上 下
28 / 44
サチとサンジン様

5

しおりを挟む
 何度も礼を言い、祈祷師の元を去る。これで解決するだろう。町長としての仕事を終え、上原は真っすぐ林を抜けていった。

 それを見送った祈祷師が先ほどの部屋に入る。掛け軸に二度頭を下げて目を瞑った。

「山の神か……これは予想より厄介かもしれない」

 もっと、抽象的な案件を想像していた。そういう時は祈祷をしさえすれば、客は満足して帰っていく。しかし、実際に神という言葉が存在し、人々が信じている状態だと話は違う。

 言葉は形になり、やがて実態を持つ。彼の言う神様がどの類なのかまだ分からないが、引き受けた以上、力の強くないモノだと祈っておくしかない。

 慌てた様子だったので思わず家に案内してしまったのは早計だった。しかし、この辺りは自分のような職に就いている者がいないため、断ったところで再度連絡をしてくるに違いない。

 祈祷師はいつも以上に道具の手入れを熱心に行った。その手が止まる。

「ふむ。下見をするか」

 単なる祈祷ならば、わざわざそうする必要は無い。しかし、今回のことは通常とは違うように思える。

 幸い、今日は予定していた用事を延期して時間がある。

 上原の住所を頼りに、サンジン様へ行ってみることにした。彼が言うには、この住所からも山が見えるらしいので、問題なく辿り着けるだろう。

 祈祷師は和服から洋服に着替え、眼鏡をかけ、帽子を被った。これでありふれた年寄りの完成である。

 下見は目立たなければ目立たない程いい。それは人ならざる者に対しても同じだ。こちらの存在を出来る限り空気にする。景色の一部になれば、彼らの術の外にいられる。

 車に乗り込み、発進させる。上原の自宅より手前の駅まで走らせ、コインパーキングに停めた。

 半日で四百円、一日で六百円。駐車料金用の小銭もある。祈祷師は小さな鞄を片手に歩き出した。

 駅前なのですぐにバス停があった。時間を調べ、十五分程その場で待つ。

 時刻は十五時。まだ授業中なのか、学生の姿は無く、自分と同程度の年代か、子連れの母親が通り過ぎるだけだった。

 バスに乗り込むと、外から小学生たちの高い声が響いた。自然と祈祷師にも笑顔が漏れる。

 子どもは宝だ。こうして笑い合って、楽しく毎日を過ごしてほしい。そのために、自分は任務を全うする。

 今のところ悪い気配は無い。もしも山から悪い気が漂っているのなら、そこから広がって、人々にも靄がかかる場合がある。

──もしかしたら、悪い神ではないのかもしれない。もしくは、信仰が薄れてそこからいなくなってしまったか。

 前者ならいいが、そうなると不具合が起きている理由にならない。厳しい表情で車窓を眺めた。

 山の傍のバス停は無いそうで、一番近いところで降りる。

「あれか」

 降りてすぐ、山の全貌が見えた。他に山を遮る高い建物も無い。そこを目印に歩き出す。

 そろそろ十六時だ。しかし、人通りは少ない。自分の住む地域とそう大差無い場所なので人口が少ないことは知っているが、それにしても少ないと思う。

 民家はぽつぽつあっても、実際人が住んでいる家はあまりなさそうだ。

 途中、川で遊ぶ子どもがいた。川は浅く、親も見守っている。裸足で入っているということは水質が良いということだ。

 今住んでいる場所には十年近く前に引っ越してきた。自然が多いこと、周りに家が無く仕事に集中出来る環境があることが気に入ってのことだった。

 また、田舎の方が大きな仕事があるというのも重要だ。

 都会は都会で新しい建物が建つたびにそういった仕事が発生するものの、神主を呼ぶことが多い。

 祈祷師独自の、説明のつかない仕事は、昔ながらの風習が残っているところの方が定期的に率の良い仕事が舞い込んでくる。今回もその類だ。

 予想よりはやや厄介なもののような予感がするが、その分見返りもあるだろう。

 それにしても、疑問が一つ残る。祈祷師を生業としてもう二十年以上になるが、一度も阿河町から仕事を請け負ったことがないのだ。

 引っ越す前も近くの県にいたし、祈祷師仲間と情報共有をしているが、そんな名前は聞いたことがなかった。

 つまり、彼らの町は長い間祈祷師に依頼をしていないということになる。

「ふむ」

 このあたりが答えに繋がりそうだ。

 結局変装が無駄になる程の状況で、サンジン様に辿り着いた。そういえば、山の本来の名はなんと言うのだろうか。当日、上原に聞かなければ。

 入口らしき場所から山に迷わず入る。
 一瞬、冷たい空気が祈祷師を襲った。

 何事かと清めた札を取り出し身構えたが、追随するものはなかった。祈祷師は気を緩めることなく、ゆっくりと進む。

「……静か過ぎる」
しおりを挟む

処理中です...