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捧げ人

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『それなら、我が山を守ってくれ』
『守る……具体的にどうしたらえいですか』

 サンジン様が扇子を仰ぐ。

『……野兎がよく子どもを作るが、子兎のうちに死んでしまうのがどうにも気分が悪い』
『はい! 分かりました!』

 声を明るくさせて返事をすると、ようやくといった様子でサンジン様が神木へと消えていった。

 サチも続いて神木に手を触れる。手は吸い込まれることなく、幹を撫でるに留まった。

『どういう構造になっちゅうがよ……』

 試しに耳を当ててみるが、何も聞こえてこなかった。

『ここがサンジン様の家なが?』

 答えてくれる者はいない。今日からサチは人ではなくなった。何かあっても頼れる大人はいない。それなら、自分だけで生きられるよう強くならなければ。

 決意するサチだったが、翌日それが意味をなさないことだと唐突に理解した。

 腹が全く減らないのだ。

 夜、眠くもならなかった。目を瞑ればどうにか眠ることは出来たが、恐らく寝ようと思わなければいつまでも起きていられる。

 丸三日何も腹に入れていないはずなのに、川に映った自分の顔は頬がこけるわけでもなく、すっかり健康的になっていた。

 あまり嬉しくはなかった。

 家族と違うモノになってしまった。

『仕方ないちや』

 サチは野兎を探すべく、山の奥へと入っていった。

 山は広かった。一人しかいない空間はどうにも寂しくさせたけれども、気分を紛らわせるにはちょうどよかった。目の前を何かが通り過ぎた。

『いた!』

 思わず走っておいかけてしまった。野兎が怯えてはいないか、立ち止まって観察する。

 野兎はこちらをじっと見つめていたが、動かないと安心したのか、やがて草むらの中に走っていった。こっそり後を付ける。草むらの奥には小さな穴があり、先ほどの兎の他に子兎が二羽丸まっていた。

──可愛い……。

 声には出さず、親子の光景を眺める。どうせ時間はたっぷりある。サチは陽が暮れるまで、飽きもせず見守った。

 サンジン様が言うには、子兎がよく死んでしまうらしい。それは心が痛む。

 きっと兎を捕食する動物か鳥がいるのだ。それらから兎を守ればいい。そこでふと考え直した。

 動物は強いものが弱いものを食べて生きている。弱い物はたいてい草食だ。そうやって食べて食べられ、増えたり減ったりして世の中上手く回っている。

 兎を無暗に助けてその天秤が崩れたら、山の生態系そのものがおかしくなってしまうかもしれない。

 そんなこと、サチの一存で決められない。

 サチは悩んで悩んで、兎が危ないところへ行くのを防ぐことだけ行うことにした。もしも梟や蛇に食べられてしまったら、残された部分を埋葬しよう。想像するだけで辛いことだが、それも数十年単位で見れば兎の為にもなる。

 何かを育てるなら最後まで。以前、父に言われた言葉だ。

 ここで兎を見守ると決めた。死んでしまってもしっかり見送ろう。この山全体がこれからの家族になるのだから。

 眠らず兎の戯れを眺めていたら、陽が開けてしばらくした頃、遠くで人の声を聞いた。サチが走り出す。

 まさか。

 まさか、まさか!

 逸る気持ちを抑えようとしても、足が勝手に動いてしまう。

 儀式からたった二日しか経っていない場所へ足を踏み入れようとする者など、酔狂な人間のすることだ。まだサンジン様がその辺りにいるかもしれない。そんな危険を冒すということは、サチを心配する人間ということになる。

『はぁ、はあ』

 祠の前に置かれた祭壇まで辿り着くと、慣れ親しんだ家族の姿があった。

『お父ちゃん、お母ちゃん。弥一!』

 弥一が巫女服を抱きしめている。きっとすぐに泣いてしまう。サチが走り寄り、弥一を抱きしめる。しかし、その手はいともたやすく彼の体をすり抜けていった。

 目を見開き、己の手のひらを見つめる。振り向くと、弥一がいた。

 ああ、そうか。サチはここに来た時以上に寂しくなった。

 分かっていたことだ。理解していると思っていたのに、全然違っていた。

『うわぁぁ……』

 あんなに弟が泣いていても、慰めてやる手すら持っていない。彼らに見てもらえる体さえ無い。虚しさがサチの心を蝕んでいく。

『ごめんね、弥一』

 サチは三人に手を振り、背を向けて元来た道を辿った。
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