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10 御湯殿の惨劇
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足柄の残した小袿がもぞもぞ膨らみ,白いものがのびあがる。分岐した舌先をちょろり覗かせ,小首を傾げる。例のウワバミの変化した白蛇である。
「蛇雄じゃないの――不満でしょうが,あなたはモノガタリヒメで我慢してね」
白蛇が腋下を潜り抜け,胸上を横断してから人の身体をぬたりとおりた。
「まあ失礼ね。露骨に拒否するなんて――」
白蛇をとらえようとして冷たく湿った胴を両手で摑めば,すっと掌中から滑り抜ける。とらえさせないだけの指先に留まる程度の逃げ方であるから,追う側としては今度こそ拘束してみせようと同様の試みを繰り返す。そうこうしているうちに戸口まで来て,白蛇は戸と床との間隙を潜り抜けてしまった……。
戸をわずかにあけてみれば,白蛇が頭だけ後方へ振りむけた状態でこちらを見あげている。雨脚は緩んでいる。先刻までの荒れた風雨のために灯燭の全ては搔き消え,さしなおしに来る人気もない。
足柄の小袿を重ね着する。
戸惑いは宿ったものの,几帳奥のしめやかな息遣いに背中を押されるように外へ出た。
待ち構えていた白蛇が廊の闇を突き,前進をはじめる。つられて追跡してしまう。
「お部屋へ帰りましょう。人に見られると,うち据えられてしまうわよ」
しかし白蛇はとまらない。
「いけないったら――もう,知らない!」
こちらが座りこめば,あちらも少し戻ってその場に蜷局を巻く。
「拗ねたって駄目。……ね,いい子だから言うことを聞いて――」
そろりそろり近づいて触れようとすれば,身を逃がす。
「勝手になさい――」
背をむけて歩きだせば,後方で音がする。振り返れば,白蛇が腹を見せ,頭と尾とを廊に叩きつけている。
「駄々を捏ねても無理よ。いけないものはいけないの。きかん坊はお外でお眠りなさい」
白蛇が口をさき細い声を発した。
耳を澄ます。
人声が聞こえたように思う……
目端に映りこむ暗黒の領域が揺れた。渡殿の果てを凝視する。
影が蠢く。人である。ひどく前屈みの姿勢で駆けていく。あれは!――ウワバミを放った悪漢の首領である。頼成が闇夜を疾走していくのである。
腕をひかれた。白蛇が手首に絡みつき,強烈な力で前へひく。足を踏みだした。
白蛇に誘われる足が次第に速まり,ついには馳せていた。
声が,声になぶられている。助けを求める声が,嘲り歓喜する声に。前者は後者に圧縮されながら,か細く微弱になっていく。
声の修羅に近づくにつれ,全身の震えが増大し,奥歯がカタカタ鳴った。
御湯殿の前で立ち尽くす。そこで中宮の処刑が執行されていた。
白蛇が爪先から踝へ,膝から腿へ,腹から背へ伝いあがり,肩から胸へとおさまった。
「羽目を外し過ぎですぞ」
頼成が愉悦を含んだ口調で言う。
「あたくしが来るまでに終わらせておく約束ではござらんか――これこれ,そのくらいで宜しいのでは? 楽にしてさしあげよ,長橋殿」
長橋殿とは勾当内侍の別称である。内裏焼亡の夜,因幡の黒兎が勾当内侍と落ちあう現場を,兄は目撃している。
「何を仰せになる。まだまだ足りませぬわ。帝の御心を奪った鼻持ちならぬ大盗っ人でございますよ」
内侍は濁声を上擦らせつつ,抗う力も失った気息奄々の中宮の面に唾を吐きかけ,一夜で色をかえてしまった髪のほつれる頭を短刀の柄で突き湯桶に沈めてしまう。
「責めて責めて責め苛めて,耳鼻削いで,手足捥いでも気が静まりませぬわ」
「ほぅっほぅっほぅっ恐ろしや恐ろしや。しかし誰ぞに見られても不都合ですぞ。早う片付けておしまいなされ」
「誰が起きてきますことやら。男も女も眠りこけておりますわ。頼通さまのくださった菓子に,あなたさまから頂戴したお薬を混ぜて配りましたもの」
「なれば起きてきませんな。正体なく眠りこんでおりましょうぞ」
確かに,御殿に仕える上下の者に頼通から心付けの菓子が下賜された。私は兄の分まで奪い,食したはずであるが眠気など一向に催さない。
「ゆっくり,なぶり殺しにできるのです。さあ,そろそろ息をお吸いあそばされませな――」
湯桶いっぱいに波打つ髪を,短刀に巻きつけてひきあげれば,白目を剝いた腫れ顔が現れる。
「醜いお顔だこと――」
哄笑しつつ,ぶらさげた頭部を乱暴に揺する。
「呆気なく事切れなさいますな。夜の明けるまで楽しませてくださいませ。くれぐれも興醒めなどさせなさいますなよ」
中宮の頭部が湯桶の縁に激しくあたり,内侍は雀躍せんばかりに再び高笑いした。
「夜明けまでとは聊か呑気が過ぎますぞ。あの方も事の成就を鶴首してお待ちですわい。失敗続きゆえ,さぞや気を揉んでおられよう。一刻も早う吉報をさしあげねばなりますまいぞ」
「長橋殿――」
ぎくりとする。私の肩を叩く人がある。
「長橋殿よのう?……」
粉をふく白塗りの化粧顔を接近させ,膜のおりたような目を極度に細める。長い鼻下の髭が「八」の字の字画の間隔を狭めた。蝙蝠扇を顔にさしかけ後退する。躓いて転倒した。
「何者!――」
頼成が御湯殿を飛びだしてくる。
「はぁれ,頼宗さまでござりますか?」
頼宗!――頼通の異母弟で,兄が家司の職を拝して仕える主人である!
「わしは知らぬぞ! 何も知らぬ!」
頼宗は幾度も転びながら逃げていった。
「頼成さま,お喜びなされ。今宵の遊び相手が増えました」
内侍は,廊の隅に蹲る私の袖を強引にひいた。
「蛇雄じゃないの――不満でしょうが,あなたはモノガタリヒメで我慢してね」
白蛇が腋下を潜り抜け,胸上を横断してから人の身体をぬたりとおりた。
「まあ失礼ね。露骨に拒否するなんて――」
白蛇をとらえようとして冷たく湿った胴を両手で摑めば,すっと掌中から滑り抜ける。とらえさせないだけの指先に留まる程度の逃げ方であるから,追う側としては今度こそ拘束してみせようと同様の試みを繰り返す。そうこうしているうちに戸口まで来て,白蛇は戸と床との間隙を潜り抜けてしまった……。
戸をわずかにあけてみれば,白蛇が頭だけ後方へ振りむけた状態でこちらを見あげている。雨脚は緩んでいる。先刻までの荒れた風雨のために灯燭の全ては搔き消え,さしなおしに来る人気もない。
足柄の小袿を重ね着する。
戸惑いは宿ったものの,几帳奥のしめやかな息遣いに背中を押されるように外へ出た。
待ち構えていた白蛇が廊の闇を突き,前進をはじめる。つられて追跡してしまう。
「お部屋へ帰りましょう。人に見られると,うち据えられてしまうわよ」
しかし白蛇はとまらない。
「いけないったら――もう,知らない!」
こちらが座りこめば,あちらも少し戻ってその場に蜷局を巻く。
「拗ねたって駄目。……ね,いい子だから言うことを聞いて――」
そろりそろり近づいて触れようとすれば,身を逃がす。
「勝手になさい――」
背をむけて歩きだせば,後方で音がする。振り返れば,白蛇が腹を見せ,頭と尾とを廊に叩きつけている。
「駄々を捏ねても無理よ。いけないものはいけないの。きかん坊はお外でお眠りなさい」
白蛇が口をさき細い声を発した。
耳を澄ます。
人声が聞こえたように思う……
目端に映りこむ暗黒の領域が揺れた。渡殿の果てを凝視する。
影が蠢く。人である。ひどく前屈みの姿勢で駆けていく。あれは!――ウワバミを放った悪漢の首領である。頼成が闇夜を疾走していくのである。
腕をひかれた。白蛇が手首に絡みつき,強烈な力で前へひく。足を踏みだした。
白蛇に誘われる足が次第に速まり,ついには馳せていた。
声が,声になぶられている。助けを求める声が,嘲り歓喜する声に。前者は後者に圧縮されながら,か細く微弱になっていく。
声の修羅に近づくにつれ,全身の震えが増大し,奥歯がカタカタ鳴った。
御湯殿の前で立ち尽くす。そこで中宮の処刑が執行されていた。
白蛇が爪先から踝へ,膝から腿へ,腹から背へ伝いあがり,肩から胸へとおさまった。
「羽目を外し過ぎですぞ」
頼成が愉悦を含んだ口調で言う。
「あたくしが来るまでに終わらせておく約束ではござらんか――これこれ,そのくらいで宜しいのでは? 楽にしてさしあげよ,長橋殿」
長橋殿とは勾当内侍の別称である。内裏焼亡の夜,因幡の黒兎が勾当内侍と落ちあう現場を,兄は目撃している。
「何を仰せになる。まだまだ足りませぬわ。帝の御心を奪った鼻持ちならぬ大盗っ人でございますよ」
内侍は濁声を上擦らせつつ,抗う力も失った気息奄々の中宮の面に唾を吐きかけ,一夜で色をかえてしまった髪のほつれる頭を短刀の柄で突き湯桶に沈めてしまう。
「責めて責めて責め苛めて,耳鼻削いで,手足捥いでも気が静まりませぬわ」
「ほぅっほぅっほぅっ恐ろしや恐ろしや。しかし誰ぞに見られても不都合ですぞ。早う片付けておしまいなされ」
「誰が起きてきますことやら。男も女も眠りこけておりますわ。頼通さまのくださった菓子に,あなたさまから頂戴したお薬を混ぜて配りましたもの」
「なれば起きてきませんな。正体なく眠りこんでおりましょうぞ」
確かに,御殿に仕える上下の者に頼通から心付けの菓子が下賜された。私は兄の分まで奪い,食したはずであるが眠気など一向に催さない。
「ゆっくり,なぶり殺しにできるのです。さあ,そろそろ息をお吸いあそばされませな――」
湯桶いっぱいに波打つ髪を,短刀に巻きつけてひきあげれば,白目を剝いた腫れ顔が現れる。
「醜いお顔だこと――」
哄笑しつつ,ぶらさげた頭部を乱暴に揺する。
「呆気なく事切れなさいますな。夜の明けるまで楽しませてくださいませ。くれぐれも興醒めなどさせなさいますなよ」
中宮の頭部が湯桶の縁に激しくあたり,内侍は雀躍せんばかりに再び高笑いした。
「夜明けまでとは聊か呑気が過ぎますぞ。あの方も事の成就を鶴首してお待ちですわい。失敗続きゆえ,さぞや気を揉んでおられよう。一刻も早う吉報をさしあげねばなりますまいぞ」
「長橋殿――」
ぎくりとする。私の肩を叩く人がある。
「長橋殿よのう?……」
粉をふく白塗りの化粧顔を接近させ,膜のおりたような目を極度に細める。長い鼻下の髭が「八」の字の字画の間隔を狭めた。蝙蝠扇を顔にさしかけ後退する。躓いて転倒した。
「何者!――」
頼成が御湯殿を飛びだしてくる。
「はぁれ,頼宗さまでござりますか?」
頼宗!――頼通の異母弟で,兄が家司の職を拝して仕える主人である!
「わしは知らぬぞ! 何も知らぬ!」
頼宗は幾度も転びながら逃げていった。
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