,会話の声が――盗み聞きではないわ」
ウワバミ到来の朝まだき,恋人たちの逢瀬に仕出かした無粋が,翌夜露顕した。
「節度のない中年変態女め」
再度寝返りをうち,背をむける。
「足柄は無実よ――宮さまの暗殺計画にかかわったりしないわ。襲芳舎で毒を撒いたのは因幡の黒兎だったのね。きっと頼成さまが指示したのだわ。昨日の悪行も含めて殿にお話しするべきよ」
「女が政に口を出すな。何も知らぬほうがよいのだ」
「私は別に――足柄の潔白を証明したいだけだわ。政に興味があるというより,2人の関係に興味があるのよ」
兄が身を起こし,むきなおる。
「何だと?」
むっとしている。
「2人の関係よ――無理はよくないわ。足柄が好きなのでしょう。隠したって駄目。顔にはっきり出ていたもの。あの折の兄上の表情ときたら,情念に溺れゆく貴公子って感じだったわ」
にじり寄ってきた兄に,拳で軽く頭をうたれた。
「盗み聞きだけでは物足りなかったらしいな」
「……」
おおよそ見ました,美しい絵巻物のようでございました――とはまさか言えない。
「よく聞け」
兄が声を潜める。
「――きっと好きなのだろう」
「ええっ……」
「あれのことだよ――でも俺には男色の趣味はない。公卿の誰彼が誘ってきても出世に響くと分かっていながら突っ撥ねてきたのさ。だのに,あれの場合はどうしてなのだろう。こちらから心が動いてしまうのだ」
「まあ素敵……」
「素敵であるものか。実に厄介だ。申し訳ないよ,妻たちにも殿にも……」
「そんな心配は無用だわ。彼女たちには新しいお仲間ができたと紹介すればいい。殿には偽りない気持ちをうちあけて許しを請えばいいわ――2人の仲を認めてくださいと」
「公然と人道に悖る態度がとれるものか――間違っているぞ。無責任だ。世間の納得する関係ではないのさ。外観はそうでも実は女人ではなく,こちらが献上し既に極位極官人の特別な相手でもある。罪だ,罪科だ,罪悪だよ」
無性に腹立たしい気持ちに襲われた。
「心ある生きものなのよ――好きになってしまっても仕方ないじゃないの。人間らしくて私はいいと思うわ」
「俺はよしとしない。仕方ないで済まされるものか。世間の人間が欲望のままに行動してみろ――社会は忽ち無法地帯に落ちてしまうぜ。野蛮化,淫靡化してしまうだろう。所詮身勝手なのさ。俺は自制心に欠いている。そうさせるのは,あれなのだ。俺を支える道徳を破壊するのがあれなのだ」
「人のせいにしては駄目。弱いのは自分よ。自分に負けた自分が罪深いのだわ」
「――そうだな。そのとおりだよ。あれは俺の全部を受けとめてくれるのだ。弱い部分も汚い部分も全部を許してくれる。だから全部を曝けだし野性化してしまう。それをあれのせいにするとは軽蔑されるべき男だよ。あれに申し訳ない。こうした己になるのがいやで,俺はあれを避けようとするのだろう。愛しているが,恐ろしい――やはりあれと一緒にはいたくない」
「兄上――何だか,我が儘だわ」
豪雨である。それを切り裂く烈風も時折ふきつける。
「いっそ起きていたらどう?」
横たわる兄が溜め息を漏らす。来訪者はまだそこにいるのである。
また蔀戸が鳴る。御簾が揺れ,蒸れた風が肌を撫でた。
「戸を補修しておけばよかったな……」
寝返りをうちなおし,両眼を閉じたまま,ついた片肘の手で側頭を支える。
「どうして,こうもキシキシと――一睡もさせないつもりか。せめて風がやんでくれればよいのに。誰かの忍びこむ足音も,紛れて聞きとれやしない」
「御応対申しあげなくて宜しいかしら」
「大丈夫さ」
「本当に?」
「本当だ,殿ではないし」
「殿ではない?」
「うん,考えてみろ――こちらが無反応なのを黙ってひきさがるような御性分でもあるまい。疾うに遠慮なく入っておいでだろうよ」
「外にいるのが殿ではないなら,いらしているのは誰?」
返答はない……
内裏焼亡の夜が脳裏に蘇った。局の戸が幾度も揺さぶられるが,外を確かめると誰もいない。そうしたことが続いたのち祐子内親王の訪問を受けたのである――
「まあ大変!」
慌てて立ちあがる。
「内親王でもない」
薄目をあけて座れと促す。
「内親王なら,そうだと告げる。待っていないで,すぐにでもおまえの名を呼ぶさ」
「それもそうね――でも,あのときと似た状態ね……」
「うん,あのときと同じだ。戸をあけてみても訪う者はいない……いや,いるのさ。身を潜めて何処からか見ている……俺が動けば,後を追い一緒についてくる……」
眉間に皺を刻み,一つ頷いた。
「噓ではないのだ。あれは俺を追ってきた。俺の見た黒装束は――」
「頼成さまか,因幡の黒兎だわ」
「黒兎だな。背筋が湾曲していなかった――」
兄が目をあけた。
私は視線を右往左往させてしまう。
「おまえ,まさか……」
「勝手に聞こえてきたのよ,会話の声が――盗み聞きではないわ」
ウワバミ到来の朝まだき,恋人たちの逢瀬に仕出かした無粋が,翌夜露顕した。
「節度のない中年変態女め」
再度寝返りをうち,背をむける。
「足柄は無実よ――宮さまの暗殺計画にかかわったりしないわ。襲芳舎で毒を撒いたのは因幡の黒兎だったのね。きっと頼成さまが指示したのだわ。昨日の悪行も含めて殿にお話しするべきよ」
「女が政に口を出すな。何も知らぬほうがよいのだ」
「私は別に――足柄の潔白を証明したいだけだわ。政に興味があるというより,2人の関係に興味があるのよ」
兄が身を起こし,むきなおる。
「何だと?」
むっとしている。
「2人の関係よ――無理はよくないわ。足柄が好きなのでしょう。隠したって駄目。顔にはっきり出ていたもの。あの折の兄上の表情ときたら,情念に溺れゆく貴公子って感じだったわ」
にじり寄ってきた兄に,拳で軽く頭をうたれた。
「盗み聞きだけでは物足りなかったらしいな」
「……」
おおよそ見ました,美しい絵巻物のようでございました――とはまさか言えない。
「よく聞け」
兄が声を潜める。
「――きっと好きなのだろう」
「ええっ……」
「あれのことだよ――でも俺には男色の趣味はない。公卿の誰彼が誘ってきても出世に響くと分かっていながら突っ撥ねてきたのさ。だのに,あれの場合はどうしてなのだろう。こちらから心が動いてしまうのだ」
「まあ素敵……」
「素敵であるものか。実に厄介だ。申し訳ないよ,妻たちにも殿にも……」
「そんな心配は無用だわ。彼女たちには新しいお仲間ができたと紹介すればいい。殿には偽りない気持ちをうちあけて許しを請えばいいわ――2人の仲を認めてくださいと」
「公然と人道に悖る態度がとれるものか――間違っているぞ。無責任だ。世間の納得する関係ではないのさ。外観はそうでも実は女人ではなく,こちらが献上し既に極位極官人の特別な相手でもある。罪だ,罪科だ,罪悪だよ」
無性に腹立たしい気持ちに襲われた。
「心ある生きものなのよ――好きになってしまっても仕方ないじゃないの。人間らしくて私はいいと思うわ」
「俺はよしとしない。仕方ないで済まされるものか。世間の人間が欲望のままに行動してみろ――社会は忽ち無法地帯に落ちてしまうぜ。野蛮化,淫靡化してしまうだろう。所詮身勝手なのさ。俺は自制心に欠いている。そうさせるのは,あれなのだ。俺を支える道徳を破壊するのがあれなのだ」
「人のせいにしては駄目。弱いのは自分よ。自分に負けた自分が罪深いのだわ」
「――そうだな。そのとおりだよ。あれは俺の全部を受けとめてくれるのだ。弱い部分も汚い部分も全部を許してくれる。だから全部を曝けだし野性化してしまう。それをあれのせいにするとは軽蔑されるべき男だよ。あれに申し訳ない。こうした己になるのがいやで,俺はあれを避けようとするのだろう。愛しているが,恐ろしい――やはりあれと一緒にはいたくない」
「兄上――何だか,我が儘だわ」
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